哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ言葉が分かるのか(20)

2008-10-25 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

テレビで野球を見ると、センター方向からのカメラが、バックネット側や一塁側のカメラに切り替わったり、戻ったり、自由自在に移動しますね。カメラ切り替え係りの人がしているのですが、この仕事は、私たちが脳内で他人の視座に憑依する仮想運動と似ています。いくつものカメラが、いろいろな方向から同じ一人の投手の投球運動を見ている。投手の現実的な存在感が、このことではっきり感じられる。私たちが現実世界を見てとる場合も(拙稿の見解では)同じように、自分の目の位置からの自分だけが見える光景だけでなく、いろいろな位置にいる他人の目に映る光景を無意識に想像しながら立体的に現実の有様を読み取っている。

あるいは、もっとよい比喩は、マンガの手法に使われる吹き出し、でしょう。マンガのコマの中に描かれた人物の頭の辺りから吹き出しが出て、その中に文字が書かれる。単純な形の吹き出しには、ふつうセリフが書かれるが、もうひとつ別種の、モコモコした雲型曲線で囲まれたタバコのケムリ状の吹き出しが使われることがよくある。そこには口に出さない言葉、つまりその人物が今思っているけれども言わない心の中の言葉(内語)が書かれている。

コンピュータゲームを作る場合、アイコンや人物像をクリック(またはマウスカーソルをアイコンに移動)すれば、吹き出しがポップアップされるように作ることができる。モコモコ雲型の吹き出しにして、その人物が内心で思っていることを文字で書ける。文字の代わりに絵に描くこともできる。そういう吹き出しの代わりに、その人物から見た自己中心視座からの光景をポップアップさせることも技術的には可能です。その仕組みは、私たちの脳内に映っている客観的世界の内部で、それぞれの人物にその自己中心視座を貼り付ける憑依機構の働きと同じものとなります(実際そういうゲームが製作されているかどうか、筆者は不勉強で、知りませんが)。

私たちの脳内にあるこのような憑依機構の上に(拙稿の見解では)言語は作られている。話し手は聞き手が、話し手の視座に憑依してくることを期待して、話し手自身の自己中心視座から見える光景や感じる世界を言葉で表現する。これが(拙稿の仮説による)人称構造の起源です。つまり、人称構造の発明によって、話し手は、聞き手を話し手の自己中心視座に引き込み、話し手の視界を聞き手が今見渡しているという前提の下に話を展開することができる。

話し手は自分ひとりで孤独に孤立して自己中心視座に座っているのではなく、一人の、あるいは多数の聞き手、つまり仲間とともに集団として、自分の自己中心視座から客観的世界をながめている。こうして私たちは、安心して、聞き手が分かってくれることを期待しながら、自己中心視座から見える世界を語ることができる。自分を理解してくれる人がいるのかいないのかも分からずに泣き喚いている赤ちゃんの孤独に陥る恐れなしに、安心して、私たちは赤ちゃん返りができるようになった、といえる。

言葉を使える私たち大人の赤ちゃん返りは、本当の赤ちゃんのナイーブな自己中心的行動をそのまま再現するものではない。言語を使う限り、本当の赤ちゃんにはなれない。言語という構造は仲間と共有する運動共鳴を土台として作られているので、仲間の視点を持たないナイーブな赤ちゃん的自己中心視座を、そのまま再使用することはできない。

私たちが言語を使う場合は、話し手と聞き手は、(拙稿の見解では)無意識のうちに、互いに相手の自己中心視座を認め合い、互いにそれに憑依しあうことによって、運動共鳴を共有する。こうして、互いの自己中心視座は客観的視座から認められる存在感を持つことで、あたかも客観的物質世界の一部分であるかのように扱うことができる。私たちが、このように、他人の身体の中にあるその人の自己中心視座に憑依できるかのように感じられるとき、その人の内面に、心といわれるものの存在感を感じる(拙稿8章「心はなぜあるのか?」)。こうして(拙稿の見解では)人称構造は全般の言語構造の中に埋め込まれていく。

