幸福とは何でしょうか? アンケートをとるときの選択肢としては、家族、お金、結婚、出世、成功、勝利、裕福、栄誉、尊敬、安心、安全、健康・・・ いろいろなキーワードがあげられそうです。
幸福は目に見えない。ですから、幸福というのは脳の中に生ずるひとつの錯覚です。目に見える物質世界には幸福はありません。幸福は物質ではなくて目に見えないものなので、他人どうしが同じものを感じながらしっかり共感するのはむずかしい。
例外的には、分かりやすい幸福というものもある。蚊に刺された腕の赤い斑点を見せて、それを掻きながら、「痒いところを掻くと幸せ!」と言えば、その幸福は聞き手にも共感されるでしょう。その共感が、その幸福の意味です。そのほかの幸福も、それを感じている人を見ている人が、共感をはっきり感じられるときは、確かにそこに存在する。幸福とはお金や地位そのものでもなく、状況そのものでもなく、それらの状況にある人が感じているらしいことを、目や耳で観察して想像する観察者の脳の状態にある。特に、自分の状態を観察している場合、観察者は、自分を観察することで、他人から見た自分の幸福を、あるいは不幸を、感じることができる。
人はなぜ幸福を追求するか? なぜ私たちは、それを人生の目的として追求するのでしょうか?
五分後であれ、五日後であれ、あるいは五年後であれ、今から将来を予想してその中で自分の幸福を追求する、というゲームを作り上げ、それをプレイする機能が、進化のある段階で人類の脳に追加されたようです。しかし、他の動物は、こういうことはしない。動物の中で人間だけが、なぜ、自分の行動を計画できるのか? なぜ、一年以上もさきの収穫を予想して穀物の種を保存することができるのか? なぜ、そういう脳機構を持つように進化したのでしょうか?
他の動物はそうなっていない。チンパンジーなどは、ごく断片的に、この機能を持つようですが、人間との差は大きい。観察すれば、すぐ分かる。チンパンジーに、「来年の計画は?」と聞く人はいないでしょう。
人間だけがなぜ、目的をもって長期的な自分の人生を計画できるのか? そして、なぜそうするのでしょうか?
筆者が若いころ感動した有名な小説の筋です。ある日、老漁師はいつものように小船に乗り、一人で海に出る。巨大なカジキマグロと大格闘の末、釣り上げるけれども、獲物は鮫に食われてしまう。骨だけになった獲物を持って陸に戻った老人は、それでも幸せそうに見える(一九五二年 アーネスト・ヘミングウェイ『老人と海』)。この一日の老人の大格闘は、次の日からの彼の人生には、良くも悪くも関係しそうにありません。しかし、私たち読者は、老人の行動の美しさに感動する。
人間はなぜ、「今のこのときだけ、今日一日だけ、幸せならそれで満足」と考えられないのでしょうか? それは聖人君子のような、美しすぎる生き方かもしれない。しかし凡人の私たちも、ちらっとは、それが分かるような気になることもある。 今食べたい食事と、今すぐ交尾したい異性のことだけを考えている動物は、聖なる精神を生きているようにも見える。しかし、「動物はばかだから、それしか考えられない」と言ってしまえば、それもそのとおりでしょう。
人類の脳機構は、将来の自分というイメージを自動的に予想する機能を持っている。明日の自分、来週の自分、来年の自分、というものを全然考えない人は少ない。二十年後、あるいは五十年後の自分を心配して、人生を設計し、そのために毎日努力している人も、たくさんいます。そういう人は、しっかりしている、立派な人だ、信頼できる人だ、といわれる。たしかに、将来の自分のために努力する人は信頼できる。そういう人は、将来の自分の立場をいつも実感している人ですから、約束や契約を守ってくれる。自分たちの組織を守ってくれる。法律も守ってくれる。そういう人々が集まってしっかりした社会ができる。
将来の自分を守るということは、仲間との信頼関係を守ることです。人間としてはそうすることがまともです。そうすることがまったく正しい。しかし、こういうことをすることは、動物としては、かなりおかしな行動です。人間以外の動物は、今、目の前に感じられる物事しか考えない。それがふつうです。
他の動物はけっしてしないのに、なぜ人間だけが将来の自分のありかたを予想して、それを計画までするのか?
将来の計画を持つ、ということは、どういうことなのか? 行動を計画するということは過去の記憶と将来の予測を現実と比較して、次の行動を評価し、選択する機能です。主観的には、「私」と言われるものがいろいろ考えながら、これをしているように感じられる。行動の主体性、とでもいうべきものでしょう。
コンピュータでこの主体性のようなものを作るには、どうしたらよいか。チェスや将棋などのゲームをする人工知能は、主体性を持って、相手に勝とうとしているように見える。こういうゲームの自動プログラムを改良すれば、うまくいくのではないでしょうか?
実際、世界で一番強いチェスのプレイヤーは、コンピュータです。チェスで成功するという行動は、コンピュータが得意なわけです。では、人生ではどうか? コンピュータには、とても無理そうですね。だが、大学入試なんかは、どうだ? コンピュータのほうがいい点を取って、合格してしまうのではないか? ビジネスの取引などはどうか? ゲームと考えれば、コンピュータもできそうです。
予測シミュレーションの結果に対して数学のゲームの理論(一九四四年 ジョン・フォンノイマン、オスカー・モルゲンシュテルン『ゲームの理論と経済行動』)を当てはめて収穫と損失を計算し、その手が有利か不利かを判断するコンピュータプログラムを作ればよい。原理としては簡単な仕組みです。ゲーム理論では、収穫と損失の比較表をペイオフ行列という。この数値表がゲームのプレイヤーとしての主体性を表わしている。この表が、どういう状況では、どう動くべきか、という行動計画を決めている。この表に並んだ数値が、いわば、「ゲーマーとしての私」、ということになります。