哲学の科学

science of philosophy

私にはなぜ私の人生があるのか(14)

2010-06-26 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

こうして人生保持機構が家族あるいは一族郎党の共同生活を支えることで、子供の養育に必要な長期にわたる緊密な協力体制が維持される。このことから推測すれば、人類の人生保持機構は、脳の大きな子を数少なく産み、(他の動物に比べてきわめて)長期間にわたって保護し教育しながら育てあげることとの組み合わせになって共進化したと推測できます。

このように人生保持機構を備えた人々は、まず人生の先を見通す力を持つ。女の妊娠を見て取ることで、子が生まれた後のことを現実として感じ取れる。またその子供の将来が予測できるようになる。食料の獲得に失敗して赤ちゃんが死んでしまうことを想像すると、ぞっとする。人類の場合、その予測を仲間で共有できる。そういう事態を招くと予測される自分たちの行為を身体が拒否する。人類では、仲間の共有する感情として身体がそう動くのです。

脳が大きく手間のかかる子を産み育て、それに必要な高い栄養価の食料を確保するために緊密に協力する集団を作る。家族あるいは共同生活をする小規模社会集団の中でのしっかりした役割分担ができる。人生保持機構が表現する家族内の役割、あるいは小集団内の役割に従って身体が動いていく。そういう身体を持っている人々だけが(拙稿の見解では)協力して縄張りを守り、栄養価の高い希少な食料を調達し備蓄し、妊婦を扶養し、生まれた子の養育をすることができます。

互いの人生経験を共有する一族郎党の人々が緊密に協力して集団生活し役割分担することができなければ、手間のかかる人間の子は育たない。そのような原始時代を過ごした人類には人生保持機構が必要だった、といえるでしょう。

さて、いったん人生保持機構ができてしまうと、この機構は出産育児ばかりでなく、いろいろな面での生活の効率化に役立ってきます。

明日や明後日の食糧の必要性が予測できるようになるから、食糧を倹約して残し、土器などを使って貯蔵するようになる。狩猟採集や備蓄のために、道具を作って大事に使うようになります。

また集団で生活する仲間との間に、長い人生にわたる協力関係を築くことができる。これは人間社会の基盤となっていきます。

原始時代の一族郎党はいつも一緒にいて食糧の獲得と配分を繰り返す関係ですから、終身雇用で同じ会社にいる日本のサラリーマン仲間のようなものです。生まれてから死ぬまで人生を共有すれば、まちがいなく強く団結した集団が作れる。集団が強くなれば、大きくなる。大きくなれば隣接した集団どうしで資源を奪い合う競争が起こります。そうなると、ますます集団は大きいほど有利になるから、競争相手を殲滅、あるいは吸収合併して、ついには大きな部族ができる。その過程で、習慣、文化、言い伝え、宗教、言語が発展します。

ちなみに、人類の社会的発展と言語の発生との関係については、人類学でも科学的な研究方法の模索がはじまったばかりの段階で定説といえるものはありません(二〇〇一年 デイヴィッド・ギアリ、マーク・フリン『ヒトの育児行動とヒト家族』既出)。しかし密接に関係していることは間違いないでしょう。拙稿が採用する仮説としては、人生保持機構が家族生活と言語の発展を結び付けている、と考えます。

人生保持機構は(拙稿の見解では)憑依機構を土台として、出産育児を支える家族・共同生活形態と共進化した。また同時に言語とも共進化した、と思われます。人類の家族生活と出産育児を支える家族・共同生活形態と言語は、ともに仲間の視点から世界と自分を客観的に感じとる客観的現実感の獲得を基礎としています。他の動物と違うこれら人類特有の能力は(拙稿の見解では)、憑依機構にもとづいている(拙稿8章「私はなぜ言葉が分かるのか」)。この憑依機構は群棲霊長類(サルやチンパンジーなど)共通の群行動機構から発展したと思われますが、人類において、たぶん大脳の機能拡大によって、飛躍的な性能向上を達成したのでしょう。

さて、人類社会がうまく発展して規模を大きくして来るにしたがって、生産性が上がって、食べるだけよりは余裕ができてくる。そうなると、将来使う物財を蓄えるようになる。それらはいくらでも多く蓄えたほうがよい。物欲も人生保持機構の重要な構成要素です。人生保持機構が働いて自分の将来をはっきりと予測することができると、物欲が強くなってきます。

使う価値が高い物財が欲しくなります。私たちは周りの人々とうまく付き合って、物やサービスの交換をして、価値の高い物財を手に入れるようになる。人々は収入を求めて生産性の高い仕事に専門化していき、交換のネットワークができる。はじめは暗黙のうちに、後には制度化されて、分業社会がなりたつ。人が多く集まるほど、その社会集団はスケールメリットを持ち、生産性が高くなって武装もするので安全が高まる。安定した人生を求めて人々はますます大きな社会に参加してくる。人口はますます集中してきて、ついには都市化する。貨幣経済が始まって、最後には、現代のような社会になっていきます。

