哲学の科学

science of philosophy

世界の構造と起源(16)

2011-01-29 | xx4世界の構造と起源

人間は一人では生きられない。まして一人では子供を育てられない。人間は、家族や仲間と集団を作って、互いに緊密に協力し合って(高効率の栄養供給システムを維持することにより)生活することで、高い栄養エネルギーを要求し発育が遅い大きな脳を持つ子供を育てる。その大きな脳を持つ子は次世代として、仲間と緊密に協力できるような知的能力を持つ集団を再生産する。それが人類という動物の特徴です。

人類は(拙稿の見解によれば)、仲間との緊密な協力を維持するための特別の仕組みを持っている。それは(拙稿で述べる概念を使って言えば)、現実世界の共有です(拙稿4章「世界という錯覚を共有する動物」)。この仕組みの上に人類の言語は作られている。さらに正確に言えば、人類は仲間と緊密に協力する機構として共通の現実世界というものを互いの身体の外に感じとれるような脳神経系を作り上げた。それが、私たちがここに感じとっている現実世界の起源である、と(拙稿の見解では)いえます。

さて、こうして存在している世界の中にあるように感じられる私という存在もまた(拙稿の見解によれば)、私たちがうまく仲間と協力するために存在している、といえます。私が私の身体と思っているこの物質の動きとそれが引き起こす感覚現象について、私が仲間と会話する場合、ふつうそれ(私の身体)が私の意志によって動いていて、その感覚を(私の身体が)感じとっているのだ、ということにして語ることになります。そうすれば仲間と話が通じる。逆に、そうしなければ話は通じませんね。

たとえば「ぼくが今、机のこっち側を持ちあげるから、ちょっと重いけど、A君、きみもそっち側を持ちあげて机を動かそうよ」と言う代りに、

「ぼくのこの身体は、なぜだか知らないけれど、今、机のこっち側を持ちあげるみたいだよ。この手が、なぜだか知らないけれど、重力を感知しているみたいだよ。だからA君、きみもそっち側を持ちあげれば、二人の身体運動の協調現象が起こって、この机は動かせるみたいだよ」と言ってみましょう。A君はぞっとして机を持つ手を離してしまうでしょう。つまりこういうことでは、会話はうまく伝わらない。人と人の協力はなりたちません。

A君と私の間に協力がなりたつためには、A君はA君の意志によってA君の身体を動かしている、私に関しても、私は私の意志によって私の身体を動かしている、とお互いに思い込む必要があります。そういうふうに動くものが私のこの身体だ、と思い込まなければなりません。つまりそういうように動くものが私だ、ということにする必要があります。

「ぼくが今、机のこっち側を持ちあげるから、ちょっと重いけど、A君、きみもそっち側を持ちあげて机を動かそうよ」と私が言うことによって、私というものが意志を持って自分の身体をコントロールしている主体としてここに存在している、という世界の現実をA君は確認する。そして同時に、私もそういうような世界とその中で意志を持って自分の身体をコントロールしている私というものの存在を確認する。

このような現実認識を、私と私の協力者であるA君とが共有する場合に限り、私とA君との間に緊密な協力がなりたつ。逆に言えば、たとえば二人で机を運ぶ、という協力がなりたつためには(拙稿の見解によれば)、机を持ちあげる意志を持ち机の重力を感じとることができる私、という主体が(私にとってもA君にとっても)この世界に存在するという現実を、はっきりと感じている必要があります。

他の動物たちとは違って、私たち人間は(拙稿の見解では)このような(意志を持つ人間が存在する現実世界という認識を共有する)仕組みで互いに協力する。その仕組みをうまく働かすために、私というものがこの世界に存在する、といえるでしょう。

昔の大哲学者の言葉をもじっていえば、「『ここに机がある』と私は思う」とA君に語る必要があるが故にはある

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世界の構造と起源(15)

