自分でそう思う。自分はこの道のこういうスペシャリストであってそれ以外の者ではない、と思う。思いたい。それが誇りです。しかし、どこかに悲しみのようなものがあります。
競争に勝ち残ってしまったことの悲しみ。社会の役に立ち認められ感謝され報いられ利用されることの悲しみ。成功を得て競争がほとんど終わってしまったことの悲しみ。そういう最後の悲しみに耐えてスペシャリストであり続けなければ社会で重要な役割を担うことはできません。
その悲しみもスペシャリストになれたからこそ味わえる、ともいえます。若い人は、いつかその悲しみを味わうために、まずは、できるだけ優秀なスペシャリストになることを目指すべきでしょう。■
(50 スペシャリストの悲しみ end)

ここでは勝てたけれども、あそこでは勝てなかった。ここでは立派なスペシャリストだけれども、あそこではスペシャリストになれていない。ふつう、そういうことが当たり前です。それが悲しいといってもだれも聞いてくれません。
社会的に成功するためには、何かができるスペシャリストであるしかありません。家族の中で幸せに生きることと違って、大きな社会に出て認められるということはスペシャリストになるということです。社会的な競争に勝つためには、いずれかの道で実力を発揮するしかないでしょう。
それほどの苦労も競争もしないで、すべてに勝る地位に就いてしまうような人がいるとすれば、その人はスペシャリストの悲しみとは無縁であるはずです。万能感を維持したまま、万能の権力を得られれば悲しみなどあるはずがありません。
そういう人が実際、いるのでしょうか?
帝政ローマの皇帝マルクス・アウレリウス(121-180)は自省録で、皇帝としてではなく一人の賢人として処世術、つまり人生の諸問題への対応方法、を述べています。それを読者にというよりも、自分に向かって語っている。この人は、世界最大の皇帝として権力の絶頂にあったにもかかわらず、全然自慢話をしていません。むしろ、いつも自分の至らなさを反省し自らを戒めています。
どうもこの人は、自分は皇帝という職業のスペシャリストであるが、どの人間も結局何らかのスペシャリストであるから、その意味で同列だ、と思っていたようです。
別に、リベラルということではありません。女性は弱いと思い、ローマ人以外は勇気が足りないから戦に勝てないと思い、奴隷はそれなりに幸せだ、と思っていたようですから、とても現代的人権尊重思想は持っていませんが、理性的な人間像を深く追求していたようです。
スペシャリストに関する次のような意見を(自分に向かって)述べています。
「たいしたものとまでは言えなくとも自分が習得した技術を大事にして、それで満足せよ。暴君にもならず人の奴隷にもならず、自分の持てるすべては神々の思し召しのおかげと心から信じる者のように残りの人生を送れ(マルクス・アウレリウス『自省録第4巻』訳筆者)」
つまり、この皇帝は、自分もローマ皇帝という一介のスペシャリストであるが、どの道のスペシャリストであろうとも自己の技術、力量には謙虚であると同時にプライドを持って節度ある人生を過ごすべし、と思っていたようです。実際、皇帝に必要な技術に関してはかなり自信を持っていたようですが、スペシャリストとしての技術よりも人格の向上に努めて自省を重ねていました。
ただの皇帝スペシャリストに終わりたくないと思っていたのでしょう。一介の皇帝スペシャリストとしてローマ帝国の維持という立派な業績は残すことができるものの、それだけではむなしい。人間の生き方として偏ってしまうのでは仕方がない、と思っていたようです。
文明化された時代において、優れたスペシャリストにならなければ社会の中で重要な役割を果たすことはできません。実際、人生の成功者は優秀なスペシャリストです。
若い人は、その属する社会の中でスペシャリストになって重要な役割を果たすことに人生の努力を集中し、競争し、勝利を求めます。同じ役割のスペシャリストの間で、強いものが勝つ、といえば当然ですが、現代は、勝つ人のほうが少ない。なぜならば、どのスペシャリティであろうとも競争の場は広く国全体、世界全体におよび、参加しようとする人の数はどこまでも多くなるからです。
かつては数十人の中で勝ち残れば立派なスペシャリストでしたが、現代では数千数万のライバルとの競争に勝ち抜かなければ、自他ともに明らかな勝者とは認められないでしょう。
個性、能力、才能の面で抜群の力があるものだけが勝ち残ります。もちろん、運もある。しかし運も含めて勝ち残った者が成功者と認められる形は昔も今も変わりません。いずれも、その競争の場で勝ち残ったということで成功したスペシャリストです。スペシャリティのその名において社会の役に立ち社会に認められ、それを自分と思う人になります。
そのとき、自分が確かにそのスペシャリストである、と自信を持って思うことができる。しかしそのとき同時に、自分は他の何者でもない、そのスペシャリストでしかない、と思わざるを得ません。
勝ち残って、それで終わりになるのか? 何か他にはないのか?スペシャリストであるからには、それ以外の何かがあるはずはありません。他にないからこそ、その道のスペシャリストになれているはずです。

