哲学の科学

science of philosophy

私はなぜあるのか(5)

2007-11-09 | x2私はなぜあるのか

自己中心的世界モデルとは違い、客観的世界モデルでは、自分の運動が直接、世界を変形させて感覚信号を変化させる、という現象は、はっきりとは表れません。自分の運動の結果よりも、むしろ他人の運動の結果が、はっきりと表れる。他人同士の力関係、他人の間の運動、気象など自然の力、物質の変化、などなどダイナミックに変化する複雑な大きな世界を自分はあまり動かずに観察している、と感じられる。

客観的世界モデルは、自分の内面が表に出ない世界のモデルです。自分も他人も、人間はみな同じように、外面だけしか見えない。外面を見て内面を想像するしかない。そういう世界のモデルです。このモデルでは、世界は物質からできていて、物質の法則だけで動いている。科学は、この世界モデルを土台にして作られている。科学の土台になっていること以前に大事なことは、このような客観的世界モデルを使うことで、人間は仲間と世界を共有することができることです。他人も自分も、間違いなく、同じ世界を見ていると感じられるからです。

そうなれば、他人と共有できるその世界は、客観的に存在すると感じることができるようになる。ふつう私たちは、この物質世界を見渡すとき、強烈な存在感、現実感を感じる。この物質たちを見ながら会話すれば、間違いなく話が通じる。拙稿の見解では、それが言語の基盤になります。そうであるとすれば、子供が成長して他人とうまく会話できるようになるためには、客観的世界モデルをきちんと身に着けなければなりません。

自分が世界の半分以上を占める自分中心の世界モデルと、自分が限りなく小さくなる客観的世界モデル。このふたつの世界モデルを同時に使いこなして、私たち人間は行動している。正確にいえば同時ではなくて、二つのモデルシステムを瞬時に切り替えながら使っています。

テレビゲームとテレビドラマを切り替えながら、楽しんでいるようなものでしょう。(テレビゲームで遊ぶときのような)自分中心モデルを運転するときは、たぶん、側坐核大脳皮質頭頂葉小脳を良く使うらしい。また、(テレビドラマを見るときのような)客観的世界モデルの運転には、帯状回前頭葉、小脳を使うようです。(拙稿の見解では)脳の違う部分を使うこれらふたつの計算システムは、ひとつのコンピュータの違うアプリケーションソフトのように、お互いが知っていることを知り合うことはない。互いを無視して、それぞれ独自に、世界の動きを予測計算している。両方のシステムの計算結果は、それぞれ別の信号として脳の扁桃体海馬など辺縁系の神経システムに送られる。そこで視覚聴覚などからの入力信号と統合され、統一した存在感を作り出します。

ふつう人間はこの二つの世界モデルの切り替えを意識しない。うまく重なり合っていて、滑らかに繋がっているように感じます。つまりこの二つのモデルは同じ現実だ、と人間は感じるようにできています。自分の外側に間違いなく実在している唯一の現実世界を自分は感じているのだ、と私たちは思っている。

しかし、それは錯覚です。

拙稿の見解によれば、この二つの世界モデルは、同じ世界を表しているものではない。私たち人間は、二つの異なる世界を感じながらも、それらをすぐに重ね合わせてしまうために一つのものと思い込んでいる。なぜそうなのか? それを調べてみましょう。

一般に霊長類は、たぶん生まれてすぐ、赤ちゃんのころに(脳の基底の部分で)自分中心世界モデルが完成するようです。人間の場合は、その後二歳くらいで(たぶん帯状回・前頭葉を使う)他人への憑依機構ができる。憑依機構を使って他人の視点に自由に移動することで、自分中心モデルとは別の環境認識システムとして、客観的世界モデルが作られるのでしょう。

客観的世界モデルを使うと、自分中心モデルではあんなに強く感じられた安心感とか不安感とか、生々しい感覚や感情が、あまり感じられない。物体の手触りや、重さや、匂いや、温かみが、はっきり感じられない。一方、時間空間の中で目に見える物体の運動ははっきり分かります。物質がどう動いていくか、周りの環境はどう変わっていくか、はっきり予測できる。その記憶もはっきりしている。この二つの世界モデルの働きは、このように明らかに違うものです。私たちはいつもそれらを同一視するから混乱が起こり、自分と世界の関係に関する(心身問題など存在論的な)違和感がでてくる。

客観的世界モデルのほうは、物質に注目する場面で使う感覚神経系、つまり視覚と聴覚、触覚から構成されている。物質に向けられるこれらの感覚は、他人と共感できる。視覚、聴覚、触覚は、身体の外側にある物質の動きを把握するために発達した感覚システムなので、信号伝達経路も身体の内部感覚とは別になっている。実際、客観的世界モデルは、脳幹や辺縁系に生ずる身体感覚や内部感覚、感情などの情報は使わずに、身体の外側の世界を客観的に表わす情報だけから作られるモデルとなっている。

客観的世界モデルは、身体内部のことはうまく表せない代わりに、身体外部の物体の運動や変化を表わす場合には完璧です。身体の外側の情報を感知する感覚器官(視覚、聴覚、触覚)を使って、大脳皮質と小脳を使う運動予測シミュレーションを働かせる。過去の整然とした記憶や長期的な将来の予測ができるようになる。実際、この世界モデルは運動の記憶、社会機能、言語機能などの土台になっています。

拙稿の見解では、人間が他人と会話をするときはこの客観的世界モデルを主に使う。そうしないと整然とした分かりやすい話はできません。言語はこの客観的世界モデルを下敷きにして発展した。哲学や科学をするときは、もちろんこのモデルの上で言葉を使っているわけです。

一方、たとえば痛みや恐怖で取り乱して赤子のように泣き叫んだりするときは、自分中心モデルを使っている。こういうときの自分中心的な感情などは、長期的に整然と記憶して適時に想起することがむずかしい。自分中心モデルを使っているときは、たぶん大脳皮質でのシミュレーションをあまり活用していないので、客観的物質世界で使われる運動のイメージや言語につながらず、連想しやすい形で記憶することがむずかしいのでしょう。

自分中心モデルは、脳幹と辺縁系、基底核を主に使うらしく、とっさの場面でのすばやい反応には便利ですが、長期的で整理された記憶、予測、精密な制御などにはうまく使えない。

テニスやゴルフなどでも、初心者が自分中心モデルを使って無邪気にボールを打とうとすると、まずうまくいかない。先生のフォームを見習ったり、鏡やビデオで自分のフォームを見たりして意識的に修正できるようにならないと、上達しません。客観的に自分の姿を見ることで、自分の動きを予測したり記憶したりできる。このように他人や自分のフォームを客観的にみるときは、客観的世界モデルを使っている。上達して達人になると、また自分中心モデルを使って無邪気に打つようになる。それで、客観的に見ても正しいフォームになっているわけです。

現代人の生活では、複雑な社会の中での言語生活が重要ですから、自分中心モデルを使うと損をすることが多い。自分中心的な行動が優先して他人の気持ちを無視してしまうのです。自分中心では、言葉を上手に話すこともできません。言語は、他人の目には見えないような、客観的でないものを表そうとしても、うまく伝わらないものだからです。

それで、現代人は、ますます客観的物質世界モデルにはまりこんで生きている。それだけが世界のすべてだと思うようになっています。私が感じることはすべて、ここにある私の身体という物質が感じているのだ、と思っている。この世に無数に見える人体のうちで、ひとつだけが自分が自由に操縦できる。その身体の動きを自分で感じることができる。その身体を通じて、現実世界を感じることができる。それが自分の身体だと思っています。だれの目にも客観的にはっきり見えるこの私の肉体、というものを考えるとき、私たちは客観的世界モデルを使っている。

