哲学の科学

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神仏を信じない人々(4)

2014-05-31 | xxx9神仏を信じない人々

そうであれば、宗教が教えていることはもっともだと思うはずですから、宗教の教えを受け入れても問題はなさそうにみえますが、実際は受け入れない。信者になりません。なぜでしょうか?

それは、モラル以外の面で、宗教が嫌いな理由があるのでしょう。たとえば、抹香臭いのはごめんだとか祈祷が嫌いだとか、神学や教条が信じがたいとか。権威主義的なところが怪しいと思う、とか。受け入れないということは、取り込まれたくない、ということでしょう。

芸術としては百済観音もミケランジェロのピエタも、バッハのマタイ受難曲も、この世のものとは思えない天上界の美を感じさせるとは思うものの、それだから宗教が正しい、とはいえないでしょう。

宗教が教えてくれるようなこの世やあの世の作られ方も本当かどうか知りたいとは思うものの、科学と矛盾するような話は信じられないし、宗教家が真実を知っているという話も本当と思えません。科学が解明できていないことはたくさんあるらしいし、いつまでたっても解明できないことも多いだろうけれども、そういうことは科学者以外の宗教家でも文学者でも哲学者でも解明できないように思えます。

不可知論というか、人知のおよばない、言葉で語ることができないところに人生の根本がある、と思いたくなる。その根本的なところは、知りたくないわけではないけれども、どうせ知ることはできないし、考え込んでも間違った結論しか得られないだろうから、考えようとは思わない。つまり実人生においては敬遠して捨てておけばよい。そう思っている人々がたくさんいるということでしょう。

無宗教であるが現実に徹する人々ではないとされる人々の中には、かなりの割合で、実質的に、このようないわゆる不可知論に与する人がいるようです。

人生の一番大事な所はだれにも分からない。神父さんにもお坊さんにも、先生にも学者さんにも分からないだろう。分かっているように言う人は間違えているか、知ったかぶりをしている。ということになります。

個人の人生でも、一番大事な所はだれにも分からない。永久に分からない。となると、今何をしたらよいかも分からない。昨日したことがよかったのかどうかも分かりません。私が死んだあとも永久に分からないということになります。倫理もモラルも確信できない。そういう点では何事に関しても自信を持つことができませんね。

そのような人が現代の日本や北欧では増えているのでしょうか?

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神仏を信じない人々(3)

2014-05-24 | xxx9神仏を信じない人々

神仏を信じているとは言えないが、いわゆるモラル、道徳心、公共心はしっかりとある人々。これらの人々は、暗黙のうちに身に付いた習慣、文化、嗜好、などから構成されるモラル、あるいは他人指向規範、あるいは伝統指向規範などに類するモラルを持っているのでしょう。そういう人々が多いとしても社会の規律はしっかり守られますから生産性の高い安定した社会を維持することは可能でしょう。

日本の例を見ても分かるように、安定した社会の維持という観点からは、無宗教な人々が多いことは致命的な問題ではなさそうです。ただし、宗教は社会の維持という機能だけを期待されているとは言えません。

個々の魂の救済、という表現が、宗教の役割としていわれます。個人の内面の問題、感情、精神的苦痛、幸不幸、運不運、人生の意義、あるいは人間としての理想的生き方、死後の世界への不安、など社会が立派であっても解決しきれないような悩みに対応する救済を宗教は用意するものと期待されています。

宗教は聖書経典、牧師僧侶の説教、教育、逸話、伝説などを通して個人の悩みに答えてくれます。それでは無宗教な人々は、これらの問題にどう対応しているのでしょうか?

まず、拙稿32章で議論した「現実に徹する人々」は、内面の悩みなど持たないでしょう。彼らはすべての問題を現実の問題として処理してしまうと思われます。

拙稿本章で興味があるのは、現実に徹することのないその他の人々です。この人たちは、宗教以外の手段でうまく内面の悩みを解決しているのでしょうか?

雑誌の占いを見る。インターネットを覗いて同じような悩みを持つ人の書き込みを読む。友達にメールする。話す。映画を観る。ゲームをする。やけ酒を飲む。パチンコに行く。海外旅行に行く。

教会や寺社に行く代わりに、こういうことですませるのでしょうか?

それとも、日頃の行いを正しく、モラルを守り誠実に生きていれば、不運を避けられて幸福が手に入る、と思っているのでしょうか?人のものを盗ったり、人を欺いたりして自分だけ料金を払わずに快適な列車にただ乗りするということはしたくない。真面目に働いてそれに見合うお金をもらえればそれで十分、と思っているのでしょうか?もしそうであれば、なぜ、そう思うのでしょうか?

神仏の教えに従っているというのでなければ、なぜそうするのでしょうか?

