実用的ということと、基本原理が説明できるということとは、違う。だれもが日常的に使っている世の中の実用的な知識というものは、適当によく当る推測を作れればよいのであって、なにも基本原理が説明できる必要はない。たとえば、潮の満ち引きの時間と量の関係は、ニュートン力学以前の時代から正確に予測できていて、河川管理や港湾作業などに使われていました。ニュートン力学が見事にその基本原理(月の引力の影響)を説明した後でも、予測精度はすこしも上がらなかった(二〇〇〇年 ロバート・クミンズ『{どう働くか?}対{法則は何か?}』)。私たち生活人が知りたいのは、実用的な精度の良い予測方法であって、基本原理の説明ではない。そのため、実用的な程度に予測精度がよい理論モデルを手に入れると、それが錯覚にもとづく間違ったものであっても、私たちはもうそれで、基本原理が分かっているような気になってしまうのです。
物事の動きや変化に関するこういう錯覚は、人間の生存に有利です。運動変化する物体の内部に力や欲望や意思がある、という理論モデルを作ってそれを使うと、世の中の物質や動物や他人の行動を、だいたいはうまく予測できます。それらの大雑把な法則を学習すれば、実用的な立ち居振る舞い、人付き合い、処世術、政治、経済から、民間療法、実用工学、実用物理学や実用心理学、実用社会学、など生活に必要なすべてがつくれる。自分の周りの人間がこれからどう動いていくか、の予測モデルが作れるわけです。
「人間というものは、何かこうなったらいいな、という欲望ないし意図を持って、それを目的として実現する行動を計画して実行するシステムなのだ」という人間の理論モデルが作れる。他人を眺めて「あいつは何が欲しいのだろうか? 金か、名誉か?」と憶測する。それで、彼がこれからどう出てくるかを予測できる。それで、たいていは成功する。実生活では、それでよいのです。
ここで、大事なことは、力や欲望や意思、という他人の行動の内部要因を感知する錯覚は、言葉で言い表される以前に、私たちは直感で感じる、ということです。私たちはいつも、言葉を使って、力や欲望や意思、について語り合いますが、言葉は直感にもとづいて使われている。そこで直感を無視して、言葉だけにとらわれて哲学を進めると混乱が起きる。力や欲望や意思、というものは言葉以前の直感に根付いている錯覚だということを、忘れてはいけません。
このことは、言語以前の幼児の行動実験でも明らかにされています。たとえば、生後五ヶ月の幼児は、繰り返し何度も、おもちゃのクマさんを選んで掴み取る人の手をみると、その次にも、その手は、おもちゃのトラックなどではなくクマさんを掴み取ると期待していることが観察される(二〇〇七年 スペアペン、スペルク『どの人形でも?十二ヵ月児の目標物理解』)。
他人の行動に対してこういう見方をしているうちに、人間は自分のことも同じような理論モデルで見るようになった。つまり、他人に乗り移った気持ちで、他人の視線で自分の身体を外から眺めると、自分が他の人間を見る場合と同じように見えるはずだ、と思う。実際、鏡で見る自分の身体は、他人が見る場合と同じだと感じます。自分の行動に関しても、私たちは、こう見ている。「自分というものは、何かこうなったらいいな、という目的を持って、それを実現する行動を計画して実行するシステムなのだ」と、自分を決め付ける。
「自分というものは、お金持ちになりたい、という欲望を持っているはずだ」とか、「自分というものは、お金より、出世して人に尊敬されたい、と思っているのだ」とか「心豊かに平凡な人生を送りたい、と思っているのだ」とか決め付けて、自分というモデルを作っていくわけです。
この自分モデルを使うと、計画行動、つまり、目的を思い描いてその実現のための行動を計画する、という行為ができるようになる。これは人間の特徴です。サルなどは、他人から見た自分、というモデルがうまく作れないので、しっかりした計画行動も人生設計(猿生設計?)もできません。
私たち人間の場合、自分の運動の結果予想を脳内でシミュレーションすることで運動の計画が可能になる。過去の経験の記憶を参照して、類推し、想像し、いろいろな行動のシミュレーションを行って、行動の結果を想像する。他人の目に見える客観的な自分の行動の結果を予想できる。私たちは、いつも、想定の運動を実行した場合の自分の身体の状態変化から社会的立場の変化まで、さまざまな観点から結果を予想しています。
