人間は一人では生きられない。まして一人では子供を育てられない。人間は、家族や仲間と集団を作って、互いに緊密に協力し合って(高効率の栄養供給システムを維持することにより)生活することで、高い栄養エネルギーを要求し発育が遅い大きな脳を持つ子供を育てる。その大きな脳を持つ子は次世代として、仲間と緊密に協力できるような知的能力を持つ集団を再生産する。それが人類という動物の特徴です。
人類は(拙稿の見解によれば)、仲間との緊密な協力を維持するための特別の仕組みを持っている。それは(拙稿で述べる概念を使って言えば)、現実世界の共有です(拙稿4章「世界という錯覚を共有する動物」)。この仕組みの上に人類の言語は作られている。さらに正確に言えば、人類は仲間と緊密に協力する機構として共通の現実世界というものを互いの身体の外に感じとれるような脳神経系を作り上げた。それが、私たちがここに感じとっている現実世界の起源である、と(拙稿の見解では)いえます。
さて、こうして存在している世界の中にあるように感じられる私という存在もまた(拙稿の見解によれば)、私たちがうまく仲間と協力するために存在している、といえます。私が私の身体と思っているこの物質の動きとそれが引き起こす感覚現象について、私が仲間と会話する場合、ふつうそれ(私の身体)が私の意志によって動いていて、その感覚を(私の身体が)感じとっているのだ、ということにして語ることになります。そうすれば仲間と話が通じる。逆に、そうしなければ話は通じませんね。
たとえば「ぼくが今、机のこっち側を持ちあげるから、ちょっと重いけど、A君、きみもそっち側を持ちあげて机を動かそうよ」と言う代りに、
「ぼくのこの身体は、なぜだか知らないけれど、今、机のこっち側を持ちあげるみたいだよ。この手が、なぜだか知らないけれど、重力を感知しているみたいだよ。だからA君、きみもそっち側を持ちあげれば、二人の身体運動の協調現象が起こって、この机は動かせるみたいだよ」と言ってみましょう。A君はぞっとして机を持つ手を離してしまうでしょう。つまりこういうことでは、会話はうまく伝わらない。人と人の協力はなりたちません。
A君と私の間に協力がなりたつためには、A君はA君の意志によってA君の身体を動かしている、私に関しても、私は私の意志によって私の身体を動かしている、とお互いに思い込む必要があります。そういうふうに動くものが私のこの身体だ、と思い込まなければなりません。つまりそういうように動くものが私だ、ということにする必要があります。
「ぼくが今、机のこっち側を持ちあげるから、ちょっと重いけど、A君、きみもそっち側を持ちあげて机を動かそうよ」と私が言うことによって、私というものが意志を持って自分の身体をコントロールしている主体としてここに存在している、という世界の現実をA君は確認する。そして同時に、私もそういうような世界とその中で意志を持って自分の身体をコントロールしている私というものの存在を確認する。
このような現実認識を、私と私の協力者であるA君とが共有する場合に限り、私とA君との間に緊密な協力がなりたつ。逆に言えば、たとえば二人で机を運ぶ、という協力がなりたつためには(拙稿の見解によれば)、机を持ちあげる意志を持ち机の重力を感じとることができる私、という主体が(私にとってもA君にとっても)この世界に存在するという現実を、はっきりと感じている必要があります。
他の動物たちとは違って、私たち人間は(拙稿の見解では)このような(意志を持つ人間が存在する現実世界という認識を共有する)仕組みで互いに協力する。その仕組みをうまく働かすために、私というものがこの世界に存在する、といえるでしょう。
昔の大哲学者の言葉をもじっていえば、「『ここに机がある』と私は思う」とA君に語る必要があるが故に私はある。