最後の例に挙げたアポロ計画などは人類最大の目的志向行動です。数百万ページにおよぶ完璧な計画書が作られ、政府の巨大な組織を挙げて実行される。十年にもわたるこのような大規模な組織行動を目的志向行動の最右翼に位置づけるとすれば、個人がプライベートに数分間でインターネット検索をする行動などは最左翼にある。目的志向性が一番弱い。それでも、いちおう目的を定めてそのために手や目玉を動かして行為します。
拙稿がここで興味があるのは、むしろこちらのごく小規模な個人的な目的志向行動です。こういう場合、この目的(新大臣の経歴を知る)はどのようにして定められているのでしょうか? この小さな作業が成功する仕組みが分かれば、アポロ計画がなぜ成功したかという理由も分かる。それを知る必要があります。
新大臣の経歴を調べるために私がインターネットで検索作業をはじめたきっかけは、テレビのアナウンサーが新大臣の名前を言ったからです。その名を私は聞いたことがなかった。その人は今回の総選挙で再選された民主党の衆議院議員のようですが、私はその名を知らなかった。政治家には興味がないからです。しかし政治に疎いといっても、テレビで話題になっている新大臣の経歴を全然知らないというのはいかがなものか? ましてこの国ではめずらしい政権交代が起こった直後の組閣です。今日の午後にでも、だれかと世間話をするとき、困ってしまわないだろうか? 手元のパソコンですぐ検索できるなら調べておこうか、と思ったわけです。
パソコンはすでにログインされていてスタート画面が出ている。そこにグーグルのアイコンがあります。使い慣れたそれを自然と使うように手が動いて、マウスをにぎっていました。
パソコンを操っている私の目的は、まずは、新大臣の名を検索窓に記入して検索ボタンを押すことです。そうすれば画面に現れるハイパーリンクをクリックしていくことで新大臣の経歴が書かれた画面に到達できるだろう。そういう予想を立てて私はパソコンのマウスをつかむ。
では、マウスをつかむ前の私の内部状態はどうなっていたのだろうか? マウスをつかむ運動を起こす前に、当然その準備活動として私の内部には、仮想運動があったでしょう。それは言葉で言うとすれば「インターネットで新大臣の経歴を検索する」という仮想運動です。
このような運動は(拙稿の見解によれば)言葉で表現される以前に、脳内の運動形成神経回路の上でシミュレーションがなされている。インターネット検索のように毎日何度も繰り返している作業は慣れによってルーティン化している。一連の複雑な運動の連鎖であっても、ルーティン化した運動のシミュレーションは、(拙稿の見解では)コンピュータプログラムの場合の一個のマクロ命令のように、瞬時に呼び出されて実行できるように記憶システムに収納されている。
この例の場合、「インターネットで○○を検索する(若者は、『ぐぐる』という)」という形で呼び出されるルーティン化したシミュレーションが、私の内部にできているところへ、変数○○の値として「新大臣の経歴」という概念を代入する。
こうして作られる「インターネットで新大臣の経歴を検索する」というシミュレーションに導かれて、「インターネットで新大臣の経歴を検索する」という実際運動が形成され実行される。その後、自分の行動を他人あるいは自分自身に説明する必要を感じた場合には「インターネットで新大臣の経歴を検索した」という言葉が作られて発音される。あるいは、自分自身に言い置く場合は、音は出さずに頭の中で発音されます。
説明する必要がなければ、はっきりした言葉にする必要もない。そういう場合、パソコンを操作して検索するというルーティン運動のシミュレーションが呼び出されるだけで、行動が実行される。言葉は生じません。そういう場合、身体が動いた運動イメージの記憶だけが残る。ふつう、そういう記憶は忘れるのも早い。言葉にする場合のほうが忘れにくいようです。
行動の目的は、それを言葉にしていない場合、忘れやすい。パソコン操作の途中で電話に呼び出されたりすると、もう、(筆者の場合、しょっちゅうですが)何を目的にしてパソコンを使っていたのか忘れてしまったりします。
独り言でもいいから、目的を言葉で言ってみる。口に出して、自分の耳で聞く。そうしてちゃんと言葉にしておけば、大丈夫です。ゴミ箱から拾った封筒の裏にメモ書きしたり、メモ用紙に書いて目の前の壁に貼ったりしておくともっとよい。さらに行動の結果を、今日中にだれかに報告することになっていれば、もう忘れるということはありません。
目的は言葉にされると、はっきりと記憶される。しかし、目的が言葉で言い表される前に、身体を動かした結果の予測としての身体運動のイメージは身体の内部に作られている。
意識的に身体を動かす場合、その前に運動シミュレーションとして、いわば運動目的のイメージが身体内部に作られる。身体運動の結果を予測する運動シミュレーションです。身体の各部の筋肉と関節、骨格が変形してそれぞれの加速度、速度、位置が時間的に変化していく。その変化の運動感覚と映像感覚のシミュレーションが脳内で進行する。運動目的をイメージしたときのその運動のシミュレーションが運動形成神経回路に記憶される。それを(拙稿の見解によれば)私たちは自分の運動の目的と思っている。
その記憶を繰り返し再生しながら、その運動目的のイメージに至るために必要な個々の神経系と筋肉系の活動を次々に実行していく。
パソコンのマウスを操作する指の動きなど、ルーティンになっている細かいレベルの運動は無意識で行われる。たまに慎重に指を動かすなど、注意して運動結果を予測しながら動作する場合だけ意識的運動になります。
ここでいう運動目的のイメージは、ふつう私たちが言葉でいう目的という抽象概念よりもずっと具体的な身体運動のイメージです。これは、(拙稿の見解では)人間の目的志向行動を含んだもっとずっと広いすべての意識運動の土台を作っています。運動の形成において運動目的のイメージを作り出す機能は(拙稿の見解では)人間に限らず哺乳動物一般の運動形成神経回路に備わっている。