哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(7)

2009-11-28 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

最後の例に挙げたアポロ計画などは人類最大の目的志向行動です。数百万ページにおよぶ完璧な計画書が作られ、政府の巨大な組織を挙げて実行される。十年にもわたるこのような大規模な組織行動を目的志向行動の最右翼に位置づけるとすれば、個人がプライベートに数分間でインターネット検索をする行動などは最左翼にある。目的志向性が一番弱い。それでも、いちおう目的を定めてそのために手や目玉を動かして行為します。

拙稿がここで興味があるのは、むしろこちらのごく小規模な個人的な目的志向行動です。こういう場合、この目的(新大臣の経歴を知る)はどのようにして定められているのでしょうか? この小さな作業が成功する仕組みが分かれば、アポロ計画がなぜ成功したかという理由も分かる。それを知る必要があります。

新大臣の経歴を調べるために私がインターネットで検索作業をはじめたきっかけは、テレビのアナウンサーが新大臣の名前を言ったからです。その名を私は聞いたことがなかった。その人は今回の総選挙で再選された民主党の衆議院議員のようですが、私はその名を知らなかった。政治家には興味がないからです。しかし政治に疎いといっても、テレビで話題になっている新大臣の経歴を全然知らないというのはいかがなものか? ましてこの国ではめずらしい政権交代が起こった直後の組閣です。今日の午後にでも、だれかと世間話をするとき、困ってしまわないだろうか? 手元のパソコンですぐ検索できるなら調べておこうか、と思ったわけです。

パソコンはすでにログインされていてスタート画面が出ている。そこにグーグルのアイコンがあります。使い慣れたそれを自然と使うように手が動いて、マウスをにぎっていました。

パソコンを操っている私の目的は、まずは、新大臣の名を検索窓に記入して検索ボタンを押すことです。そうすれば画面に現れるハイパーリンクをクリックしていくことで新大臣の経歴が書かれた画面に到達できるだろう。そういう予想を立てて私はパソコンのマウスをつかむ。

では、マウスをつかむ前の私の内部状態はどうなっていたのだろうか? マウスをつかむ運動を起こす前に、当然その準備活動として私の内部には、仮想運動があったでしょう。それは言葉で言うとすれば「インターネットで新大臣の経歴を検索する」という仮想運動です。

このような運動は(拙稿の見解によれば)言葉で表現される以前に、脳内の運動形成神経回路の上でシミュレーションがなされている。インターネット検索のように毎日何度も繰り返している作業は慣れによってルーティン化している。一連の複雑な運動の連鎖であっても、ルーティン化した運動のシミュレーションは、(拙稿の見解では)コンピュータプログラムの場合の一個のマクロ命令のように、瞬時に呼び出されて実行できるように記憶システムに収納されている。

この例の場合、「インターネットで○○を検索する(若者は、『ぐぐる』という)」という形で呼び出されるルーティン化したシミュレーションが、私の内部にできているところへ、変数○○の値として「新大臣の経歴」という概念を代入する。

こうして作られる「インターネットで新大臣の経歴を検索する」というシミュレーションに導かれて、「インターネットで新大臣の経歴を検索する」という実際運動が形成され実行される。その後、自分の行動を他人あるいは自分自身に説明する必要を感じた場合には「インターネットで新大臣の経歴を検索した」という言葉が作られて発音される。あるいは、自分自身に言い置く場合は、音は出さずに頭の中で発音されます。

説明する必要がなければ、はっきりした言葉にする必要もない。そういう場合、パソコンを操作して検索するというルーティン運動のシミュレーションが呼び出されるだけで、行動が実行される。言葉は生じません。そういう場合、身体が動いた運動イメージの記憶だけが残る。ふつう、そういう記憶は忘れるのも早い。言葉にする場合のほうが忘れにくいようです。

行動の目的は、それを言葉にしていない場合、忘れやすい。パソコン操作の途中で電話に呼び出されたりすると、もう、(筆者の場合、しょっちゅうですが)何を目的にしてパソコンを使っていたのか忘れてしまったりします。

独り言でもいいから、目的を言葉で言ってみる。口に出して、自分の耳で聞く。そうしてちゃんと言葉にしておけば、大丈夫です。ゴミ箱から拾った封筒の裏にメモ書きしたり、メモ用紙に書いて目の前の壁に貼ったりしておくともっとよい。さらに行動の結果を、今日中にだれかに報告することになっていれば、もう忘れるということはありません。