ふつう私たちが、私、自分、というものを考えるときは客観的世界の中にある自分の身体を考えている。筆者もそうですが、たぶんたいていの人はそれを自分と思ってまったく違和感はないはずです。しかしその場合、私たちは、しっかりと客観的世界の中にはまりこんでいるわけです。逆に言えば、客観的世界に入り込んでいなければ、私というものを、しっかりと考えることはできません。

大人の人間は、客観的物質世界の中の目に見える自分の身体に自分が感じる五感のほか、あらゆる感覚、身体内部感覚、錯覚、感情などを上手に投射しますから、自分の感じることと目に見える自分の身体との統一した存在感を感じることができるのです。

私は、ここにあるこの人体が私の思ったように動く、つまり私の念力で動かせる唯一の物体なのだ、と感じる。そこでときどきは、自分中心モデルも使えることを思い出す。自分の手足が届く空間だけを考えて、そこにあるものを自由に動かすことだけを考えれば、自分中心モデルが使える。だからそういうときは、自分の身体が世界の中心だという感じもする。生まれてから今までの経験のすべてがそれを正しいと教えてくれる、と感じます。

しかしまた、客観的世界モデルを使って世界をながめる限り、物質としての私のこの肉体は世界の中心でもなんでもない。他の人間の肉体とまったく同じようにただの物質でしかない。他の物質とまったく同じように物質の法則にしたがって動き、変化し、いつか壊れていく。

そのことは、私が何を思おうと思うまいと関係のない話です。ただの物質である私の脳が私の意思などというもので動いているはずがない。私の肉体も含めた世界のすべては単に物質の法則にしたがって変化しているだけだ、と思うしかない。神も仏も、誕生日占いも、幸運の女神もない。この世には、科学が明らかにした物質の法則しかないのです。

この客観的物質世界の存在感が強まるほど、物質としての私の人体の外見がはっきりとだれの目にも見えてくる。それと同時に、私がひそかに私と思っているだれの目にも見えない深いところにある熱い感情の部分は無視され、居所を失っていく。

だれの目にも見える私の肉体の外見を含む客観的な冷たい物質世界と、私にしか感じられない私の内面にあるこの熱い思い。この二つは関係がないわけではないらしいけれども、どうも一つのものとは思えない。その違和感が、私たち現代人を悩ませる。それを解決することを哲学に期待したい、とも思うわけです。

しかしそれは無理です。哲学は、真面目にそれをすればするほど、言葉を精密にし、冷たい言葉を使うようになるしかない。それで、どうしても目に見える冷たい物質世界、科学の世界、あるいは数学のような形式論理のほうへ近づいてしまう。精密な言葉遣いは、話し手から見ても聞き手から見ても同じに見える客観的世界について語るしかない。言語というものは、客観的世界の中での話し手と聞き手の対称性を土台にして作られているからです。

話し手も聞き手もこの世界全体も私が感じることの中にしかない、という自分中心的な話は、この世の言葉では語りにくい。実際、語ることは不可能です。人間の言葉を使う限り、あなたも私も人間はすべて同じようにこの実在する客観的物質世界の中にいる、だれもが同じように世界を感じながらそれぞれの身体を運転している、という前提のもとで私たちは言葉を話す。文章を書くときも同じ。人間の言葉を使う限り、そういう語り方しかできない。聞き手に見えない、だれの目にも見えない、私だけにしか感じられないこの今の熱い感覚そしてこの感情が私なのだと言いたくても、人間の言葉はそういうことを言うようには作られていません。自分中心世界にしかないそういう部分は、この現実の物質世界に存在すると言うことができない。無理やりそう言えば、たちまち矛盾した無意味な言葉になってしまう。

こういうことを深く考えないようにすれば、人間は問題なく生きていける。そのほうが客観的物質世界の中で能率的に生活をこなしていける。人間の脳は、まず能率的に生活できるように進化した。つまり私たちは、生活に関係ない問題の存在には気が付きにくいようになっているはずです。生活に関しては、自分たちが住んでいるこの世界の中だけを考えていればよいわけです。この世界にないものを考えても仕方がない。逆に言えば、私たちが考えられるものは全部この世界の中にあるのだ、と思えばよいわけです。

こういう理由で、人間は、自分が感じるものをそのまま全部言い表すことはできないということを理解しにくいようになっている。そういう矛盾に鈍感でいられるように進化しているはずです。それでも、少数の敏感な人はそれを微かに感じ取ってしまう。しかし周りの人たちはそんなことは問題にしていなくて、毎日忙しそうに動き回っている。たぶん自分のこの気持ちはだれにも分からないだろう、と思う。そしてひとり黙り込んでしまう。あるいは、哲学にその謎を解いて欲しい、と思う。しかし、それは先に述べたように、無理なことを期待しているわけです。

私が感じること全体の一部だけが、他の人間が感じることと共鳴する。その共鳴がこの客観的世界を存在させている。それで客観的世界の中にあることは言葉で言い表せる。実際、客観的世界は、ふつう私たちが感じることの大部分を占める。ふつう私たちは、客観的世界を表わすその部分に関係するだけで毎日を過ごしている。その部分の中だけで経済は動く。その部分の中だけで科学もつくられている。つまりその部分についての話だけが言語を使って言い表せる。だれとも共感できる客観的物質世界を下敷きにして私たちは言葉を話し、生活し、哲学や科学を作った。哲学や科学ばかりではない。言葉を使って表現されるものはすべて、この客観的物質世界を下敷きに作られています。文学もドラマもマンガも漫才も、全部それです。だから哲学であろうと科学であろうと文学であろうと、マンガであろうとインターネットのブログであろうと、言葉を使う限り、私が感じることのすべてを言い表すことはできない。

短歌や俳句や詩ならそれができる、と詩人は言うかもしれない。映像ならできる、と映像アーティストは言うかもしれない。けれども、それができないことは、本当の詩人や芸術家なら痛いほど感じているはずです。文学、芸術は比喩を使う。実に巧妙に比喩を使うことはできるけれども、比喩は比喩でしかない。物質現象を手がかりにして、物質でない錯覚を暗示できるだけです。

自分中心世界から持ち込んできた、かけがえのない自分だけの感情のほとばしりを、人間はけっして言葉では言い表せない。赤ちゃんのころは、どんな感情でも泣き叫べばよかった。泣き叫べば、それで感情表現はすんでしまいました。でも大人になると、言葉を叫んでそれですべてを表現したつもりになることはできません。

大人の言葉は、すべてを表現する赤ちゃんの泣き叫びと違って、何でも表現できる万能の仕掛けではない。大人の言葉は、客観的世界を下敷きにして作られている。言語は、他人と共感できるものだけで組み立てられている。その仕組みからして、言語は、だれの目にも見える客観的な物事しか言い表せないシステムです。逆に言えば、客観的世界は、人間が感じるものすべてからではなく、言語で言い表せるようなその一部分だけからできている。

つまり私たちの使う言語や科学は、私たちが感じることの一部分しか言い表せない。残念ながらそうでしかありません。その部分から人間の言語は作られている。したがって、感じることの一部分しか人間どうしは語り合うことができない。少しさびしいけれども、それが事実です。

人間の言語は客観的物質世界を土台にして作られている。客観的世界にあるだれの目にも見えるもの以外のものを、言葉で正確に言い表すことはできないのです。

12 私はなぜあるのか? end

(第二部 世界はなぜあるのか end

→(第三部 私はなぜ死ぬのか 

13 存在はなぜ存在するのか?

