自己中心的世界モデルとは違い、客観的世界モデルでは、自分の運動が直接、世界を変形させて感覚信号を変化させる、という現象は、はっきりとは表れません。自分の運動の結果よりも、むしろ他人の運動の結果が、はっきりと表れる。他人同士の力関係、他人の間の運動、気象など自然の力、物質の変化、などなどダイナミックに変化する複雑な大きな世界を自分はあまり動かずに観察している、と感じられる。
客観的世界モデルは、自分の内面が表に出ない世界のモデルです。自分も他人も、人間はみな同じように、外面だけしか見えない。外面を見て内面を想像するしかない。そういう世界のモデルです。このモデルでは、世界は物質からできていて、物質の法則だけで動いている。科学は、この世界モデルを土台にして作られている。科学の土台になっていること以前に大事なことは、このような客観的世界モデルを使うことで、人間は仲間と世界を共有することができることです。他人も自分も、間違いなく、同じ世界を見ていると感じられるからです。
そうなれば、他人と共有できるその世界は、客観的に存在すると感じることができるようになる。ふつう私たちは、この物質世界を見渡すとき、強烈な存在感、現実感を感じる。この物質たちを見ながら会話すれば、間違いなく話が通じる。拙稿の見解では、それが言語の基盤になります。そうであるとすれば、子供が成長して他人とうまく会話できるようになるためには、客観的世界モデルをきちんと身に着けなければなりません。
自分が世界の半分以上を占める自分中心の世界モデルと、自分が限りなく小さくなる客観的世界モデル。このふたつの世界モデルを同時に使いこなして、私たち人間は行動している。正確にいえば同時ではなくて、二つのモデルシステムを瞬時に切り替えながら使っています。
テレビゲームとテレビドラマを切り替えながら、楽しんでいるようなものでしょう。(テレビゲームで遊ぶときのような)自分中心モデルを運転するときは、たぶん、側坐核と大脳皮質頭頂葉、小脳を良く使うらしい。また、(テレビドラマを見るときのような)客観的世界モデルの運転には、帯状回と前頭葉、小脳を使うようです。(拙稿の見解では)脳の違う部分を使うこれらふたつの計算システムは、ひとつのコンピュータの違うアプリケーションソフトのように、お互いが知っていることを知り合うことはない。互いを無視して、それぞれ独自に、世界の動きを予測計算している。両方のシステムの計算結果は、それぞれ別の信号として脳の扁桃体、海馬など辺縁系の神経システムに送られる。そこで視覚聴覚などからの入力信号と統合され、統一した存在感を作り出します。
ふつう人間はこの二つの世界モデルの切り替えを意識しない。うまく重なり合っていて、滑らかに繋がっているように感じます。つまりこの二つのモデルは同じ現実だ、と人間は感じるようにできています。自分の外側に間違いなく実在している唯一の現実世界を自分は感じているのだ、と私たちは思っている。
しかし、それは錯覚です。
拙稿の見解によれば、この二つの世界モデルは、同じ世界を表しているものではない。私たち人間は、二つの異なる世界を感じながらも、それらをすぐに重ね合わせてしまうために一つのものと思い込んでいる。なぜそうなのか? それを調べてみましょう。
一般に霊長類は、たぶん生まれてすぐ、赤ちゃんのころに(脳の基底の部分で)自分中心世界モデルが完成するようです。人間の場合は、その後二歳くらいで(たぶん帯状回・前頭葉を使う)他人への憑依機構ができる。憑依機構を使って他人の視点に自由に移動することで、自分中心モデルとは別の環境認識システムとして、客観的世界モデルが作られるのでしょう。
客観的世界モデルを使うと、自分中心モデルではあんなに強く感じられた安心感とか不安感とか、生々しい感覚や感情が、あまり感じられない。物体の手触りや、重さや、匂いや、温かみが、はっきり感じられない。一方、時間空間の中で目に見える物体の運動ははっきり分かります。物質がどう動いていくか、周りの環境はどう変わっていくか、はっきり予測できる。その記憶もはっきりしている。この二つの世界モデルの働きは、このように明らかに違うものです。私たちはいつもそれらを同一視するから混乱が起こり、自分と世界の関係に関する(心身問題など存在論的な)違和感がでてくる。
客観的世界モデルのほうは、物質に注目する場面で使う感覚神経系、つまり視覚と聴覚、触覚から構成されている。物質に向けられるこれらの感覚は、他人と共感できる。視覚、聴覚、触覚は、身体の外側にある物質の動きを把握するために発達した感覚システムなので、信号伝達経路も身体の内部感覚とは別になっている。実際、客観的世界モデルは、脳幹や辺縁系に生ずる身体感覚や内部感覚、感情などの情報は使わずに、身体の外側の世界を客観的に表わす情報だけから作られるモデルとなっている。
客観的世界モデルは、身体内部のことはうまく表せない代わりに、身体外部の物体の運動や変化を表わす場合には完璧です。身体の外側の情報を感知する感覚器官(視覚、聴覚、触覚)を使って、大脳皮質と小脳を使う運動予測シミュレーションを働かせる。過去の整然とした記憶や長期的な将来の予測ができるようになる。実際、この世界モデルは運動の記憶、社会機能、言語機能などの土台になっています。