目的は言葉にされると、はっきりと記憶される。しかし、目的が言葉で言い表される前に、身体を動かした結果の予測としての身体運動のイメージは身体の内部に作られている。

意識的に身体を動かす場合、その前に運動シミュレーションとして、いわば運動目的のイメージが身体内部に作られる。身体運動の結果を予測する運動シミュレーションです。身体の各部の筋肉と関節、骨格が変形してそれぞれの加速度、速度、位置が時間的に変化していく。その変化の運動感覚と映像感覚のシミュレーションが脳内で進行する。運動目的をイメージしたときのその運動のシミュレーションが運動形成神経回路に記憶される。それを(拙稿の見解によれば)私たちは自分の運動の目的と思っている。

その記憶を繰り返し再生しながら、その運動目的のイメージに至るために必要な個々の神経系と筋肉系の活動を次々に実行していく。

パソコンのマウスを操作する指の動きなど、ルーティンになっている細かいレベルの運動は無意識で行われる。たまに慎重に指を動かすなど、注意して運動結果を予測しながら動作する場合だけ意識的運動になります。

ここでいう運動目的のイメージは、ふつう私たちが言葉でいう目的という抽象概念よりもずっと具体的な身体運動のイメージです。これは、(拙稿の見解では)人間の目的志向行動を含んだもっとずっと広いすべての意識運動の土台を作っています。運動の形成において運動目的のイメージを作り出す機能は(拙稿の見解では)人間に限らず哺乳動物一般の運動形成神経回路に備わっている。

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私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(6)

2009-11-21 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

目的を定めてそれを保持するという人類の持つ能力は(拙稿の見解によれば)、まずは社会生活のために、それも特には、仲間との協力のために必要だから、人類の身体に備わったものでしょう。狩猟採集生活の中で、仲間と一緒に活動するためには、目的を共有していなければならない。

原始人が仲間と協力して落とし穴を掘る場合、ウサギを捕まえる目的なのか、イノシシを捕まえる目的なのかで穴の場所も大きさも深さも違う。どんな動物を捕まえようとしているのか、行動の途中で目的がぶれてしまうとうまく協力できません。仲間と協力するために、まずは目的を共有して行動の過程でその目的を変わらないように維持する。そういう仕組みが人類の身体に備わるようになったのでしょう。

現代人の私たちが、パソコンで新大臣の経歴を検索する場面でも同じです。だれか知り合いに頼まれてそれをしているならば、自分がなぜそれをしているのか、忘れることはない。依頼した私の知り合いがその検索の結果を待っていて、その人にすぐ知らせてあげようという場合です。その場合、それが私の検索作業の目的になっている。それは私が持っている作業目的であると同時に、私にそれを頼んだ人の依頼目的にもなっている。その目的を忘れるはずはないのです。

社会生活では、仲間の身体運動や表情を見て、その行動の目的をさとらなくては、うまく生き抜いていけません。協力しなければならない場面、集団いじめから逃げなければならない場面、一緒に付き合わなくてはならない場面、期待されるように演技をしなくてはならない場面。

社会生活のどの場面でも人々の行動、言葉やしぐさや表情からその意図、目的をさとらなくてはならない状況にあることは、数万年前の原始人も私たち現代人と同じだった。あるいは集団から離れては生きていかれない原始的な社会状況であれば、仲間の動きからその目的を知ることは人生における最優先の課題だったでしょう。

そしてその仲間の目的に共鳴し同調して動いていく。互いに目的を共有することで緊密な協力が成り立っていきます。そして協力が得意な種族は、それが得意でない種族との競争に勝ち抜いて、多くの子孫を残すことができる。

そのように適応進化した人類の子孫が私たちであるならば、人の行動を見て目的をすぐにさとり、その目的を共有し、それに同調して行動する能力を私たちが持つのは、しごく自然なことだと納得できます。

人類進化の次の段階では、人間は自分ひとりの行動をコントロールするために目的を定めるようになる。この場合は、だれにも相談せずに全部自分ひとりで考える場合も多い。

ある目的(一人でウサギを捕まえる)を定めて、そのためにすべき仕事(落とし穴を掘る)を決める。その仕事をするために必要な、さらに細かい仕事(シャベルを取って来る)を決める。それに必要な、さらにさらに細かい仕事(シャベルがしまってある納屋の鍵を取りに行く)を決める。などなど・・・となります。

