哲学の科学

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私はなぜ幸福になれるのか(2)

2008-04-26 | x7私はなぜ幸福になれるのか

幸福とは何でしょうか? アンケートをとるときの選択肢としては、家族、お金、結婚、出世、成功、勝利、裕福、栄誉、尊敬、安心、安全、健康・・・ いろいろなキーワードがあげられそうです。

幸福は目に見えない。ですから、幸福というのは脳の中に生ずるひとつの錯覚です。目に見える物質世界には幸福はありません。幸福は物質ではなくて目に見えないものなので、他人どうしが同じものを感じながらしっかり共感するのはむずかしい。

例外的には、分かりやすい幸福というものもある。蚊に刺された腕の赤い斑点を見せて、それを掻きながら、「痒いところを掻くと幸せ!」と言えば、その幸福は聞き手にも共感されるでしょう。その共感が、その幸福の意味です。そのほかの幸福も、それを感じている人を見ている人が、共感をはっきり感じられるときは、確かにそこに存在する。幸福とはお金や地位そのものでもなく、状況そのものでもなく、それらの状況にある人が感じているらしいことを、目や耳で観察して想像する観察者の脳の状態にある。特に、自分の状態を観察している場合、観察者は、自分を観察することで、他人から見た自分の幸福を、あるいは不幸を、感じることができる。

人はなぜ幸福を追求するか? なぜ私たちは、それを人生の目的として追求するのでしょうか?

 五分後であれ、五日後であれ、あるいは五年後であれ、今から将来を予想してその中で自分の幸福を追求する、というゲームを作り上げ、それをプレイする機能が、進化のある段階で人類の脳に追加されたようです。しかし、他の動物は、こういうことはしない。動物の中で人間だけが、なぜ、自分の行動を計画できるのか? なぜ、一年以上もさきの収穫を予想して穀物の種を保存することができるのか? なぜ、そういう脳機構を持つように進化したのでしょうか?

他の動物はそうなっていない。チンパンジーなどは、ごく断片的に、この機能を持つようですが、人間との差は大きい。観察すれば、すぐ分かる。チンパンジーに、「来年の計画は?」と聞く人はいないでしょう。

 人間だけがなぜ、目的をもって長期的な自分の人生を計画できるのか? そして、なぜそうするのでしょうか?

 筆者が若いころ感動した有名な小説の筋です。ある日、老漁師はいつものように小船に乗り、一人で海に出る。巨大なカジキマグロと大格闘の末、釣り上げるけれども、獲物は鮫に食われてしまう。骨だけになった獲物を持って陸に戻った老人は、それでも幸せそうに見える(一九五二年 アーネスト・ヘミングウェイ老人と海』)。この一日の老人の大格闘は、次の日からの彼の人生には、良くも悪くも関係しそうにありません。しかし、私たち読者は、老人の行動の美しさに感動する。

 人間はなぜ、「今のこのときだけ、今日一日だけ、幸せならそれで満足」と考えられないのでしょうか? それは聖人君子のような、美しすぎる生き方かもしれない。しかし凡人の私たちも、ちらっとは、それが分かるような気になることもある。 今食べたい食事と、今すぐ交尾したい異性のことだけを考えている動物は、聖なる精神を生きているようにも見える。しかし、「動物はばかだから、それしか考えられない」と言ってしまえば、それもそのとおりでしょう。

 人類の脳機構は、将来の自分というイメージを自動的に予想する機能を持っている。明日の自分、来週の自分、来年の自分、というものを全然考えない人は少ない。二十年後、あるいは五十年後の自分を心配して、人生を設計し、そのために毎日努力している人も、たくさんいます。そういう人は、しっかりしている、立派な人だ、信頼できる人だ、といわれる。たしかに、将来の自分のために努力する人は信頼できる。そういう人は、将来の自分の立場をいつも実感している人ですから、約束や契約を守ってくれる。自分たちの組織を守ってくれる。法律も守ってくれる。そういう人々が集まってしっかりした社会ができる。

将来の自分を守るということは、仲間との信頼関係を守ることです。人間としてはそうすることがまともです。そうすることがまったく正しい。しかし、こういうことをすることは、動物としては、かなりおかしな行動です。人間以外の動物は、今、目の前に感じられる物事しか考えない。それがふつうです。

他の動物はけっしてしないのに、なぜ人間だけが将来の自分のありかたを予想して、それを計画までするのか?

