哲学の科学

science of philosophy

私はここにいる(19)

2009-03-28 | x9私はここにいる

でも、現実はひとつでしょう? 現実が二つも三つもあるのはおかしい、という疑問がでる。そう。そのとおり。一つしかないから現実は現実といえる。ネッカーキューブをみても、ある時にはある見え方が現実だ、としかみえない。というか、これは現実だ、と私たちの身体が感じるから、それは現実だ。現実と思えるものが現実だ、ということです。

私たちは、身体を動かすとき、いつも動かした結果として何がどうなるかを予測している。予測するには、現実をしっかり把握していないと、うまくできない。現実をしっかりつかんではじめて、私たちは身体を動かすことができる。現実をつかんで、現実の中で身体を動かすとどうなるのかを予測し、予測結果を身体で感じとることで、身体は無意識のうちに変化して動いていきます。

たとえば、階段を下りるときは足元を見る。その足元に視線を落とすという首の運動が下り階段の存在感をつくっている。下り階段がそこにあるという現実は、首を前傾して視線を足元にやるという運動によって、つくられています。

このような仕組みで(拙稿の見解では)、私たちは身体を動かして、現実を感じとっている。そして、ここにその現実がある、と感じる。私たちの身体運動が発生するときに、その運動に伴う予測に使われているその現実が、私たちが本物と感じている現実です。

その人が現実と思って行動している世界が、その人にとっての現実です。浦島太郎にとっては竜宮城が現実。しかし、浜に帰ってきた浦島さんにとっては、煙を浴びた後の白髪の自分が現実、となります。竜宮城というアインシュタイン的空間が日本近海の海底にあって、そこでは時間の進行が遅いのかもしれない。玉手箱の煙は老化を一気にすすめるバイオ新薬かもしれない。浦島氏の経験が現実であるとすれば、そういう珍奇な、あるいは神秘的な理論がありうる一方、私たち常識的な人間がこのおとぎ話を聞くときは、竜宮城は現実ではなくて浦島氏の幻覚でしょう、と思うわけです。

いったい、現実と幻覚とはどう違うのか? 目の前に幻覚を見るとき、それは現実としか思えない。ほっぺたをつねってみて痛ければ、これは幻覚ではなくて現実だ。まあ、それでも、痛さもまた幻覚だといってしまえば、それもそうです。どこまでも、現実と幻覚は区別がつかないということになってしまう。

浦島さんがひとりだけで竜宮城に行ったというのではなく、歌島さんや牛島さんや上島さんと一緒に団体で竜宮城に招待されたと全員が証言している場合、四人が同じ幻覚を見たのだというのは無理があるでしょう。団体の全員が証言してくれたというのが、そもそも浦島さんひとりの幻覚だった場合は考えられる。そういうことまで言い出すと、なにもかも幻覚ではないか、となってくる。

現実というものは、ひとつなのか、二つ以上あるのか、それともすべては幻覚なのでしょうか?

私たちが、現実1と現実2と現実3の区別がつかずに全部ひとつのものだと思い込んでいれば、私たちの日常生活では、まったく問題はない。また、三つとも、ひとつの現実をちがう角度から見ただけだ、と思えれば、それでも問題はない。

しかし、残念ながら、そういう便宜的な考えは間違いであることを、拙稿は述べてみました(拙稿6章「この世はなぜあるのか?」12章「私はなぜあるのか?」)。

(以下、拙稿の見解によれば)客観的物質世界(現実1)には、たとえば、物質としての私の身体はあるが、私が私と思っているような特別の私はいない。したがって、自分が死ぬということは意味がない。同時に、生きているということも意味はない、となってしまう。また、私中心の世界(現実2)には、客観的な存在はないから、客観的な物質もなく、自分というものも他人というものもない。心を持った人間はいない。さらに、他人に乗り移ってその目で見た世界(現実3)には、人間の一人としての自分はあるが、それはどの人間とも交換できるような単なる一人の人間であって、特別な自分というものはいない。