こういう場合、(筆者のように)忘れっぽい人間は、行動している途中で自分が何をしているのか忘れたりする。納屋の鍵を取るためにそれがしまってあるはずの台所の収納棚を開けたところで、洗剤のボトルが倒れて液がこぼれているのを見つける。なんだ、これは? キャップをしっかり絞めないからこういうことになるのだ。「けしからん、だれがしたんだ、」と独り言で小言を言いながらこぼれた液体をふき取ります。さて、そういう小さい作業を完了した後、さて、私は何をしようとしてこの棚の戸を開けたのでしょう? 思い出せない。ああ、もうすっかり忘れている。自分の行動の目的を忘れているわけですな。

私たちは、一人で何かをしているとき、目的をしっかり持っていないとすぐにわき道にそれて違うことを始めてしまいます。目的を共有している仲間がそばにいれば、そうはならない。仲間がしていることを見て、自分も同じ目的を持って行動を進めなければならないことを、いつも感じることができる。仲間が自分を見ている視線の感覚を共有しているから、自分の行動を客観的に見ることができる。自分はある目的に沿って行動していると自覚できる。それで 目的を忘れずに行動できるのです。

仲間がそばにいない場合でも、仲間が期待していることを果たそうとしている場合など、たとえば待ち合わせの時間と場所を意識して急いでいる場合など、目的を忘れることはありません。やはり、仲間がいるということと、目的を維持することとは関係が深いらしい。

仲間など関係なくて、ひとりだけで何かをする場合が問題ですが、その場合でも、自分自身が仲間の役割を果たしている場合が多い。自分で自分の行動に期待して、自分を監視しているわけです。そういう場合は、自分という仲間に期待され監視されているので、他人である仲間がそばで見ている場合と同じように、目的を忘れずに、最短経路で目的に進むことができます。

人間の幼児は、大人になる過程で、自然とこの感覚を学習していくようです。自分で自分をコントロールするこの方法を身につけると、計画的な行動がうまくできるようになります。それは毎日の生活に便利なことです。特に社会生活がうまくいくようになる。人と目的を共有して、協力して生活できるようになります。

そういうことなので、逆に言えば、(拙稿の見解では)計画的に行動して社会的にうまく生き抜くために、人間は目的を定めるようになった。複雑な仕事を組み立てて計画し、すべきことを着々と実行していくために目的を定める。

そうすれば、一人の人間が一日中働いて一日分の仕事を達成することができます。十人の人間が六ヶ月かけて一つの会社を作ることもできる。十万人の人間が十年かけて月に人間を送るアポロ計画を達成することもできる。地球上すべての動物種のうち、月に行けたのは人類だけです。人類は、目的を定める動物である、といえます。

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私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(5)

2009-11-15 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

このように、はっきりした目的を目指して行動している人間は、ふつう自分が何をしているのか考えていない。自分の行動を意識しながら目的に進むという場合は例外的です。人は目的がはっきりしている場合には、最短経路でそこへ到達しようとする。そういう場合、自分が今何をしているのかを考えたり反省をしたりしている暇はない。行動している自分自身のことは考えない。今の自分の気持ちがどうなのか、分かりたいとも思わない。やるべきことがはっきりしているときにはなるべく効率よくそれをやることに集中していればよいのであって、そのときの自分の気持ちなど、分かる必要はないのです。

そうだとすれば、懸命に検索作業をしているときの私は、自分がなぜその検索作業をしたいと思ったのかを忘れている。新大臣の経歴を知りたい理由を忘れている。意識していません。ただ早く検索結果を得られるように手を動かそうと努力している。

懸命に検索作業を続ければ、まもなくこの作業の結果が出ます。結果を得られたところでこの作業の目的は遂行されたといえる。新大臣の経歴を記述したサイトをパソコン画面に出せた。それを読む。なるほど知識は獲得できた。さて、私はなぜこの知識を欲しかったのだろう、と反省することもできる。しかし、ふつう人は、こういう場面でこういう反省はしませんね。

この新たに得られた知識を利用して、あるいは利用しないで、もう次の行動を始めようとする。次の行動を始めると、ふつう、今までしていたことの目的は忘れてしまいます。

懸命に行動している間は、目の前の直接の目的を追っているだけで、その目的を持つにいたった始めの、そもそもの目的は忘れてしまっている。目的が達成されると、もう次の行動が始まってしまって、始めの目的は忘れたままになる。そのまま、始めの目的は永久に消えてしまう、ということはしばしばです。

そうだとすると、私たちが立てる目的というものは、たいていの場面で意識されていない。目的があって、それを目指して最初に行動を始めるけれども、その後すぐに目的は忘れられて、一度も省みられないまま、永久に消えてしまう、ということがよくある。始めの目的を思い出すような反省がなされる場合はむしろ例外です。

初志貫徹、初心忘るべからず、などと箴言にいう。つまり、ふつう忘れるからですな。

そもそも、私たち人間は、なぜ目的を定めて行動を始めるのか?

