たしかにマンガは基本的にアナログな創作物で、デジタルな現代でそれが好まれるのは逆説的でもあります。アプリが蔓延するデジタル世界で、なぜ人生の一場面を絵柄にしたプリントに私たちは引き付けられるのか?人が引き付けられるものは、ある一人の物語であるからなのでしょうか?
現代、私たちはビッグデータの中のデジタルな一点でしかない。世界の中の数百万分の一、数億分の一でしかないでしょう。マクロに統計処理されアプリで操作されていることは誰もが感じています。それでも小さな個々の人生に私たちの眼は引き付けられる。
クローズアップされたマンガの表情に見入ってしまう。その快感に抗えないで、マンガのページをめくります。実にアナログな世界ですが、それがもともとの人間である、という気もします。
マンガは言語ではないとしても言語のような何かである。それは言語以前の、言語になれそうなものであったが結局は言語になれていない、それでも存在できる何かでありましょう。■
(61 マンガは言語なのか end)
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鳥獣戯画の時代からマンガのようなものはあった、ということになると、現代マンガはそこからどこが進化したのか、というところを知りたくなります。
まずセリフがある。吹き出しがある。コマ割りがある。ストーリーがあったりします。演劇を紙の上に表現したもの、といえます。劇画といいますが、まさに劇を絵に描いたものです。その絵は、ある程度、写実的ではあるがダイナミックです。コマ割りを利用して時間軸を表現している。
まあ、鳥獣戯画に比べてストーリーや吹き出しやコマ割りがあるから現代マンガのほうが上級だと言いたいわけではありません。芸術としては逆でしょう。しかしエンターテインメントとしては、現代マンガの優れたものはたいしたものです。多くの人が心から楽しんでいる。夢中になってそれを読みたいと思っています。
優れた演劇もそういうものを持っています。人々は、人生の真実をそこに見て取れるから目を離せない。
現代マンガは、進化した種々の手法を用いて、演劇が与える快感のようなものを提供する。逆に言えば、マンガは、小説もそうですが、演劇が進化して紙の上に印刷できるようになったもの、ともいえます。演劇が提供する楽しみのうち重要なもの、たとえば人生のストーリー、がマンガには含まれている。
その他の魅力もあります。印刷物であるから書物のようにハンディである。つまり個人が携帯できる、展開のスピードを自由にコントロールできる、という点は大きな魅力です。
このようなメディアはマンガ以前にはありませんでした。ハンディな娯楽メディアは新聞や雑誌くらいだったでしょう。それらも文字の羅列でできていますから、マンガほど気楽でもありませんでした。今はスマート端末がありますが、身体への親和性という面で印刷物の代替となり得るかどうか、まだ確答できる段階には至っていないでしょう。
マンガは読むというよりも見る。それもテレビを見るよりも、自由です。好きなときに好きなペースで好きなものを見ることができます。オンデマンドビデオも、選択、早送りなど、コントロールはかなり自由ですが、マンガの自由度にはかないません。なにしろページめくりと視線走査で選択、速度制御、注意集中など自由自在です。
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マンガはフィクションでありファンタジーでありポルノである。とにかく現実ではなく理想であり、プラトンのイデアであり、イデアであるからこそ感覚に直接しみ込んでくる。そういうものが、もともと人間の感じ取る世界であるならば、マンガは読者にとって現実の物質世界よりもずっと本物の生々しい世界そのものを語っています。
マンガはなぜかくもリアルであるのか?デフォルメされた人物線描が実物よりも本物に感じられる。美人は美人に、悪漢は悪漢に、魅力、反感、すべてストレートに描かれている。そういう画法が、現代のプロフェッショナルな技術として確立されています。
人間の感覚神経系の内部で世界がどう表現されているのか、現代科学の観測方法では、解明の糸口も見つかっていません。たとえば人物の画像が、神経系の内部では抽象画のように要素分解されて記号化されているという仮説もあります。二次元の具象画の形式で神経系内部を流れているはずはありません。しかしその具体的プロセスにアプローチする方法は、現状では、皆無です。
もしその人物画像情報が記号化されているならば、マンガは記号化された情報の形態で提示されるほうが直接感覚に取り込みやすいはずです。ピカソの人物画のように側面と正面が混在しているほうがよくはないのか?あるいは象形文字のような記号で描かれたマンガがよいのではないでしょうか?