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私はなぜあるのか(4)

2007-11-03 | x2私はなぜあるのか

私は私が世界の中心だ、と感じたりもする。私は私を何よりも大切にしている。私は私の幸福を少しでも増やすために毎日、すべての情熱と努力をつぎ込んでいる。私は、少なくとも私にとっては他のどの人間とも違って特別に重要な人間だ。と人間はだれもが思っています。

けれどもその感覚は、この物質世界のどこにも根拠がない。この物質世界では、私は一個の、人の形をした物質だというだけで、世界の中心でもないしむろん特別に重要でもない。物質であれば、原理的にはいくらでもコピーが作れます。そこら中にあるふつうの物質と違いはない。私が何を思おうと、世界はそれとは関係なく動いていく。私が死んでも、世界はそれとは関係なく動いていく。私が死んだ次の日も株式市場は今日と同じように活発だろうし、今から一万年後でも地球自転の角運動量は変化せず、そのために毎朝必ず太陽は東から昇るに違いない。そういうことはよく分っていても、ほんのちょっと、何か割り切れない感じがある。人間は、皆こういう感じを抱いて生きています。

私が感じている私のこの気持ちは、他人の目にも見えるこの物質世界の中をいくら探しても実は見つからない。それが空しい、というか、すこしさびしい。その空しさもそのさびしさも、どの物質の中にも見つけることはできない。言葉で言っても書いても、人に伝わるかどうか自信がもてない。人間は身体の底から孤独だ。現代人には、そういう感覚があるようです。

近代から現代にかけて、文学などにその気分がますます強く表現されるようになっている。現代哲学の始祖といわれる二十世紀前半の大哲学者も、人間を、「時間と運命と死にひれ伏す奴隷(一九〇三年 バートランド・ラッセル自由人の信仰』)」と表現しています。こういう現代人のニヒリズム的な世界観は、まじめに生きようという気持ちをくじけさせる。それは一方では犯罪やモラル低下など反社会的行動の下敷き、あるいは自殺や引きこもりに向かう抑うつ行動の背景として現れてきます。また他方では、人間の脳は生れつき、虚無で無意味なものには嫌悪感を持つようにできているらしく、虚無的な唯物的世界観への直感的な反発から、反科学、神秘主義、あるいは伝統宗教への回帰などの現象が高まってくる。このような現代の傾向を、マスコミなどに見られる慣用表現では、精神文化の危機とか退行、などと言うようですね。

しかし筆者に言わせると、現代という時代に特に顕著なように思われる、このニヒリズム的な感じは主に錯覚からきています。

私のまわりは安心できる世界にとりまかれていて、世界は分かりやすく、いつも私の気持ちに応えてくれる。そうであるはずだ、そうあってほしい、という錯覚が私たち人間の中にあるからです。自分を包んでいる世界は、いつもしっかりと安定していて自分は安心して、いつもいつまでも、同じようにふるまっていれば無事に過ごしていけるはずだ。そうあってほしい。そうでない状況は嘘だ。認めてやりたくない。と、私たち人間は思う。そう思うようにできている。

いつの時代の人もどこの国の人も、そう感じていたし感じているようです。だれもがそう感じるということは、生れつきどの人間の脳にも、世界をそう感じるような錯覚の機構が備わっているということでしょう。

ではなぜ、そういう錯覚の仕組みを人間は持つのでしょうか? 

拙稿では、この問題を、人間が自分の運動を計画するために使っている二つの世界モデルの相互干渉として考えていきます。

人間は運動を計画するとき、自分の身体を中心とする空間での身体の変形を脳内の運動形成回路を使ってシミュレーションで作り、それに対応した周辺環境の変化を予測する。たとえばジャンプすると塀の向こう側が見えるだろう、と予想してジャンプする、とかです。

私たち人間はこのように、いつも自分の運動が直接、世界を変化させ、世界の変化が直接、自分を変化させる、というシミュレーションモデルを運転しながら運動している。これが自分中心的な世界のモデルを作っている。生まれて間もない赤ちゃんのころから、人間は運動神経と感覚神経を使って、このような世界のモデルを作り出し、その中に生きています(二〇〇二年 ワン、スペルク『人間の空間表現:動物からの洞察』既出)。

大人も夢中でテレビゲームをしているときなどは、この自分中心モデルだけを使いこなして行動する。テレビゲームで遊ぶときは、まさにコンピュータの中に作られているこのモデルを脳内の同様のモデルでなぞりながら遊ぶわけです。身体を駆動する運動指令というアウトプットを送り出し、その結果として感覚というインプットを感受する。まさに自分が世界の中心にいて世界とやり取りを続けます。

この自分中心モデルは、人類が狩猟採集をしながら原始社会生活を営んでいくためには最適だった。狩猟採集の原始時代には、目の前の事態にすばやく対応することが重要で、長期の記憶や理論的な予測はあまり必要ではなかったでしょう。単純に自分の感情を運動に直結させて行動する。それに対して世界は単純に答えを返してくれる。こういう経験の中で、人類は数百万年も暮らしていました。

ところが今から数十万年前くらいから、現生人類は複雑な集団社会を作るようになった。役割分担のある狩猟をするようになり、また物々交換や住居建設などをはじめる。すると、洗練された社会的行動が必要になる。複雑な人間関係がある社会の中では、自分中心モデルを使って、目の前の現象に身体を反射的に反応させるだけではうまく生きていけない。自分の行動を他人の視線で見直したり、他人や自分の行動を客観的に記憶したり、これからの自分のあり方を予測したりすることが、生活上の利益につながってきます。

こういう生活になると、自分中心モデルよりもっと客観的なモデル、仲間と同じ視点で世界を客観的に見る見方、さらに他人の目で自分を一個の人体という物質とみなす見方を持つ必要が出てきた。つまり客観的物質世界のモデルを使って、複雑な人間関係や物質の法則を理解することが必要になってくる。それでたぶん二十万年前くらいから、現生人類ホモサピエンスは脳の中に客観的物質世界のモデルを作るようになり、徐々に、それを発展させたのです。この脳の機構は、おそらく動物が仲間の運動に同調して群行動をする古い神経回路から進化したものでしょう。仲間の運動をなぞるために視覚と対応する人体運動の精密なモデルが脳内に作られたのではないか、と思われます。

人間が、目や耳で仲間の人間の身体の運動を感じ取ると、自分がその人の内部に入って運動しているような感覚と感情が起こる。この感覚は、自動的に仲間の運動への追従運動を発生する古い群行動用の神経回路から来る信号によって起こるものでしょう。この感覚を利用して人間は他人の心を感じ取ります。脳の中で他人に乗り移る、憑依(筆者独自の用語、既出)という神経機構です。脳の運動回路が、自動的に仲間の運動の知覚信号に共鳴し連動する。この運動の連動は仲間が感じている感覚の共鳴を伴う。つまり仲間が感じているはずの感覚に対応する神経活動が発生する。脳のこの仕組みによって、人間は仲間の視点から周りを見た光景を想像できる。同時に仲間の目に映っているはずの自分の姿と自分の運動を自分の感覚神経回路で感じ取れる。こうして、どの人間もが共通に目や耳で感じる客観的な物質世界の存在感を、直感で感じ取れるようになる。これを私たち人間は現実と感じる。このように存在感をともなって感じ取れる世界を、現実世界、あるいは客観的物質世界、略して客観的世界、ということにしましょう。