スペシャリストであるこれらの主人公たちは、しかし、どこか悲しいように見える。見事に仕事を完成させているのに、なにか虚無感を漂わせています。それは、抜群な実力のすごさ、完璧な仕事の完成度、と関係がありそうです。
スペシャリストは強い。しかし無限に強い人はいません。強ければ強いほど、広い世界に出る。ますます広い世界に出れば、ますます強いものと出会う。トーナメントのように勝った者同士の勝負になります。
勝てば勝つほど、どこまでも強い相手が出てくる。いつか勝てなくなります。あるいは、最後に負ける。負けて殺される。ひそかに暗殺される、社会から抹殺される。業績は霧消する。
あるいは平穏無事に余生を送る場合もありますが、それはそれで虚しさが漂う。なした仕事の偉大さに比べて、終わった後にはほとんど何も残らないからでしょう。
現代であれば名前くらいは残るかもしれない。新聞記事にもなるでしょう。テレビに映されればビデオをとっておける。うまくすれば何冊かの本に肖像写真が残るかもしれません。しかし、それが自分なのか?
社会の中で生きるためにはスペシャリストになるしかなかった。それがいやではなかったどころか、居心地は良かったでしょう。社会を作る立派な集団に属してその中で必要とされるスペシャリストであれば、この世界での居場所ははっきりとある。
自尊心も満足される。それで努力する意欲がでてきます。社会において、たいていの場面では、そこで必要とされるスペシャリストであるほどうまくいく。スペシャリストとしての技術に努力研鑽するほどうまくいきます。それでその道の立派なスペシャリストになります。しかしそれはその道の立派なスペシャリストである、というだけでもある。別の世界ではスペシャリストになれていない、ということでもあります。
何者にもなれていないけれども何者にでもなれるかもしれなかった若いころは、どうだったのか?スペシャリストの内部に今もその若者がいるとすれば、何者にでもなれるはずであったことを何かを失ったかのように悲しく思い出すのかもしれません。

たとえばこれら無名のスペシャリストの対極には、現実の歴史上のヒーローがあります。歴史の教科書に肖像と名を残しています。戦いに大勝利し、政治的に人気が高く国民に一時的な幸福をもたらすが、最後にはたいてい負けて見捨てられます。
アレキサンダー、シーザー、曹操、織田信長、ナポレオン、アイゼンハワー・・・。軍隊、家臣団、国家を操作するに長けるジェネラリストであったといわれます。しかし、歴史の記述を調べると、これらの英雄たちは、一芸に秀でたスペシャリストでもある。
彼らは、それぞれの時代の軍事技術を実戦に応用する名人でした。密集甲殻槍歩兵を使いこなしたアレキサンダー。要塞包囲戦に長けタイミングよくサイコロを投げて渡河攻撃を実行したシーザー。孫子を応用して伏兵奇襲に優れた曹操。鉄砲大量調達大量使用を実現した信長。大砲配備の名人ナポレオン。戦略爆撃大編隊と大上陸作戦を実現したアイゼンハワー。
ずばぬけた実戦の達人たちです。スペシャリストとよぶべきでしょう。
しかしなぜ、飛び道具や刃物扱いのスペシャリスト、あるいは軍隊編成のスペシャリストたちが活劇のヒーローになるのでしょうか?たぶん、私たち読者観客がそのような個人の特殊な力にあこがれ、自分もそうであればというひそかな願望を持っているからだと思われます。
スペシャリストは社会に対して強力な影響能力を持つがゆえに存在感が強い。大きな集団の中で個人として集権的な影響力を持っています。そうして、権力を握る。あるいは高収入を得る、あるいはヒーローになる、ということが可能となります。そうした属性をだれもがうらやむことは当然でしょう。
ではどうすれば、人はそのようなスペシャリストになれるのか?それは持って生まれた才能。そして研鑽。しかし人並外れた能力は天才といえるでしょう。そうであればそれは私たちにはかなわぬ願望であって、マンガやドラマで楽しむしかない。それで絶大な観客数を集めます。