 将来の計画を持つ、ということは、どういうことなのか? 行動を計画するということは過去の記憶と将来の予測を現実と比較して、次の行動を評価し、選択する機能です。主観的には、「私」と言われるものがいろいろ考えながら、これをしているように感じられる。行動の主体性、とでもいうべきものでしょう。

 コンピュータでこの主体性のようなものを作るには、どうしたらよいか。チェスや将棋などのゲームをする人工知能は、主体性を持って、相手に勝とうとしているように見える。こういうゲームの自動プログラムを改良すれば、うまくいくのではないでしょうか? 

 実際、世界で一番強いチェスのプレイヤーは、コンピュータです。チェスで成功するという行動は、コンピュータが得意なわけです。では、人生ではどうか? コンピュータには、とても無理そうですね。だが、大学入試なんかは、どうだ? コンピュータのほうがいい点を取って、合格してしまうのではないか? ビジネスの取引などはどうか? ゲームと考えれば、コンピュータもできそうです。

予測シミュレーションの結果に対して数学のゲームの理論(一九四四年 ジョン・フォンノイマンオスカー・モルゲンシュテルンゲームの理論と経済行動』)を当てはめて収穫と損失を計算し、その手が有利か不利かを判断するコンピュータプログラムを作ればよい。原理としては簡単な仕組みです。ゲーム理論では、収穫と損失の比較表をペイオフ行列という。この数値表がゲームのプレイヤーとしての主体性を表わしている。この表が、どういう状況では、どう動くべきか、という行動計画を決めている。この表に並んだ数値が、いわば、「ゲーマーとしての私」、ということになります。

 

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私はなぜ幸福になれるのか(1)

2008-04-19 | x7私はなぜ幸福になれるのか

17 私はなぜ幸福になれるのか?

 人生の目的は何か? このごろは流行らないようですが、筆者の世代、あるいはその一つ前くらいの世代の若者は、こういう問いがまさに哲学だ、と思っていたようです。しかし哲学者の本も、科学者の本も、文学者の本も、どの本を読んでも、人生の目的は何かについてまともな答えは書いていない(現代哲学の開祖といわれる哲学者も、人生の意味という問題に意味はない、と書いています。一九二一年 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン論理哲学論考既出 一九九七年 カレブ・トンプソン『ウィトゲンシュタイン、トルストイ、人生の意味』)。そうなると、こういうことを質問しても空しい、と思われるようになるからでしょうか、今はだれもこういうことを質問しません。

そういう空気が支配している現代、いまどきいい大人がこんな質問をしてきたら、ちょっと警戒したほうがよさそうです。おかしなオカルト宗教の人か、ノイローゼの人か、何かをごまかすために演技しているか、どれかの可能性が高いからです。

 それでも純真な中学生なら、素直に聞いてきそうです。

「人生には目的があるのでしょうか?」

中学生が顔をまっすぐに向けて、こう質問してきたら、大人は、まず目をそらしてはいけません。まじめな顔をしてきちんと回答しなければなりませんね。幸いというか、筆者は、こういう場面の経験がありません。自分が遭遇した場合を想像するに、つぎのように答えようかな、と思います。

「好きな女の子を見つけることかな」

男子だったらこれでよいかもしれない。

しかし女子だったら? それは、考えたことがありません。幸運なことに筆者の娘はこういう質問をしてきませんでしたので。いずれにせよ、大人は、こういう場面を想定しておかなければなりませんね。そこで拙稿では、この際、ちょっとまじめに、この問題を考えてみようか、と思います。