この客観的世界のモデルは、遠くのほうから、自分を含む大きな舞台を観客の視点でながめて感じられるようなモデルです。自分はこのとき、脇役の一人に過ぎない。これはテレビを見ているようなイメージですが、テレビゲームよりもテレビドラマに似ている。カメラが主人公の視線ではなく、遠くへ引いて他人の視線になり、さらに引いて空からの鳥瞰になっていく。仲間も自分も人間の群れの一員に過ぎないとみなす。他人と自分の区別は意味がありません。いくつかの人体が集団として群れて動いている、というだけです。

子供が客観的世界モデルを使えるようになるのは、二歳から三歳くらいの成長段階のようです。私たちが思い出せる幼児期の記憶は、ちょうどこれ以降でしょう。自分中心モデルでは自分というものは感知の対象になっていませんから、自分の行動は記憶できない。自分の行動を記憶するためには、自分の身体を物質世界の一部分として外側から見つめる客観的世界モデルが必要なのです。

はじめは、この世界モデルは自分のそばで動いている人々を観察して、その運動を追従するために作られるのでしょう。人の運動を目で追い、自分の身体を同じように動かそうとする。幼児は、この場合、実際に身体を動かして他人の運動を捉えていく。成長するにつれて、だんだんと、目で見るだけで身体を動かさなくても、脳内の運動形成回路が人の運動をなぞっていけるようになる。このような神経機構は類人猿も持っているようです

このとき、幼児が新しく作り始める客観的世界の中には、はじめ自分は入っていない。他人の動きを記憶し予測できるようになるだけで、自分の動きは見えていません。その意味では、幼児におけるこの過渡期の世界把握は半客観的世界というべきでしょうか(人間の視点からは成長過程の過渡段階でも類人猿などではここで完成段階)。

遠くにいた他人が近寄ってきて自分に視線を向けると、幼児はただの物体が動いたのを見た場合と違う何かを感じて、見返す。人間は、自分を見つめる視線に対して脳の辺縁系の深いところで鋭敏に感情を伴う知覚(まなざし感)が生じ、反射的に相手の目を見返す神経機構を持っているようです。猫なども人間の目を見返したりしますから、視線を感知するこの機構は哺乳類共通の古い脳にあるのでしょう。こちらを見ている視線を感知するこの神経機構は、人間の幼児においても客観的世界モデルを使う以前から働いているようです。ただし、見られている自分というものを感知する、つまり見つめられ感、まなざし感を自意識にむすびつけて感じる機構はまた別の神経回路の働きによると思われます。(拙稿の見解では)自意識を生じるこちらの神経機構は客観的世界モデルの完成後に、それを下敷きにして作られるようです。

三歳くらいの幼児は、相手の視線が見るものを追従して見ようとして、それが自分の身体に向けられたものであることを発見する。このときすでに、幼児は相手に憑依できるようになって、相手の目で世界を見る客観的世界モデルを使うようになり、視線を向けた相手の目の後ろ側に自分が入り込んで、想像の目で、自分の身体を見ることができるようになる。

その場合、相手に憑依している自分が見つめる人体は、いつも自分中心モデルで使っている原点の人体に対応したものであることに気づく。ここで、幼児は戸惑って、見返しを止めて視線を外したりする。無関係として扱ってきた二つのモデル、自分中心世界モデルと客観的世界モデルとが干渉しそうになって、混乱してしまうのでしょう。

こういう経験、つまり他人に憑依し自分を見つめる他人の視線の内部に入り込んで他人の目で人体としての自分を見ることで、幼児は客観的世界における自分、というモデルを獲得していきます。

ちなみに筆者はこういう場合、憑依という独自の言葉を使うことにしていますが、このような発想の自我理論はもちろん筆者の独創ではありません(古典発達心理学における「鏡像段階:鏡による自意識の発生{一九三六年 ジャック・ラカン}」という概念は、憑依の概念に類似)。現代心理学でも、自意識は他人の心を読むことから発生した、という理論が広く支持されています(一九七八年 ニコラス・ハンフリー『自然心理学者』)。

自分のこの人体は、他人から見れば単に人間の一人としか見えないはずだ。だから自分も周りの人間と同じように動く仕組みを持っているはずだ。つまり自分が他人の動きを予測するときに他人の内面にあるものとして想像する、心とか感情、というものが、自分の人体の内部にもあって、それを予測することで自分自身のこれからの行動をも予測できるはずだ、と私たちは直感的に感じるわけです。

こうして(類人猿と違って人間の)幼児は、自分の身体を含む客観的世界モデルを完成していく。この客観的世界モデルを獲得するときの幼児の経験はその後、子供の社会、さらに大人の社会に入ったときの社会行動の基礎を作ります。

たとえば、幼児は、他人に憑依して、その人間になりきることができる。親兄弟や立派そうな先輩に憑依して、その動きを夢中になって真似し学習する。ままごとなど大人の真似をする。優れた人の真似をしてその能力を習得するという模倣機能は、他の動物に比べて、人間で特に顕著です。この機能によって、人類は道具や文化や言語を普及させ発展させることができた、と考えられます(二〇〇〇年 スーザン・ブラックモア『ミームマシーン』)。

憑依した他人の視点から自分を評価することで、自我の存在感を作っていく。その他人の視点から、さらに第二、第三の人物に憑依して乗り移っていくことで、人間を対象とする感情:愛情、憎悪、嫉妬、尊敬、軽蔑、などの感情を作る。憑依を使って個別の人間にこれらの社会的感情を貼り付けることは、人類が社会を構築していくための重要な建築材料になっています。

このように幼児が作る客観的世界モデルは、(拙稿の見解では)系統発生的には、言語、社会、という人類の新しい能力の基礎になっています。

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私はなぜあるのか(3)

2007-10-27 | x2私はなぜあるのか

歴史時代以降、人類の生活においては、社会活動の発展によって人間関係の重要さがまし、また哲学や宗教による人間関係の理論化などのおかげで、「私」はますます重要になっていく。特に、西洋の近代哲学は、自分の行動を計画する「私」の使い方に注目した。これを人間にとって最も重要なものと位置づけ、主体的な自我という概念を作り上げた。身の回りの世界で、特に人間社会の中で、自分という人間がどう見えるのか、それが他の人々との関係でどう動いていくのか、それに注目して将来を予測し、自分の意思で目的を持って行動するべきだ、と人々に教えました。

自分というものを考えるということは、だれでもいい仮想のだれか他人による注目を想像して、自分の行動を作っていくということです。「だれでもいいだれか他人の注目」という感覚は、神様の視線、という想像に通じている。それがキリスト教の教えに重なっていたことが、西洋で特に受け入れやすかった理由でしょう。都市文明が近代にかけて大発展してくる中で、キリスト教、ルネッサンスの歴史的な重なりが強く影響して、近代西洋の自我意識を作っていったのでしょう。

この西洋特有の発想のおかげで、西洋人は個人としてひとりひとりの立場で、自分の現状を理解し、将来の状況を予測し、計画を立てて、個人的な目的を追求できるようになった。この結果、西洋人の作る集団は非常に強い組織力を持つようになる。西洋の教会、国家、組合、企業、軍隊、などの集団組織は目的のしっかりした人間どうしの言葉による相互了解、ルール、約束あるいは契約、を通じて構成できることになる。個人は、組織の歯車として組み込まれる自分を、他人の目ではっきりと客観的に見つめることで、組織に役立つ行動をとれるようになった。西洋文明は、このような個人の自我を明確に確立することで、世界で最も効率的に目的を追求できる集団的能力を獲得したのです。

