哺乳類は大脳辺縁系の感情回路で反射的に敏捷な運動を作り出すようにできている。この形質が、恐竜絶滅の後の時代で哺乳類の大繁栄をもたらした。人間も同じ。感情回路は進化の過程で世界を学習していて、生存に有利な運動を反射的に加速するようにできている。それで、人間も他の動物と同じように、感情で動くことによって、(原始時代までの生活環境では)結果的に生存に有利な行動をとれる。
ただ人間は、自分のその運動を、大脳皮質と小脳を使った、仲間と共感できるバーチャルなシミュレーションの世界モデル(拙稿4章『世界という錯覚を共有する動物』参照)に映している。人類の脳においては、シミュレーションでの仮想運動を言語に変換できるので、会話によって仲間との世界モデルの共感を確認することができる。お互いの動作や表情、特に言語を介して、人間の集団は感情を共有する結果、生存に有利な運動に価値を置く文化を発展させ維持する。文化間の競争による淘汰が起こって、集団としての生存に適した文化がますます強化される。
集団の文化が、私たちに適当な錯覚を与え、結果として、世界の見方を教え、人生の目的を教える。皆と同じように世界を見ることができるような錯覚とそれにより引き起こされる感情の使い方を覚える。子供は、文化に教えられて、人生を、皆が見るように見るには、どう見ればよいか、を覚える。他人に見える自分の姿をどう動かすか? どうすれば仲間外れにされないか? どうすれば、仲間の共感と尊敬を得られるように自分の感情をコントロールすればよいのか? 文化は、その感情の操作方法を教える。それをする文化と、その文化に従う脳とが共進化した結果です。
文化は個々人の脳のシミュレーション記憶に埋めこまれ、感情回路に連結されていく。私たちは自分の行動のシミュレーションを記憶し後で回想し、自分の行動を客観的にながめて、それが他人の行動と同じように、冷静な功利計算によって目的を追求した行動だった、と思い込む。人間は、他人の行動を見て、その行動がめざすものをその人の欲望だと思っている。さらにそれを自分の行動の解釈に応用して、自分の行動が目指すかのように見える状態を、自分の欲望だと思う(拙稿10章「欲望はなぜあるのか?」)。
人間の言葉は、この考え方に沿って作られている。「○○は、それをしようと思って、××をした」という形になっている。特に、「私は、それをしようと思って、した」という言い方で、自分の行動を言い表す。こういう言葉遣いを洗練させて、哲学は、人間の行動原理を図式化した。そうして哲学は、欲望が行動を導き、目的が行動の価値を決定する、という図式を教えた。
人間は、目的を持ち、それを達成するために必要な行動を予測計算し、最適な行動を選択実行する。自分たち人間はこういうシステムである、と私たちは思い込んでいる。教師たちは、何事も目的を明確化し手段を比較検討して最適な方法を選択しなさい、と教える。私たちは、自分たち人間はいつも必ず、はっきりした目的を持ち、それを実現するために行動しているはずだ、と思い込む。そのために私たちは、自分たちの行動をその図式でしか考えなくなってしまった。つまり、人間は他の動物と違って、理性を使って目的に沿った行動を選択している、と思っている。人間が反射や衝動や感情で無意識的に動くのは例外であって間違いである、ふつう人間は、理性で利害得失を勘案しながら行動する、と思っている。自分で自分が、何のために何をしているのか、よく分かって、それをしている、と思い込んでいる。しかし、(拙稿の見解では)それは間違いです。
実際、人間は、他の動物に比べて異常に変わった生き物であるというわけではない。私たち人間は、感情に従って衝動的な反射で運動するふつうの動物です。ただし、他の動物のように目の前の環境に直接反応してそのまま行動を起こすことは、あまりありません。覚醒しているときの人間は、冷静で、自分の運動の結果を予測してから行動する。つまり、行動の前に大脳皮質と小脳で作り出す予測シミュレーションが起こり、その結果に感情回路が反応して、自動的にシミュレーションで予測されたバーチャルな世界モデルの中での運動が起こっている。運動の結果起こった変化をまたシミュレーションと繋げて記憶し、後で思い出して、自分は目的を持って損得を計算しながらゲームを実行している、と思い込んでいる。
そうでなければ、人間がこんなに上手に行動できるはずはありません。あらかじめ明確な目的を持ち、詳細な計画を立てて、それをコンピュータのようにペイオフ行列を計算しながら、現実の環境の中で、確実に追求するという行動を本当にしたら、人間はたいていすぐ死んだり病気になったりしてしまいます。実際、小学生が立てた夏休みの計画が実行されることはないのです。すぐ怠けてさぼってしまう。お姉さんのダイエットもうまく実行できない。理想と現実はすぐ食い違ってしまうので、綿密な計画は、必ずといってよいくらい、挫折するのです。でも、それでよいのです。
考えて作った計画に、本当に従って行動したら、人間はすぐ身体を壊してしまう。身体は、自ら壊れるような運動はしない。だから、頭で考えた計画というものは、ほとんど実行できない。
私たちの身体は、そのときそのとき、その場の感情に従って衝動的に動いていく。その結果、行動を選択することになる。そうだから人間は健康に生存していける。将棋をしているときでさえも、「王より飛車を可愛がり」となる。それでゲームは楽しくなり、人はそれを好きになる。皆が好んでそれをすることでゲームとして成り立っていく。