これらの人類に特有な発展過程は、すべて人生保持機構がなければ発生しなかったでしょう。人々がそれぞれ人生保持機構を働かせて自分の人生を予測し、仲間と協力して役割分担し、よりよい明日の人生を求めて行動していくから、手間のかかる脳の大きな子を養育する家族が安定的に維持できる。逆に言えば、人類がこのような発展過程を経てきたとするならば、私たちが人生保持機構を備えていることは必然であったことになります。

人類の進化においては、人生保持機構を備えるかなり大きな脳を持った子を数少なく産んで手間をかけて育て上げるか、あるいは人生保持機構を備えない小さな脳のままにとどめて、手間のかからない子をどんどん産み落としていくか、いずれかの選択しかなくて、中途半端な折衷型の人類は滅びていったはずです(一九九五年 スーザン・グリーンホーグ『人類学は生殖を理論化する:習慣、政治、経済、およびフェミニスト観点の統合既出)。

もちろん、進化は漸進的でしょうから、中間点では脳が大きくなった割には人生保持機構が完全ではない状態があったでしょう。その時期の人類は、幸運であってたまたま食糧が豊富な環境にいたのかもしれません。幼児を抱えた母親が、協力者がなくても、一人で簡単に多くの食料を獲得できる環境が存在したのかもしれない。たとえばアフリカに住む現在のチンパンジーなどはこういう生態です。その後、環境が悪化したとき偶然人生保持機構を獲得した一族だけが生き残って大繁殖したのかもしれない。そこは謎です。生物進化にはよくある過渡現象の謎です。中途半端な翼をもった始祖鳥は空を飛べずにどうして繁栄できたのか、とか、暗すぎて見えないランプしか持たない初期のホタルはそれをどう役立てたのか、とか、生物進化にかかわる謎はいくらでもあります。

いずれにせよ、現生人類の私たちの特徴として、古い時代の人類に比べて大きな脳を持ち子供の養育にエネルギーと時間と手間がかかることは事実であるし、原始人類に比べるとずっと精緻な人生保持機構を持っていることも確かです。このことから、この二つの特徴が相互に依存しながら共進化したという(拙稿の)仮説は否定しにくいでしょう。

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私にはなぜ私の人生があるのか(13)

2010-06-20 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

なぜ、人類の人生保持機構は、うまく生存繁殖に適応しているのか? たとえばなぜ、人生保持機構を備えた人々の集団である社会は、子孫を維持するために適当な数の出生数を保つ機能を持つのだろうか? これを考えるために思考実験として、人生保持機構を備えていない人ばかりで構成された社会が仮にあったという仮定を想像してみましょう。

その人たちは人生保持機構を備えていないので、自分の行為についても他人の行為についても、過去や未来を考えることが嫌いです。昨日までに自分がした行為をよく覚えていない。というか、過去には興味がない、初めから覚えようという気がない。さらに、これから何をしようかとか、何が起こるのかとか、を考えることもない。認知症の老人みたいですが、人間の過去の行為を記憶したり未来の行為を予測したりしないだけで、身体は健康だし、物事の知識はふつうにある。身だしなみはしっかりしているし、言葉をはっきり話すので、知能が低いという感じはしないでしょう。お金の計算などしっかりできる。自動車も運転できるし、外国語もしゃべれる。A君はすぐ怒るからいやだ、とか他人の性格も知っている。

ただ、人生というものを知らない。人生について考えることがないからです。過去も未来も興味がないのですから人生などないのです。過去の悔恨もないかわりに、将来の夢もない。今がつらくなくて楽しければいい。そういう人たちがいるとしましょう。その人たちの生活感覚はどんなものなのでしょうか?

ふつうの常識では、あまり感心な生き方ではない。刹那的とか、享楽的とか、悪い人生態度としていわれる。アルコール・薬物依存症、ギャンブル依存症などのイメージです。あるいは「アリとキリギリス」のキリギリスですね。絵本ではバイオリンを弾いています。アーティストは刹那的と見られているのでしょうか? まあ、実世界ではそうではないようですが、優雅に美しく生きている人々は、なんとなく将来を心配しているようには見えません。そこで私たちはこの思考実験の社会を、人生保持機構などあまり働かせずに、今日一日を優雅に暮らしているキリギリス的な人々、というイメージで考えることにしましょう。

さて、拙稿で今、仮に存在しているとしている人生保持機構を持たないキリギリス的な人々の集団。この人たちは老人ではなく、若々しいし、セックスは嫌いではないので、するでしょう。男女が仲良くなる場合もあれば、そうならない場合もある。仲良くなる理由は、私たちの場合と変わらない。姿かたちが気に入ったというばかりでなく、フィーリングが合うとか、動作が好き、話し方が好き、考え方が好き、とかいう場合もあるでしょう。いずれにせよ、ある程度以上仲良くなると、ベッドをともにする可能性がある。