個人が自分を客観的に見つめて、その身体を計画的に自由に運転する。自分のために理性で考えて、自由な意思を持って自己の長期的な利益のために行動する。人間のあるべき姿は明白になり、世界の合理性は疑いないものとなった。それは個人が作る人生の計画を安定させ、人間関係を安定させ、社会を安定させ、商業を発展させ、科学技術を発展させました。それらを駆使して西洋文明は大成功し、世界に広がっていったのです。

このような「客観的世界の中に生きる個人である私」の発明は、人類の文明を大きく発展させました。陸上動物が肺を発明して陸を征服し、鳥が翼を発明して空を征服したように、人類は「私」を発明して、地球全体を征服したのです。

しかし、現代の私たちは忘れかかっていますが、ヨーロッパでもその他の地域でも、西洋型の個人としての「私」が出現する近代以前、大多数の人々は自分個人ではなく部族集団の生存を最大の関心事として行動していたのです。つまり、かつて「私」と「私たち」は同じものだった。逆にいえば、たった一人の個人としての「私」というものは、はっきりした存在感を持つものではありませんでした。

日本なども、中世までは部族共同体の名残を残す集団中心的な行動様式がほとんどでしたが、近代になってから急速に西洋文明に感化されたためか(そうではなく日本の封建制が西洋封建制に類似していたためだという説もあるが)、自分個人の人生目的を追求する(近代的な)行動様式に変わってきています。現代では、特に米国文化の影響を受けてすっかり西洋文明の一員になってしまったといわれる日本では、欧米と同じく、言葉によって自我を維持しようとする西洋哲学の考え方がいきわたっているように見えます。しかし、二、三千年前までは西洋の人々も、また現代でもアジア・アフリカの人々のほとんどは、部族共同体の一員としての個人、という行動様式で人生を生きていたし、今も生きています。つまり二百万年以上にわたって人類が続けてきた部族集団中心の行動様式に対して、個人単位の行動様式というものが顕著に現れるようになったのは、つい二、三千年前からの西洋のごく一部であり、本格的に世界中で現れるようになったのは、この二、三百年です。これは、前者を過去の蛮習として捨て去るにしては、大きすぎる事実ではないでしょうか?

筆者などは、アメリカナイズされた現代日本文明にしっかり染まっていますから、明日の自分はどうなるのか、そうなったら自分がどう得するか損するか、社会的に経済的にちゃんとやっていけるのか、それで妻と子の明日は大丈夫か、というようなことばかりを考えて毎日を過ごしてきました。頭の片隅では「そういう発想自体、現代人特有の間違いじゃないか」と疑いつつも他に良い悟りも浮かばなかったので、そのまま漫然と、自分のことばかり考えて人生を過ごしてきました。今、人生の終りに近づき改めて世の中を観察するに、現代の日本は若い頃の筆者のような、いやそれよりさらに徹底した自分ひとりの幸福だけを追求する狭い人生観がますます蔓延しているように見えるのですが、年寄りの思い過ごしでしょうか?

こういう筆者のような西洋文明型の人間は、何事に関しても常に自分にとっての利害を計算し、自分の行動のすべては「私」の利益のためになされるべきだ、と思い込むような思考方法になっています。私はどうなるの、私はどうなるの、ということばかり考えている。そうなると、行動に迷うときなどに、「そもそも私って何?」という疑問が出てくるようになる。「自分探し」とか「ほんとうの私」とかなどという意味がない言葉に惹かれてしまう。この現象を高尚なことと思い込むと、哲学の難問を考えているような気になってしまうわけです。

 しかし、さらによくよく考えると、これは高尚なことでも難しいことでもありません。存在しない錯覚を存在するはずだ、と思い込むことからすべてが難しく見えてしまう。「私って何?」という疑問を、まともな疑問だと思うのは間違いなのです。

素直に考えれば簡単なことです。そもそも私というものは、もともとこの世には存在しない、脳の中だけの錯覚です。私たち人間は、実際、自我の存在感を感じる。しかし、それは私たちがそういうふうに感じるような脳の仕組みを持っている、というだけのことです。

つまり、人間に感じられるもの全体の一部分が目に見えるこの物質世界全体ですね。その物質世界の中の小さな部分としてあるように感じる人体の一つに、身体内部からくる感覚や運動が投射されているように感じられる。人間の脳がそういう仕組みになるように進化したからです。この仕掛けは生存に便利であることは間違いありませんが、それが言語と社会の発展に組み込まれていく結果、「私」という幻を作り出してしまうのです。

ここにあるこの人体を私の身体と呼ぶのは問題ないのですが、感じることすべてがこの人体の中で起こると思い込むから間違うのです。この人体を、他人は私だと思っているでしょう。私が生まれてから死ぬまで、この人体は、確かにこの世界の中にあるのです。私としては、その人体を私だと言えば、他人と話が通じます。他人と付き合うだけなら、それで話は終わりです。だが、だからと言って、いま感じていることすべてが、他人の目に映る物質としてのこの人体の中にあるのでしょうか? 他人から見れば、私も別の第三の人物も同じような一個の人間です。それぞれが「これが私の身体です」と言っているだけです。それなのに、私にとっては、なぜこれだけが私の身体なのか。理由がありません。

物質世界がすべてだと思えば、この他人の目に見えているただの物質としての私、ただの人体としての私があるだけ、と思うしかない。ただの物質であるふつうの人体が物質を超越した神秘的な何かを内蔵しているはずがない。物質である私は、物質の法則に従って動いているだけです。

空気の分子が衝突しあって風が吹くように、人体も脳も動いている。その状態変化が今の私が感じていることを決めている。いずれにしろ、脳の状態も物質の法則だけで変化していく。それが私の脳だからといって、何も特別なことはありません。私の脳であろうとも他人の脳であろうとも、まったく同じことです。

どの人体もこの物質世界の単なる一部分です。原理的には、原子や分子がこれとほとんど同じように組み合わさった人体のコピーを作ることもできる。 あなたのその人体とそっくりのコピーを作ったら、彼、または彼女もあなたなのですか? 身体の傷も脳内の記憶状態もそっくりコピーされていたら、その人体も二つ目のあなたなのですか? 他人が見たら、どちらをあなたと思って付き合っても問題はありません。というより、あなた以外の人にとっては、どちらも間違いなくあなたです。それはむしろ、一つだけでないと混乱して困ります。

ではそこに完璧なコピーを一つ作りましたから、元の人体であるこちらのあなたのほうは廃棄処分にしてかまいませんね?

ちょっと待ってくれ! と言いたくなりませんか?