このように現実を詳しく調べていくと、複数の現実があって、それぞれの現実は互いに矛盾する。私たちのふつうの常識では、複数の現実を混同して一つのものと思い込んでいる。それでも毎日の生活には困らない。ふつうは矛盾を感じないで過ごしていけるが、たまに混乱が起こる。

たとえば、私とはなにか、と考え込むと混乱が起こる。どの現実の中にも、その一つの現実に徹すれば、私が私と感じられるような私はいない。複数の現実にまたがった私がいると思うときだけ、私はいる。ところが、それぞれの現実は矛盾している。現実がひとつではなくいくつもある、というのもおかしい。そこに、私が私を感じるときの違和感が生じる。

またたとえば、古来、宗教や哲学が得意とする死の問題なども、自分と世界の表れ方に関する複数の現実を混同するところからくる混乱です。死に関する神秘は哲学的な問題のように見えるけれども、実は一種の擬似問題です(拙稿15章「私はなぜ死ぬのか?」)。脳神経科学や心理学や哲学で問題とされる意識の問題も(拙稿の見解では)その類の擬似問題です(拙稿9章「意識はなぜあるのか?」)。また、物理学の基礎論に関して提起される宇宙の起源や時間の果て、宇宙の果てなど時間空間の存在問題も現実や存在に関する混乱から生まれる擬似問題とみなせます(拙稿13章「存在はなぜ存在するのか?」)。

「ある」、「存在する」という言葉の響きに神秘感を伴うような表現で表される哲学の問題は、皆、この類の擬似問題といってよいでしょう(拙稿13章「存在はなぜ存在するのか?」)。ふつうの言葉の語感で「ある」とか「いる」とかいっているうちはまだよいのですが、むずかしそうに「存在」とか「実在」とか「現実」とか「真実」とかいいだすとあぶない。存在か不存在か、生か死か、悩み始めると偽問題の世界にどんどん落ち込んでいく。宗教も西洋哲学も東洋哲学も、むずかしそうな話は全部、ここに突っ込んで落とし穴へ落ちていきます。

まあ、この落とし穴は、(筆者に言わせれば)哲学のブラックホールです。哲学という以前に、言葉をつかう理論の落とし穴ですね。人類の言語が持つ破れ目、クレバスのようなものです。それだけ人を引きずりこみやすい形をしている。こわい裂け目ですね。

私たちの身体は、現実をしっかりつかんでから、それに対応して行為をなしていくようにつくられている。エアコンが室温を感知するのと同じです。エアコンに向かって、「室温といっても一つじゃなくて、測る場所や近くの発熱体や検知器の性能によって値がちがってくる。 だから室温といっても複数あるものなのだよ」といってみても、いうことを聞いてはくれない。

エアコンは決まった検知器で決まった場所の気温を測定して、その情報を現実として、モーターを駆動する。逆にいえば、コンプレッサーのモーターを駆動する情報をもたらすものが、エアコンにとっての室温という現実です。本当の室温とはなにか、などという問題は、エアコンにとっては意味がない。モーターを駆動する信号を作っているものが現実の室温ということになる。

たとえば変な設計のエアコンがあって、温度検知器が三個付いているとする。一個は床、一個は天井、残りの一個は冷蔵庫の裏に取り付けられています。信号切替え器がランダムに三個の検知器データを切り替えてしまうとします。エアコンは与えられた、あやしげな室温信号にしたがってモーターを駆動するでしょう。でもそれが、エアコンにとっての現実の世界です。

私たちの身体が、それを現実と感じとって行為の結果を予測しながら行為を実行していく場合、感じとっているそれを現実ということができる。無意識のうちに身体が予測する運動結果に引きずられて、私たちの身体は変化する。そのような予測結果をもたらす世界を(拙稿の見解では)、私たちは現実世界と感じる。

事前に行為の結果を予測し、事後に行為の結果を実測して、私たちの身体は学習していく。その予測の通りに身体が動いて予測の通りの結果が現れてくる場合、私たちの身体はその予測を現実と感じて、それを学習する。逆にいえば、私たちが学習したことが現実となる。