 しかしまあ、大人の人間はだいたい、自分の人生というものは大事だと思っている。自分の人生の目的というほどはっきりしたものは考えていないにしても、周りの仲間と比べての成功、勝ち負け、運不運という意識はある。結婚生活のイメージだとか、家族のイメージ、年収の良い安定した職業、会社でのポジション、あるいは、家の大きさや自動車のグレード、資産の大きさ、などが、その目安でしょう。そういうものを、人並みに、あるいは、できれば少し上等なものを、手に入れたいと思って毎日、努力しています。こういうものが、いわゆる個人的な幸福、といわれるものですね。そして、これらを手に入れることと個人が毎日どういう行動をするかとは、深い関係があると思われているわけです。

 近頃流行の、ビジネスマンの心構えを説く講座などでは、「五年後の自分の姿を想像して人生の目標を立てよ」と教えてくれる。しかし、なぜ人生の目標を立てなければいけないかは、教えてくれない。それは、あまりにも当たり前のことだから、書いてないのでしょう。つまり、だれにとっても自分の人生の成功というものが、間違いなく、とても大事なことだ、と考えられているわけです。

人生の成功を達成し、幸福を手に入れることが、人生の目的なのでしょうか? だれもが、そう思うならば、これが正しい答えといってよいでしょう。

「人生の目的は、幸福になることだ」

こう答えればよいとすれば、これは簡単でよい。中学生の男子にも女子にも、使える答えです。さて、それでは、これが正しいかどうか、それを調べる必要がありそうです。

人生の目的は、幸福になることなのか? そうなのか、そうでないのか、どうなのか、と言う前に、なぜ、私たちは、幸福になることが大事だと、思うのでしょうか? 拙稿は、この辺の考え方そのものに興味がある。

なぜ、人間は、人生において幸福になることが大事だと思うのか? 自分の人生の成功というものを大事だと思うのか? なぜ、そういう脳の働きがあるのでしょうか? なぜ、そういう機能が進化したのでしょうか? 他の動物には自分の人生(動物生?)を考える能力がないのに、なぜ人類だけにそういう機能があるのでしょうか?

 原始時代の人間が、人生の目的について深く悩んだとは思えません。今晩の食料が足りないとか、夜中にたき火が消えてしまって狼に襲われるのではないかとかの悩みに忙しくて、人生について考えることはなかったはずです。飢餓の心配がなく夜は安心して眠れる生活になって、はじめて人間は人生について考えるようになった。

もちろん現代でも、今週中に子供の手術代を稼ぎ出さなければならない孤独なシングルマザーにとっては、人生の目的などは何の意味もない。人生の幸福について考えることができる人生は、それだけでもうかなり幸福な人生なのです。多くの人がこういう人生を送ることができるようになったのは、人類の歴史でもつい最近のことです。

日本国憲法第十三条には 「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と書いてある。生命、自由および幸福追求が人間にとって一番大事だ、と憲法は言っている。そういえばあの頃は、あの世界大戦が終わった二十世紀の中ごろ、日本国憲法が書かれた頃は、世界中の知識人の関心は、個人、自由、幸福、権利、というような言葉の中にあった。

実際、とりあえず生命と自由に対する脅威への対応に全力を傾ける必要がない(現代の欧米、日本などの)文明国の人々は、個人としての幸福を追求することに相当のエネルギーを傾けている。

しかしこれは実は、人類史上、つい最近あらわれてきた行動様式です。日本でも、個人の幸福の話が問題になるようになったのは、たかだかこの百年のことです。それまでは、人間にとって自分個人の幸福はあまり問題ではなかった。関心がそこまでいかなかった。自分が属している集団、大家族、氏族、一族郎党、の幸福が問題だった。自分の属する集団が生き延びられなければ、個人の存在などはない。まず、集団の生存、それが問題なく確保された段階にいたって、集団内部の過酷な支配体制に対する疑念がでてくる。そして自由が希求される。革命内戦など大騒動が終わって、ようやく個人の自由が当たり前の時代になる。そしてはじめて、さて個人の幸福とは何か、という問題がでてくる。

