少なくとも過去数十万年、人類の生きてきた環境では、生活を共にする仲間との緊密な協力が生存の条件であり、そのように集団の生活力を強化する方向に人類としての進化圧力がかかっていたことは間違いないでしょう。その環境の中で発生し進化してきた自然言語の上に作られている自我概念は(拙稿の見解では)、機能的に、仲間との協力を支える機構であったはずです。
そうであるとすれば、自我概念は、仲間の一人としての自分、つまり仲間と共有する客観的現実の一部としての自分を知ることがその元来の機能でしょう。
仲間の集団的観点からみて、自分という人間がどういう役割でどういう影響力を持つかを予測するための道具としての自我。それは現代でも社会感覚としての自我、つまり、他人との関係において見定めることができる自分の姿、あるいは兵法、マキャベリズム、出世哲学などいわゆる、行動戦略、処世術に描かれる自我として、第一に現れている自我概念です(これを第一の自我ということにしましょう)。
私たちは今でも、過去十数万年にわたって人類が使っていた言語形式と同じと思われる第一人称、第二人称、第三人称という形式を持つ自然言語を使っています。その言語のうえで私たちは自分というものを考えている。ふつう言葉で「私」というときの私は第一の自我です。しかしながら現代人である私たちが自分というものを強く意識するときは、自然言語が発生したと推測される十数万年前過去の人類の自我感覚とはかなり違うと考えるべきでしょう。私たちの身体が置かれている物質的な環境の違いと、さらに大きくは社会的な環境の違いによって、自我感覚が変わってきているはずです。
「私を知る私」というような言葉で自分を反省してみる(拙稿本章のような)場面においては、客観的現実としての第一の自我ばかりでなく、むしろ客観的ではない、言葉では言い表せない本当の私というような、自己中心の自我感覚が第二に来ているでしょう(これを第二の自我ということにしましょう)。第二というよりも、感じ方によっては第一かもしれません。
私たち現代人には、大なり小なり、だれにでも、自分が王様、自分が神様、自分が死んだあとはどうでもよい、というような仲間集団への依存とは逆方向の、言葉ではうまく言い表せない(言語の限界を超える独我論的な)、自己中心的な自我感覚が強くあります。この感覚(第二の自我)は、ふつう幼児的自己中心主義とされて片づけられることが多いようですが、実は、近代哲学の自我問題の出発点となった心身二元論の土台になっていると考えることができます(拙稿19章「私はここにいる」 )。
このように現代人の自我概念は、過去十数万年の人々にとって支配的であったような仲間と共有する集団的自我(第一の自我)を下敷きにしてはいても(拙稿の見解では)、文明社会の影響によって一種の幼児帰りを起こしていて、自己中心的自我(第二の自我、言葉では言い表せない本当の私)を表層に表してきていると考えられます。
逆説的ですが、この言語表現の限界を超えるような現代的な自己中心的(第二の)自我は(拙稿の見解では)、文字による言語表現の出現によって顕在化したのではないか、とみることができます。文字が発明されて、聖書経典、宣誓書、通達書、 契約書、法律書、文学書(あるいは現代における書籍、新聞)などに神あるいは王など全知全能の権威者(現代のマスコミ)が発する言葉が文字化されて記述され社会的に機能するようになる。全知全能の権威者の視座から見た自己中心的感覚の記述が日常的に機能するようになる。その結果、権威者の語る言語によるこれら表現(第一の自我)の後ろにある、全能の主体、つまり幼児的自己中心自我(第二の自我、言葉では言い表せない本当の私)の存在感を呼び起こすようになった、と(拙稿の見解では)推測できます。
この現代人特有の(第二の)自我は、たしかに識字率が高くマスコミなどが普及している先進国、民主主義国、市場経済国家の人々の間に顕著に表れているようです。この二百年ほどの短期間に、このような自我感覚が、西洋諸国や日本など近代社会に急速に浸透した社会的背景としては、個人の人格の統一性と持続性が近代社会の組織化に必要であったためでしょう。逆に言えば、この自己中心的(第二の)自我を慣習化し世代を継いで再生産できるように構成された社会が近代社会として発展できた、といえます。