そうであって、結局は動こうとしない。怠惰という範疇に入る人もいるでしょう。無気力とか、臆病とかネガティブな言葉で叱られる場面も多そうです。逆に褒められる場合は、よく我慢した、だとか、度胸が座っている、とか言われる場面です。状況によって叱られたり褒められたりする。しかし、ここで考えているような迷いもなく逃げない姿勢を取る人々は、たぶん、叱られるとか褒められるとかいうような人の評判をあまり問題にしていないはずです。人にどう思われるかではなく自分が納得すればそれでよい、とするところがある。拙稿としてはそういう人々に興味がある。
人の評価を無視する、という点では怠惰な人と言えます。たしかに中年あるいは老人に多そうです。しかし一日中寝そべっているような人ばかりではない。日常的には職業や家事をきちんとこなす人が、突然、逃げなければならない状況に遭遇した場合、逃げない。そういう人々がいます。
逃げるのが得意な人とそうでない人がいるのかもしれません。生まれてから一度も一人だけで逃げるという行動をしたことがない人は、いざという時にどうしていいか分からずに固まってしまうのかもしれません。逆に、いつも一人だけ逃げてばかりいる人はいざとなればさっさと逃げるでしょう。
そういうものであるとしても、極端に怠惰ということでもない人が逃げない場合、なぜか、と疑問のような思いが残ります。逃げる気にならない。そういう気になれない。このままここを動かなくてよいのではないか、という気になるということでしょう。
想定される危険はかなり確実と思われる。それでもそれは想定でしかない。顔に向かって黒い大きなものが飛んでくれば人はそれを避けるでしょう。そうでない場合、こちらに向かって襲ってくるものが想像でしかない場合、目前には見えない場合、人は逃げないことがある。逃げる気がしないことがある。
目に見えない、音も聞こえない、想像でしかない、そういうものは感じなくても良い、という気もする。そういう気がしているとき、人は逃げないでしょう。逃げることはかえって危ない気さえする。そして逃げない理由を考えてしまう。そう思うことがあります。特に老人はそういうことがありそうです。
このままでよい。今までいつもこのままだったから、今もこのままでよい、と思ったりするのでしょう。
身体の深いところでそう感じてしまうと、周りの人がよほど強く呼びかけない限り、人は逃げない場合がありそうです。
第三者が逃げない人々について考える場合、とにかく命を大事にしろ、と言いたくなるでしょう。あるいは哲学者が言う場合、いやただ生きるのではなくよく生きることのほうが大事だ、と言ったりする。しかし拙稿の見解では、そういうことは、逃げるか逃げないかのとっさの状況で当事者の感じていることと少し違う。身体を動かす気がしない、というところから来ている、それがまずある、と考えます。
そこから、逃げる人と逃げない人の運命が違ってくるのでしょう。
筆者ですか?筆者は逃げるのは得意です。二十何年か前ですがイギリス南海岸の保養地で国際学会の最終日に二百年来という大嵐に遭いました。大木がなぎ倒され、列車は全面ストップ。同行していた妻と当時小学生だった娘を連れてどうやってロンドンに帰ろうか?レンタカーはひとつもないという。各国の学会仲間は諦めてホテルの滞在を延長しています。筆者は顔を覚えていたホテルのボーイに十ポンド札を握らせながら相談しました。不思議、レンタカーが一台だけ残っているというではありませんか。三割くらい料金は高かったけれどそれを運転して、倒れた大木を避けながら無事にロンドンに着きました。■
(40 逃げない人々 end)