集団全体の生存があって、その上に、集団内の自由があり、さらにその上に、個人の幸福がある、という構造になっている。それなのに今は、自分個人の幸福以外興味がない、という人がとても多い。自分ひとりだけ成功するよりも仲間と仲良く暮らすことが一番幸せ、などと言うと、主体性がないとか、個人が確立していない、などと叱られてしまいます。

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私はなぜ幸福になれないのか(6)

2008-04-12 | x6私はなぜ幸福になれないのか

実社会での人生ゲームに疲れた現代人が、実人生とは違う別世界での人生、たとえばスポーツやテレビゲームや趣味の生活に惹かれるのも、古人の感覚が思い出されているという面がある。昔は照明がなかったから、日が暮れると闇の世界で生きる。闇の中では目が見えないから、がんばって働くことはできません。闇の中でもできる子作りなどで、がんばっていたのかもしれませんね。冬は作物が育たないから、遠くまで出かけて狩をする。現代のスポーツの源流かもしれない。夏の畑仕事とは全然違う仕事をするしかない。祭りでは、歌や踊りに熱中する。一日の時間、一年の季節で、違った人々と違ったルールで生活を送ったわけです。

複数の人生を同時に生きていた。現代人が休暇にカジュアルな服装に着替えて、趣味の仲間と過ごす様子に似ている。けれども、昔の人たちは、趣味などしている余裕はなかった。農耕も、狩も、祭りも、生活に必要不可欠と思っていた。いつでも、懸命にそれらをしていたわけです。一方、現代人は職業欄に書き込む本業というたった一つの競争ゲームを人生のすべてとして生きている。それが出世であろうと、あるいは蓄財、あるいは子育てであっても、それに全身全霊を打ち込んで戦わないと勝てない、と思っています。

まあ、どんなゲームでも、プロとして生きていくためには、アマチュアのようにやっていてはすぐ落伍するわけです。現代では、何事もグローバルな競争になる。世界で一番強い人が出てきて、互いに争う。プロのエリートでなくても、どの職業でも、数多くの競争相手がいる以上、残業も過労もしないで一人前に認められるのはむずかしい。グローバリゼーションの現代、エリートとしては、二十四時間、世界中の市場をインターネットか何かで監視して情報を収集していないと負ける。休む暇など、あるはずがありません。

そういうことで、現代では、プロとして脱落しないようにがんばる本業と、アマチュアとして気晴らしにする趣味とは、峻別されることになる。社会に組み込まれている本業のほうのコミュニティで認められないと、テレビゲームでいくら勝っても、趣味のサークルで仲間にほめられても、空しい。趣味は趣味でしかないからです。

確かに、実人生のゲームで勝たなければしかたがない。私たちの身体は、気楽な趣味だけの生活に生きるようには進化していません。現実世界での実人生の成功を求めて、競争に全力を尽くすような身体に作られている。そういう身体を持った人類が生き残って私たちの祖先になった。

実人生での勝負にある程度の割り切りを持たなければ、私たちは、趣味の世界を楽しむことはできない。強制的に休暇を取らされてしまう場合などに、意外と趣味を楽しめたりする。しかし現代人は、なかなか休暇を取る気になりません。

狩猟採集の時代には、肉眼で見渡せる範囲の小さな世界の中で、人間は全力を尽くして競争していた。農耕が発展して歴史時代になると、身分制度ができた。身分制度では、自由がない分、活動力が余って趣味をする余裕が生まれます。しかし、趣味を楽しむには適しているかもしれないが、実人生での競争に全力を尽くしにくい身分制度のシステムは、人々に嫌われて、結局は壊れていった。現代は、グローバリゼーションの世となり、再び、競争に全力を尽くしやすいシステムが実現してきている。しかし、私たち現代人はなかなか幸福になれない。