科学を駆使して、この物質世界がどうなっているかということをいくら調べても、どの物質が私の感じているすべてを感じているのか、分かるわけはありません。

客観的物質世界の一部である、この私ということになっている人体は、感じられるもの全部の中の小さな一部分に過ぎない。客観的に見れば、世界の他のどの一部分と比べても特別ということはない。それこそ、私と同じ物質構造の人体を百個作って並べた場合、私以外の人間にとっては、どれもまったく区別はできないのです。

この物質世界を私が感じているということは、私の脳がそれを映し出しているということです。だからこの物質世界にあるこの私らしい肉体は、私の脳の中に映し出されている物質世界という模型の中に作りこまれている一個の人体の模型でしかない。模型は錯覚を組み合わせて作られている。私というものは錯覚の組み合わせでできている。そういうものを実物と思い込んで混同すれば、そこから先の話が混乱するのはしかたないでしょうね。

人間が、「私は・・・」と言うとき、自分が感じる感覚や感情などすべてを含ませて言っている、と思い込んでいます。しかし他人がそれを聞くときは、ただそこでしゃべっている一つの人体でしかありません。それは物質だから、物質が何をどう感じているか考えても意味がありません。物質が物理法則に従って動いているだけと見れば、物質が何かを感じると思うのはおかしいわけです。

実際、そういうことが他人の立場になってみると分かります。他人から見れば自分はただの物質で、それが何かを感じているかどうかも怪しい。私としては確かにそういうことを感じているのですが、そういうこと全部を感じている私の内面というものは、他人の目には見えませんから、物質としては表れていません。他人の目や耳や手では感じられないでしょう。想像はしてくれるかもしれませんが、それも正確な私の内面ではないでしょう。他人にきちんと感じられないということは、この物質世界にはそれはないということです。だからこの自分の内面というものは、この世にはない何ものか、つまり脳の中で、(心と同じように想像から作られた)理論による錯覚でしかない。そう言ってみても、そう思う気持ちそのものもこの物質世界にはありそうにない。それで、人間は「私は・・・」と言うとき、虚しさを感じることがあります。私という理論は、考えれば考えるほど虚しい。そこで哲学などをするとますます混乱して、虚しさは増すばかりとなります。

「すべてを含む集合は自分自身をも含むから、その集合は自分自身の一部分にすぎない」というような数学のパラドックスに似ていますね。

私が内面としての私と思っているような私は、この世には存在しません。他人が私と思っているような外面の私しか、この世には存在しない。そしてそういう外面の私、つまり私だと他人が認める物質としての私の人体は、原理的にはいくらでもコピーが作れる。他人にとっては、コピーはまったく区別がつかない。私にだけ、私はこの一つの身体だけだ、と分かるのです。つまり、私というのは他人の目に見えるこの身体だ、と思うことは間違いです。

では、どこに私はあるのか?

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私はなぜあるのか(2)

2007-10-20 | x2私はなぜあるのか

昔の大哲学者たちがむずかしそうに、「存在ということが大問題だ」などと言ったから、(拙稿の見解では)この問題はよけいややこしくなった。存在するという言葉は、(拙稿の用法のように)この物質世界の中に物質現象として存在するという場合だけに限定して使うことにすればよかった。でも、いまさら筆者がこんなことを言っても、もう遅い。哲学者たちが現れるよりはるか昔に、人類の言語は、「ある」、「存在する」という動詞を使って何もかもを言い表すように作られてしまったのですから。

古い時代にも、「私」とはその存在を知覚できるようなものではなく経験の全体のことだ、と言った哲学者がいました(一七三九年 デイヴィッド・ヒューム『人性論』既出)。これは筆者の考えに近いのですが、西洋哲学でこのような考えはあまり受け継がれていかなかったようです。現代哲学の時代になって、ようやく、「私」はこの世界の内部にはないのではないか、という考え方が認められるようになった。たとえば、世界の境界が「私」なのではないか、という考え(一九一六年、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『草稿』)などが、はっきり出てきました(これがそのまま拙稿の見解というわけではありませんのでご注意)。

世間常識ではあまりはっきりとは理解されていないようですが、科学が対象とする物質世界を表わすのに、私という概念は必要ありません。科学が対象とする物質世界を表わす場合に、「私」とか、「今」、とか、「ここ」とかいう言葉は、必要ありません。科学は、どの時点でも、どの場所でも、同じ法則で成り立つものを物質世界として記述する。つまり科学は、空間と時間と物質(エネルギー)の全体が全部連続したひとくくりのものとして共通の法則にしたがうことを書き表すことしかできない。今が今でなくとも、ここがここでなくとも、この私などいなくても、科学の描く物質世界はしっかりと存在できる。逆にいえば、「私」とか「今」とか「ここ」とかいう言葉は、科学の中では意味を持たない。なぜならば、「私」だけが、とか「今」だけとか「ここ」だけとかの場合には観察されて、他の人が他の時間に他の場所で観察することとつながらない(再現性がない)ことを対象とすると、科学が客観的に成り立たなくなるからです。

私が私のものだと思っている、ここにあるこの肉体は物質としてはあるかもしれませんが、それが私である必要はない。それが人体の構造をもった物質でありさえすれば、物質世界に関するすべては説明できる。逆に、それは私だ、と言っても、科学にとっては意味がないわけです。

物質はすべて物質の法則だけで動く。どの人体もすべて物質の法則だけで動く。もちろん私の人体も、私の脳も、物質の法則だけで動いている。例外はありません。

このだれの目にも見える物質世界には、他人にとっての私は存在しますが、私にとっての私は存在しない。私の周りの物事をこのように感じ取り、私の手足をこのように動かし、私の考えをこのように考えているこの私にとっての私、というものはこの物質世界にはない。このだれの目にも見える私らしい人体は、他のすべての物質と同じく、物質の法則で動いているだけです。ただ、その物質の構造からして、それぞれの人間の脳の中に「この肉体は私」と思い込むような神経系の機構ができている。だから私という言葉は使われている。それだけです。

私はなぜあるのか、簡単に答えるとすれば答えはこれだけですね。

科学をつきつめるほど、このことがはっきりするだけです。ますます、私が私と思っているような私というものは居場所がなくなってしまいます。科学が嫌いな人は、ここで、「だから科学は万能でない!」と叫びたくなるでしょう。 しかしこれは、科学の欠陥ではありません。科学など作られる前から、人類が言葉を話し始めたときから、いやさらに昔の、人間が仲間と共感できる客観的世界の感じ取り方(拙稿ではこれを客観的世界モデルという)を獲得したときから、この矛盾が出てきていました。

だれの目にも見える客観的世界が現実としてここに存在する、ということと、私が今ここにいてその客観的世界の存在を感じ取ることができる、ということとの関係を、私たち人間は言葉ではうまく説明できない。それはしかたのないことなのです。これは人間の脳神経系の上に作られた客観的世界モデルの欠陥です。その客観的世界モデルの上に作られた人類の言語の構造は、はじめからこのような矛盾をはらんで作られているからです。

人間の言葉は、もともと、話し手と聞き手が同じものを見ながら、それを話題にしてうまく考えが通じるように作られている。目の前のものについて話せば、とてもうまくいく。今は見えていなくても、二人とも見たことがあるものについて話しても、話はうまく通じます。しかし、もともと目に見えないものを話題にしようとすると、話は急に怪しくなる。

蚊に刺された腕の、赤くなってぷくっと膨れたところを見せながら、「ここが痒くてね」といえば、話は良く通じる。けれども、腰に手を当てて、「腰が痛くて」というとき、ちゃんと通じるでしょうか? 相手に私の腰痛の苦しみが理解されるかどうかは、とても怪しい。痛くないのに腰に手を当てて嘘をいっても、「ほんとに痛そうね」などと同情されてしまう。逆に、本当に痛いとき、腰の痛みを詳しく熱心に語れば語るほど、相手は困ってしまうだけです。何の話をしているのか、ますます分からなくなるわけです。

人間どうしが共感しあえる物事だけからこの客観的物質世界はできている。目に見えなくて私だけにしか感じられないような物事は、この物質世界には、はっきりとは存在できないのです。私たちは、このところをあまりきちんと理解していない。そのために起こる混乱のひとつが、心身問題、つまり「私」の存在問題なのです。

