明治の文人は心身の実体を存在論的に洞察しています。明治二九年、第五高等学校教授夏目金之助、のちの漱石、三〇歳の文章。
三陸のつなみ濃尾の地震之を称して天災といふ、天災とは人意のいかんともすべからざるもの、人間の行為は良心の制裁を受け、意思の主宰に従ふ、一挙一動皆責任あり、固り洪水飢饉と日を同じうして論ずべきにあらねど、良心は不断の主権者にあらず、四肢必ずしも吾意思の欲する所に従はず、一朝の変俄然として己霊の光輝を失して、奈落に陥落し、闇中に跳躍する事なきにあらず、このときにあたつて、わが身心には秩序なく、系統なく、思慮なく、分別なく、只一気の盲動するに任ずるのみ、若しつなみ地震を以て人意にあらずとせば、此盲動的動作亦必ず人意にあらじ、人を殺すものは死すとは天下の定法なり、されども自ら死を決して人を殺すものはすくなし、呼息せまり白刃閃く此刹那、既に身あるを知らず、いづくんぞ敵あるを知らんや、電光影裡に春風をきるものは、人意かはた天意か(一八九六年 夏目漱石「人生」)
ちなみに、句点なし読点のみの文。明治の文章家が苦心して試行錯誤したおかげで今日の日本語がある、と分かります。
さて昭和日本の最盛期、森進一が「襟裳の春は何もない春です」と歌う「襟裳岬」(一九七四年 岡本おさみ作詞 吉田拓郎作曲)。西行が愛でる日本の春を逆説として、当時の人々の心底を語る春の歌になっています。
襟裳岬の平凡な農村風景。背後に迫る虚無。それを見渡している作詞者の身体がはっきりと見えます。
現代日本人は目の前の風景に自分の身体が置かれていることを痛いほど知っています。
テレビや動画に映る人の姿が、現代人にとっては、人間の典型でしょう。そのテレビセレブ、タレント、キャスターたちはモニター上の自分の身体に関心を集中して生きている。そのことを視聴者はよく知っています。
コロナはとっくに終わっているのにマスクは多い。マスク依存症と揶揄されます。イスラムの女性はなぜ顔を隠すのか?身体を見せることの安心と見せないことの安心。身体の内と外。無意識に自分の身体の存在感を意識している姿勢が見えます。
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枕草子(一一〇〇年ころ 清少納言)を読んでみる。
春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。
夏は夜。月のころはさらなり。やみもなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、 ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。
清少納言の感覚は研ぎ澄まされている。自然を的確にとらえています。しかしそれを感じている彼女の身体はどこにあるのか?その語りを聞く人には語る人の存在が分かるけれども、それを語る彼女自身は、自分のその身体の存在をほとんど感じていないであろう、と思われます。
少し下った時代の先端の歌人は、自分の身体の存在をしっかり見ることができます。
ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ (一一一八~一一九〇年 西行)
たしかに自分の死を語っていますが、実は、いま生きている自分の身体を語っています。
さらに時代が下ると作者の身体が中心に見えてくる記述もあります。
徒然草
命あるものを見るに人ばかり久しきはなし。かげろふの夕べを待ち夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年を暮すほどだにもこよなうのどけしや飽かず惜しと思はば千年を過すとも一夜の夢の心地こそせめ。住み果てぬ世にみにくき姿を待ち得て何かはせん。命長ければ辱多し。長くとも四十に足らぬほどにて死なんこそめやすかるべけれ。(一三四九年頃 吉田兼好「徒然草」七段)
人間は、意外と、なかなか死なないのが困ったものだ。自分の身体がいつまでも生きているのが問題だ、と兼好は書いています。
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(94 身体の存在論 begin)
94 身体の存在論
爪を切ってやすりで丸く削る。すぐ長くなるので、いつも削らないと気になってしまいます。いくら年をとっても爪は成長するらしい。
七七年使って、あちこち壊れてきてはいるが、まだ全体の機能停止には至っていません。壊れたところも、ある程度は、自動的に回復したりする。
人体など数種の大型動物は数十年を超える長寿命です。これらの動物種に近いほど長寿命の人工自律機械はありません。人工衛星はメンテナンスなしで十年以上稼働する長寿命機械ですが、自動回復はできません。
年を取ると癌になるからいやだ、と気にする人は多い。これも、生物は細胞が分裂するから癌になる。しかしそもそも、細胞分裂、のおかげで生物の身体は更新され維持されています。
死ぬから生きる。生きるから死ぬ。といえます。
生物の身体は複雑で驚くほど高機能。こういうものがなぜあるのか?(拙稿58章「生物学の中心教義について」、拙稿77章「いのちの美しさについて」、拙稿91章「川は生きているか?」)
完全に健康で、身体があることを気にしなくてよければ何も問題がない、ともいえます。身体がなければよほど気が楽になるでしょう。病気になることなど気にならない。容姿を気にすることもなくなるでしょう。
透明人間になれば人に見られることもない。ついでに音もたてなければ悪いことをしても捕まりません。幽霊と同じです。
しかしなぜここに、自分の身体というものがあるのか?自分の身体は存在するのか?それは、どう存在するのか?人は自分の身体が、どう存在すると思っているのか?つまり問題は、身体の存在論です。
昔の人は自分の身体の存在を、どう思っていたのでしょうか?
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この思想に共鳴する大富豪が争って投資し、セブンはマグニフィセント(Magnificent 壮大な、畏敬すべき)になりました。
狭小な悪意ではなかなか世界制覇は成し遂げられません。自分が作り出す善意ある世界制覇の可能性を信じなければ、壮大な世界的システムを作ることは思いつきません。世界中の人々が、喜んでついてきてこれを使いはじめるはずだ、という確信。自己の創出技術への(誇大妄想的な)自信がまず必要です。
山火事は起きる。かならず林冠のギャップはできます。そこからすかさず若い稚樹が伸びていくでしょう。■
(93 ギャップダイナミクス end)
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