そういう言い方をつかうとすれば、実験をしている科学者にとっては、実験装置の中で起こっている酸化現象が現実(現実1)です。また、伝い歩きをしていて転んでしまった一歳児にとっては、目の前の床が跳ね上がっておでこに当たってくる衝撃が現実(現実2)です。また近所の奥さんと世間話をしている学生にとっては、自分の態度を行儀悪いと思ったかもしれない奥さんの感情の動き方が現実(現実3)でしょう。

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私はここにいる(18)

2009-03-21 | x9私はここにいる

「世界は、はっきりとここにあって、同時に私もはっきりとここにいる」というとき、私たちは、現実1と現実2と現実3を同じものと勘違いしている。現実は一つしかないという錯覚におちいっている。そうなると、私たちは、ネッカーキューブのような錯視に引きずり込まれて、混乱する。それが拙稿の指摘する哲学の間違いです。

ちなみに、ネッカーキューブとは、斜めから見下ろした立方体を十二本の稜線だけで表現した線図です。立方体を右斜め前方から見下ろした図に見えるが、しばらく凝視していると、突然、左斜め前方から見上げた図に見えてくる(二〇〇〇年 谷部好子、藤波努『3次元物体の認知過程における主体的操作の特徴について-ネッ カーキューブ操作行動に見られた共通点』)。網膜に映っている画像信号はまったく変化していないのに、脳内の現実感だけが変換してしまう。つまり、世界は変化してしまうのです。現実が一つしかないならば、これはありえないことです。どちらが錯覚でどちらが真実なのでしょうか?

ここで現実が二つあるということにすれば、問題はなくなる。二つの現実が交互に表れているということになります。私たちは好きなほうをとればよい。生きていくのに都合がよいほうをとればよい。たとえば、現実1をとれば、うまく生きていけるなら、そうする。現実2を取るほうが生きやすいならば、それをとる。どちらも同じならば、気まぐれに、どちらかをとって、それに応じて行動すればよい。はなはだ、節操がない。厳格な哲学者には叱られてしまうでしょう。しかし、こういう生き方はどこかで聞いたような話ではありませんか?

そうです。これは私たちふつうの人間が、意識せずに毎日こうして生きている生き方そのものです。私たちはいつも、二つも三つも、互いに異なった現実を使いこなしている。それなのに、私たちは、現実は一つしかないと思い込んでいる。それは、そう思い込むほうが(拙稿の見解では)、生活に便利だからです。現実は一つで、それがどう変化するかは簡単に予想できる。そう信じている人は、自信を持って世界を渡っていける。そうでなくて、現実を信頼できず、予想もできず、自分の行動はいつも現実に裏切られるのではないか、といつもおどおどしている人は、自信を持って行動できない結果、競争に負けて生きていけなくなる。そういう人たちは子孫を残せない。現実は一つと思い、自信を持って将来を予想できる人たちの方が現実にはずっと強い。実際、現実が一つだろうが、三つだろうが、本人が現実は一つだと思い込んでいるほうが生き残る。そうして生き残った人々の子孫である私たちは、当然、そう思うような神経系を持っているわけです。

私たちは(拙稿の見解では)、現実は一つしかないと思いながら、意識せずにいくつもの現実を渡り歩いて暮らしている。

「私は首尾一貫した現実主義者だ」と言いながら、あるときは著名な経済学者の理論を信奉する。あるときは、マスコミの言いなりになる。またあるときは官僚のお膳だてを利用する。それを反省もしない、意識もしない。節操がない政治家のようです。

私たちの身体は、進化の結果、そうなっている。現実は一つしかないとしか感じられない。そうであるならば、(拙稿の見解では)実際には現実は一つであってもよいし、二つであってもよい。三つでも四つでも、百八個でもよいし、零でもよい。つまり、現実というものは、一つだけあるように私たちに感じられればよいのであって、それが実際にはいくつあっても、あるいは一つもなくてもかまわないのです。私たちのだれもが、これが現実だ、と思えるものがあれば、それを現実だとすれば、何も問題はありません。