2011-01-22 | xx4世界の構造と起源

私たち人間の身体もまた、蝶と同じように日々栄養を取らなければならない。そのためには私たちは、栄養を毎日供給してくれるシステムにつながっている必要があります。私たちの身体は栄養供給システムにつながるための機構を備えています。それは人類の場合(拙稿の見解では)仲間とつながるための機構でしょう。

それは仲間と共有する客観的現実世界を感じとる脳神経系の機構であり、仲間の心を読み取り、仲間と共有する空気を読み取って仲間と協調し協力して生活していく神経機構であり、それを効率化するために発達した存在の理論や心の理論であり、またそこから派生して自分というものを自覚してそれを操縦する機構にもなっています(拙稿4章「世界という錯覚を共有する動物」拙稿12章「私はなぜあるのか?」など)。

これらの身体機構が、それぞれの状況で、私たちが栄養供給システムを作り出すために必要な世界を再構成していて、それが私たちの目に見える現実世界の構造となっている。逆に言えば、このような現実世界を感じとれる身体機構を持つことによって、私たち人間の身体は栄養を獲得している、といえます。

人間がつながっている栄養供給システムは、私たちにとって、いろいろな現実として現れてきます。たとえば、それは私たちが身の回りを動き回るために存在する道具や建物や道路など身の回りの物質の配置構造として現れてきます。また毎日を過ごすために存在する日常生活の習慣や言語など無意識の行動様式となっていたり、または家族や仲間と暮らすために感情や表情や行動をコントロールする技術、あるいは私たちが社会に参加するために先生や友人やマスコミから習得する常識や集団知識の集積となっていたりします。また物質の構造を知らなければならないときには、その現実は、科学理論の描く物質世界として現れてきます。

毎日の場面場面で、私たちはこれらの現実を感じとり、それに合わせて自然に身体が動くようになっています。逆に言えば、私たちにとって、そのように自然に身体が動くように現れる現実が正しい現実であり、そのように自然に動く身体の動きが正しい動きである、といえます。私たちは、自分たちの身体のその動きが正しいと感じることによって、身体にかかわるその物事が現実であると知ることになります。

ちなみに、正しい、とか、真実である、とかいう言葉は古来の哲学ではたいへんむずかしく使ってきましたが、拙稿ではごく単純に、だれもが現実と感じる、というような意味で使います。幼稚園児でも、いいとかいけないとか、うそとかほんととか、しっかり使いこなしていますね。人間は、哲学など知らなくても、正しいとか真実とかの区別は完全にできる。それは(拙稿の見解によれば)現実を現実と感じとるという身体の感覚からきていることだからです。

私たちは正しく栄養供給システムにつながるために正しく世界を思い描き、その中を正しく動いていかなければなりません。私たちはいつも、身体の動きが正しくあることを確認し、正しくないときはいつも正しくあるように修正しなければなりません。正しくある場合に、私たちはそれを現実と感じ、正しくないときにはそれを現実ではない、現実にあってはならない、と感じます。そして現実を正しく見ることができるように私たちの身体の動きを修正します。

私たちの身体は自然と正しく動く。私たちの身体が自然に動く動きを正しいという。私たちが毎日の生活で意識して、していることは、そういうことです。逆に言えば、そのように現実を感じとって動いている場合、私たちは意識がある、といわれる状態にある、といえます。

私たちの身体は、いつもそれぞれの状況で、それぞれの現実と接触し、目の前のその現実を正しく操作するように作られている、といえます。

目の前にあるパソコンを操作することがなぜこれほど楽しいのか? 自動車を運転して街角を走ることがなぜこれほど楽しいのか? 学校や会社に通って友達や同僚とおしゃべりしたり、忙しく仕事をすることがなぜこれほど楽しいのか? 