逆説的な言い方をすれば、自分が赤ちゃんに見えると知っている赤ちゃんは本当の赤ちゃんではない。それは赤ちゃん返りのふりをしている大きな子供です。

私たち大人が言語を使うとき、自分をどう表現しているでしょうか? 話し手は、聞き手が、話し手をまず人間として見てくれていることを確認します。これは当たり前ですね。話し手と聞き手は、おたがいを人間どうしだと思っているから、ふつうに会話しているわけです。話し手は、まずは、人間の一つとして、動いたり感じたりすることを表現する。それを述語で表現する。人称構造を使うと三人称で表現される。つまり、話し手は聞き手と共有する客観的世界の内部を動き回る三人称で表される人間の一つとして自分を表現する。次に、話し手は、赤ちゃん返りのふりをして、自己中心視座から一人称で自分を表現する。

ふつう、これでセンテンスが完成して、発声されます。こうして、三人称→一人称と変換される過程で一人称表現は作られる。これを繰り返しながら、(拙稿の見解では)私たちは言語を操っている。一人称表現はその下敷きとしての三人称表現の上に作られている。私たち大人が一人称を使って自己中心視座を表現している場合、それは本当の赤ちゃん的視座ではなくて客観的視座の下敷きの上に作られている見掛けの赤ちゃん返りだといえる。

ちなみに、一人称や三人称を駆使して書き下される小説や、カメラのアングルで登場人物の視野を表現する映画や、吹き出しで内語を表現するマンガ、あるいはビデオゲームなどを見ると、私たちが楽しむ物語やドラマやゲームの表現は、このような二種類の人称(一人称と三人称)つまり二種類の視座(自己中心視座と客観的視座)の混合によって作られていることが分かる。

人々は、このように、互いの自己中心視座を再認識し、運動共鳴によってその使い方を共有し、その共有の上に作られる人称構造文法を使って互いの自己中心視座に憑依しあう。この仕組みによって私たちの社会構造は維持できる。人々は互いに相手の立場に入れ替わって、考えたり感じたりすることができる。人の立場や役割やキャラクターや地位を、場合によっては自分もそれに成り代わる可能性があると感じられることで、交換可能な属性と捉えることができる。

立場や役割やキャラクターや地位が交換可能な属性として共通の認識対象になれば、それらは人々の間で共有することができる。お互いの視座に伴う立場や役割などの属性が、はっきりした存在感を持って共有できる感情の対象となる。そして、人々が、そのようなそれぞれの場に置かれていることが人称構造を備えた言語によって表現されることで、他人というものも自分というものも、それぞれの立場や役割やキャラクターや地位を伴った客観的世界の中にある自己中心視座としての存在感を持つようになる。この仕組みによって、(拙稿の見解では)他人あるいは自分というものが、はっきりと客観的に存在する(と感じられる)ようになった。

私たちは、人称構造を備えた言語によって、他人を確認し、自分を確認する。私たちは、他人と自分との相互関係、互いの立場や役割、を交換可能な場として客観的世界の中に作り出すことで社会構造を安定させる。同時に、社会構造を集団的な感情共鳴に反映させて価値を共有化する。その価値を得点として組み込んだゲームを作り出して仲間と共有し、仲間の一員となり、そのゲームの内部で協力したり競争したりしながら、懸命にプレイする。それが私たちの社会的生活です。そういうふうに組み立てられた私たちの価値観、人生観の共有関係が組み合わされて、現実の社会構造ができている。

その社会構造が、また集団的な条件反射として、私たちの身体にしっかりと埋め込まれている。私たちの身の回りで起こる物事の社会的意味は、私たちが学習した集団的な条件反射によって無意識のうちに私たちの身体の反応を引き起こすことで、客観的世界の中に現れる。それらの学習された条件反射による運動共鳴は、さらに言語を媒介として、連想による身体運動‐感覚受容シミュレーションを呼び出し、感情機構に反映して、連鎖的に私たちの社会的行動を引き起こす。

つまり、私たち一人一人の脳に、集団的な学習によって身体運動‐感覚受容シミュレーションとして埋め込まれた現実としての社会構造が、言語を媒介として連鎖的に運動共鳴を引き起こすことで人間の社会が動いている。