現実に徹する人々が考えているとおりであれば、現実には、個人が誠実にモラルを守るからといってそれがその人を幸福にするとは限らない。むしろモラルを守るコストをかけずに自分だけ抜け駆けし計略によって目的を達するほうが幸福を達成しやすい、となります。

現実に徹する人々のそういう考え方は、実は、現実に徹しない人々も知っていますが、そういう考え方は採らない。誠実に生きていることが大事であって、その結果として幸福になればよし、なれなくても残念でしたと諦められる。そういう考え方を持っているようです。そういう考え方は聖書経典あるいは説教で教えられたというよりも、若い頃からそう思っているようです。「人を信じて自分も信じられたい」というようなことをいいます。これも教えられたからそう思うというよりも、自然にそう思う、というようです。

こういう人々は宗教が教えるモラルを、はじめから納得しているということでしょう。宗教が教えているモラルを言葉で聞く前に、そのモラルが身についている、といえます。

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神仏を信じない人々(2)

2014-05-18 | xxx9神仏を信じない人々

日本ばかりではなく、世界中にこのカテゴリーに分類される人々は数多いようです。これらの、現実に徹する人々ではなくて無宗教の人々、はどういう人たちなのでしょうか? 拙稿32章では現実に徹した人々を研究してみましたので、本章ではこちらに興味を移して、現実に徹しないが無宗教である人々、を分析してみましょう。

これらの人々は、現実に徹する人々とはかなり違います。神仏を信じているとは言えないが、いわゆるモラル、道徳心、公共心はある。むしろかなりあります。家族や友人、仲間を大事にして、所属集団には献身的でもあり、知らない人にも親切です。交通ルールは守る。嘘をついて人を騙したりしない。財布を拾えば人が見ていなくても届け出る。

このような人々の行動規範は、無宗教であることと矛盾しているとはみなされていません。

日本人は恥の文化を持つ、という理論(一九六七年 ルース・ベネディクト「菊と刀 」)が米国の文化人類学者によって唱えられましたが、日本人自身も、自分たちの倫理感覚を、義理人情、あるいは、お天道様に恥ずかしくないように、というような言葉で表現しています。このような倫理観は宗教とあまり関係がないように観察されています。

拙稿32章で議論した「現実に徹する人々」は、宗教を無視し、モラルも無視しています。しかし、現実に徹する人々以外で宗教を無視するがモラルはかなり厳しく守る人々がいる。これは不思議な現象なのか?

そもそも宗教とモラルはどちらが先なのか?

道徳を教える教科書と道徳はどちらが先にあったのか?

倫理学と倫理はどちらが先にあったかといえば、倫理が先でしょう。少なくとも集団の規律を保つ規範がなければ社会は成り立ちません。社会集団の維持に必要なモラルは宗教よりも先にあった。さらにあとから法律や契約ができたといえるでしょう。むしろモラルを説明し教育するために宗教が現れた、といえます。

そうであれば、モラルを説明する必要がない場合には、宗教がなくモラルだけがある、という状況があり得る。一体、モラルというものは説明が必要なものなのか?子供にモラルを教える場合、黙ってぶん殴ればそれでも躾はできる。体罰はいけないとなると、口頭で教え諭すことになります。比喩、例え話、伝説、言い伝えなどいろいろ教えたくなるでしょう。そのとき聖書経典があればそれの一節を読み聞かせたりします。教育の道具として便利ではある。

聖書経典、あるいは神話伝説を使わずに、教え諭すこともできます。「人に笑われるよ」、「人が見ているよ」と日本人はよく言います。これをもって、日本は恥の文化だ、という説も生まれたのでしょう。他人指向規範ともいえます。

また「おじいちゃんの代から、こうやるものと決まっているのだ」とか、あるいは理由は言わずに「こういうときはこうするものとなっているの」と決めつけるやり方など、いろいろな場で実践されています。伝統指向規範と呼ぶことができます。

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神仏を信じない人々(1)

2014-05-10 | xxx9神仏を信じない人々

(39 神仏を信じない人々  begin

39 神仏を信じない人々

触らぬ神に祟りなし、参らぬ仏に罰は当たらぬ、と昔からいわれます。

世界で最も宗教から遠いのが日本人だ、ともいわれます。自分にとって宗教は重要ではない、という答え方をする人が多い国は、他にスエーデンなどの北欧諸国やヴェトナム、フランスなどです。

では、逆に世界で一番宗教的な人々がいるのはどこの国でしょうか?

