拙稿のいうように、だれもが真実と思うのならばそれが真実である、と決めつけてしまえば、人間は(そのような意味での)真実を知ることができる、という答えに導かれざるを得ないでしょう。したがって拙稿の結論としては、人間は真実を知ることができる、と肯定的に言い切ってよい。しかし単純に、大声でこの結論だけを叫ぶことは遠慮します。なぜならば(拙稿本章でくどくどと述べたように)真実を知るということ自体が、私たち人間の身体が仲間の行動と共鳴する身体のつくりから来ているとすれば、真実を知ることはその身体の限界のうちでできることであって、限界を超えることはできない、という注釈が必要だからです。
その限界はどのようなものであるか?宇宙の果てが限界なのか?宇宙の始まりが限界なのか?電子顕微鏡の解像度が限界なのか?素粒子の加速エネルギーが限界なのか?生命の起源が限界なのか?人間の寿命が限界なのか?
それとも、生死、善悪、愛憎、幸不幸、自分の運命や人類の未来を知ることが限界なのか?私たちはそれを知ることができるのか? そういう疑問が出てきますね。しかし残念ながら、私たちがこの身体を持っている限り、その身体がつくる限界そのものを私たちが知ることはできません。
私たちの身体が仲間の行動と共鳴する部分については、私たちは真実を知ることができる。身体が共鳴しない部分については、私たちは真実を知ることができない。そこに限界があることもほとんど知ることはできない。直感で感じ取ることはできません。
私たちはいずれ遠くない将来、自分たちがほとんどすべての真実を知っていると思うようになるでしょうが、それはそういう限界のうちで知っていることでしかありません。
いずれにせよ、私たちは私たちの身体が(仲間の行動と)共鳴しない部分については何も知ることはできません。それらを知ることができないことも(直感としては)私たちは知ることができないでしょう。
(35 人間は真実を知ることができるのか? end)