社会構造を構成する身体運動‐感覚受容シミュレーションは個々の社会に特有ですが、それによって社会構造を学習する脳のシステムは(拙稿の見解では)人類共通です。人類の脳が共有するこの社会学習システムが、人類の繁栄の基礎となった。だから脳のこの仕組み(社会学習システム)が私たち現代人の身体に定着している。人情や人間関係を表現するのに便利な人称代名詞、敬語、意思表示表現など、多様な言語表現が、この仕組み(社会学習システム)の上で共進化した。

客観的物質世界を正しく表現していようといまいと、錯覚であろうとそうでなかろうと、現存の言語が表わすものは、私たち現代人の物質生活や社会生活に不可欠のインフラ構造になっているから、現実に使われている。それは毎日の生活に不可欠な、人類の貴重な財産に違いありません。これからもこれらを大いに使いこなして、人類は繁栄を続けるでしょう。また、そうする以外に、人類が存続することはできません。

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私はなぜ言葉が分かるのか(19)

2008-10-18 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

それでは、こういう錯覚を作り出してしまう人称構造のような自己中心的言語構造はだめなのか? 客観的物質世界の中でうまく生き抜いていくためには役に立たないのか? こんな自己中心的な言語構造を人類が発展させたことは間違いだったのか? それはそうではないでしょう。役に立たない行動を引き起こす神経機構が、これほどしっかりと、生存競争を勝ち抜いた私たちの身体に備わっているはずがありません。

言語の人称構造は、人類の進化発展の過程でどのように発生したのか? この問題は、もちろん、実証科学としての現代の言語学では解明されていません。仮説を作っても検証がむずかしい。そういう事情で、まじめな言語学の研究対象にはなりにくい。まあ、それでも、厳密な言語学を述べる立場でもなく、仮説に実証を求められる立場にもない拙稿としては、ここでも遠慮せずに、大胆に自前の仮説を設けることでどんどん前に進んでみましょう。

さて、人間の言語システムは、(僭越ながら拙稿の仮説を述べれば)もともと原始生活の中で、物質現象の認知を仲間と共有する道具として、発生した。自然の中で人間は、視覚や聴覚を使って、仲間や自分の人体、そして害獣や食物や道具など物質の運動や変化を認知し、擬人化し、予測し、それに対応して身体運動を起こす。その身体運動を仲間と運動共鳴させて集団として群れ運動を起こす。その集団的運動共鳴を音節列記号に結びつけて言語化し、その身体運動‐感覚受容シミュレーションを仲間と共有することで、客観的な世界を共有する。

仲間と共有したその共通の世界認識の中に生きることで、人間は、互いに協力し合ってきた。このころ(たぶん、数十万年前)の人類の言語は、目の前の物質を見ながらそれについて指差すことで通じるような言葉だけだったでしょう。大家族の中での原始生活には、それでも、相当役に立つ。

さらに次の時代(たぶん数万年くらい前)、人類は、(拙稿の見解では)言語を使って、大家族よりさらに大きな部族的な社会を作るようになり、各自がその大きな社会の一員として生きることで生存と繁殖を維持する動物となった。そうなると社会を維持するためにこそ、言語が重要となる。言語を使うことで、人間どうしが楽しく会話を交わし、仲良くなって協力し合い、社会と文化を維持できる。

その過程で言語は、社会生活に便利な種々の錯覚を発展させ維持する。心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・こういう言葉が作られていった。語彙は増大し、文法も、社会生活に便利な構造に進化してくる。

人称構造もその一つです。目に見える物質を客観的世界視座から描写していた原初の言語の中に、(拙稿の見解では、たぶん数万年くらい前に)自己中心視座を使う人間関係の描写に便利な装置として、人称構造が発明された。

洞穴にすむ原始人が会話しています。「コッチ、あったかい」と焚き火の近くに座る人が言う。「ソッチ、さむいだろ? いっしょにコッチすわろう」と入り口近くにいる人に声をかける。「コッチ」という言葉が第一人称代名詞になり、「ソッチ」という言葉が第二人称代名詞になっていったのでしょう。「ほんと、コッチはフトコロがさむいよ。ソッチはあったかそうでいいね」など、現代人も言いますよね。あるいは、「ニーちゃん、チーちゃんもつれてって!」と、弟が兄に言う。「チー」が第一人称、「ニー」が第二人称になった。人称代名詞は、このように指示代名詞、あるいは普通名詞から転用されてできた、という推測はもっともらしい(一九三四年 フランク・ブレイク「第一人称及び第二人称代名詞の起源」)。こうして、話し手と聞き手が共有する客観的世界の中に自己中心視座が導入される。