どうもそうではなさそうです。かなりリアルな画法がうけるようですね。ある程度デフォルメでかつまたある程度リアル、というくらいが多い。その程度は、写実主義絵画でもなくピカソでもなく、その中間よりすこしピカソ寄り、つまり浮世絵くらい、さらに言えば北斎くらい、というべきでしょう。
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マンガはその漫画家が描く世界へ私たちを連れ込んでくれます。連れ込まれて楽々とそこに浸りこむことができる。そこは非日常的ではあっても、いつも同じような光景が広がっています。その広がりを見る。ずっと見ていたい。終わっても次を見たい。それがマンガの魅力、おもしろさ、でしょう。
日本のマンガは今や世界一である、という。そうかもしれない、と外国のマンガを多く見たわけでもないのにそう思います。量ばかりでなく、質も高そうです。読者が多い。幅広い。読者はマンガを深く愛しているように見えます。
大昔の鳥獣戯画があり、江戸時代には北斎漫画がありました。現代マンガのほうが上だとは、とてもいえない。美的にも最高水準の芸術作品でしょう。省略の美か?現代マンガと同じ美とそのおもしろさを追求しています。
このような線描が、現実よりも現実を表現している。私たちは、世界を目の前に広げて見せてくれる創作物に目を見張っているのかもしれません。それは芝居や仮面劇を見る観客の快楽なのでしょう。
マンガは言語ではないが、言語が私たちに与えてくれると同じような快感を、安心感を、居心地の良さを、いつも提供してくれます。世界を分節化し、要素を再構成して、世界の構造を可視化してくれます。
可視化され、再構成された世界を透視できる安心感と快感。おとぎ話を読んでもらいながら眠りにつく幼児のように、いやむしろ、だれでもが、ゆりかごに揺られる乳児の時を過ごすことができる虚構の感覚装置ではないのか?
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身体に取り込まれる情報の速度が違うからかもしれません。文字を読んでいると情報速度は、たかだか毎秒数キロビットの単位でしょう。マンガの場合は画像がありますからその数百倍の速度で情報が身体に入ってきます。情報速度が少ないと脳に余裕ができるので、余計なことを考えやすい。読書している自分の姿などを想像してしまいます。
そういうことがまずないマンガは、雑音が入らない、まさに純粋な快楽。ページをめくる時間が早いからか?自分の好きなスピードを出せる。
あるいは、自意識のない子供のころから読んでいた影響でしょうか?子供時代は、やめろと言われても隠れて読む、というほどの魅力がマンガにはありました。
言葉が聞こえてくると耳が、自然に、その音を追ってしまう。言語の吸引力というべき力です。マンガもそれを持っています。ページを開けたとたんに吸い込まれる。ページの終わりまで一瞬に見てしまう。次のページをめくりたくなる。
魅力というか、引力です。これはどこから来るのか?
マンガ独特の線描、コマ割り、運動描写、擬音表記(オノマトペという)、キャスティング、ドラマツルギー、どれが魅力の源泉なのか?どこかにそのヒントがあるはずでしょう。
人がいれば、その人が語る物語を期待する。人がいなくても、いずれ人が現れて物語を語ることを期待する。そのように私たちの身体ができているのでしょう。物語はそれがあることによって、世界を現してくれる。むしろ世界というものは、私たち人間にとって、物語によって現されるものである、といえます。(拙稿44章「物語はなぜあるのか」)
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マンガにおいては、ウサギであろうとも、自動車であろうとも、簡単に擬人化される。逆に、擬人化されなければマンガのキャラクターにはなれません。物事が言語化されるとき必ず擬人化される(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)ことと同じ理由です。
マンガは言語と同じように、意味が共有され、文法に従って組み立てられ、受け手に共鳴を起こします。そのようにマンガと言語の類似点は多い。二つの表現法は似ている、ということはいえるでしょう。
マンガにはなさそうな言語の顕著な特徴は、少数の文字の順列で表現されること、文字列が表すもの(signifiant)と表わされる事物(signifié)との関係は恣意的であること、などです。しかし、ある漫画家のマンガ全体を言語のひとつの方言とみれば、その表現は数千あるいは数万くらいの表現要素の組み合わせで作られている、ということができます。
漢字の数よりは少ないくらいでしょう。実際、マンガの技術教科書などでは見下し顔、懇願顔などそれぞれ数十種にも分類され、概念化されて目口眉それぞれのデフォルメ描画法が呈示されています。
では、マンガは言語なのか?
