哲学の科学

science of philosophy

不老不死は可能か(8)

2018-08-25 | yy64不老不死は可能か


将来いつの時代かは分かりませんが、不老不死が実現するとすれば、そういうふうに実現するでしょう。逆に、そういうふうにしか実現はできません。
劣化した部品を常に交換することでしかシステムは維持できない。身体の任意の部品を修復あるいは置換できる技術は身体全体を何度でも、何個でも複製できます。改変も自由でしょう。
家のどんな破損でも修理できる工務店は新築もできます。どんな故障でも修理できる自動車修理工場は、本物そっくりの新車全体を製造することもできます。

自我を持ったまま人間が再生される。同じ人間が何度でも何人でも再生される。それは不気味な世界である。たしかに不気味で、想像もしにくい。しかし潜在的にそれが可能であるというならば、私たち人間というものは、そもそもそういう存在なのではないでしょうか?
私とまったく同じ人間が何個も作られてしまう。私とそっくりだがちょっとだけ変えた人間もいくつでも作られてしまう。そういう世界です。馬鹿げています。しかし実は、私たちが現実と思っているこの物質世界は、もともとそういう世界なのだというしかありません。
私というものの実体がデジタルデータであるとすれば、それは当然、不老不死であって永遠に不滅でしょう。昔の人が信じた霊魂の不滅という直感はこのことを言っていたのかもしれません。
今ここにいる私も、もしかしたら、一時間前に作られた百個の私の一つであるのかもしれません。その事実を私は知らない、というだけのことです。
おかしな世界です。UFOに誘拐された話に似ていますね。しかし、もし遠い将来、私たちが知りようのない未知の、その時代の技術によって、本当の不老不死が実現するとすれば、それはこのように実現するでしょう。








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不老不死は可能か(7)

2018-08-18 | yy64不老不死は可能か


閑話休題、さて、人間には心というものがあり、人それぞれに人格というものがある。心と心が通じ合って、私たちは互いを認め合う、と私たちは思い込んでいます。
私が知っているように物事が動けば、それは現実だろう、と思う。ある人物のように見える物体が、私が知っているその人物のように動けば、それはその人物に間違いない、と思う。感覚でそう思うわけです。私が知っているように私の身体が動けば、それは間違いなく私の身体です。そうであるから、それが私の身体だからそう動くのではなく、むしろ、この身体がそう動くからこれは私の身体なのです。
私たちがそう思い込んでいる限り、それはそれで世の中はうまく動いていっているわけですが、そのすべての物質的基盤は、実は、人体というハードウェアではなくてむしろその構成を表現するソフトウェアなのではないでしょうか?
つまり、個々の人体の内部にあるとされる心、あるいは人格、と思われる存在は、DNAや神経ネットワークや免疫システムの上に分子的に修飾されたデジタルデータとして表現されてしまうような、いわば、人体という媒体物質の上に記録された非物質的な情報、というべきものでしょう。究極の個人情報ですね。

将来の医学として語られる未来図。人体の内部を自由に移動するナノロボットが故障した細胞を分子レベルで修復する。あるいはMRIのような人体断面図が超精細化できて分子レベルの結合図を可視化できるのか?
SFの世界ですが、そのような技術は、抽象的にいえば、まず人体を分子レベルで読み取りデータとしてそれを記録する機能を持つはずです。SFのイラストのような具体的な空想はふつう当たりませんね。たぶんまったく新しいカテゴリーの技術になるでしょう。現在はだれも知らない新しい技術概念で生物体の分子構造を読み書きするこのような技術が実現する可能性は否定できません。
人体という物質を分子レベルで読み取ってそれをデジタルデータに変換する。また逆にそのデジタルデータからもとの人体を再構成する。そのような空想が可能となるような技術が、遠い将来、時期を限定しない限り、出現することは確実と予言できます。
もしそうなれば、人体は何度でも再生できる。つまり不老不死が実現することになります。








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不老不死は可能か(6)

2018-08-11 | yy64不老不死は可能か


実際、今この世のどこかでそれが実行されていたとして、だれもそれを知ることはできない、ということかも知れません。今朝、私はふつうに目覚めましたが、今の私の身体はそのような処置で作られた物質なのかも知れない。
まあ実際は、そんなはずはないでしょう。現代科学の限界を私はよく知っているからです。たしかに近い将来の医学でも技術進歩がそこまでは行かないだろう、という推測は正しい。けれどもさらに遠い将来はどうなるか分からない、という気はします。

いつかそれが実現されたとすれば、どうなるでしょうか?
その時代になってはじめて、人々はとまどい混乱する。現実と思っている自分というものがもともとこの物質世界にはない、ということがはっきりしてしまいます。そうであるとすれば、この目の前に見えている物質世界は実はこの自分が含まれていると感じているこの現実世界とは違うものなのか?
どちらかが錯覚なのか?両方とも錯覚なのか?人類は過去数万年にわたって、巨大な錯覚の中に生きていただけなのか?
そのとき拙稿のいう人類最大の謎が大きく立ち上がり、人類社会の危機を招くことになろう、と拙稿は予言しておきます(拙稿23章「人類最大の謎」)。いつのことでしょうか?いずれにせよ、拙稿がそれまで残存している確率はゼロでしょうけれどね。








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不老不死は可能か(5)

2018-08-04 | yy64不老不死は可能か


文字が書き込まれている本は長い時間のうちには、破れたり擦り切れたり印刷が薄くなって読めなくなったりします。最後には、ぼろぼろになって紙の粉になってしまう。紙である限り、何百年何千年もたてば、どれもそうなるでしょう。しかし、最初の羊皮紙から文字が読み取られてハードディスクにデジタルデータとして保存されていた場合はどうか?
三千年前のホメーロスのユリシーズでも新品の本として蘇らせる事ができます。つまり、そのテキストは不老不死である、といえるでしょう。

デジタルデータはハードウェアの上に再生できます。人体もまたデジタルデータとして読み取れてハードディスクに保存できるようなものであったらどうでしょうか?そのような技術が遠い将来、完成しないとはいえません。
たとえば私はある一連のデジタルデータから今ここにあるような物質的身体に再置換される。

まあ、仮にですが、私が死ぬ前のある時点を復元点とするデジタルデータから私の身体が再生される、とします。そうすると、その身体は「私は一度も死んだことがない」と叫ぶ。実際、そう思い込んでいるからですね。
その復元点から後の私に会ったことがない人は「ああそうなのか、君は死んでいないんだね」と思うでしょう。しかし、その復元点の後で私の死体を見た人は「えっ、じゃあこの死体はだれなの?」と思う。
死んだ私の死体を瞬間的に消去するシステムになっていれば問題ありません。だれも私が死んだことを知らない。その場合、再生された私の身体が「私は一度も死んだことがない」と叫べば、それでもう、私は死んでいなかったことになります。何も問題はない。
生まれ変わったというほど大げさな出来事ではありません。一瞬、眠って目覚めただけ。何か変なことが起こったという自覚はまったくなし。







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