スペシャリストはその専門の世界において一般の人と違う優れた感覚を持っています。しかし、そのおかげで、一般の人がその世界をどう感じているか、すっかり分からなくなっている。たとえば、電車の世界で、職業運転手は人々がどんな心持で電車に乗っているのか、分からなくなっています。
内視鏡検査の専門医は、インフォームドコンセントに署名する患者が何を考えているのか、実はよく分からない。システムエンジニアは、自分が設計したシステムの点滅ボタンをおじいさんが押すとき、何を思って押すのか、実はよく分かりません。
スペシャリストは、自分の世界がふつうの人にどう見えるのか、分からない。自分の世界以外と自分の世界とが、どういう関係でつながるのか、分かりません。もしかしたら、全然つながらないのかもしれない。
自分の世界では自分が何者であるか、はっきり分かっている。しかし自分の世界以外では、自分は何であるのか、はっきりしない。自分がそういうことを分からないということも分からない。しかし、ちらっとそれが分かるとき、スペシャリストは悲しい。
スペシャリストは、その職業がどれほど立派であろうとも、その世界の外では、自分がないように思えて、悲しい。いや、むしろ、そのスペシャリティが立派であるほど、外に出ると、それ以外の自分がなくなるようでいやなのでしょう。
私たちが思うスペシャリスト、とはどのようなものでしょうか?
マンガなどに登場するスペシャリストのイメージを見てみましょう。
証拠は絶対に残さず決して失敗しないという実績のため世界中の政府から闇の依頼が来るがギャラが法外に高い暗殺スナイパー。プライドが高く孤独。不遜だが実力が抜群なのでだれもいじめることができません。拙稿本章で扱うスペシャリストという言葉の語感にぴったり来ます。
凄腕の無免許外科医。あるいは天皇陛下の手術を執刀する心臓外科医。いや実在の人物がどういう人かではなく、私たちのイメージのことです。
二刀流を開発して天下無双の殺傷力を発揮するが、武士としてはさっぱり出世しない武芸者。免罪で刑務所にいた経験から抜群の犯罪心理分析の能力を獲得した刑事。ドラマの主人公になっています。
だれもが尊敬する神業的技術を持ち、社会に大きく貢献するが、人知れず栄達から遠い。専門領域以外では不器用無愛想で社交性がなく孤高、出世欲もない(あっても空振り)。マンガの典型的ヒーローです。
素晴らしい能力のわりに人知れず(伝説になったりはするが)歴史の陰に消えていく。

(50 スペシャリストの悲しみ begin)
50 スペシャリストの悲しみ
「運転手は君だ。車掌はぼくだ。紐しっかり持って。さあ、みんな、はやく乗って。うごきまーす。」
運転手はじょうず。電車ははやい。
「えきー。えきー。気をつけてお降りください」乗客は入れ替わっても、運転手と車掌は変わりません。運転手はスペシャリストです。車掌もスペシャリストです。
電車を運転できるのは運転手だけですし、乗客の乗降を管理できるのは、車掌だけだからです。
市電の運転手は一日中運転をしています。しかし乗客は、一日中乗客をしているのではなく、電車に乗っている時だけ乗客になっているのです。乗客は切符を買って電車に乗りますが、運転手は切符を買わなくて乗れるのです。運転手は切符を買わなくてもよいが、運転をしなければなりません。
乗客の職業は様々ですが、運転手の職業は運転手です。乗客は電車に乗っていれば乗客ですが、電車を降りて家に帰ればもう乗客ではありません。運転手は電車を降りて家に帰っても運転手です。運転手はスペシャリストだからです。
乗客が四人だけでも運転手が運転しなければ乗客は乗客になれません。電車を長く連結して乗客が千人乗ったとしても運転手一人が運転すれば乗客は全員が乗客になれます。運転手はスペシャリストです。
乗客が、電車の中では、何者にでもなれるジェネラリストであるのに、運転手は運転手であるしかないスペシャリストです。
運転手が運転をやめるときは、どうなのでしょうか?
運転手が定年で退職したとします。それで一乗客として電車に乗る。それでも元運転手は、なかなかふつうの乗客のように無邪気に電車に乗っていることはむずかしい、と思われます。加速減速のエネルギー量が分かってしまう。回旋時のラテラルフォースが分かってしまいます。体感で分かる。身体の緊張感で分かるわけです。
運転手は、ふつうの乗客が電車にガタガタ揺れられて居眠りするときの気持ちよさが、分かりません。電車というものを、ふつうの人が感じるものとかなり違って感じているのです。その点において、運転手は一生、運転手であるしかないのかもしれません。
