でも、現実はひとつでしょう? 現実が二つも三つもあるのはおかしい、という疑問がでる。そう。そのとおり。一つしかないから現実は現実といえる。ネッカーキューブをみても、ある時にはある見え方が現実だ、としかみえない。というか、これは現実だ、と私たちの身体が感じるから、それは現実だ。現実と思えるものが現実だ、ということです。
私たちは、身体を動かすとき、いつも動かした結果として何がどうなるかを予測している。予測するには、現実をしっかり把握していないと、うまくできない。現実をしっかりつかんではじめて、私たちは身体を動かすことができる。現実をつかんで、現実の中で身体を動かすとどうなるのかを予測し、予測結果を身体で感じとることで、身体は無意識のうちに変化して動いていきます。
たとえば、階段を下りるときは足元を見る。その足元に視線を落とすという首の運動が下り階段の存在感をつくっている。下り階段がそこにあるという現実は、首を前傾して視線を足元にやるという運動によって、つくられています。
このような仕組みで(拙稿の見解では)、私たちは身体を動かして、現実を感じとっている。そして、ここにその現実がある、と感じる。私たちの身体運動が発生するときに、その運動に伴う予測に使われているその現実が、私たちが本物と感じている現実です。
その人が現実と思って行動している世界が、その人にとっての現実です。浦島太郎にとっては竜宮城が現実。しかし、浜に帰ってきた浦島さんにとっては、煙を浴びた後の白髪の自分が現実、となります。竜宮城というアインシュタイン的空間が日本近海の海底にあって、そこでは時間の進行が遅いのかもしれない。玉手箱の煙は老化を一気にすすめるバイオ新薬かもしれない。浦島氏の経験が現実であるとすれば、そういう珍奇な、あるいは神秘的な理論がありうる一方、私たち常識的な人間がこのおとぎ話を聞くときは、竜宮城は現実ではなくて浦島氏の幻覚でしょう、と思うわけです。
いったい、現実と幻覚とはどう違うのか? 目の前に幻覚を見るとき、それは現実としか思えない。ほっぺたをつねってみて痛ければ、これは幻覚ではなくて現実だ。まあ、それでも、痛さもまた幻覚だといってしまえば、それもそうです。どこまでも、現実と幻覚は区別がつかないということになってしまう。
浦島さんがひとりだけで竜宮城に行ったというのではなく、歌島さんや牛島さんや上島さんと一緒に団体で竜宮城に招待されたと全員が証言している場合、四人が同じ幻覚を見たのだというのは無理があるでしょう。団体の全員が証言してくれたというのが、そもそも浦島さんひとりの幻覚だった場合は考えられる。そういうことまで言い出すと、なにもかも幻覚ではないか、となってくる。
現実というものは、ひとつなのか、二つ以上あるのか、それともすべては幻覚なのでしょうか?
私たちが、現実1と現実2と現実3の区別がつかずに全部ひとつのものだと思い込んでいれば、私たちの日常生活では、まったく問題はない。また、三つとも、ひとつの現実をちがう角度から見ただけだ、と思えれば、それでも問題はない。
しかし、残念ながら、そういう便宜的な考えは間違いであることを、拙稿は述べてみました(拙稿6章「この世はなぜあるのか?」、12章「私はなぜあるのか?」)。
(以下、拙稿の見解によれば)客観的物質世界(現実1)には、たとえば、物質としての私の身体はあるが、私が私と思っているような特別の私はいない。したがって、自分が死ぬということは意味がない。同時に、生きているということも意味はない、となってしまう。また、私中心の世界(現実2)には、客観的な存在はないから、客観的な物質もなく、自分というものも他人というものもない。心を持った人間はいない。さらに、他人に乗り移ってその目で見た世界(現実3)には、人間の一人としての自分はあるが、それはどの人間とも交換できるような単なる一人の人間であって、特別な自分というものはいない。
このように現実を詳しく調べていくと、複数の現実があって、それぞれの現実は互いに矛盾する。私たちのふつうの常識では、複数の現実を混同して一つのものと思い込んでいる。それでも毎日の生活には困らない。ふつうは矛盾を感じないで過ごしていけるが、たまに混乱が起こる。