人が行動をするのに、目的は必要なのだろうか?

目的など定めずに、そのときそのときで必要と感じる動作をすればよいのではないか? 実際、犬や猫など人間以外の動物は、そうしている。人間だけが目的を定めて行動を起こしているように思われます。どうもおかしいですね。 

目的を定めて行動すると何か良いことがあるのか? 

良いことは、簡単に思いつきますね。たとえば約束の場所へ約束の時間に集合するには、それを目的として早めに出かけなければなりません。ハチ公の前で待ち合わせるには、互いにそれを目的として行動ができる必要がある。ハチ公の前で人と待ち合わせることはできる。しかしハチ公の前で犬と待ち合わせることはできません。人と行動を合わせるためには、目的を定めた行動ができる能力が不可欠です。

それでは、他人が関係なくて自分ひとりで何か簡単なことをする場合、目的は必要ないのではないか? 貧乏ゆすりをするとか、鼻をかむとか、ごく簡単な運動の場合、はっきりとした目的を決めてする必要はない。トイレに行くとかも、そうでしょう。ほとんど何も考えなくてもそれはうまくいきます。

先の例に挙げた、新大臣の経歴を検索する場面でも、目的というほどのしっかりした意識は必要ない。身体に任せて(指に任せて)おけば、うまくいきそうです。しかし、この場合でも、検索作業を中断せざるを得ないようなちょっとした事故が起こったらどうか? 電話がかかってくるとか、コーヒーをこぼしてしまうとかです。机の上をコーヒーが広がってキーボードの下に流れ込んでしまいそうになる。あわててコーヒーをふき取るティッシュペーパーを探しているうちに、検索している目的をすっかり忘れてしまいます。

あれ? 今パソコンを見ると、検索画面が出ているけれども、私は何か検索しようとしていたのかな? 若い読者はお笑いになるでしょうが、年寄りにはよくあることです。そういう場合、はじめからはっきりした目的を意識していれば思い出せる。目的を考えたときにこれから自分がしなければならない行動を予測してしっかり記憶するからです。新大臣の名前をつぶやきながら検索作業をするとよろしい。だから、年寄りは独り言をよく言う。年寄りの独り言は、内部メモリーの衰えを補う外部メモリーのようなものですな。

このように自分の行動を予測し、これからなすべき計画を記憶するためにも、言葉で言えるようなはっきりした目的は必要なのです。

最近の発達心理学での実験によれば、一歳前後の幼児でも人の行動には目的があるという見方をしている(二〇〇七年 スペアペン、スペルク『どの人形でも?十二ヵ月児の目標物理解既出)。人間は、ほかの動物と違って、あらゆる行為に目的を結びつけて理解しようとする「目的に憑かれた動物(二〇〇七年 ゲルゲリ・シブラ、ギョルジ・ゲルゲリ『目的に憑かれて:人類における行為の目的論的解釈の機能と機構』)」であるといえます。

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私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(4)

2009-11-07 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

XがYをするのを見て、私たちが、「XがYをする」と思うのは、ただ単にXがYをするからではない。XがYをすると同時に、私たちの身体がXのその動作に注目するという運動共鳴を起こしている。XがYをするのを見て(拙稿の見解では)私たちの身体が無意識のうちに目玉と顔を回転させてXを視野の中にズームアップして、同時にYという運動を(無意識のうちにXに運動共鳴を起こすことによって)身体でなぞってしまうから「XがYをする」と思い、それに感情が反応してそれを記憶する。

そういう場合に限って、私たちは「XがYをする」と思う。そういう場合に限って、「XがYをする」という言葉ができてくる。

つまり私たちが「XがYをする」と思うということは、(拙稿の見解では)私たちの身体が無意識のうちにXがするYという運動に運動共鳴を起こすことによって、運動神経系が運動Yの実行をなぞってしまうということです。

実際は、私たちの手足や顔や目玉はそれほど激しく動きません。運動Yをなぞる身体の動きも非常に小さい。全然目に見えないくらいです。わずかに筋肉がピクッと動くくらいですね。あるいはピクとも動かないけれども機器で測定すれば筋電流が走ることでやっと分かるくらい弱い。時間も短い。ふつう一秒の数分の一以下です。これは拙稿の用語で仮想運動といっている神経活動です。