その場合の自分の感情の変化も想像する。その行動をしたくなる衝動はどれほど強いだろうか? 幸福感があるだろうか? 敗北感に傷ついているだろうか? その衝動の予測、幸福感、勝利感、不幸感、敗北感などの想像を比較して、種々のシミュレーションを評価する。なりたい自分、というシミュレーションが選ばれる。それが自分の「欲望」であり、自分の「目的」になるわけです。
それからその目的を達成できそうな行動を実行する。目的を追求する計画行動です。自分の欲望、期待、目的、という錯覚を作り出して、それを達成するために行動する自分、というシミュレーションを脳の報酬回路に結び付けて自分を駆り立てるための報酬の構造を設定する。そこからさきは、脳内に設定された報酬構造にしたがって、ドーパミン、アドレナリンなど神経伝達物質が分泌され、反射が起こり、学習されたシミュレーションに沿って連鎖的自動的に運動が進んでいく。
動物は、脳の中で自動的に運動形成をして、それを筋肉で実行する。それだけです。しかし人間の場合は、自分の脳内の仮想運動を感じて、それを自分の衝動と感じ、それがある目的から計画された自分の行動計画であることを思い出して、それを自分の意図と感じます。また、形成された仮想運動に沿った筋肉の運動が起こることを感じて、私たちは、自分という人間がそう動きたかったのだ、それが自分を動かす衝動だ、と思う。そして、自分はそう動こうと思ってそう動いた、という記憶を作って保存する。この仕組みを使って、私たち人間は自分が計画行動をした、つまり欲望を満たすために目的を定めて行動の意思を持ったから身体が動いた、と思い込んでいるわけです。
計画行動をする人は、いかにも理知的に見えて印象が強い。特に成功した場合、鮮やかな印象を残す。自分が成功した場合、特にそうです。それで、他人の場合も自分の場合も、そういう理詰めの行動が目立ち、印象深く記憶する。すると私たちはこればかりをしているように思える。しかし実際、計画行動は人間のいろいろな活動の中のほんの一部です。
行動を計画する場合、人間は、脳内で予測シミュレーションを運転してそれを評価して目的を作る場合が多い。しかしいったん目的を立ててしまうと、そのさきははっきりした仮想運動が作られずに、目の前の出来事に影響されながら過去の学習などで習熟した習慣的な行動が実行されて事態が進んでいくことがふつうです。
たとえば、計画行動をしている途中で、目の前の出来事に影響されてすこしずつ気が変わっていく。カレーライスを食べにレストランに入っても、メニューを見てスペシャルチキンライスにしてしまう。そのうえ、店員に「大盛りにしますか?」と聞かれると、どうしても大盛りを食べたくなってしまう。店に入る前に、本当に、大盛りスペシャルチキンライスを食べたいという欲望があったのか? とてもあやしい。それなのに、人間は、自分は大盛りスペシャルチキンライスを食べたいという欲望をはっきり持って、レストランに行ってそれを食べたのだ、と記憶するのですね。現代哲学でも、このような言語化により欲望、信念が形成される、という理論があります(一九八七年 ダニエル・デネット『ブレーンストーム』)。
さて、拙稿の見解では、欲望、意思、あるいは意図など、常識では人間の行動の源泉とされているものは、実際にはこの世界には存在しない。そういうものが、動物や人間の脳の中にある、と思い込むのは錯覚です。動物は、感覚刺激が変化することに対応して反射的に運動する。人間は、それに加えて、脳内の記憶からシミュレーションを映し出して仮想運動を形成し、それに対応して反射的に運動する。
人がある行動をするのは、そうしようと思うからだ、つまり意思があるからだ、と私たちは常識で考えますが、(拙稿の見解では)これは間違った理論です。
このことは、よく考えてみれば、簡単に分かります。たとえば、次のように話をつめていくと、変なことになってしまうのですね。
まず、手を挙げてみてください。では、質問します。
「なぜ、手を上げたのですか?」
「手を上げたのは、手を上げようと思ったからです」
「なぜ、手を上げようと思ったのですか?」
「手を上げようと思ったのは、手を上げようと思おうと思ったからです」
「なぜ、手を上げようと思おうと思ったのですか?」
「手を上げようと思おうと思ったのは、手を上げようと思おうと思おうと思ったからです」
・・・・