それは(拙稿の見解では)私たちの身体が、そういう物事を現実と感じ、その中に飛び込んでしかるべく身体を動かして動き回ることが正しい身体の動きだと感じるようにできているからでしょう。それら現実を正しく現実として感じとるとき、その中で自分の身体が正しく動くことでそれら物事は正しく反応してくれる。その現実感覚にそって身体が正しく動いていく結果として間違いなく栄養供給システムにつながることができる。そのとき私たちは楽しいと感じる。そのような仕組みに、私たちの身体がなっているからです。また逆に、私たちの身体がそうなるようにこの現実世界が作られているから、とも言えます。

たとえば、私はA君と協力して机を会議室に運ぶことができます。A君が机の向こう側を持ち、私がこちら側を持って持ちあげる。机を持ちあげてA君が後ろ向きに廊下を進む。私は机のこちら側を持ちあげながら、A君の動きに合わせて前向きに廊下を進む。廊下が(私から見て)右に曲がっているところでは、A君は(私から見て)左によって大まわりをすることで、私が進みやすくしてくれる。

この協力行動をするためには、A君は自分の身体と私の身体と机が連結して作られている連結運動体の動きを正しく予測して自分の身体を操縦できなければなりません。そのためにA君は三次元空間の中を動く連結運動体の存在を間違いなく現実の世界として感じとっている。

A君は、骨と関節と筋肉からなる自分の身体と、同じような構造を持つ私の身体と、さらに大きいが単純な剛体である机からなる連結運動体が現実に実際にここに存在している、と感じている。そう感じているから私と協力して運動することができる。逆にこういう運動体が、今ここに現実に存在していると身体で感じない限り、A君はうまく私と協力して行動することはできないでしょう。

私とA君は、この三次元空間の中に存在している地面と重力が働くことでその地面に引きつけられている物質である自分たち二人の身体とそれらに掴まれている机という運動体が存在していて、それは重力の法則や人体運動の法則などよく分かっている法則に従って動いている、という現実を強烈に身体で感じとっています。そうすることによって、私たちはうまく協力して運動することができる。その結果私たちは栄養供給システムにつながることができています。

このようにこの物質世界が現実に存在していると感じとることは、私たちが自分たちの身体を正しく動かし、互いにうまく協力して生きていくためには必要な条件であるといえます。逆に言えば、このように私たちが身体を正しく動かして互いにうまく協力して生きていくために、この現実世界は存在している。拙稿の見解によれば、これが現実世界の存在の起源であるといえる。つまりこの世界は(拙稿の見解によれば)、私たちが互いにうまく協力して栄養供給システムにつながることができるために存在するようになった、といえます。

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世界の構造と起源(14)

2011-01-15 | xx4世界の構造と起源

拙稿の見解では、世界の起源は私たち人間の間に起こる集団的な運動共鳴です。仲間との運動共鳴によって、私たちは客観的な世界が存在していると思い込む。

目に見えて手で触れる物質でできている世界がここにある。この世界の中にある物質である私の身体がこの世界を感じとっている。私は私の身体を動かして世界の中を移動し、世界の(ごく小さな)一部分に影響を与えることができる。こうすることができるということは、ここにこの世界が現実に客観的に存在するからである、と考えられます。

以上のような考え方、あるいは物事の捉え方、つまり物事を見てそれが存在すると考える理論を私たちのだれもが持っています。拙稿ではこれを、存在の理論、と呼ぶことにしましょう。子供の成長過程で、存在の理論は心の理論の発達に先立って一歳くらいから幼児に発生し、四歳ころの心の理論の完成を待って完成すると観察できます(一九九八年 ウィルコックスベイラジオン幼児期における物体の個別認識・隠蔽実験に関する判断における特徴情報の利用』既出、など)。

現実世界は(拙稿の見解では)私たちの身体に備わっている運動感覚機構によって作り出される存在感によって表現されている。私たちに共有されている存在の理論によって現実世界の存在感は発現している、といえます。存在の理論は、結局は人々の身体の間に作られる運動共鳴にもとづく経験記憶の共有によって支えられている。つまり、だれが感じても同じ世界が存在するかのように感じられる場合、それが現実世界だということになる(拙稿23章「人類最大の謎」)。