閑話休題、さて、話し手が「私はここにいる」というセンテンスを発声するとき、私たちは現実1から3まで、あるいはその他の現実感覚、を持ち込んでその言葉を感じ取る。たとえば、客観的物質世界の現実(現実1)を感じながら考えれば、このセンテンスは「話し手の身体という物質が話し手の身体がある場所にある」という当たり前のことを言っている。一方、自己中心的な現実(現実2)を感じながら考えれば、この言葉は話し手が聞き手の注意を引きつけて、こちらに注目させるための行為です。つまり話し手から世界へ向かって働きかける行為の一種となる。また、自他の関係を操作する現実(現実3)を感じながら考えれば、このセンテンスは、聞き手を話し手に憑依させて話し手の位置を自分の立ち位置として感知させる働きを持った他人操作である、ということになる。

このように、私たちの会話は、「私はここにいる」など、簡単そうに見える一つの言葉をやり取りする場合でも、話し手の(そのときの)現実感覚の違いによって意味合いが違う。聞き手がそれを聞き取る場合も、聞き手の(そのときの)現実感覚の違いで意味が違ってくる。いわゆる文脈(コンテキスト)による解釈の違いともいえるが、そこには、話し手も聞き手も無意識のうちに起こしている現実の認知に関する混乱、が混じりこんでいる。

人類の言語は、どの言語でも代名詞をよく使う。私、あなた、彼、彼女、それ、これ、ここ、などです。代名詞は、普通名詞や固有名詞のように客観的物質世界(現実1)に準拠して対象を指示するのではなく、話し手を中心とした自己中心空間に準拠して対象を指示する。そのため、代名詞を使うと自己中心的現実(現実2)が言語システムに入り込んでくる。(今、という語は代名詞ではないが、自己中心的に時間を表わすとき使われるので拙稿では、代名詞と同様に扱う)

たぶん(拙稿の見解では)、人類は客観的物質世界(現実1)を共有できるようになってすぐ、言語を使うようになった。はじめ、言語は客観的物質世界(現実1)だけを表現していた。普通名詞はあったが、代名詞はなかった。言語を使うようになった後も、人間は、自己中心的世界(現実2)を忘れたわけではなく、両方の現実にまたがって生きていたわけです。そのうち、言語を使って自己中心的世界(現実2)を言い表せるようになった。その仕掛けが、代名詞を使う自己中心的な空間表現でしょう。

代名詞は便利です。客観的空間で表現するように作られている言語システムの中で、自己中心空間での表現を使うことができる。代名詞によって、話し手は聞き手を、確実に話し手の自己中心的空間に乗り移らせることができる。代名詞が使われると(拙稿の見解では)、聞き手は、話し手の身体の位置に乗り移って、そこを原点として世界を見渡さなければならない。こうして、話し手と聞き手は、相互に相手の身体に乗り移りながら、共有する客観的世界について語り合う。互いの気持ちがよく分かる。自分を、うまく表現できる。これは便利です。

話し手が「それ、それ、それだよ」と言う。聞き手は、話し手の視線方向を見取って、それらしきものを取り上げ「どれ?どれ?これ?」と聞き返さなければなりません。つまり、聞き手は、話し手の身体に乗り移って、その目の位置から世界を眺めなおさなければならないのです。こうして、会話する人どうしは、互いの自己中心世界を感じ合う。それによって、自己中心世界(現実2)を、人間のだれもが、同じように持っていて、交換可能であることを確認できることになります。このことを知った上で聞き手は、本来自分の身体に固着しているはずの自分中心空間を、自分から取り外し、話し手の身体のところまで自由に移動させて、その身体に仮に取り付けて、その空間の視座から世界を眺めなおすことができる。これが代名詞の重要な機能です。

代名詞は、かなり早くから開発されたでしょう。そしていったん使われるようになると、たちまち普及しただろう、と(拙稿の見解では)推測できる。しかし、この語法には欠陥があった。私、ここ、今、と言っているうちに、世界と私の関係に疑問が出てきてしまいます。