私が感じている私というものが、私しか感じない部分を含んでいるとすれば、その部分は、この物質世界の中には入ってこない。この世界の中には存在できないわけです。その部分(たとえば、腰の微妙な痛み)は私のことではない、として切り離さなければ、私というものが完全にこの世界の中にあるという話はどこかおかしい、という違和感が出てくるようになってしまうのです。

これは人間の脳の欠陥です。人間の脳は自分自身を原点として、世界を表現することが上手なように進化してきた。目をカメラのように使って世界をながめると便利だからでしょう。カメラは世界中を撮影できますが、カメラ自身を撮影することはできない。同じように、脳は自分自身を除いて自分の周りの世界を描き出します。

そうすることが人類の生活に便利だったからでしょう。しかし、これが過ぎると困ったことが起きる。客観的物質世界の中で、自分という主体の存在の意味が分からなくなるのです。それで「自分とはなにか」とか「私はなぜあるのか?」などと自問するようになってしまう。それが哲学のはじまりです。哲学は、人類特有の脳の欠陥が原因で起こる錯覚現象だ、といえる。人間以外の動物が哲学を必要としないのもこの理由です。客観的世界モデルを持たない動物は、「私はなぜあるのか?」などと自問する必要がないからです。

 「私」は、もともと他人と交わる便宜のために作られた概念です。他人と話すとき、私は私自身の身体を聞き手の視点から見ている。話し手である私は、聞き手が分かりやすいように話そうとする。筆者も幼児に話しかけるときは「ぼくちゃん。おじちゃんはね」とかいいます。「おい子供。俺はなあ」などとはいいません。聞き手から見て、私は一人の人間であるに過ぎません。その人間が何かする、ということを言いたいとき、その人間、つまり私のことを指す言葉が必要ですね。自分を「おじちゃん」と呼ぶのもいいですが、ちょっと無責任な感じがします。話し手が意思を持ってその行為をするのだ、ということをはっきりさせたい場合に、聞き手から見て今発言しているその人物を指す言葉が、「私」です。「私」とは、もともと、「あなたに聞いてもらいたくて今発言している話し手がここにいます」ということを聞き手の立場から見たときに分かりやすく表現することで聞き手に理解してもらおうと思って話し手が使う言葉ですね。

 言い換えれば、「あなたに対して今発言しているこの人体に、あなたは憑依してみてください。そうすれば、『私が○○する』というときに、あなたは自分が○○するように感じられるでしょう? それで会話が続けられるのですよ」と言いたいときに、私たち人間は「私」という言葉を使う。

そこから始まって「私」の使われ方は、かなり発展します。

話しながら、私のことを私と言っている私を私は観察する。脳内で、その記憶が「私」の存在感を作る。そして、聞き手がいないときにでも、「私は・・・」と言ってみる。声を出さずに自分にだけ分かるように、それを言ってみる。それで、私は、他人から見た私という人間がどんな感じに見えるか、を知ることができる。つまり、「私」という言葉が、独り言の場合にも使えるわけです。だれでもいいだれか他人に、私がすることを説明する。そうすると、ドラマのナレーターのように、客観的に、私という役者の行動を言い表せますね。これは便利です。私というその人間がこれからどう動けばどんなことになるか、予想しやすい。実際、そうしてみると生活がうまくいく。特に、人間関係つまり社会生活がうまくいきます。それで人類は「私」をそういうふうに使うようになった。現代人の私たちはいつも声を出さない独語を使って自分の行動を計画し、他人から見えるはずの「私」というシミュレーションを運転するようになったわけです。

世界の中におかれている「私」という人物像を運転して、仲間と社会を作っていく。社会というドラマの中で「私」という配役を演じながら、また観客としてそれを見ている。ドラマの観客のようにキャラクターである「私」の演技をみまもり、ナレーターのように行動を解説し、ゲームのプレイヤーのように「私」を操縦して、人生というゲームをプレイしていく。そういうふうに私たち現代人は生きるようになった。

こういう「私」の使い方は、便利です。(拙稿の見解では)数万年前から人類は、脳内で「私」という錯覚を作り出して言葉に表し、上手に使ってきた。これは、石斧と同じように生活に不可欠な道具になったわけです。石斧が刃物になり、旋盤になり、レーザーカッターになったように、「私」の使い方も技術的に進歩していく。道具が高度に発展してすばらしく便利になると、私たちは道具に依存しすぎて、道具を使っているのか使われているのか、分からなくなるようなところがありますね。たとえば現代人は、睡眠時間以外はいつも携帯電話を握っている。私たちは携帯電話に奉仕し、そのシステムを稼動させるために生きている、と見ることもできる。同じように私たち現代人は(動物や原始人と違って)「私」という錯覚に奉仕し、その錯覚を生成する神経システムを稼動させるために毎日を生きているわけです。

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私はなぜあるのか(1)

2007-10-13 | x2私はなぜあるのか

12  私はなぜあるのか?

 

この世の中に私が存在することは明らかです。鏡で見なくても、私が私だと思っている物質のかたまり、つまり私の肉体、がここにあることは間違いありません。

しかし、本当に、ここにあるこの人体は私なのでしょうか? 

こんなあたりまえのことを疑問に思う人は少ないでしょう。ばかな質問としか思えませんね。

「私のこの身体は、本当に私なのかしら?」とボーイフレンドに言ってみましょう。そろそろ別れたいときにはいい方法ではありませんか?

さて、まじめに答えるのもばからしいですが、あえて答えるとすれば、「私が思うとおりにこの手足は動くし、頬っぺたをつねれば痛いから、この手足と頬っぺたは明らかに私だ」

しかし、実は、これは答になっていません。

「このパソコンの印刷アイコンをクリックすればそのプリンターが動くから、そのプリンターは、このパソコンのプリンターだ」という言い方に似ています。しかしせっかくそう言っても、プリンターの指定設定を変えてしまえば、ネットワークに繋がっている別のプリンターが印刷を始めるだけです。どのプリンターも量産品だから同じ構造をしている。そのうちのひとつだけが、たまたまこのパソコンの印刷指令にしたがうからといって、それがこのパソコンの一部だ、といえるか?

この世界にある同じようなたくさんの人体のうちの一つが、たまたま私の思うように動いて、その眼球に仕込んであるビデオカメラの位置から撮影しているような画像を私が感じられるように送ってくるからといって、なぜその身体が私なのか? なぜ、私が今考えていることや感じていることのすべてが、その人体の中にある脳の活動だといえるのでしょうか?

この物質世界の中で、私の手足がどこにあるか、目をつぶっていても分かります。自分の身体のすべての骨、筋肉、皮膚がどこにあるか分かる。正確にいえば、動かせる骨と骨格筋はどこにあるか分かる。ものに触れる皮膚はどこにあるか分かる。これは体中に張り巡らされた感覚神経系からの神経信号が脳幹、視床から大脳皮質頭頂葉などで変換されながら伝達されてできる身体姿勢感覚です。

それで体内感覚で感じられる私の身体を、目で見えるこの物質世界にあるこの自分の身体にぴったり対応させられる。客観的空間に身体感覚を投射できるわけです。これは赤ちゃん時代に、ベビーベッドの上で手足をバタバタさせてめちゃめちゃな運動を繰り返すことで修得した、脳の機構でしょう。

脳に作られたこの機構によって、私たち人間は、この物質世界にある自分の人体を自由に動かして運転している気になっているのです。

鏡に映る私も私と分かるし、写真やビデオに写る私も、間違いなく私と分かります。他人の視線がこちらに向けられた瞬間、その人の心に写っている私の姿が、想像で分かります。

そういうものを、私だと思ってずっと生きてきたから、そう思うのです。それに、それを私だということにしておけば、だれとでも話が通じる。だから、ここにあるこの私らしい身体が、私が感じていること、考えていること、を作りだしているに違いない、という気がします。

しかし、本当にそうでしょうか?