ここにこの現実が間違いなく存在していると私たちが実感できるということは、この現実を感じとることができる存在の理論を私たちのだれもが共有しているということに他ならない。つまり、だれもがこの現実世界を私と同じように感じとっているはずだ、という私たちの実感を支えている考え方が存在の理論です。

現実を感じとるためのその理論は、仲間の人間たちの感覚をその身体の動きから自分の身体で感じとる運動共鳴の機構にもとづいています。この存在の理論は、私たちの身体の内部に無意識の空間感覚を作り、また生活空間を作り、手続き記憶を作り、意味記憶を作り、あるいは空気、あるいは掟、礼儀作法、社会通念、あるいは人生の理論、処世術、神話や伝承の物語、あるいは民間信仰、信心、あるいは地理歴史の知識を作り出す基礎となっています。またこの理論は科学を作り出して現代社会を支えています。さらにはこの存在の理論が人々に共有されているおかげで現代文明のいろいろな現象、たとえばテレビ、新聞が発信する世相やファッションなども作り出されている、といえます。

この現実世界に表れているいろいろな存在になじみ、それを作り出す存在の理論になじんでいることで私たちの身体はこのように動いている。逆に言えば、私たちの身体がそのように動くような現実とそれを作り出す存在の理論が存在するように私たちは感じる。つまり私たちの身体のそのような動きが世界を作り出している、と(拙稿の見解によれば)いえます。

そうしていつの間にか、その中に自分が置かれている世界というものが身の回りに広がっている、と私たちは思い込むようになっている。それは厳然として存在し、整然とした法則に従って動いていると思えます。幼児が成長して幼稚園に入るころにはこのような現実世界を身体で感じとる能力を身につけ、大人と通じ合って生活できるようになります。成長の過程で存在の理論を身につけていくこの仕組みによって、人間は世界を共有し、その中で互いに協力して上手に世界を利用することで、地球上もっとも繁栄した動物となりました。

私たち人間は世界をこういうものとして捉えています。つまりこの宇宙は宇宙の歴史の結果としてこうあり、生物は生物の歴史の結果としてこうあり、人類は人類の歴史の結果としてこうある。我が家は我が家の歴史の結果こうあり、私は私の人生の結果こうある。すべてには法則があり、その法則に従って展開した過去の歴史がある。それらの法則と歴史は、私が今どう思おうと、どう願おうと関係なく、そうある。私たちはそう感じる。それが、私たちにとっての、この世界の現実の作られ方です。

さて、ここで現実として存在するこの世界はなぜこのような構造になっているのか、を考えてみましょう。つまり、私たちの身についている存在の理論は、私たちの身体の感覚器官が感じとる物事をどこでどう切り取って現実世界として再構成しているのか? それは(拙稿の見解では)その場その場で、特に仲間との関係において、私たちの身体がどう動けばよいのか、どう動けばこのこういう身体を子孫に伝えていけるのか、という必要によって決まってくる。

それは、世界がどうであるから私たちがどう動けばよいのか、という問題であるというよりも、私たちが世界がどうであると思い込むことで動けばよりよく動くことができるのか、という問題である。人類が進化の過程で獲得したその仕組みが、世界を構成する存在の理論を作り出してくる、と(拙稿の見解では)考えられます。

野に咲く花はなぜこれほどまで美しいのか? 生物学(エコロジー)の理論によれば、蝶を引き付けるため、といえるでしょう。蝶にとって花の美しさは栄養という意味がある。一方、花にとっては蝶は生殖という意味がある。蝶は花を美しい(あるいは、おいしそう!)と感じとってそれに近づいていくことで、栄養獲得に成功する。花は蝶に花粉を運ばせることで、生殖に成功する。ともに勝利する。ウィンウィン関係です。こういう関係は共進化する。