「私はここにいる」というセンテンスのように、人称代名詞一人称(私)、あるいは指示代名詞(ここ)が主語、述語の中心に使われる場合、種々の現実が入り乱れることで理論的な混乱や違和感を引き起こす。客観的空間表現と自己中心的空間表現が入り乱れる。私たちは「渋谷駅ハチ公前」と言ったり、「私の右のほう。そっちじゃない。あっちのほう」と言ったりする。それでも、私たち人間は、皆が同じように混乱したり勘違いしたりしても、うまく話をあわせてしまう能力を持っている。それで、ふつう会話は支障ないかのように続いていく。ただ、ときどき、哲学者など論理に敏感な人たちが現れて、論理的矛盾を指摘し、混乱を露呈させる。哲学者は、「あなたが言っている私は、私が言っている私ではなくて、私が言っているあなただから、私とは違う」などと言い出すわけです。

客観的世界の現実、あるいは自己中心的世界の現実。それら異なる仕組みで働く複数の現実を、私たちが違和感を持たずに単一のものとみなして言語で表現していくことは、哲学者たちが指摘するように、おかしいといえばおかしい。しかし実用的にはあまり困らない。むしろいろいろな場面で、いろいろな現実を適当に使いこなしていくことは(拙稿の見解では)、人間の生存繁殖に有利に働く。

猛獣に襲われたときなど緊急の反射運動を起こすには、現実2(自己中心的世界)を使うと便利。しかし、自己中心的観点だけでは、他人の動きの意味が分からないので社会行動がうまくできない。また、他人と自分の関係というものもないので、他人から見た自分の行動というものの評価や学習、記憶ができない。したがって、将来の自分という予想もできない。人間以外の非言語動物や、人間だと赤ちゃんの世界は、これですね。

ほかの霊長類に比べても、特に視力に優れていて手が器用な人類は、道具製作や、狩猟採集や戦争などの実務において物質操作を精密に実行するのに都合がよい身体をもっている。この視力や手指を使いこなすには現実1(客観的物質世界)を使うと便利です。また、仲間と運動を協調させて協力するには、自分の身体を客観的な物質とみなして、道具のように操作することができるとよい。そのためには自分の身体が客観的物質世界(現実1)の一部分であることを把握する必要がある。

さらに言葉を使って人々と付き合い、人間関係を操作していくには、人の心、つまり自他の内面を感知し操作することができる現実3が有利でしょう。結局、私たちは、現実1、現実2、あるいは現実3のどれをも使いこなす必要がある。

実際、実生活ではいろいろな場面が次々に来る。どの現実が本物か、などと考えずにうまく現実を使い分けていくほうが、生きやすいはずです。その場その場で便利な道具として、それぞれの現実を使ってやりすごせばよいわけです。それでは人間存在として矛盾している、現実が統一されてない、存在が確立していない、などと哲学者が文句を言っても、気にする必要はない。私たちが毎日使っている現実感覚、つまり複数の現実の使いまわし、が一番うまくいく。

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私はここにいる(17)

2009-03-14 | x9私はここにいる

他の動物に比べて人類の脳は、大脳皮質がよく発達しています。それを使って人間は、人間社会や物質世界を認知し記憶し再生し、予想し計画を立てている。人間以外の動物には自己中心世界(現実2)しかない。動物たちは(拙稿の見解では)、仲間との関係で自他の内面を読み合ったり、客観的物質世界の現実を共有したりはしない。人類だけが、自己中心世界(現実2)の他に、自他感知世界(現実3)や客観的物質世界(現実1)を共有しています。

このことは、人類の生存環境においては、仲間との社会的生活に役立つ現実3(自他感知世界)や、物質を操作して道具を作り、仲間と協力して植物や動物を採集し狩猟するために不可欠な現実1(客観的物質世界)を把握することが生存繁殖に特に有利であったことを示している。あまり役にも立たない機能のために貴重な身体資源を裂いて特大の大脳皮質が作られるはずがない。その特別に大きな大脳を使う現実3と現実1は、人類に特有の、特別に有益な道具として作られたはずです。