狩猟採集時代の競争と違って、現代の、世界全体が透明に見渡せるグローバル競争の中で、トップの勝者になるのは容易ではありません。実際、ふつう、なれるわけはない。どの辺にたどり着いたとしても中途半端な感じになる。自分はちゃんとゲームに勝っているのか。趣味の世界ではなく、実人生における競争で、いちおう自分は成功しているのか。私たちはいつも気にしている。しかし、現代社会の中で、自分はいったい勝っているほうなのか、成功しているほうなのか、それはどうやって見極めるのか、どうしても分からない感じがある。

よく分からないけれども、まあまあだと思えばいいのかな、という気にもなる。しかし、まだまだ、という感じもする。そう思うと、安穏とこうしていてはいけない、ということになります。ところが、実際こういう努力をすれば大丈夫ということが、はっきりしているわけではない。昔は、それぞれ、こういう立場の人はこういう努力をすればよい、ということは割合はっきりしていた。同時に、ある程度以上努力しても幸福になれない、という限界もよく見えていた。現代は、そうではありません。いつでも、もっと幸福になれるような気がする。けれども、そのために何をすればよいのかが分からない。そこに、私たち現代人が、いつまでたっても幸福になれない理由がある。

ビジネスマンA氏が、取引先の代表と会食しています。会話はなごやかに進んでいく。この調子で契約がうまくいくと、とてもラッキーです。ここまでくれば、たぶん大丈夫でしょう。そうなれば、ビジネスとして、今期最大の成果があげられる。うまくすれば、ひとつ出世できるし、年収もかなり増える。間違いなくラッキーです。それでA氏は幸福を感じている。

相手は同年輩の感じのいい紳士です。教養深く、趣味の話をしても思わず引き込まれる。会話が楽しい。そのことでもA氏は幸福を感じている。

料理は和食ですが、さすが一流の料理人の仕事はすばらしい。口に運ぶごとに最高の味わいがある。ここでもA氏は幸福感を味わう。

奥歯をかみ締めると昨日歯医者で治療した歯の具合はよいようです。このことでもA氏は幸福を感じている。

いろいろなレベルでA氏は幸福を感じている。どれが本当の幸福なのか?

人生の成功が大事だと思えば、出世と収入がありがたい。仕事の勝負に生きている、と思えば、ビジネスの成果が一番うれしい。しかし、そのときそのときの快不快に身をゆだねる、という生き方もある。それでいくと、おいしい食事が一番重要です。一方、人間身体が一番大事、という考えも正しそうです。そうなると、奥歯が治ったことが一番ラッキー、ということですね。

歯の具合とか、今食べている料理の味とかの問題は、ビジネスの成功に対して小さな問題です。下位の問題だといえる。どうでもいいこと、関係ない問題、といえる。ビジネスの成功という大きな上位の問題がうまくいってこそ、大きな幸福が手に入る。個人にとって一番上位の問題が自分の人生だとすれば、その成功が一番大きな幸福となる。

小さな問題で成功することよりも大きな一番上位の問題で成功するように行動せよ、というようなことを、昔の処世訓も現代のハウツー成功指南書も教えていますね。教えられるまでもなく、私たちは、そのことが分かっている。上位の問題を、それが上位であると思えば、それの成功を目指して行動する。私たちの身体は、そうできているわけです。

たしかに、自分が料理をおいしく味わえるかどうか、ということよりも、取引相手がご機嫌になって、スムーズに契約の話が進むことのほうがずっと大事でしょう。だから、自分がおいしいと感じるかよりも、相手がおいしいと思っているかどうかに神経を使わないといけません。そういう考えで仕事をしないと、成功も出世もおぼつかない。