ここで、うっかりすると混乱しそうになることは、自己中心視座と客観的視座の出現の順番です。系統発生的にも、個体発生的にも、まず自己中心視座が発生して、その後、客観的視座が作られる、という仮説は分かりやすい。事実、伝統的心理学でも現代の認知科学でも、ほとんどの学説では、この順番が認められています。発達心理学でも幼児の行動がこの順番で発達するらしいことが観察されている。拙稿も、基本的には、この仮説を採用します。ただし、ここで拙稿は、(系統発生的にも、個体発生的にも)客観的視座が作られた後、言語の発達にしたがって、自己中心視座の再導入が起こることを強調したい。

つまり、赤ちゃんには、まず自己中心視座が発生して、成長にしたがって、幼児になるころ客観的視座が芽生える。その後、今度は言語を習得した後で、言葉としての人称構造に伴って、もう一度、自己中心視座が再導入される。ここがちょっと複雑です。

自己中心視座は、もともとは、言葉を話せない赤ちゃんたちの認知世界の構造です。自己中心視座だけを使っていた赤ちゃん時代を終え、子供が幼児になると、家族や仲間との運動共鳴によって客観的世界を共有することによって、客観的視座を獲得する。そして、言葉を話すようになる。幼児の発達過程において、運動共鳴による客観的視座の獲得が(拙稿の見解では)客観的物質世界の存在感の獲得とそれによる言語の習得のための基礎になっているからです。

次に幼稚園に入るころ、子供は、さらに運動共鳴を利用して、仲間の視座に乗り移る憑依運動を獲得する。仲間の人間と自分は、同じように、それぞれの自己中心視座から世界を見渡している、という相互的人間関係の存在感を獲得する。このときから、子供は、自己中心視座を仲間の人間の内部に自由に移動させることができる。つまり自己中心視座を、客観的視座が作る客観的世界の内部に埋め込んで、自由自在に扱えるようになる。子供が成長して、人の心が分かるようになった、ということです(拙稿8章「心はなぜあるのか?」)。

こうなると、子供は、言語化されていない赤ちゃん時代からの自己中心視座を、他人あるいは自分の外面に貼り付けて外面化することで、言葉によって外面的に表現することが可能になる。自分が自己中心視座から世界を見ているのと同じように、他人もそれぞれの自己中心視座から同じ世界を見ている、という客観的世界の存在感を感じ取る。

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私はなぜ言葉が分かるのか(18)

2008-10-11 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

だれもが分かるような気がするものは、だれもがはっきり分かる。はっきり分かるものは存在する。したがって、だれもが分かるような気がするものは存在する。だれもが分かるような気がするものについての言葉は、だれにでも通じる。そういう言葉で表されるものは存在する、ような気がする。そういう場合、言葉は通じる。

そういう言葉の錯覚によって、人間どうしが仲良くなれる。そして仲間どうしの連携が強化され、その一族は生存競争に勝ち抜いていく。つまり、仲間との運動共鳴を利用してそういう錯覚を作るDNA配列(ゲノム)が繁殖して、私たち現生人類になった。そういうわけで、私たち人間は、仲間の皆が分かるような気がするものは、はっきり分かるように身体ができている。仲間の皆が分かるらしい、という錯覚にしか根拠がない、ほとんど実体のない言葉を使っても、すぐ心が通じ合うような気になれる。気持ちが通じ合えば、その言葉は、はっきり分かる、ということです。むしろ、それが、分かるということの意味です。私たちは、そういう脳の構造を持っている。