たとえば、私とはなにか、と考え込むと混乱が起こる。どの現実の中にも、その一つの現実に徹すれば、私が私と感じられるような私はいない。複数の現実にまたがった私がいると思うときだけ、私はいる。ところが、それぞれの現実は矛盾している。現実がひとつではなくいくつもある、というのもおかしい。そこに、私が私を感じるときの違和感が生じる。
またたとえば、古来、宗教や哲学が得意とする死の問題なども、自分と世界の表れ方に関する複数の現実を混同するところからくる混乱です。死に関する神秘は哲学的な問題のように見えるけれども、実は一種の擬似問題です(拙稿15章「私はなぜ死ぬのか?」)。脳神経科学や心理学や哲学で問題とされる意識の問題も(拙稿の見解では)その類の擬似問題です(拙稿9章「意識はなぜあるのか?」)。また、物理学の基礎論に関して提起される宇宙の起源や時間の果て、宇宙の果てなど時間空間の存在問題も現実や存在に関する混乱から生まれる擬似問題とみなせます(拙稿13章「存在はなぜ存在するのか?」)。
「ある」、「存在する」という言葉の響きに神秘感を伴うような表現で表される哲学の問題は、皆、この類の擬似問題といってよいでしょう(拙稿13章「存在はなぜ存在するのか?」)。ふつうの言葉の語感で「ある」とか「いる」とかいっているうちはまだよいのですが、むずかしそうに「存在」とか「実在」とか「現実」とか「真実」とかいいだすとあぶない。存在か不存在か、生か死か、悩み始めると偽問題の世界にどんどん落ち込んでいく。宗教も西洋哲学も東洋哲学も、むずかしそうな話は全部、ここに突っ込んで落とし穴へ落ちていきます。
まあ、この落とし穴は、(筆者に言わせれば)哲学のブラックホールです。哲学という以前に、言葉をつかう理論の落とし穴ですね。人類の言語が持つ破れ目、クレバスのようなものです。それだけ人を引きずりこみやすい形をしている。こわい裂け目ですね。
私たちの身体は、現実をしっかりつかんでから、それに対応して行為をなしていくようにつくられている。エアコンが室温を感知するのと同じです。エアコンに向かって、「室温といっても一つじゃなくて、測る場所や近くの発熱体や検知器の性能によって値がちがってくる。 だから室温といっても複数あるものなのだよ」といってみても、いうことを聞いてはくれない。
エアコンは決まった検知器で決まった場所の気温を測定して、その情報を現実として、モーターを駆動する。逆にいえば、コンプレッサーのモーターを駆動する情報をもたらすものが、エアコンにとっての室温という現実です。本当の室温とはなにか、などという問題は、エアコンにとっては意味がない。モーターを駆動する信号を作っているものが現実の室温ということになる。
たとえば変な設計のエアコンがあって、温度検知器が三個付いているとする。一個は床、一個は天井、残りの一個は冷蔵庫の裏に取り付けられています。信号切替え器がランダムに三個の検知器データを切り替えてしまうとします。エアコンは与えられた、あやしげな室温信号にしたがってモーターを駆動するでしょう。でもそれが、エアコンにとっての現実の世界です。
私たちの身体が、それを現実と感じとって行為の結果を予測しながら行為を実行していく場合、感じとっているそれを現実ということができる。無意識のうちに身体が予測する運動結果に引きずられて、私たちの身体は変化する。そのような予測結果をもたらす世界を(拙稿の見解では)、私たちは現実世界と感じる。
事前に行為の結果を予測し、事後に行為の結果を実測して、私たちの身体は学習していく。その予測の通りに身体が動いて予測の通りの結果が現れてくる場合、私たちの身体はその予測を現実と感じて、それを学習する。逆にいえば、私たちが学習したことが現実となる。
そういう言い方をつかうとすれば、実験をしている科学者にとっては、実験装置の中で起こっている酸化現象が現実(現実1)です。また、伝い歩きをしていて転んでしまった一歳児にとっては、目の前の床が跳ね上がっておでこに当たってくる衝撃が現実(現実2)です。また近所の奥さんと世間話をしている学生にとっては、自分の態度を行儀悪いと思ったかもしれない奥さんの感情の動き方が現実(現実3)でしょう。