ガーナのようです。国民の96%が信仰を実行している(二〇一二年調査 )、と答えているそうです。以下、ナイジェリア、アルメニア、フィージーの順で宗教的である、となっています。

日本も昔は仏教や神道あるいはアニミズムなど信仰深い人々は多かったようですが、現代ではまさに世界トップクラスの無宗教国でしょう。大胆にまとめれば、独断と偏見と言われそうですが、科学と経済の恩恵に恵まれている人々の割合が多そうな国および共産党政権の国々で宗教から遠い人が多いようです。

アンケート調査などで無宗教の人々の割合を算定する方法では、社会や文化による圧力がバイアスとなっている点に注意する必要があります。日本や北欧、あるいは共産主義政権の国々では、無宗教な人として分類されることで社会的に見放されるおそれが少ないといえます。このような国々での回答は無宗教が多くなることは予想できます。一方、伝統的な宗教が根付いている国々では無宗教という回答は出にくい傾向があるといえるでしょう。

実際、日本人の多くは実質上、無宗教でしょう。小銭程度のお賽銭を投げたり、おみくじや占いを買ったり、結婚式や葬式にキリスト教や仏教の形式を使ったとしても、それで宗教を信じているとはいえませんね。神仏を信じないと言うと角が立つのであからさまに宣言する場面は多くないはずですが、結局、厳密な意味で宗教の信者であるとはいえないでしょう。

昔から日本人は宗教には関心が薄かった、という説があります。江戸時代以前にも神仏混淆の状態だったし、戒律が厳しかったことはあまりない、とも言われます。一方、江戸時代を含めて過去の日本でも、祭りや祭礼は大いに行われていたし、神官僧侶階級は社会の上層を占めていたことから、十分に宗教的な社会として構成されていたとみることもできます。

江戸時代から明治時代くらいにかけて神仏を信じないという人々は現代ほど多くはなかったようです。その後、二十世紀に入ってから無宗教の割合が増えてきたようです。現代では、調査法によってバラつきますが、半数以上の人が無宗教に分類されるようになっています。

無宗教とされる人たちの中身を見てみましょう。

拙稿32章で研究した「現実に徹する人々」は、まさしく、宗教から遠い人々です。

これら「現実に徹する人々」は、現実以外信じない、神も仏もないという信念を持つ人々ですからまさしく無宗教といえますが、人口に対する割合は、たかだか二割以下でしょう。そうであるとすれば、この人々以外に三割あるいは五割あるいはそれ以上の無宗教な人々が、日本には存在することになります

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貨幣の力学(11)

2014-05-03 | xxx8貨幣の力学

現代社会という特殊な環境が人類の身体の潜在的な特徴を浮き出させている例はいくつもあります。たとえば、メタボリックシンドローム。肥満が成人病を引き起こして死因の多くを占めている。アルコール依存症、ニコチン依存症。あるいは人口爆発、あるいは逆に少子高齢化なども現代社会に対応する人類の身体機構の異常適応ともいえます。

これらの現象は、狩猟採集生活に適応して進化した人類の身体が現代社会の環境に過剰反応している例である、とみなすことができます。通貨システムの蔓延という現象もこの異常な身体適応であると言うと、奇異な議論に聞こえてしまいそうですが、現象としては似ています。

人類以外の動物は目の前の餌や異性にかぶりつきますが、人類はそうではない。人類の身体機構は、目の前にある餌や異性を獲得する行動よりも別の行動を優先するように作られている、といえます。それは集団行動であったり、予防的行動であったり、ときには儀礼的あるいは宗教的といわれる行動であったりします。要するに人類という動物種は社会的価値が高いといえる行動を優先する場面が多い。

私たち人類の身体は、他の動物に比べて特に、社会的価値に強く共鳴する機構になっている。人間は、物質的な環境に適応するためである以上に、仲間と作っている社会に適応するために物事や自分の身体を操作することを優先する。

そうなっているとすれば、貨幣を獲得することのように社会的価値の高い行動は、栄養価の高い餌や繁殖機能の高い異性を獲得することに優先するはずでしょう。逆に言えば、そのような人類の身体機構が貨幣の出現をもたらした、といえます。

私たちの身体がお金に鋭敏に反応し、その反応を基礎として社会が構成され、人生が構成されている。たしかにこれはうまくいっています。逆に、通貨システムが成り立っていなければ、現代の高度な産業システムも高効率の生産性もありえませんから、私たち現代人の生活そのものが成り立ち得ないでしょう。

それにつけてもお金が欲しい。私たちのこの思いが社会を成り立たせています。

なぜお金が欲しいのか、生きていくためにお金が欲しい。物を買いたいからお金が欲しい。あるいは、なぜ欲しいのかよく分からないけれどもお金が欲しい。皆の口癖をまねて言っているうちに欲しくなってしまうのかもしれません。お金が欲しいと言ってしまうから買いたいものを考えてしまうのかもしれません。いずれにしても、私たちが自分にはお金が必要だと思っていることは事実です。その事実を土台として現代の社会は築かれている、といえます。

お金なんかいらない、と私たちが本気で思ったならば、その瞬間に現代社会を成り立たせているすべては崩壊するでしょう。しかし本気でそれを心配する必要はありません。なぜならば(拙稿が主張するように)私たちの身体がお金なんかいらないと本気で思うような構造にはなっていないことを、現代人はだれもが知っているからです。■

(38 貨幣の力学 end

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