本当にこの世に化け物のような存在がいるかどうか、そういうことはたいした問題ではありません。いようがいまいが、私たち人間どうしが、「化け物」という言葉を使ってお互いに仲良くなれればよい。それでもう、その言葉の実用価値は十分ある。その言葉を使うときの、表情、声の調子、その前後の行動。そういうものでその言葉を使うべき雰囲気が分かってくる。それで私たちは「化け物」という言葉を使いこなすことができる。「化け物」の意味はそれです。それだけで十分です。十分はっきりした意味を持つ。

そういう意味で言葉の意味を知っていれば、もう適当に仲間に合わせていける。つまり、人間どうしの会話は完全に成り立つ。それだけで、その言葉を使う価値がある。そういう言葉は、実際の物質現象との対応があってもなくても、完全な会話に使える。そういう優れた能力が、人類の言語には備わっている。それで、私たち人間は、豊かな言語生活が送れている。

化け物、といい、命、といい、あるいは、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・こういう言葉は、拙稿の言葉遣いによれば、みな、錯覚です(拙稿4章 世界という錯覚を共有する動物)。実体がない(どのように実体がないかについては拙稿第一部第二部を参照)。物質世界の何かを指差して示すことができない。

しかし、だからといって、これらが、全部だめな言葉ということではありません。むしろ、実体がないのにそれだけ強烈に人の心に訴える。存在感の強い言葉たちです。それらは、人の心に訴えるだけの強いイメージを作り出すことができる。それらの錯覚を互いに共有し、互いに通じ合うことで、人間は緊密に協力し、団結して、生存競争を勝ち抜いていくことができた。だから、これらの錯覚は、存在すべきものだから存在している。私たちはこれらの錯覚を表す言葉を使わずに毎日を生きることはできない。人類の生活に必要不可欠のものです。これらの言葉を使いこなすことで、私たち人類は、生き延びて繁栄し、現代文明を作ったのですから。

言語は(拙稿の見解では)擬人化システムの上に作られている。私たちは、視覚聴覚を通じて感じる物事を、無意識のうちに、自分の運動形成神経回路の作動を誘発する原因として認知する。自分の身体が、物事の存在と動きに引き付けられ、つられて動き出しそうになる場合、その物事を、自分と同じような欲望や意志を持った運動体(あるいは人のような運動の主体)がそれ自身の欲望や意志で動き出す、と見てとることで、言語をつづる。「XXが○○をする」という言語形式でそれを表現する。XXは自分の運動形成を誘起する運動体、○○は誘起される運動です。XXを感知することで話し手の運動形成回路が誘起されて脳内に○○という仮想運動が形成されることを私たちが感じ取る場合、私たちは無意識のうちに、それを、XX(という運動体)がXXの欲望や意志で○○をする、という表現形式にあてはめる。そういう脳の機能が人類には備わっているらしい。それを、拙稿の用語法では、擬人化システムと呼んでいます。人類の言語はこの擬人化システムを使って、物事を表現する仕組みです。

話し手から聞き手へ言語が伝わるときは、擬人化システムの働きが二人の間で共有されている。話し手がXXの動きを自分の運動形成回路で表現するとき、それに連動して聞き手もその運動形成回路でXXの動きを表現する。それは話し手と聞き手の間の運動共鳴です。

ここで、特に注意を要する擬人化は、話し手が自分を中心とする人間関係に関して言語表現を使う場合に表れる。客観的世界の物質などを表現する場合と違って、自分を中心とする人間関係を表現する場合は、話し手は自分自身を擬人化し、自分自身に憑依する。つまり自己中心視座への憑依運動(4章)が起こる。したがってこの場合、話し手が話し手に憑依する憑依運動について、話し手と聞き手の間の運動共鳴が起こる。

そのような事情で、話し手が自分を中心として人間関係を表現する言葉(自分とか、欲望とか、意志とか、死とか)を使う言語表現は、客観的物質世界を記述する言語表現とは根本的に違う形式となる。つまり前者が自己中心視座への憑依運動(4章)の共鳴にもとづいて表現されるのに対して、後者は客観的物質世界中心の視座での運動共鳴にもとづいて表現される。そのために、これら自己中心的人間関係の言語表現は、哲学者たちに、客観的物質世界の言語表現との整合性を追求されると矛盾をみせてくる。話し手を中心とする人間関係の表現と操作に多く使われる人称代名詞がその代表です。

