そこにそのリンゴが存在している、という意識を伴う存在の認知は、最後のプロセスまで進まないとできません。哲学者や科学者が存在を考えるとき、最後のプロセスばかりを重視する。拙稿の見解では、前のほうのプロセスが重要です。後ろのほうのプロセスは前のプロセスを補っているだけであって、後ろのプロセスばかりを分析しても存在の意味を知ることはできません。
私たちが物事を認知するプロセスは(拙稿の見解では)、その物事を表す言葉が浮かぶ前にすでに無意識のうちに身体がその存在感を感じとって反応しているところから始まります。その後、その物事を表す言葉が浮かんでしっかり意識し記憶できるという順で起こる。
最初のプロセス(1~5)を前段プロセスと呼びましょう。赤ちゃんや人間以外の動物が目の前に見えるリンゴを認知する場合、ここまでで終わりです。
前段プロセスでは「リンゴがそこにある」というような言葉は浮かんできません。赤ちゃんや動物はリンゴを見た次の瞬間、口に入れて噛んでいるでしょう。言葉を話せるようになった人間の場合だけ、後のプロセス(6~10)にまで進んで「リンゴがそこにある」という言葉が浮かびます。
後ろのこの認知プロセスを後段プロセスと呼びましょう。後段プロセスを経ることによって、私たちは「リンゴがそこにある」と思い、人にそれを語りそれを記憶する。つまり目の前のリンゴがこうしてはっきりと存在するようになります。ここまで行くためには(拙稿の見解では)、まず前段プロセスで私たちは人間以外の動物と同じ様にそれがそこにあることを身体反応で感じとって、次に人間特有の後段プロセスで「リンゴがそこにある」と認識するという二段階のプロセスを行わなければなりません。
動物は進化の結果、それぞれの生態環境で生存繁殖に必要な認知機構を発達させています。多くの動物は、リンゴを見た瞬間、身体が動いてそれを口にくわえる。その反射運動が動物にとってのリンゴの認知になっています。人間も、生まれつき備わっている動物共通の前段プロセスで、生活に必要な身の回りの物事の存在を無意識のうちに(身体反射として)認知しています。ここまでの無意識のプロセスで、身体は対象物に反応して動き出しそうになる。動物や幼児は実際に身体が動いてしまいます(二〇〇三年 ブルース・フッド、ヴィクトリア・コール=デイヴィス、マラニー・ディアス『就学前児童における物体視認と探索の方法』)。譫妄状態の人も同様でしょう。意識のしっかりした大人の人間だけが、感覚刺激に対して衝動的に身体を動かさないで冷静に事態を予測できます。逆に言えば、このような身体の状態を私たちは、しっかりとした意識がある状態と言っています。
後段の認知プロセスで、私たちは言葉を使って仲間と一緒に生活に必要な物事の客観的な存在を共有します。私たち人間はほかの動物と違って、実際には仲間がそばにいなくて自分ひとりの時も、仲間の視点に立って集団的に、つまり客観的に、物事を認知できる能力を持っています。逆に言えば、これが私たちの感じる客観性の起源である、といえるでしょう。
ちなみに、この後段プロセスでは、仲間が同時に必要と感じるものだけが存在できるようになるという点に注意が必要です。自分ひとりだけが感じても仲間がそれを必要としないような物事は、仲間と共有できないので、言葉になりません。そういう物事は前段プロセスで止まってしまって、後段プロセスまで進みません。その場合は記憶に残らず後で思い出すこともできません。
私たちはそういう物事を客観的な現実と思うことができません。夢で見た感覚などはそれでしょう。身体内部の感覚なども一過性であればほとんど記憶に残りません(拙稿23章「人類最大の謎」)。それらは客観的に存在するものではない。逆に言えば、客観的に存在する物事とは、後段プロセスにまで進んで、仲間がそれを私たちと一緒に必要と感じる(と感じられる)物事のことです。