こういうことから考えると、私たちが「XがYをする」と思うということは、Xに注目する仮想運動が起こって、さらに私たちの身体の運動形成回路が、Xの運動Yを運動共鳴によってなぞる仮想運動を起こすことだ、といってよいでしょう。先に例を挙げた「新大臣の名前をインターネットで検索しようと思う」ということも、仮想運動です。新大臣の名前を検索画面に文字入力する手の動きの仮想運動です。

周りに人がいなくて一人で検索しているとすれば、「新大臣の名前をインターネットで検索しようと思う」というこの仮想運動Yの主体Xは、実は私ですが、それはふつう意識されない。人に語ったりブログに書いたりする場合にはじめて、「私が」という主語が出てくる。実際に脇に人がいて私の動作をみている、あるいは、見ているように想像されるとき、「私が」という主語が出てくる。それは、他人の目で私の身体を注目しそれに運動共鳴する仮想運動が、私の運動形成回路の上で起こるからです。

さて、私は新大臣の名前をキーボードから文字入力して、検索ボタンを押しました。検索エンジンが回転して、その人物の経歴を書いた記事をパソコンの画面上に呼び出してくれる。それを読む。これで適当な知識が増えました。めでたし、めでたし。だがさて、そもそも私はなぜパソコンを操って、こんな仕事をしたのか?

私が今朝、この検索作業をはじめたきっかけは、テレビのアナウンサーが新大臣の名前を言ったからです。それを聞いて私は「その名前は聞いたことがあるけれども、その人の経歴については私の知識はあやふやで頼りない。正確に知りたいな」と思ったわけです。

たぶん私はそう思ったのでしょう。実際にその名前を検索したという事実から推察すれば、そう思ったに違いない。しかし実際、周りに人はいないし、人に聞こえるようにそういう発言をした覚えはありません。もしかしたら独り言で言ったかもしれないが覚えていません。おそらく独り言も言わずに、すぐにマウスを握って、グーグルアイコンをクリックしたのでしょう。

私も現代人らしく「グーグルに聞け」という神の声にしたがっただけといえる。検索窓を開いてそこにキーボードから検索文字列を打ち込む。

検索窓で新大臣の名前を漢字変換してうまく出したところで、検索ボタンをクリックする。検索文字列を含んだサイトのリストが出るから、経歴が出ていそうなサイト名をクリック。そのテキストがパソコン画面に表示される。こうして私は新大臣の経歴を読むことができる。

さて、私のこの一連の検索作業は、ある目的を持って行われている。その目的とは、新大臣の経歴を知ることです。そして新大臣の経歴はどこかのサイトに書いてあるに違いないということを私はあらかじめ知っている。そして、そういうサイトは多くの人が検索するだろうから、検索エンジンですぐ見つかるはず、ということも私は知っている。そういう事情から、この検索作業は、あいまいさが少ない、かなりはっきりした仕事になっている。

私は、自分が何をしているかをほとんど考えないで、キーボードを叩いて検索窓にその文字列を打ち込む。続いて、これも自分が何をしているかをほとんど考えないで、画面に出たサイトリストのうちの新大臣の経歴記述サイトを見つけてサイト名をクリックする。

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私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(3)

2009-11-01 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

さて、コーヒーを飲みながら、テレビをつける。リモコンでチャンネルを変える。アナウンサーがニュースを語っている。そのチャンネルでニュースを聞く。この場合、なぜ、私はこのニュースのチャンネルを選んだのか? 

ニュースが聞きたかったから? いや、今の場合、それほどの積極性はなかった。コーヒーを飲む間、目と耳が暇だったからテレビをつけたのでしょう。アナウンサーの声が気に入ったから? そうかもしれない。私が、このニュースのチャンネルを選んだ理由を自分で憶測してみると、私はそのアナウンサーの声が気に入ったからなのかもしれない。しかしその証拠はない。そういう自覚の記憶はない。もしそうだとしても、なぜそうであるのか、私には分かりません。身体がそう動いた、というしかない。

さて、そのニュースで言っている政権交代の組閣で任命されたという新大臣について、私はその名前を聞いたことがあるけれども、どんな人か、ほとんど知らない。その人がどういう人なのか、実はたいして興味もない。しかし友人と会話するとき、その大臣が話題になるかもしれない。皆が興味を持っている人物について何も知らないと話を聞いていてもつまらないかもしれない。それは、すこしいやだな。では、インターネットで調べておくか、と思う。そして、私はパソコンを叩いて検索する。

なぜ、私は検索したのか?