そもそも、ビジネスの相手と商談するということが、今ここに自分がいる目的だと分かっているならば、自分が今感じている料理の味だけで幸せを感じるのはおかしいわけです。上位の目的をもって行動しているときは、下位の問題に関する幸福は軽視される。しかし上位の目的、たとえば、食事の相手との付き合いを深めるとか、などがないときは、今食べている料理の味がこの世で最大の幸福を与える場合もある。同じ人が同じ料理を食べていても、その人が何を目的にしているかで、幸福感は全然違う。料理についてだけ注目して、その味を経験することが幸福かどうかを論じても、あまり意味はない。

同様に、私たちの世間話ではよくあることですが、ある行為をして獲得できた金額の多寡、あるいは社会的地位の上下についてだけ論じても、幸福の程度は分からない。お金や出世による幸福がありがたい、ということは万人が認めるところですが、どのくらいありがたいか、その程度については、人それぞれ、そのとき、その場合による。その人が、そのとき、何を大事だと思って生きているか? だれもが自分と同じ考えだと思えば簡単な問題ですが、そうはいかないでしょう。

私たちは、上位の、長期的な、大きな目的を持っているときは、下位の小さな幸福にはこだわらない。それだけを見ればそれがかなりな不幸でも、耐えられる。「人生辛抱だ」とか、「がんばらなくちゃ」とかいうことは、そういうことでしょう。私たちは、先の大きな幸福を夢見ているからです。そういう脳を人間は持っている。そういうふうに人類の神経系が進化したからです。長期の大きな目的のために小さな幸福の欲求を抑える神経系の能力が、人類の生存繁殖に有利だったに違いありません。

冬ひもじくても、春にまく種は食べない。逆に、どれほどたくさんの穀倉を所有していたとしても、さらにそれを倍増させようとして、死に物狂いに働く。私たちは、その状況におかれれば、だれもが、そういうことをします。そういう行動をするような脳を持った人類が生き残った。その子孫である私たちは、こうして、いつでも、いつまでも、明日の人生の幸福を懸命に追い続ける生き方をするようになりました。

人生の幸運ということを、あらためて考えてみれば、そもそも、人生について考えることができる、ということそのことが非常な幸運である、というべきでしょう。まず、生きている人間であるということ。地球生態系の最高位に位置する動物として生きていること。そのことそのものが、どの人間にとっても、その人生でつかみ得る最大の幸運でしょう。自然の最高傑作であるこのすばらしい肉体を持って、みごとに洗練された知的システムである仲間の人間と、それがだれであろうと、なにごとかを交信できるということに勝る楽しさはない。そしてうまくすれば、歴史に蓄積された文化と文明の中に身をおき、そこに作られたゲームを楽しませてもらえる。それ以上の幸福が人生にあると思うのは、幻想ではないでしょうか?

筆者ですか? 実人生ではともかく、趣味の世界では成功が多い。毎晩、だいたいはその日一日に満足して床に就きます。次の朝は爽快に起きる。コーヒーを沸かしトーストを焼く。一口飲んで香りをかぐと、人生の幸福とは何か、はっきり分かる。すっきりした幸せな気分で家を出ます。

ただ、人と同じくらいの早足で歩いて行くのに、たいていバスに乗り遅れて、いつも自分ばかりが置いていかれているような気がする。すぐそこに見えているのにバスが行ってしまうと、さりげなく視線をそらし、平然とした顔をして歩行速度をわざとゆっくりと落としながら、口の中では運命の女神を罵る言葉をつぶやいています。

私はなぜ幸福になれないのか? それは、私が生きている人間だからでしょう、たぶん。

ようするに、私たちは、生きているから幸福になれない。幸福になれないから生きていられる。

16 私はなぜ幸福になれないのか? end)

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17 私はなぜ幸福になれるのか?