人称代名詞の第一人称「私」は非常にトリッキーです。なりすまし詐欺の常習犯です。古来、多くの哲学的混乱を引き起こしている。主観客観問題、意識問題、心脳二元論問題など、哲学に登場するほとんどの難問は、(拙稿の見解では)客観的物質世界を表現する言葉と、話し手の自己中心的世界を表現する言葉とがうまく整合しないための混乱に起源を発している(拙稿12章「私はなぜあるのか?」、また拙稿次章で詳しく論考の予定)。

自然科学は、客観的物質世界を記述の対象とする。自然科学を表現するのに、第一人称代名詞「私」は必要ない。一方、心理学や社会心理学など人文社会科学は、「私」の概念を対象として研究される。ところが、自己中心視座から世界を記述する第一人称代名詞「私」は、自然科学の立脚点である客観的物質世界とは、とても相性が悪い。そのため、第一人称代名詞にかかわらざるを得ない人文社会科学は、一貫した視座から整然と物質世界を記述していく自然科学に比べて、いつも、視座がふらつくための混乱に巻き込まれる(たとえば、二〇〇七年 廣瀬幸生・長谷川葉子『ダイクシスの中心をなす日本的自己』)。

哲学者や心理学者ではないふつうの人々も、この人称代名詞には混乱させられるところがあります。言葉を覚えたての幼児(二歳児、母語英語)は、クッキーが欲しいとき、「ユウ・ウオント・クッキー」と言い間違える。アイと言うべきところをユウと言っている。ママが自分をユウというので、幼児は、自分がユウだと思ってしまう(二〇〇三年 マルコム・ハイマン『一語誤用と構文法の限界』)。

ちなみに日本語の文化では、大人が幼児に「ボク、クッキー食べたい?」などと最初から人称を逆転して教えるので、幼児の言い間違いは、めったに現れません。そのかわり、ボクに弟が生まれると、たちまち、「お兄ちゃん、クッキー分けて上げなさい」などと赤ちゃん中心の呼称を教え込まれる。

客観的物質世界の側から見れば、人称代名詞や指示代名詞、ダイクシス参考:金水敏「ダイクシスの諸相」)など、話し手の視点からの視線方向に依存して語りはじめる自己中心的な言葉は、物質的な実体に対応しない錯覚の世界です。私たちが人称代名詞など自己中心的な言葉を使う場合、話し手は聞き手が話し手に憑依することを期待し、話し手の視座から世界を眺めることを期待し、それを強制する。それらの言葉を使うときは、私たちは、そのときの話し手に成り代わって、話し手の立ち位置に立つことで、はじめて、言葉から物質世界への対応を得ることができからです。

「私は、今すぐ、衆議院を解散したい」と言っても、この言葉の話し手が筆者であれば、何も起りませんね。でも総理大臣麻生太郎氏が、国会の場でこれを言ったら、すぐ総選挙になり、全国に投票用紙が配られる。

つまり人称代名詞や指示代名詞などダイクシス)は、それを発声する話し手によって意味が変わる。これは自然法則の普遍性からはずれます。客観的物質世界中心の視座から発言される言葉では、だれがその言葉を言ったかによって、自然法則が異なるということはない。ところが、自己中心視座から発言される人称代名詞(あるいはその他のダイクシス)が使われる場合、話し手が誰かによって意味が変わる。話し手だけが世界の中で特殊な原点である、という天動説のような錯覚を作り出している。

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私はなぜ言葉が分かるのか(17)

2008-10-04 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

リンゴなど、目に見える物質についての場合は、このように、言葉は、その物質を見たり触ったりした身体的な経験と連結して記憶されます。ところが、身体で経験できないものについても、私たちは言葉で語る。

たとえば話し手が「化け物」と言ったときは、どうなるのでしょうか? 化け物は、目に見えないし、手で触ることもできない。こういう場合、話し手と聞き手の脳の内部状態は、同じになるでしょうか? 

