私の内面の感覚感情とは無関係に存在する現実世界と、その中にある私だけにしか感じられない自分の内面。私たちが感じ取る物事のこの二面性は、この世の神秘の極みともいえます(拙稿24章「世界の構造と起源」 )。
だれもが現実として感じ取ることができない自分の内面は本当に存在しているのか、それとも幻影なのか、あるいは目の前の現実は本当に存在しているのか、それともそれが幻影なのか?
自分の内面が嘘なのか、あるいは目の前の現実が嘘なのか、どちらかが嘘でないとおかしいのか、おかしくないのか、その矛盾さえも私たちははっきり自覚できない。それを混乱というか神秘というか? 話せば話すほど、分かりにくくなってしまう。この話はなぜこうなってしまうのでしょうか?
古来、この神秘は、哲学者を悩ませ、また科学者をも悩ませてきましたが、拙稿の見解では、これも人類特有の身体のつくりが引き起こす神秘感のひとつであって、それ自体が神秘ということにはならない、といえます。
人類共通の神経機構が(拙稿の見解では)集団的に共鳴を起こすことで現実が現れ、また同時に自分の内面というものが作られてくる、というべきでしょう(拙稿32章「私はなぜ現実に生きているのか?」 )。つまり現実も内面も、物質も精神も、私たち人間の身体のつくりがそれらを存在させている、と考えれば、神秘はありません。
現実世界全体は私が感じることの一部分であり、私の内面もまた私が感じることの一部分である。つまり(拙稿の見解では)どちらにしても私の身体が感じるもろもろの(かゆいとか暑いとか暑苦しいとか息苦しいとか見苦しいとかいう雑多な)事柄の一部分であって、決してすべてではない、と考えられます。
現実ではない内面を感じることがおかしい、という必要もないし、私が感じるものしか現実には存在しないという必要もないでしょう。
ですから、この現実世界があるということが神秘だ(一九二一年 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』既出、拙稿25章「存在は理論なのか?」17)というのも間違いであるし、私は考えるがゆえに私が存在するということが神秘だ(一六三七年 ルネ・デカルト『方法序説 』既出)、ということも間違いです。つまりこの世の中にも私の中にも、どこにも神秘はない、といえます。