と無限の問答(一九四九年 ギルバート・ライル『心の概念』)が続いてしまうわけですね。
夜、部屋に帰ってきて、スィッチを押すと明かりがつく。この場合、スイッチを押したのは明かりをつけたいからです。明かりをつけるという意図があった、といえます。では、スイッチが壊れていて明かりがつかなかったら? この場合も明かりをつけるという意図はあったのか? ふつう、あった、と思えますね。
では、実はスイッチが壊れているのを知っていて、それを知らんぷりして明かりをつけるふりをするためにスイッチを押したのだったら? この場合、明かりをつける意図はなかった、といえますね。
私はその壊れたスイッチを押しながら客人を部屋に案内します。明かりがつかないうちにその部屋に入った客人は、そこにあった見えないガラスケースを蹴飛ばしてしまい、ケースから放り出されたコブラに咬まれて死んでしまいました。私は殺人の意図を持っていたといえるのでしょうか?スイッチが壊れていることを知っていたか知らなかったか、知っていて忘れてしまったか、忘れたふりをしたのか。だれの目にも見えない心の中の、信念の違いによって、殺人の意図が存在したかどうかが決まる、ということになる。
まあ、スイッチを押すという単純な運動もそれに関する意図とか欲望とか信念とかは、他人の目に見えず、なんとも分かりにくいものです。それでも、意図という概念で殺人罪になったりならなかったりするわけです。スイッチを押すという運動が、世界をどう変化させるかの脳内シミュレーションの予想が違うと、意図や欲望はそれに応じて違ってくるはずだ、という理論を、人間は持っているからです。社会生活では、それが大問題となるのですね。
しかし、(拙稿の見解のように)私たちの身体の奥から湧き起こる欲望、意思、あるいは意図などというふしぎな何かが身体の運動を起こすわけではない、と考えれば問題はなくなる。そういうものは錯覚ということになるわけです。なぜそういう錯覚が存在するのか? 人間が、他人と自分の行動を上手に予測し、互いに言葉で説明しあって共感し協力し、また長く記憶して経験として役立てるために便利だったから、人間行動を記述するためのそういう錯覚が作られ、「欲望」、「意思」、という言葉で名づけられた。そして皆で、自分たち人間には欲望がある、意思がある、と言い合うことで、それらがあることになったのです。
欲望はなぜあるのか? 言い換えれば、欲望という理論を、なぜ私たち人間が持っているのか? (拙稿の見解によれば)これがその答えです。
人間も他の動物と同じように、目や耳や嗅覚で感じる感覚刺激に応じて、反射的に身体が動く。人間の場合、直接の感覚刺激に対しても反射的に運動が起こるが、同時に(たぶん別系統の脳神経系の働きで)記憶からの連想によって作られるシミュレーションに対して反射的に運動が起こる、という特徴がある。つまり、(拙稿の見解では)人間は、目の前の光景ばかりでなく頭の中で想像した世界の構造、知識、記憶、予測などが与える現実感と存在感に反応して身体が動く。そして、こちらの運動を自分の意思でした計画行動として記憶しています。
たとえば、ビルのエントランスロビーに飲食店の案内パネルが並んでいます。ラーメンがいいかな、カレーかな? 自分がラーメンを食べている場面とカレーを食べている場面とを無意識のうちに想像して比較します。これは、過去の経験から造られた記憶と知識から作られるシミュレーションです。それらを思い出しながら、考える。どちらか、さっと決まるときもあれば、うーん、どっちが食べたいか自分でも分らない、というときもある。脳でシミュレーションが回転している。ラーメンを食べている場面のシミュレーションでは、その経験が感情とともに感じ取れます。カレーの場面に比べて、ラーメンのほうが実現して欲しいという感じがする。それでラーメン屋さんのほうへ歩いていくわけです。さらに、自分ばかりでなく人間はだれも、こういう経験をしているだろうな、と想像できる。それでこういう場合、「ラーメンを食べたいという欲望がある」という言い方をすることにしたのです。
結局、人間のランチも、動物が目の前の食べ物に食いつくこととあまり変わらない。アリがミミズに食いつくとか、アリ地獄がアリに食いつくとか。私たちは素朴に、昆虫などの脳のどこかに欲望という神秘的なものがあって、それに駆動されて運動神経が動くのだろう、と思っています。しかし昆虫の神経系は、コンピュータでシミュレーションできるような機械的なアルゴリズムで動いていることが分かっています。食べ物の刺激に対応して機械的に反応して、食いつき運動が起こるのです。