拙稿の見解では、人間が他人と会話をするときはこの客観的世界モデルを主に使う。そうしないと整然とした分かりやすい話はできません。言語はこの客観的世界モデルを下敷きにして発展した。哲学や科学をするときは、もちろんこのモデルの上で言葉を使っているわけです。
一方、たとえば痛みや恐怖で取り乱して赤子のように泣き叫んだりするときは、自分中心モデルを使っている。こういうときの自分中心的な感情などは、長期的に整然と記憶して適時に想起することがむずかしい。自分中心モデルを使っているときは、たぶん大脳皮質でのシミュレーションをあまり活用していないので、客観的物質世界で使われる運動のイメージや言語につながらず、連想しやすい形で記憶することがむずかしいのでしょう。
自分中心モデルは、脳幹と辺縁系、基底核を主に使うらしく、とっさの場面でのすばやい反応には便利ですが、長期的で整理された記憶、予測、精密な制御などにはうまく使えない。
テニスやゴルフなどでも、初心者が自分中心モデルを使って無邪気にボールを打とうとすると、まずうまくいかない。先生のフォームを見習ったり、鏡やビデオで自分のフォームを見たりして意識的に修正できるようにならないと、上達しません。客観的に自分の姿を見ることで、自分の動きを予測したり記憶したりできる。このように他人や自分のフォームを客観的にみるときは、客観的世界モデルを使っている。上達して達人になると、また自分中心モデルを使って無邪気に打つようになる。それで、客観的に見ても正しいフォームになっているわけです。
現代人の生活では、複雑な社会の中での言語生活が重要ですから、自分中心モデルを使うと損をすることが多い。自分中心的な行動が優先して他人の気持ちを無視してしまうのです。自分中心では、言葉を上手に話すこともできません。言語は、他人の目には見えないような、客観的でないものを表そうとしても、うまく伝わらないものだからです。
それで、現代人は、ますます客観的物質世界モデルにはまりこんで生きている。それだけが世界のすべてだと思うようになっています。私が感じることはすべて、ここにある私の身体という物質が感じているのだ、と思っている。この世に無数に見える人体のうちで、ひとつだけが自分が自由に操縦できる。その身体の動きを自分で感じることができる。その身体を通じて、現実世界を感じることができる。それが自分の身体だと思っています。だれの目にも客観的にはっきり見えるこの私の肉体、というものを考えるとき、私たちは客観的世界モデルを使っている。
ふつう私たちが、私、自分、というものを考えるときは客観的世界の中にある自分の身体を考えている。筆者もそうですが、たぶんたいていの人はそれを自分と思ってまったく違和感はないはずです。しかしその場合、私たちは、しっかりと客観的世界の中にはまりこんでいるわけです。逆に言えば、客観的世界に入り込んでいなければ、私というものを、しっかりと考えることはできません。
大人の人間は、客観的物質世界の中の目に見える自分の身体に自分が感じる五感のほか、あらゆる感覚、身体内部感覚、錯覚、感情などを上手に投射しますから、自分の感じることと目に見える自分の身体との統一した存在感を感じることができるのです。
私は、ここにあるこの人体が私の思ったように動く、つまり私の念力で動かせる唯一の物体なのだ、と感じる。そこでときどきは、自分中心モデルも使えることを思い出す。自分の手足が届く空間だけを考えて、そこにあるものを自由に動かすことだけを考えれば、自分中心モデルが使える。だからそういうときは、自分の身体が世界の中心だという感じもする。生まれてから今までの経験のすべてがそれを正しいと教えてくれる、と感じます。
しかしまた、客観的世界モデルを使って世界をながめる限り、物質としての私のこの肉体は世界の中心でもなんでもない。他の人間の肉体とまったく同じようにただの物質でしかない。他の物質とまったく同じように物質の法則にしたがって動き、変化し、いつか壊れていく。
そのことは、私が何を思おうと思うまいと関係のない話です。ただの物質である私の脳が私の意思などというもので動いているはずがない。私の肉体も含めた世界のすべては単に物質の法則にしたがって変化しているだけだ、と思うしかない。神も仏も、誕生日占いも、幸運の女神もない。この世には、科学が明らかにした物質の法則しかないのです。
この客観的物質世界の存在感が強まるほど、物質としての私の人体の外見がはっきりとだれの目にも見えてくる。それと同時に、私がひそかに私と思っているだれの目にも見えない深いところにある熱い感情の部分は無視され、居所を失っていく。
だれの目にも見える私の肉体の外見を含む客観的な冷たい物質世界と、私にしか感じられない私の内面にあるこの熱い思い。この二つは関係がないわけではないらしいけれども、どうも一つのものとは思えない。その違和感が、私たち現代人を悩ませる。それを解決することを哲学に期待したい、とも思うわけです。
