そうであれば、宗教が教えていることはもっともだと思うはずですから、宗教の教えを受け入れても問題はなさそうにみえますが、実際は受け入れない。信者になりません。なぜでしょうか?
それは、モラル以外の面で、宗教が嫌いな理由があるのでしょう。たとえば、抹香臭いのはごめんだとか祈祷が嫌いだとか、神学や教条が信じがたいとか。権威主義的なところが怪しいと思う、とか。受け入れないということは、取り込まれたくない、ということでしょう。
芸術としては百済観音もミケランジェロのピエタも、バッハのマタイ受難曲も、この世のものとは思えない天上界の美を感じさせるとは思うものの、それだから宗教が正しい、とはいえないでしょう。
宗教が教えてくれるようなこの世やあの世の作られ方も本当かどうか知りたいとは思うものの、科学と矛盾するような話は信じられないし、宗教家が真実を知っているという話も本当と思えません。科学が解明できていないことはたくさんあるらしいし、いつまでたっても解明できないことも多いだろうけれども、そういうことは科学者以外の宗教家でも文学者でも哲学者でも解明できないように思えます。
不可知論というか、人知のおよばない、言葉で語ることができないところに人生の根本がある、と思いたくなる。その根本的なところは、知りたくないわけではないけれども、どうせ知ることはできないし、考え込んでも間違った結論しか得られないだろうから、考えようとは思わない。つまり実人生においては敬遠して捨てておけばよい。そう思っている人々がたくさんいるということでしょう。
無宗教であるが現実に徹する人々ではないとされる人々の中には、かなりの割合で、実質的に、このようないわゆる不可知論に与する人がいるようです。
人生の一番大事な所はだれにも分からない。神父さんにもお坊さんにも、先生にも学者さんにも分からないだろう。分かっているように言う人は間違えているか、知ったかぶりをしている。ということになります。
個人の人生でも、一番大事な所はだれにも分からない。永久に分からない。となると、今何をしたらよいかも分からない。昨日したことがよかったのかどうかも分かりません。私が死んだあとも永久に分からないということになります。倫理もモラルも確信できない。そういう点では何事に関しても自信を持つことができませんね。
そのような人が現代の日本や北欧では増えているのでしょうか?