人間の場合、脳内で回転するシミュレーションが作る仮想の(ラーメン屋での)食事風景の連想に対応して、昆虫の採餌運動と同じ反射神経による(仮想運動の)食いつきが起こるのです。たぶん、人間のこの神経系は、もともとは、誰かがおいしそうにラーメンを食べているところを見て脳の中でその運動をまねる、という神経機構から進化したのでしょう。ラーメン屋の案内板を見ることで、シミュレーションの仮想運動が起こる。その仮想運動からの連想に導かれて、私たちはラーメン屋に向かうのです。クモが蚊を網で捉えて食べるのとあまり変わらない。見事な仕組みで餌を採りますが、単純な反射が、進化の結果、複雑な連鎖として組み合わされて洗練された動きをつくりだしているのです。それを見て、人間は本能だとか欲望だとか見なして理解しようとする。
そういう理解は実用的です。人類の生活に役立つものの見方です。人間は欲望から意図をつくって、それで行動する。そういう見方は実用的で記憶しやすい。この見方に慣れ親しんでくると、自分の内部にその欲望が実在する、と感じるようになる。それが、私たちの感じる自分の欲望です。それは錯覚ですが、しかし、その錯覚は便利で使いやすい。言葉を使って、それについて人と話せる。欲望という言葉、「私はそれをしたい」という言葉、などを使えば、だれと話をしてもそれでうまく通じる。独り言を言って自分で自分の行動を理解し、目的を思い出し脇道にそれないで、最初の目標にたどり着くことができる。それで、私たちはこういう見方をしっかりと身につけ、それをうまく表現する言語体系を持っているのです。一般的にいえば、言葉は仮想運動を形成する連鎖の過程として生成される、といえる。この点に関して、概念は行為に直結している、という考えが、現代哲学では提唱されています(二〇〇四年 アンディ・クラーク 『概念を働かせる』既出)。
私たち人間が、欲望あるいは意思、と言っているものは何なのか、その実体を示唆するよい実験例があります。
「目の前に置かれた二個のリンゴの一つを選んでください」と言われたあなたは、一個を手に取る。「なぜ、それを選んだのですか?」、「こっちのほうが、色がきれいだから」とあなたは答えます。実は、右手に近いほうを選んだだけだ、ということは実験を繰り返すことで分かっているのです(この実験例は一九九六年 ピーター・カルーサーズ『心の理論の理論(シミュレーションと自己知識)既出』)。それなのに、あなたは尤もらしい理由を言って、本当に自分がそう思っている、と思っている。錯覚によって自分が自分にだまされている。けれども、いったん、言葉でそれを自分の欲望だと言ってしまうと、もう、ぜひそうしたくなる。それが、あなたの欲望、意思というものなのです 。
【より鮮明な実験例が、分離脳患者の認知実験で挙げられています。左右の大脳の連絡が切断された患者の左視野(右脳だけにつながる)に「歩け」と書いたカードを見せると、彼は歩いて部屋から出ましたが、そのとき「なぜ、歩き出したのですか?」と聞いたところ、「ああ、コーラを飲みたくなったから取りに出るところですよ」と答えた(一九九五年 マイケル・ガッザニガ『意識と左右脳』)。言語を発生する左の大脳は、身体運動の結果だけを見て他人の行動の要因を推測する場合と同じ方法で自分の行動の要因を推測した。この実験で重要な点は、この患者がまったく支障なく、また支障の自覚なく、社交や仕事などふつうの生活をしていることです。つまり、左右分断のない正常な脳を持つ私たちも同じように、こういうような自己の行動の結果だけから推測する自己の欲望の、解釈による自覚、という仕方を使って毎日を生きている、ということを、この実験は示唆しているわけです】
結局、動物の行動も人間の行動も、進化の結果できあがった神経回路ネットワークの複雑な物質的過程によって現れる現象です。将来いずれの時代にか、科学によってその全貌は詳細に、物質現象として解明されるでしょう。それはまだまだ先です。私たちは、DNAもたんぱく質も知らずに「カエルの子はカエルだよな。あっはっは」と言っていた江戸時代の人々と同じように、「人間は欲望で行動するのだよ。あははは」と、おおらかに言い合っているだけなのです。
(10 欲望はなぜあるのか end)