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私はなぜ幸福になれないのか(5)

2008-04-04 | x6私はなぜ幸福になれないのか

もし、自分の人生を不幸だと思う人が人口の半分よりずっと多いとすれば、その人たちの多くは、自分が幻の部族仲間に属している、と錯覚しているのでしょう。そういう錯覚を持ってしまったら、それはもう、しかたがないことです。自分が属していると錯覚している幻の部族の、その底辺のあたりに位置する不幸な自分を自らさげすみ哀れんで、すねた人生を生きるしかありませんね。

筆者も、若い頃成功法のハウツー本をまじめに読まなかったためか、あまり出世できませんでした。学生時代の友人たちはみな相応に偉くなっています。「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買いきて妻としたしむ(一九〇九年 石川啄木 『一握の砂』)」というような文学的気分や、「しみじみ飲めばしみじみと(一九七九年 作詞 阿久悠 作曲 浜圭介 唄 八代亜紀『舟歌)とかの、演歌的気分を味わえる特権に恵まれています。まあ、人生なかなか思ったようにはうまくいかない。だれでも病弱になったり年寄りになったりすれば、身体の具合が悪いとか、周りの人が冷たくするとか、いくらでもひがむ理由は見つかる。ひがめばひがむほど、世の中からますます相手にされなくなります。しかし、自嘲や自己憐憫も麻薬のような味があって、怖い。どこまでもひがんでいく悪循環のあぶなさを伴う。口を開けば、辛らつな皮肉屋になっている。仲間や社会の悪口を言い続ける。そのくらいならたいした害もありませんが、自分より弱い者を見つけていじめる、地下鉄に爆弾をしかける、というふうに、どこまでもおかしくなっていく怖さもある。困ったものです。

冗談ではなくて、近年はこの国でも、そういう屈折した自我意識の近辺に近づいている人の数は増えているらしい。現代では、マスコミや携帯電話、インターネットなどの口コミが競って、格差の実態など、面白い話を伝えるので、人々の羨望や嫉妬、優越感や劣等感が煽られている面もあるのでしょう。社会と自分との関係の認識のしかたから生じる、このような、現代に顕著な不幸感がある。これらを和らげる社会的な仕組みがあるとよいのでしょうが、私たちが住む現代社会では、あまりうまくいっていないようです。

昔は階級制度という仕組みがあり、それがよかったとはいえませんが、とにかく格差はあきらめやすかった。身分は生まれながらのもので、個人の努力で変わるものではなかった。現代でも性別や人種は生まれながらのものとされている。差別をなくす社会的活動に努力することはあっても、個人が自分の性別や人種を変えようと個々に努力することはありません。性別や人種による差別に個人が苦しんだとしても、それはその人の責任ではなく、むしろ差別を維持する社会の責任とされる。差別される側の責任ではなくて、差別する側の責任と思われているわけです。同じように、昔の身分差別も、身分が低い人の責任ではなく、逆に差別を維持する上層階級の責任と思われていた。そのため、個人が自分の身分を変えるために努力することはなくて、政治的に革命が起きるわけです。

現代の格差として、この国で問題とされているのは、年収、資産、雇用形態、たとえば大企業に正社員として採用されるかどうか、経営者として成功するかどうか、などのようです。これらの格差は、本人の努力によってなんとかなる、あるいはなったはずのもの、とされている。格差をつけられた側の責任であって、格差をつける側の責任とは思われていませんね。選抜試験をする側、年収を決める側、賃金を支払う側、採用する側、人事評価をする側、経営者に投資や融資を与える側、などの責任とはされない。格差は原則として、個人間での自由競争で決まる、とされている。ここが昔の身分差別とはっきり違う点です。

階級社会に生きる人々は、人生の最大の幸福と不幸が生まれながら決定されていて、個人の努力とは関係がないという(現代人から見れば)巨大な不条理の中に毎日を生きていたわけです。現代でもフェミニストの見解では、性差別が昔の階級制度と同じくらいの不条理をもたらしているとされています。