しかしそれは無理です。哲学は、真面目にそれをすればするほど、言葉を精密にし、冷たい言葉を使うようになるしかない。それで、どうしても目に見える冷たい物質世界、科学の世界、あるいは数学のような形式論理のほうへ近づいてしまう。精密な言葉遣いは、話し手から見ても聞き手から見ても同じに見える客観的世界について語るしかない。言語というものは、客観的世界の中での話し手と聞き手の対称性を土台にして作られているからです。
話し手も聞き手もこの世界全体も私が感じることの中にしかない、という自分中心的な話は、この世の言葉では語りにくい。実際、語ることは不可能です。人間の言葉を使う限り、あなたも私も人間はすべて同じようにこの実在する客観的物質世界の中にいる、だれもが同じように世界を感じながらそれぞれの身体を運転している、という前提のもとで私たちは言葉を話す。文章を書くときも同じ。人間の言葉を使う限り、そういう語り方しかできない。聞き手に見えない、だれの目にも見えない、私だけにしか感じられないこの今の熱い感覚そしてこの感情が私なのだと言いたくても、人間の言葉はそういうことを言うようには作られていません。自分中心世界にしかないそういう部分は、この現実の物質世界に存在すると言うことができない。無理やりそう言えば、たちまち矛盾した無意味な言葉になってしまう。
こういうことを深く考えないようにすれば、人間は問題なく生きていける。そのほうが客観的物質世界の中で能率的に生活をこなしていける。人間の脳は、まず能率的に生活できるように進化した。つまり私たちは、生活に関係ない問題の存在には気が付きにくいようになっているはずです。生活に関しては、自分たちが住んでいるこの世界の中だけを考えていればよいわけです。この世界にないものを考えても仕方がない。逆に言えば、私たちが考えられるものは全部この世界の中にあるのだ、と思えばよいわけです。
こういう理由で、人間は、自分が感じるものをそのまま全部言い表すことはできないということを理解しにくいようになっている。そういう矛盾に鈍感でいられるように進化しているはずです。それでも、少数の敏感な人はそれを微かに感じ取ってしまう。しかし周りの人たちはそんなことは問題にしていなくて、毎日忙しそうに動き回っている。たぶん自分のこの気持ちはだれにも分からないだろう、と思う。そしてひとり黙り込んでしまう。あるいは、哲学にその謎を解いて欲しい、と思う。しかし、それは先に述べたように、無理なことを期待しているわけです。
私が感じること全体の一部だけが、他の人間が感じることと共鳴する。その共鳴がこの客観的世界を存在させている。それで客観的世界の中にあることは言葉で言い表せる。実際、客観的世界は、ふつう私たちが感じることの大部分を占める。ふつう私たちは、客観的世界を表わすその部分に関係するだけで毎日を過ごしている。その部分の中だけで経済は動く。その部分の中だけで科学もつくられている。つまりその部分についての話だけが言語を使って言い表せる。だれとも共感できる客観的物質世界を下敷きにして私たちは言葉を話し、生活し、哲学や科学を作った。哲学や科学ばかりではない。言葉を使って表現されるものはすべて、この客観的物質世界を下敷きに作られています。文学もドラマもマンガも漫才も、全部それです。だから哲学であろうと科学であろうと文学であろうと、マンガであろうとインターネットのブログであろうと、言葉を使う限り、私が感じることのすべてを言い表すことはできない。
短歌や俳句や詩ならそれができる、と詩人は言うかもしれない。映像ならできる、と映像アーティストは言うかもしれない。けれども、それができないことは、本当の詩人や芸術家なら痛いほど感じているはずです。文学、芸術は比喩を使う。実に巧妙に比喩を使うことはできるけれども、比喩は比喩でしかない。物質現象を手がかりにして、物質でない錯覚を暗示できるだけです。
自分中心世界から持ち込んできた、かけがえのない自分だけの感情のほとばしりを、人間はけっして言葉では言い表せない。赤ちゃんのころは、どんな感情でも泣き叫べばよかった。泣き叫べば、それで感情表現はすんでしまいました。でも大人になると、言葉を叫んでそれですべてを表現したつもりになることはできません。
大人の言葉は、すべてを表現する赤ちゃんの泣き叫びと違って、何でも表現できる万能の仕掛けではない。大人の言葉は、客観的世界を下敷きにして作られている。言語は、他人と共感できるものだけで組み立てられている。その仕組みからして、言語は、だれの目にも見える客観的な物事しか言い表せないシステムです。逆に言えば、客観的世界は、人間が感じるものすべてからではなく、言語で言い表せるようなその一部分だけからできている。
つまり私たちの使う言語や科学は、私たちが感じることの一部分しか言い表せない。残念ながらそうでしかありません。その部分から人間の言語は作られている。したがって、感じることの一部分しか人間どうしは語り合うことができない。少しさびしいけれども、それが事実です。
人間の言語は客観的物質世界を土台にして作られている。客観的世界にあるだれの目にも見えるもの以外のものを、言葉で正確に言い表すことはできないのです。
(12 私はなぜあるのか? end)
(第二部 世界はなぜあるのか end)
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