蝶にとって花の美しさは、栄養を補給して生き延びるために必要であるから存在する。そのとき同時に、花にとって花の美しさは、生殖に成功して子孫を残すために必要であるから存在する、といえます。

蝶が住む世界は、なぜ美しい花が咲き乱れる野原なのか? 花の野原は、蝶の身体が生存するためにそれを作り出している栄養供給システムです。そうであれば、蝶は美しい花を魅惑的と感じとって近づいていくような身体になっているはずですね。 同じように考えれば、私たち人間が感じとっているこの現実世界もまた、私たちが生き延びるために必要であるから私たちの身体がこれを作り出している栄養供給システム、といえるのではないでしょうか? そしてそこで人間は、魅惑的な花の群れを見つけ出して、その栄養供給システムに身体をつなげる必要があるはずです。

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世界の構造と起源(13)

2011-01-08 | xx4世界の構造と起源

私がクラゲの刺身になってしまった後、私の仲間のクラゲが二匹ほど水槽に残っていたとしましょう。

「あれ、あいつがいないよ」

「ああ、あいつね。さっき網ですくわれたから、今頃刺身になっていると思うよ」

「あ、そうなんだ。あいつがいなくなった分、世界が広くなったけど、ちょっとさびしいね」

二匹のクラゲは、こんな会話をするかもしれません。私というクラゲが一匹いてもいなくても関係なく、この二匹にとっては当然、この水槽世界は存在し続けていますね。つまりクラゲ集団にとっては、世界は永久に存在し続けている、といえます。このことは、人類集団にとって(拙稿の見解では)、ある人がいてもいなくても、この三次元宇宙空間が存在し続けているのと同じことです。

ところで、刺身になる直前の私が、彼らがするであろうこのような会話を想像したとしましょう。その場合、その会話の中では、私が刺身になった後も世界は存在し続けていることになる。

この想像の話を私は網ですくわれる直前に、仲間のだれかに話したとしましょう。その場合、私とその仲間との間で、世界は存在し続けることになっている。

「ぼくが刺身にされちゃった後、きみたちはぼくのことを覚えていてくれるだろうか?」

「覚えているとも。忘れるわけないじゃないか」

というような会話をクラゲの私たちがするとき、私たちの間では、その後もいつまでもこの世界は存続しなければなりません。

私が刺身になってしまうかしまわないかにかかわりなく、こうしてこの世界は存続し続ける。私とは無関係に存在する世界というものは、こうして成り立っている、といえます。

まさにこれが(拙稿の見解では)、世界の起源であるといえるでしょう。私たち人間が仲間どうし、世界がここにあると思い、この世界は私が何を思うかとはかかわりなく私が死んだ後も私の存在とはかかわりなく当然客観的に存続していく、と思い込みながら会話をする。そうすることがこの世界を成り立たせている。

そういう世界の中に置かれている互いの存在を認め合って集団的に行動する。互いに共有するこの世界の存続を同じように思い込んでいる仲間と協力して毎日の生活をする。私たちはなぜそうするのか? それは、そう思い込むことで、私たちの祖先が大いに繁殖し、そう思い込むような私たち子孫を残したからでしょう。

私たちの身体がそうなるように作られていることによって、世界は、今日現在ここに存在し、明日の未来にも存続することになる。こうして、私が存在していても存在していなくてもかかわりなく、世界は厳然として存在し続けることになります。これが(拙稿の見解では)、世界の在理由、つまりこの現実世界の起源です。

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世界の構造と起源(12)

2011-01-01 | xx4世界の構造と起源

さて私は、身長10センチメートルの回転対称形の身体を持つクラゲである。名前はまだない。

私の上方1メートルに海面があります。私の下方2メートルに海底があります。したがって海面から海底までは、3メートルと10センチです。つまりこの世界は、海面下3メートル10センチに海底がある、という構造をしている。この世界は、なぜこのような構造をしているのか? 私がいてもいなくても、この世界の構造は変わらないように思えます。