たしかに、階級制度の時代の身分差別も、現代の性差別も、人種差別も、差別はまったくけしからんことです。しかし、いわゆる現代の格差による不幸の問題とは違って、それら差別による不幸は、差別される個人の努力によって解消ないし緩和されるべきだ、と思われることはない。そのために、身分差別による不幸は個人的努力の対象にはならない。つまり、個人としては、あきらめるしかなかった。あえて言えば、あきらめやすかった、ともいえる。昔は、よくないことですが、身分を知れ、分相応に生きろ、という教育がありました。それぞれの身分に甘んじて生きれば、それなりの幸福を得られる、という教育があった。また昔は、偉大な宗教があり、死後の平和や死後の平等を教えさとすことで、迷える魂は救済されました。

昔の階級格差と違って、現代の格差は、そうはいかないでしょう。機会均等の原則が広く認められている。生まれながらの身分差別は許されない。それはあきらめるべきではない、とされる。一方、個人の努力の結果で生じる格差は、暗黙に認められ、むしろ奨励されている。個人どうしは、それぞれの人生の幸福を競って競争する。市場経済が、その上になりたち、会社が成り立ち、学校が成り立ち、官僚組織が成り立ち、消費生活が成り立っている。それが現代社会の繁栄を支えていると認められているからです。

そういう事情で、現代社会は、機会均等な個人が自分のための幸福を勝ち取るために、日々、自分の努力を積み重ねて競争する場となっている。努力の成果を(公開の、あるいは閉鎖された小さな)競争的市場で売り、個人の幸福を買い取る。これはとても分かりやすいゲームになっている。

貨幣を媒介とする経済価値や職業欄と肩書きに表わされる社会的地位など、だれの目にも明らかな得点が設定されている。逆に、だれの目にも明らかなものが得点として価値を認められる、競争の賞品となるわけです。そして、競争のそのルールは分かりやすいほど、ゲームとして好まれる。その結果、経済的社会的成功を求める人生ゲームはますます人気が出て、白熱してくる。つまりマクロ経済の観点でいえば、人々はより効率的な企業組織など協力体制を洗練させ、生産性が競い上げられ、またその結果、グローバリゼーションがますます発展してくるわけです。

現代の市場経済社会は、自由平等である、といわれている。たしかに現代社会のこの仕組みは、昔の身分制度や国家統制の時代に比べて、個人の活動意欲を格段に高め、活気に満ちた人生ゲームを個々人に提供している。この活動意欲の高さのエビデンスとしては、たとえば、身分制度の時代に比べて、現代社会では、経済成長の速度が格段に速い、という数字に現れている。

ただし、活気に満ちた人生ゲームに熱中している人々が主観的に幸福感に満たされているか、というと、そうでもないところがあります。ある意味、楽しいゲームは苦しい。ギャンブルや麻薬のようなところがある。楽しいからやめられない。やめられないから、楽しいのか苦しいのか分からなくなって、ますますやめられない。これが極端に達すると、ワーカホリックとか過労死(一九九七年 西山勝夫、ジェフリー・ジョンソン『過剰労働による過労死:日本式生産管理の職業健康における結論』)といわれる病的症状が現れる。

これを幸福というのか? 自由意志で、本人の好きでやっているのだから身体を壊しても、死んでも、それも幸せなのか? 疑問ですね。では、どうするか? 競争の人生に身を投じるか、引いて気楽に生きるか。人生の選択としては、どちらが幸せなのか? たとえば、社会に参加し、金や出世を追い求める成功ゲームの競争に熱中して苦しむか? あるいは社会から引いて、趣味やテレビゲームの世界で虚しい日々を送るか? 現代人はどちらにも満足できない。過労死を心配したかと思えば、引きこもりの心配をする。

自由競争が苦しい、という話を私たちは、不思議ともなんとも思いませんが、これは現代に特有の話です。身分制度の時代には、その苦しみはなかった。競争が苦しいとか、勉強が苦しい、などという話は、身分制度の中で生きていた人々には理解不可能でしょう。自由なゲームなどなく、人生の成功も失敗もなかった。親から受け継いだ身分を全うして子に引き継ぐことが大事だった。その代わり、もちろん、競争の苦しさも自由の苦しさもありませんでした。

どちらが幸福だと思いますか?

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