私のこの肉体といっても、ただの物質です。他の物質に比べて特別に神秘的な仕掛けになっているはずはありません。他の人体と比べて、全然違う、というほどの特徴があるわけではない。世の中にある人間の身体は、性別、年齢も違えば、それぞれサイズやプロポーションや肌の色も違いますが、基本的な構造はどれもそっくりです。他の人体のどれかが私でも、なんの不思議もないはずです。ある人体の筋肉が私の思うように動いて、その両目の奥の位置からのぞいた映像で周囲の風景が見える、とすればどうでしょうか? その人体の感覚器官が感知した感覚信号をすべて私が感じられるなら、まったく問題なく、これが私だ、ということになってしまう。よくできた遠隔操作ロボットでは、バーチャルリアリティの技術を使って、運転者がロボットになりきった気持ちで運転できます(二〇〇五年  『遠隔通信、テレイマージョン、テレイグジスタンス』)。こういう技術がもう少し進めば、何千キロも離れた外国の町においてある人間そっくりのロボットに乗り移ったまま、そのロボットの身体を使ってご飯を食べたりセックスしたりして、食欲や性欲を満足させられるでしょう。インターネットのバーチャル空間を実際の世界で実現できるわけですね。

現在の技術はまだそこまでいっていませんが、いずれはこういうものが実現するでしょう。こういうものが原理的に成り立つということは、人間の身体というものは、その人自身とは一対一に対応する必要はない、ということです。逆に私の視点から言えば、私の運動指令と視覚映像と体性感覚等の感覚との関係が、全体としてあるひとつの人体を原点としているように感じられて、それがいままでの経験記憶と違和感なくつながっていれば、その人体を私の身体だ、と私は感じる。今改めて考えてみても、それ以外に、ここにあるこの人体が私だ、と私が感じる仕組みはなさそうですね。

次のようなSF的設定を考えてみましょう、私のこの身体が、眠っているうちに異星人に手術されてしまって、脳は異星人の宇宙船のカプセルに移されてしまいました。脳の代わりに頭蓋骨の中に無線送受信機を埋め込まれた私の身体は地球上の私の家に戻されますが、運動神経と感覚神経を無線機に接続されて、宇宙船内に置かれたカプセル内の脳と電波回線でつながっています。そのとき、自分の家のソファに座った私が目の前のリンゴをむいて食べて、おいしいと感じても、それは宇宙船にあるカプセルの中の脳がそういう神経活動をしているということではありませんか? そういうときも、この人体が私なのでしょうか? さらに、異星人が、ますます実験熱心になって、私の記憶を消去してから、私とは別の人間、X君の頭蓋骨の中にさっきの無線送受信機を移設したらどうなるでしょうか? 私はX君に乗り移ってしまって、その肉体を自分だと思うようになるわけです。だって、記憶は全部X君の持っていた記憶データに置き換えられているし、周りに見える風景は、X君の両眼で見ている風景だし、私がつねって痛い頬っぺたはX君の頬っぺたなのです。そのX君が、まさに、今この私だと思っている肉体なのかもしれません。そんなばかな! と笑い飛ばすSFマンガの世界です。

しかし、そうでないという証拠はありません。異星人にそういう変なことをされていない、という保証はありません。私たちの経験から推定すると、その確率は無視できるほど小さいだろう、と思えるだけです。

このここに見える私らしき肉体が、私がいま感じているすべてのことを感じているのか、考えていることを考えているのか、あるいはそうでないのか、知ることはできない。私の脳の神経細胞を一つ一つ顕微鏡で見ても、だめです。ここにあるこの人体の脳というその物質が何かを感じているらしいことは分かっても、それが、私のいま感じていることなのかどうか、決して分かりません。私たち人間は、この物質世界を感じることはできますが、この物質世界の中をいくら探しても、今自分がこの世界を感じているその仕組みは見つからないのです。

話がここまでくると、「この世界に、私というはっきりしたものは存在しない」と言っても、驚く人は多くないでしょう。

奥さん(または旦那様または恋人)が不機嫌そうな声で「それで、あなたは何なの?」と聞いてきたときに、「私? 私というようなはっきりしたものはこの世界に存在しないのではないだろうか?」と言ってみましょう。奥さん(または旦那様または恋人)の声は、急にやさしくなって、「うん、うん」と言ってくれるでしょう(あるいは、張り飛ばされるかもしれませんが、そうなっても筆者の責任ではありません)。

昔の哲学者が書いた「私は考える、故に、私は存在する」(一六三七年 ルネ・デカルト方法序説』)という文章が、後世の人々を混乱させました。「私は考える」で文章を終わりにすべきでした。あるいは、せいぜい「私は考える。故に私は存在する、と言えるか? いや、言えないかもしれないな」くらい気が弱そうな文章にしておけばよかった。

「私は存在する」などと自信がありそうに言い切ったから、その後三百年以上、哲学は混乱したのです。近代数学の創始者であり、歴史上一番偉そうな哲学者が「故に私は存在する」などと宣言して、しかも後世の哲学者たちがそれをありがたそうに(もとはふつうのフランス語で書かれた文なのに、後世の学者が好んでコギトエルゴスムとラテン語で書くので、よけい偉そうに聞こえる)教科書に仕上げたからいけない。まじめな人は、人間の脳のどこかに「私」に当たる物質構造が存在している、と思ってしまうのはしかたないでしょう。

この言葉の混乱は現代にまで根強く残っています。混乱が整理できないうちに科学がどんどん発展してしまったために、かえって事態は悪くなった。科学の信頼性が増してきた分、物質世界の存在感はますます強くなる。現代人にとっては、目に見える物質世界だけが唯一の現実として確固として存在しているわけです。そういう現代人の感覚を身につけている私たちが「私は存在する」という言葉を聞くと、すぐ現実の物質世界との関係を考えてしまう。そうすると、その意味がますます不可解に思えてくるわけです。

この問題は、物質世界に通暁しているはずの現代の科学者を特に悩ませています。実際、「私」あるいは「自我意識」にあたるものは脳のどこに存在しているか、と悩んでいる脳科学者がたくさんいます。脳の奥底に、私が感じていることをとりまとめている小人(ホムンクルスといわれる)がいる、と感じてしまうらしいのです。まじめな哲学者や科学者は、「私は存在する」という文章を間違いないと思い込んでしまうので、「私」という仕組みが脳のどこかに物質構造として存在するはずだ、と考えてしまうのですね。科学者も科学者でない人も、この(心身問題とよばれる)問題が解明できなければ科学はまだまだ未開拓の学問だ、と言いたくなってくる。科学者が首をひねる問題は哲学者の領域だというわけで、ここでがんばろうと思う哲学者も多くなってくるわけです。

しかしこの辺から、近代現代の哲学はおかしくなっていきました。また同時に、現代科学も、経済や軍事などに実用的ではあるけれども、生や死や自我、という個人の人生で一番大事なことを解明できない片手落ちの学問だ、と思われてしまうようになったのです。

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