私の内部でどういうことが起こって検索という行動が開始されたのか?

その過程を調べてみましょう。

まずテレビのニュースで新大臣の名前を聞いた。聞いたことがある政治家だけれどよく知らない。名前は新聞で見たような気がする。それ以外、ほとんど何も知らない。しかし、人と世間話をするとき、あまりにも知らないとつまらないな。ちょっと調べておくか、と考えが発展したわけです。

そのときは、そこにあるパソコンで検索できることを、私は知っている。だから、調べようという気になる。すぐ調べられる手段があるから、調べようと思うのです。大臣の名前を検索しようと思うと同時に、パソコンのインターネットアイコンをチラッと見ている。指がキーボードを打つ構えをしている。「検索」という言葉が頭の中を走ったかどうか分からない。「検索する」という言葉が浮かぶ以前にグーグルのアイコンをクリックしている。

これらの運動準備動作は、その運動概念である「検索する」という言葉を思い浮かべると同時か、あるいは準備動作が先かもしれない。「Yをする」という言葉を思い浮かべるよりも先に、身体がYをする準備動作に入っている。私たちの身体はそう作られているようです。この見方を素直に整理すれば、「Yをする」という言葉を思い浮かべるということは身体がYをする準備動作に入っているということである、といえる拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」

重要なことは、この、「Yをする」という動作の主体は、私でもよいが私に限らない。他人、仲間などだれでもよい。人間であればだれでもよい。さらに人間に限られない。いちおう人間のような動きをするように思えるものである必要がありますが、擬人化を使えば、動物、無生物、抽象概念などでもよい。実際、私たちが毎日作り出す言葉の多くは、擬人化による比喩で作られている。

身体がYをする準備動作に入っている、という場合の、「Yをする」という運動準備は、主体を決める必要がない。このとき、たまたま私たちの身体がYをするXというものに運動共鳴していると、そのXが主体ということになる。そのとき言葉を発すると「XがYをする」という言葉ができてくる。私たちの身体の中に、まず「Yをする」という運動(仮想運動)ができてきて、次にそのYをする主体として注目しているXがはっきりしてくるという順番でしょう。

たとえば、「日本経済は緩やかに回復する」という言葉の使い方の場合、「回復する」という動作の主体は「日本経済」という抽象概念です。そしてこの場合、言葉の話し手も聞き手も(拙稿の見解によれば)、同じように脳内の運動形成回路の上で、自分の身体がダメージから回復して立ち上がるときの準備動作を仮想運動として実行している。そしてこのとき、回復する主体として日本経済がイメージされている。日本経済が回復という動作を起こしていて、それにこの身体が運動共鳴を起こしている。

逆に言えば、この場合、日本経済という抽象概念のイメージは「回復する」という動作を起こして私たちの身体を共鳴させる主体として私たちの脳内に登場している。こういう場合に限り、「日本経済は緩やかに回復する」という言葉ができてくる。

私たちが、そこに何があるとか、何かが変化しているとかを感知するときは、(拙稿の見解では)まずその対象(たとえば日本経済)に私たちの身体が無意識のうちに運動共鳴して身体運動の準備を起こしている。運動形成神経回路のその活動を感知して私たちの身体の感情機構が反応し、その活動を記憶する。この過程は無意識で行われて、意識では自覚できず記憶もできません。私たちの主観としては、ただその対象(たとえば日本経済)がそこにあるとか、こう変化しているとか、感じるだけです。

テレビに国会議事堂が写る。テレビカメラがズームアップする。私たちは自分が国会議事堂を注目しているような気になってしまう。自分が「国会議事堂がね」と言っているような気になってしまうのです。「いま国会議事堂に注目しているのはテレビのカメラマンであって私ではない」などと、むきになって思う人はあまりいない。

こういう場合と、実際に自分がカメラを構えて国会議事堂をズームアップしているときとでは、どう違うのか? あまり違わないのではないか。というよりも、拙稿の見解によれば、全然違いません。私たちはテレビカメラに運動共鳴を起こしている。国会議事堂に注目しているのは、テレビカメラであると同時に、私の身体です。

こういう仕組みが私たちの身体に備わっているから、私たちはテレビを楽しむことができる。テレビばかりでなく、私たちは同じこの仕組みで、映画も楽しめるし、演劇も、ミュージカルも、ニュースも、人生も楽しめるのです。

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