たぶん、だいぶ違うでしょう。

ある人は、SF映画で見たエイリアンの不気味な姿を思い浮かべる。ある人は、四谷怪談のことか、と思う。あるいは、子供のころ、怖い思いをした遊園地のお化け屋敷を思い出す。また、ある人は、アニメのキャラクターを思い出す。

それでも、問題なく会話は続いていくことが多い。いや、むしろ、ふつうの会話などは、そういう場合が多い。イメージが食い違ったままでも、「化け物」について冗談を言い合ったり、意見を交わしたり、脅しあったり、感情表現を見せ合ったり、すれば、それはそれで立派に社交がなりたつからです。

「化け物」と聞いて、子供や若い人はたいてい、かなり視覚的な、不気味で恐ろしいイメージを思い浮かべる。ところが、筆者のような人生経験豊かな老人は、化け物など全然怖くありません。人生には、もっとずっと怖いものがたくさんあることを知ってしまったからです。それでも、「化け物」という言葉は、いろいろな場面で、使うと便利です。子供のころ皆で怖がった記憶があるから、それは、大人になってからも利用できる。まあ、化け物よりもずっと怖いものは、化け物を利用する人間ですね。

「○X国の大統領は化け物だ」と、言ってみましょう。友人と食事しながら言っても、軽い談笑に過ぎない。しかし、新聞に投書したらどうか? 「○X国の大統領は化け物だ。化け物が、ますます化け物らしく振舞って、人を怖がらせているのだ」などと書いて見ましょう。まず、載らないでしょうね。ところが、あなたが日本の総理大臣だったら、投書などしなくても、どこかで軽くしゃべっただけで、すぐ新聞に載るでしょう。載ったら載ったで、政治問題になってしまう。総理大臣でなく、あなたが無名の人だとしても、ブログに書いたりしたら危ない。テロリストが来るかもしれないし、サイバー攻撃を受けるかもしれない。思ったことを言えばよい、というほど、世の中は単純ではありません。それでも、「○X君は化け物だ」と言ってみたい気持ちは、だれにもある。それで、中世の魔女狩りがあり、かつてこの国にもあったし、今でも世界の多くの国でおこなわれている全体主義がある。いまでも、どこでも、小さな職場や学校の小グループでは、しばしばこのような社会現象が起きている。

しかし、こういう場合、「化け物」という言葉の意味は、何なのでしょうか?

化け物はこの世のものではない。だから化け物なのであって、物質世界に属するものではない。つまり、客観的な物質現象ではないから、だれの目にも見えず、もちろん手で触ることはできない。それでは、そういうものは、全然意味がないのか、というと、そんなことはない。その言葉が、広く、人々に使われている以上、意味はある。はっきりした意味がある。それは、この言葉が、どういうふうに使われているか、ということです。それでは、この言葉は、どういうふうに使われているのでしょうか? 

「化け物」という言葉を使って私たちが何かを語るときは、どういう場合なのか? 客観的な物質を指して、それについて語りたい、という場合ではない。たいていは、ただ、うまい具合に仲間どうし会話が続いていけばよい、という場合でしょう。たとえば、「あいつは化け物だよ」と言って、にやっと笑う。それを聞いた仲間は、皆いっせいに、にやっと笑う。だれもがそうするとすれば、それが、「化け物」という言葉の意味といえる。そして、何度も使っているうちに、その言葉はそれなりの存在感がでてきて、だれもが、「化け物」という言葉はどんなとき使うか分かった、と思うようになる。それが、実は、「言葉の意味」というものの意味です。

「化け物」という言葉の意味は、たとえば、「あいつは化け物だよ、と言って、皆でにやっと笑う」という身体運動が集団的に共鳴することで作られる身体運動‐感覚受容シミュレーションに対応する。つまり、「化け物」という言葉は、何かの物質に関する経験ではなくて、「化け物」と聞いて皆がにやっと笑う、という集団的共鳴運動に関する経験からできている。物質に関する経験ではなくて、言葉に対する集団的運動共鳴の経験が、その言葉に対応する身体運動‐感覚受容シミュレーションの内容です。つまり、こういう場合、話し手と聞き手の脳の内部状態は、どちらも、その言葉に対応して共鳴する身体運動‐感覚受容シミュレーションで表現されている。その意味で、同じ内部状態になっている、といえます。それで、この言葉は通じる。