言語ではありません。厳密にカテゴライズする立場からすれば、言語以外のものは言語ではない、と言うべきでしょう。しかし、どうも似ている、と言いたくなる。
マンガは、私たちに語りかけてくる。それを聞き取ることが心地よい。私たちは純粋な観客である。だれにもわずらわされない。
文字で書かれた作品、雑誌や小説など読むことも快楽となり得ますが、しばしば読んでいる自分の姿が意識されてしまいます。
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歌舞伎などもそうですね。役者を見に行く。スポーツ観戦もそうかもしれない。
毎週のように繰り返します。読者、視聴者、観客が飽きないかぎり同じパターンを繰り返す。ビジネスになっています。
市民は何を必要としているか?パンとサーカス(panum et circensus)といわれます。古代ローマでサーカスというのはコロッセウムでの剣闘士の試合でした。アリーナの中で行われる虚構の死闘。それを日常世界にいる市民である観客が見ている。スポーツやドラマなどテレビ画面に映る映像を見ている私たちに似ているのではないでしょうか?
何万人、何十万人が毎回同じパターンの映像を見ている。毎回まったく同じということはない。少しずつ違う新しいイベントが入る。仲間と共通の話題になります。同一の虚構を共有している、といえます。
マンガも似ています。毎週発売される。連載漫画。それがテレビアニメにもなる。ますます虚構の世界に浸ることができる。
仲間と共有する虚構。物語、おとぎ話がそうです。
チョッキのポケットから懐中時計を取り出すウサギなんて現実にいるはずがありません。しかし、お話がそうなっているとそれはすぐに共有できる。
一緒にお話を聞いている友達と同じものを想像することができます。言葉で聞いただけでもそれはできますが、挿絵があると完璧です。マンガでもよい。
マンガのほうがよいかもしれません。作者の感性がそのまま感じられる。身体の緊張感がゼロです。マンガだから見ているだけでよい。チョッキを着たウサギの姿に何の違和感もありません。それはマンガであるから、そうであるのが当たり前なのです。
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(61 マンガは言語なのか begin)
61 マンガは言語なのか?
マンガは物語の一種でしょう。というよりも、ドラマ。劇画といわれるように劇、映画の類。あるいは絵がついた本、絵本や挿絵小説、絵草紙のカテゴリーかもしれません。
最も現代的、最先端のカルチャーについて伝統的なカテゴライズを当てはめようとしても議論は当然、錯綜とすることになります。
テレビの幼児番組でする人形劇などはどうか?そのままマンガになりそうです。あるいは、たいていのマンガはこのような人形劇に変換できるのではないでしょうか?マンガはすぐアニメや映画(実写化という)にできます。逆はあまりされない。商業的な理由でしょう。
人形劇あるいは被り物劇、仮面劇など、は、一話で終わることはほとんどなく、連続番組になっていて毎日、毎週延々と続くものが多いようです。人形や仮面を作るコストを考えれば、当然繰り返し使用しなければならないのでしょう。同じキャラクターを繰り返し使う、という点でマンガも同じです。
マンガのキャラクターは線描で簡単に作り出せるのでコストはかかりません。毎回違う人物を描けばよいではないか、と思えます。
しかし実際そういうことはされません。マンガのキャラクターは初回に印象深く登場した後、毎週あるいは毎回、繰り返し登場し、ストーリーを展開する。使いまわされる、といえます。制作のコストの問題ではなさそうです。
読者がそれを求めているのではないでしょうか?
俳優、スターのファンになるように、マンガの読者はキャラクターのファンになってそれ(彼あるいは彼女)の登場する物語を聞きたい(見たい)と思うのではないか?
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