拙稿の見解では、私たちが感じることのできるあらゆる現実は(現実1も現実2も現実3も)、人類が生存繁殖するための便利な装置として、進化の過程で、脳内に作りこまれた神経機構です。人類においては、仲間集団の中での仲間の身体の動きに共鳴し追従し反応するために、(拙稿の見解では)大脳皮質を使って他人の身体運動を認知し、その脳内シミュレーションを作り、記憶し再生する神経機構が発展した。この機構が自己中心世界(現実2)の存在感を土台として、それを仲間集団との運動共鳴により分節化し、自他感知とそれによる自我意識の存在感(現実3)を作り出した(拙稿12章「私はなぜあるのか?」)。自他の社会的認知(現実3)の発展と同時に、(拙稿の見解では)それを応用して、他人も自分も、人間ならばだれもが共有する客観的物質世界(現実1)が作られた。

この客観的物質世界の中で、人間は物質を客観的に認知し、物質を利用して複雑な道具を作り、仲間と役割分担して、道具を所有し、交換し、複雑精緻な集団行動によって、栄養価の高い食料を確実に獲得することが可能になった。さらに自他感知、自我意識の存在感(現実3)と客観的物質世界の存在感(現実1)は、他人の身体運動の分節化、概念化、擬人化とそれを応用した言語の基礎となり、また逆に言語によって安定化されて、共進化してきた(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」)。

自分中心の感覚的現実感(現実2)とともに自他感知、自意識の存在感(現実3)と客観的物質の存在感(現実1)とを使いこなせるようになった人類は、自我を作り出し、客観的物質世界を作り出し、過去を記憶し経験によって(感情を伴って)学習し、将来を(感情を伴って)予想できるようになった。この感情を伴う予想能力に優れた人類が、生存競争に勝ち残って私たちの先祖になったから、私たちはこのように現実を感じて生きている。

客観的物質世界の存在感(現実1)を使って、私たちは、客観的な冷静な世界認知を得られるようになった。しかし実際、私たちの現実の感じ方は、まだまだ自己中心的です。地球が球面であることは知っていても、世界地図の中心には日本がある。

そういう意味で、私たちは、実は、いまだに自分中心の感覚的現実感(現実2)の胎内にいる。そこから、すっきりと生れ落ちてはいない。あるいは、いつまでたっても、生れ落ちることなど、できないのかもしれない。あるいは、自他の存在感(現実3)も客観的物質世界の存在感(現実1)も、自己中心感覚の存在感(現実2)の機能を補うために作られた補助装置であるともいえる。

そうであれば、そもそも、客観的物質世界の存在感(現実1)は自分中心感覚の存在感(現実2)の内部に根を張っていて、そこから引き離すことはできないものなのかもしれない。実際、自分の身体の内的感覚を感じる視床などの神経回路に障害のある患者は客観的な世界をうまく感じられない(一九九九年 アントニオ・ダマシオ何が起きたかの感情無意識の脳 自己意識の脳〕』)。客観的物質世界の存在感(現実1)は自分中心感覚の存在感(現実2)の土台の上に立っているが、そのことを私たちは自覚できない、ということらしい。

私たちは、たしかに、客観的現実は、私たちの身体と無関係に存在している、と感じる。音楽の快さが私の聴覚の性能と無関係に存在している、と感じることに似ている。しかし、私の耳がコウモリのように超音波を感知できるようになったとすれば、心地よいはずのバイオリン演奏が不快な雑音のかたまりに変わるかもしれない。

自然科学は、まさに、個々の人間の感性とは無関係に存在する物質世界の客観性を前提としている。その物質世界の客観的現実(現実1)は、いつも間違いなく、ここに私たちとともにある。ところが、私が死んだらこの世界との関係はどうなる、など自我意識の問題を持ち出すと、そこには、私たちのこの感性と物質世界との関係のおかしさが、どうしても出てくる。このへんのすっきりしなさ具合を気にかけると、哲学が始まる。そしてすぐ間違えていく。現代は、自然科学が大発展したおかげで、私たちの直感では、客観的物質世界の存在感(現実1)が強大になっている。客観的物質世界の存在感は、ブラックホールのように、この世の何もかもを飲み込んでいきそうです。そのため、哲学の間違いも根深くなっていく傾向があります。