皆さんは、このような世界をどう思いますか? 海底の深さが変わらないなんておかしい、と思うでしょう。潮の満ち引きがあったり、横にずれていったりすれば、すぐ海底の深さは変わる。それでは、そういうクレームがでないように、クラゲ人間の私が住んでいるところは水族館のクラゲ用水槽だとしましょう。話を簡単にするためにそうしましょう。潮の満ち引きもない。水深はいつも一定です。

この世界は、水深3メートル10センチの水槽の内部です。水平方向にはすごく広い。無限に広いとする。いや、それよりも、この種のクラゲは横方向にセンサーがないので、横の壁の存在を感知できない、としましょう。簡単のためにそうしましょう。このクラゲは自分が横に動いても、その動きを感じられません。そういうことにしましょう。そうすると、水平方向には移動してもしなくても何も変わらない。横に移動しても移動したかどうかも分からない。そもそもこの身体は横に移動する装置を持っていない。水平方向という概念がないと同じです。

この世界に住むクラゲの私は、一体何者なのか?私たちはどこから来て、どこへ行くのか? いや、そもそもこの世界とは何なのか? なぜこの世界があるのか?

まもなく私は人間に引き上げられて、クラゲの刺身にされてしまうでしょう。その後も水深3メートル10センチのこの世界は、ここにあり続ける。この世界は何なのだろうか?そして私は何なのだろうか? 刺身になった私はどうなってしまうのだろうか? クラゲにタマシイはあるのだろうか?

どうでしょうか? こういう言い方をすれば、この話はちょっとした哲学(それも形而上学とか)のようにも聞こえますね。

拙稿の見解では、しかしながらこの話は哲学というよりも、上下運動しかできない回転対称形の身体が水深3メートル10センチのこの水槽の中で生きていくためには、どのような世界が存在する必要があるのか、という問題というべきです。回転対称形の身体がこのような上下世界の存在を必要とするから(拙稿の見解では)このような世界が作られている、という話になります。

クラゲである私は、餌のプランクトンを食べるために海面まで上がる必要があり、そのためにはあと1メートル上がればよい、ということを知らなければならない。また私は休むために海底まで降りなければならない場合も想定されているから、そうするにはここから2メートル下がらなければならない、ということを知っている必要がある。

私の身体は、浮かんだり沈んだりする上下運動をうまくコントロールできる必要があります。そのためには上下方向の差異が認知できなければならない。つまり浮かんだり沈んだりするクラゲの生活によって、この世界は存在している。

クラゲが生きるためには上下の方向性を持つ世界が存在する必要がある。つまり浮かんだり沈んだりするクラゲの生活がこの垂直方向にだけ差異がある世界の起源をなしている、といえます。これはクラゲにとって、世界の存在論ということもできますが、むしろ哲学というよりも、毎日を生きることそのものである、というべきでしょう。

ところで、クラゲの私が人間に引き上げられて刺身になってしまった後も、この垂直世界は存在し続けるのでしょうか? 私がいなくても水深3メートル10センチのこの水槽は存在している、といえないことはない。むしろ直感では、この水槽世界は当然いつまでも私の存在とは無関係に存在し続ける、と感じられます。

刺身になる直前まで、私はこの世界の存在感を現実として強烈に感じとっている。この世界の存在は私が生活するために必要な構造として私の身体に埋め込まれている、といえる。そうであれば私の身体が刺身になってしまった後では、もう生活する必要はないということから、深さ3メートル10センチの水でできているこの世界は、私の身体にとって不要です。

世界は(拙稿の見解では)私たちが仲間とともに生きていくために必要であるから存在している。したがって、私たちの生活に必要でない世界は存在しない、と言ってもよい。

それでは、私がこの世界からいなくなる場合、私が生きていくためにはもう必要ではなくなったこの世界は存在しなくなるのでしょうか? そこは、どうもそうでもないようです。

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