巷のビジネス指導書にあるような、「衝動的に行動すれば失敗、目的を立てて計画的に実行すれば成功」という教えとは関係がない話です。そもそも目的を立てて計画的に実行できるような人は、無計画に進んで失敗するようなことはしない。逆に、無計画で進みたがるような人が計画をつくっても、うまくいきません。いずれにせよ、計画のあるなしにかかわらず、人間が行動するときは、結局は衝動的です。
人間は感情にしたがって衝動的に行動する。それも脳内シミュレーションで予測した将来の自分のイメージに対して感情を引き起こす。その感情に駆られて運動を実行する。それで得られた金銭や勝負の得点などの数字を見て損得をはじき出す。その後、予想した将来イメージを思い出して、その行動がそれを目的として合理的で正しかったことをチェックする。そのとき、自分の人生、というものを確認できる。成功感、失敗感、勝利感、敗北感など感情をしみじみ味わう。その確認が人生ゲームの楽しさです。感情に始まり、感情が勘定に変わり、最後はまた感情で終わる。感情にゆすぶられ、楽しいからゲームに夢中になる。それでいて後から見ると、勘定としてもあまり損がない行動になっている。
進化と学習で絶え間なく改善された人間の感情回路。それを支える歴史に耐えた集団の伝統的文化。それらの組み合わせが私たちの行動を作る。この複合機構は、試行錯誤の末、現実の世界に鍛え抜かれて共進化した。洗練され、生存しやすい戦術を、衝動的に選択する能力を持つようになった。
その能力を駆使して、人間は現実の世界を戦い抜いていく。懸命にそれを戦うように人間の身体は作られている。だから人間にとってゲームは楽しい。現実の世界での戦いを模擬しているからです。ゲームは現実のエッセンスを抜き出して、純粋に楽しめるように設計してある。だからスポーツもテレビゲームも、とても楽しい。夢中になれる。
現実の人生は本物だからもっと楽しい。原始時代の現実を、懸命に戦い抜くように人間の身体は作られている。現代の現実は原始時代とはかなり変わってしまっている。それでも、人間は適応する。適応性が高い。現代の現実の中でも、私たちは懸命に戦う。それは、やはりそれなりのゲームになっているからです。
現実の人生であっても、それをゲームと見なせるならば、人生は実は楽しくてたまらない。だれもそうは言いません。しかし、つらいつらいと言いながら、人生を、実はやめられない。麻薬みたいです。本当は、私たちのだれもが、自分の人生というこの本物ゲームが好きでたまらない。楽しすぎてやめられない。人間は、そう感じるように進化している。そう感じることで、人生ゲームをプレイし続ける。それが人生の真実でしょう。
私たちは、幸福を目指して計画的に行動しているつもりです。それも実は、習慣と文化に従って感情を動かし、その衝動に動かされて行動している。しかし、私たちは、自分たちが計画的に行動している、と信じている。そう思うほうが、上手に行動できるわけです。そのほうがうまくいく。自分が目的を持って計画的に行動しているならば、自分のこれからの行動をうまく予想できる。そうでなくて、自分が感情だけに突き動かされていると考えたら、自分で自分が予想できないでしょう?
あなたは、自分が今日懸命に働いているのは、来月の休みにハワイ旅行をするためだと思っている。なぜ、ハワイに行きたいのか? あなたのお友達も、そうしたいと思っているのでしょう。あなたはたぶん、それを幸せと思う文化の中にいるのでしょう。ハワイの海岸はすばらしい。雑誌の写真が美しく撮れていたから、そう見えただけなのかもしれない。でも、そこにいる自分の姿を想像する。つまり予測シミュレーションをつくり、それが感情回路に映ると、それを自分の欲望と思い、目的と感じる。それをシミュレーションで想像しながら、現在の努力を加速させるのです。
ロボットなら想像とかシミュレーションは要りません。ハワイに行くためには一日何円貯金しなければならないか計算して、その分だけ労働時間を延長する。簡単なゲームの解です。感情は必要ない。ちっとも楽しくない代わりに、まったくつらくもない。しかし、これでは人間ではありません。人間は、こんな無味乾燥な数値計算だけのゲームはしない。こんな計算だけでは人間の身体は動かない。
人間は将来を予測したシミュレーションを作り出す。ワイキキの海岸で、裸になって優雅に寝そべっている自分の姿を想像する。海の香りをかいでいる。その自分を見たら、だれもが私を幸せだと思うだろう、と想像するのです。そのシミュレーションを感情回路に連結して、幸福感に憧れる。人間は、将来への期待や不安を膨らませ、その働きで現在の行動を加速する動物です。ハワイの海をながめる自分を想像できるから、いやな残業にも耐えられる。それで結果的には、ロボットが計算したものと同じ行動になる。つまり一日の労働時間の延長、という行動を取ることになるでしょう。でもハワイの海を夢見るから、夜勤の労働もつらくない。裸でハワイの海岸に寝転ぶ自分の姿を想像する。幸せだろうな、と思う。そこがロボットとちがう。人間は、ロボットとはぜんぜん違う仕組みで行動ができてくる。それが人間です。そういう人間の行動が、結果として目指しているように見えるものがあるとすれば、それを、幸福といい、人生の目的という。