「世界ははっきりとここにあって、同時に私もはっきりとここにいる」という私たちの常識から哲学を始める限り、混乱は避けられない。この出発点は、まず科学と相容れない。科学がよって立つところの客観的物質世界に、私などというものの居場所はない(拙稿12章「私はなぜあるのか?」)。存在というようなものの存在する場所も、実は、ない(拙稿13章「存在はなぜ存在するのか?」)。もうそこから哲学はつまずいてしまう。

客観的物質世界の存在感(現実1)の根底は、(拙稿の見解では)自分中心の身体感覚的現実感(現実2)の集団共鳴にある。

生まれたばかりの赤ちゃんは、生後まもなく、身体を動かすたびに学習し、自分中心の身体感覚的現実感(現実2)を身につけていく。すぐに、身近で動く人間(たいていはママ)の動きに共鳴する運動ができるようになり、どの人間の動きにも共鳴して脳内で仮想運動が働くようになる。これが自分中心の感覚的現実感(現実2)を安定させる。そして、自己中心的現実感(現実2)に仲間集団との運動共鳴が働くときの感覚を捉えて憑依する仮想運動を身につけると、自他感知の存在感(現実3)が形成される。それによって、身体周辺の物質の客観的な存在感を獲得する。この仕組みによって、客観的物質世界の存在感(現実1)が安定化してくる。

また、自他感知の存在感(現実3)の世界を土台として築かれてくる言語も、もちろん、その根は自分中心の感覚的現実感(現実2)の集団共鳴にある。つまり、人間の言語活動として表れるあらゆる世間話、科学理論、経済・政治・社会活動、宗教および哲学は、言語の下敷きである自他感知の社会的存在感(現実3)の上にあり、さらにその社会的存在感(現実3)の根底は、自己中心的な身体感覚的現実感(現実2)の集団共鳴にあるといえる。

つまり(拙稿の見解では)言語を使って私たちが語りうるすべては、人間の群集団における自己中心的な身体感覚的現実感(現実2)の集団共鳴を下敷きとして作られている。現代科学も現代哲学も、すべての認識の最下層をなしているこの下敷きの構造を見過ごしている。

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私はここにいる(16)

2009-03-07 | x9私はここにいる

これは、どうも、こういうことではないか? 

まず、目に見えるこの客観的な物質世界(現実1)には、強烈な存在感があって、この現実は存在するとしか思えない。私たちはこの客観的世界の中で、会話し、生活し、仕事し、科学し、あるいは哲学論文を著述する。しかしまた同時に、身体で直接感じられる快不快など感性の現実(現実2)にも、さらに強い存在感があって、こちらもとても否定できるような気がしない。現実とはいったい何なのか、という哲学的な問題を考える前に、この、私たちが身体で感じる、現実感、存在感という感覚のいろいろな現れ方は何なのか? まず、この辺を調べる必要がありそうです。

これらの現実感は(拙稿の見解では)一種の感情です。感情は対象を認知することで感じ取るもの、というよりも、対象に対応して無意識のうちに身体が反応することから感じ取れる感覚変化自体を感情というべきでしょう(一八八四年 ウイリアム・ジェームス感情とは何か?

机の上にリンゴがある。

私はそれを見る。

机の上にリンゴが存在するから私が注視するのではなくて、(拙稿の見解では)私が注視するからリンゴが存在する、といえる。私の身体がリンゴからくる感覚信号を取りまとめ、そのまとまったものに無意識のうちに強い印象を受けて、それに反応して身体が変化する。つまり無意識のうちに、動眼神経が働いてそれに注視し、網膜中心部の視神経にその映像による神経信号を発生する。その赤くて丸いものに触ろうとして腕の筋肉が緊張する。「リンゴ」という音声を発音しようとして舌の筋肉が緊張する。無意識の、そのような身体の変化が、リンゴの存在感として感じられる。同時に、そのリンゴの存在が現実だ、という現実感が私たちの内部に発生する。私たちはそれをもって、リンゴが存在する、と感じるのではないか?