「化け物」という言葉を聞いた場合、人によって、エイリアンとか、いろいろ化け物的なイメージが頭の中に浮かぶが、ふつう、そのイメージ自体はだれも重要とは思っていなくて、「あいつは化け物だよ、と言って、皆でにやっと笑う」という言葉の使い方についての集団的共鳴運動こそが重要だ、と皆が思っている。言葉を学ぶ子供は、その言葉の使い方に関する集団的運動共鳴を学習することで、その言葉が身につく。そういう言葉の使い方に関する集団的運動共鳴について、皆の脳の内部状態は、ほぼ同じです。この場合、「化け物」と聞いて皆がにやっと笑う、という集団的運動共鳴に「ば・け・も・の」という音節列発音運動が連結した身体運動‐感覚受容シミュレーションが脳内にできている。つまり、「化け物」という言葉を働かせる脳内の物質的実体は、その運動共鳴シミュレーションを表現する神経ネットワークの連結構造である、といえる。

「化け物」のように実体がない言葉について私たちは、物質を見たり触ったりする経験がない。しかし、「化け物」という言葉は、物質に関する経験に代わって、言葉の使い方についての集団的運動共鳴がはっきりとだれにも共有されているために、意味がはっきりする。一方、「リンゴ」のように物質として実体がある言葉については、その物質に関する経験で意味がはっきりする。この場合、「リンゴ」という言葉の使い方に関する集団的運動共鳴は、リンゴという物質に関する集団的な共通経験を想定する、ということです。たとえば、リンゴはおいしい、という物質的な経験をだれもが持っているだろうと想定しながら「リンゴはおいしい」と言う場合などです。

ただし、「リンゴ」の場合でも、リンゴという物質に関する経験を思い出すことよりも言葉の使い方についての集団的運動こそが重要だ、と皆が思っている場合には、そちらのほうで、その場合についての言葉の意味がはっきりしてくる。たとえば、リンゴがダイエットによい,という信念に凝り固まっている人たちをからかうことが流行している国があるとします。その国ではダイエットマニアの人を揶揄する場合に「あいつはリンゴだよ」と言って、皆でにやっと笑う。そうだとすると、その国では、リンゴの意味は「あいつはリンゴだよ」と言って皆でにやっと笑う、ということになります。そうなると、実物のリンゴなど見たこともなく、その形を想像する気もない人たちでも、「あいつはリンゴだよ」と言って、皆と一緒に、にやっと笑うことができるようになる。その集団的運動共鳴こそが、この場合、「リンゴ」という言葉の意味になっているからです。

要するに、「リンゴ」にせよ、「化け物」にせよ、どの場合も、言葉が通じるということは、話し手と聞き手の脳内で、その言葉に関する共通の神経活動が行われている、ということです。この共通の神経活動は、話し手と聞き手の間に集団的運動共鳴を引き起こす。集団的運動共鳴とは、互いの言動を見聞きすることによって、複数の人間に、同じような身体運動(脳内で運動信号形成だけが起こって身体は動かない仮想運動を含む)が起こることです。同じような身体運動は同じような感情を引き起こす。そうして気持ちが通じ合う。そのとき私たちは、言葉が通じる、と感じる。

その共通の神経活動は、拙稿の見解では、「リンゴ」あるいは「化け物」という言葉の意味に関する集団的運動共鳴に、「り・ん・ご」あるいは「ば・け・も・の」という音節列発音運動が連結した身体運動‐感覚受容シミュレーションです。「リンゴ」の場合は、リンゴという物質に関する私たちの共通経験としての、見たり触ったり食べたりしたときの集団的運動共鳴と、それに加えてこの言葉の使い方に関する運動共鳴がシミュレーションの中身になっている。「化け物」の場合は、物質的な共通経験はほとんどなくて、その言葉の使い方に関する運動共鳴だけがシミュレーションの中身になっている。どの場合も、(拙稿の見解では)言語が通じるための最低の必要条件は、その言葉の使い方を、集団的運動共鳴として、だれもが身につけている、ということです。逆に、その条件を満たしていれば、その言葉は、通じる。

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