リンゴは、それが存在するから存在するのではなくて、それが存在するかのように私たちの身体が変化するから、存在する。私たちの身体は、リンゴに対してリンゴに対するように変化する。リンゴに対するようにそれは私たちの身体を変化させるから、それはリンゴである、といえる。

動物としての私たちの身体は、リンゴに対してそう変化することで生存繁殖に有利になるからそう変化するように進化した。リンゴの赤々とした色を見て、その丸い形と大きさを見て、私たちの神経系がそれを注視するように目玉を回旋させる。手を伸ばしてそれに触れさせる。唾液を出させる。そうなるように筋肉と分泌腺を変化させる。そういう私たちの身体の物質的変化が、私たちの中にリンゴの存在を作り出している。これが(拙稿の言う)存在感であり、それが感じられることで現実感が生まれる。

拙稿の見解としては、これらの現実感覚がどこから来るのかを見極めることで、以下のように、自分中心感覚世界(現実2)の中に客観的物質世界(現実1)および自他感知世界(現実3)を埋め込むことができると考えています。

机の上のこのリンゴなど、私たちが目の前に見ているこの客観的物質世界は、(拙稿の見解によれば)私たち人間どうしが物質の存在感をたがいに共有することから、これらがしっかりと存在すると感じられる(拙稿6章「この世はなぜあるのか?」)。たとえば、私というものは、私たちが仲間の視線を共有して、不特定の他人の目で外から見える私の外面を認めるところから来る(拙稿12章「私はなぜあるのか?」)。また、物質にかかわる仲間の人間の運動との共鳴が起こることで、一群の身体運動‐感覚受容シミュレーションが共有され、それによって世界が分節化される。このシミュレーション群による世界の分節化は、主語述語からなる言語を生成して、世界を安定して存在させる(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」)。

私たちは、このように、(拙稿の見解によれば)赤ちゃん時代の自己中心的な感覚世界からはじまって、まず現実2(自己中心感覚)をつかみ出す現実感覚を身に付ける。それを下敷きにして、集団共鳴機能により仲間の人間の運動に共鳴する身体反応をシミュレーションとして分節化することで、現実3(自他感知)の現実感覚を作り出す。続いて幼児の時期に、それを使った擬人化操作に習熟して言語をつかみ出すことで、物質世界を客観的にモデル化していって、(幼稚園から小学校入学のころ)ついには現実1(客観的物質世界)を手に入れる(つまり現実2から現実3と現実1が生成される)。

現実1(客観的物質世界)を、すでにしっかり獲得してしまった小学生は、その存在感のあまりの確かさと力強さに圧倒される。自分が泣いてもわめいても、まったく聞いてくれない、現実世界の厳しさ。逆に、物質の法則を身につけてそれにしたがって身体を動かせば、予想したとおりに正確に変化してくれる物質世界の確かさ、信頼感。そういう客観的物質世界の存在感を、子供の身体は覚えこんでいく。現実世界のきびしいが信頼感のある法則が、成長する子供の身体の中に埋め込まれていきます。

ところが、その中に埋没して、その(現実1=客観的物質世界の)中で懸命に身体を動かしてしているうちに、ときたま、自分の無意識な身体がいまだに使っている現実3(自他感知)や現実2(自己中心感覚)との不整合に違和感を覚えて、混乱を起こす。その混乱が(拙稿の見解では)現代人の多くが青少年期に経験する心理的不安定の一因でもあり、また歴史的には、宗教や哲学の起源ともなっています。

私たち現代人の大人は、客観的な物質世界(現実1)だけが現実だと思っている。そうすると、たとえば、内面の自分というものは、実は客観的物質世界(現実1)の中にはきちんと見つけることができない。哲学者や宗教家、あるいは文学的感覚の鋭い人々は、この二つの現実の不整合に気づく。自分が今、内面で感じているこの自分というものは何なのか? それが分からない。そして、混乱する。

自分という不可思議なもの、自我、がどこから出てきたのか分からない。そういう意味で、すべての現実は自己中心感覚の世界(現実2)から生まれる途中でひっかかっている。私たちは、この客観的現実(現実1)だけが大事だ、と思いながらも、この客観的物質世界(現実1)が主観的世界(現実2)から作られたことを忘れている。

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