そして女は妊娠する。ここで問題は、男はどうするか、です。男は人生保持機構を持たない。自分に人生がある、ということが理解できない。この男は、キリギリスらしくバイオリンを弾くことは上手ですが、他人の人生も理解できません。妊娠させた女にも彼女の人生があるということが理解できない。もちろん、生まれてくる子の人生を想像することなどまったくできない。仲間が、彼の人生や彼女の人生をどう思うかも、まったく理解できません。そもそもこの社会では、仲間も彼女も人生というものを理解しない。女が妊娠しても、人生上のその意味など、だれも理解できないわけです。

生まれてくる子の父親に自分がなるなどという考えがまったくない男は、バイオリンを弾くために遠くに出掛けてしまいます。出かけた先で残してきた女のことなどすっかり忘れてしまう。そこで気に入った女と出会うと、一緒にバイオリンを弾いたりして仲良くなってしまうこともある。そのまま帰って来なくなったりする。

残された女は、母親や姉妹の助けを借りて出産し、子を育てるしかない。しかしこの社会では妊婦の母親や姉妹はあまり役に立たない。なぜならば、妊婦の母親もバイオリンには興味があるが過去のことには興味がない。娘を自分が産み育てたという過去の記憶がいくらか残っているとしても、それらは現実感がない。自分が祖母だから孫の将来のために子育てに協力するという考えはなくて、ただ一緒に住む若い女の出産育児を手伝うというくらいの考えしかない。男はいなくなってしまうし、母親や姉妹も同居人として親切にしてくれる程度しか頼りにならないとすれば、子を産んだ女は子供を守りながら十分な栄養を与えることはむずかしいでしょう。

ここで仮に何らかの理由で男が女のもとに残ったとしても、この社会の男はほとんど役に立ちません。なぜならば、バイオリンには強い興味があるが過去にも未来にも興味がない男は、懸命に働いて家族を食べさせていくとか、子供の成長を楽しみにして子育てするとか、節約して資産を形成するとかいうような行為をする動機がないからです。このことは女たちについても同様で、この人たちはバイオリンには興味があるが、倹約しながら懸命に働く動機は持ちません。

今日の今、楽しいほうがよい。身体が楽なほうがよい。目の前にある物資はためらいなく浪費してしまう一方、将来必要なものを手に入れるためにこつこつと努力することがない。つまり将来のために働いて貯蓄するということをしません。そうする理由がないからです。将来の自分と家族のイメージを持たないからです。

貯蓄も投資も融資もないから銀行が成り立ちません。宵越しの金は持たないから、ためらいなく使います。けれども、お金が欲しくて働くということはしない。だれもがそうです。つまりこの社会ではお金を出しても、だれも動いてくれない。お金の価値がないから、物やサービスが手に入りません。マーケットが成り立たない。取引が成り立たない。産業も成り立ちそうにありませんね。猫に小判。人間以外の動物を見れば、まさにその通りでしょう。

キリギリス的なこの社会の人々は、資源を節約したり予備に蓄積したりする気持ちがないから、災害があったり環境が変わったりすると飢え死にしてしまう可能性が大きい。寒い地方に住んでいれば冬も越せないでしょう。また助け合って子供を養育しないので、十分に発育した子孫を多く残せない。環境が悪くならないとしても、結局、人口は増えず、災害があれば人口は激減して、最後は滅亡すると思われます。

一方、人生保持機構を持つ人々は、将来の自分の運命を予測することができる。予測して、そうなりたいとか、ああはなりたくないとかいうイメージを作れる。それによって今日の行動の動機にする。つまり、こういう人々は(拙稿の見解では)、将来に備えて倹約しながら懸命に働いて家族を支える動機を持っています。将来の予測ができるので、環境の変化にも耐えられる。こういう人々は、そうでない人々に比べて、より確実に存続して、少しずつ人口を増やしていくでしょう。

ここで気をつけるべきことは、この話が人類に限って成り立つということです。人間以外の動物は、むしろ交尾した後、オスは消えてしまうことがふつうです。つまり他のメスと交尾する機会を求めて遠くに行ってしまい、戻ってこない。それでも残されたメスは容易に数匹の子を出産して育て上げる。というか生まれた子供は短い期間で簡単に一人前になる。人間はそれができない。人間の子は脳が大きいため生育がきわめて遅く、しかも脳の成長のために栄養価の高い食物を多く必要とする。そのため生後数年以上にわたって、母親ばかりでなく、父親やその他の家族による手厚い養育を必要とする身体になっているからです。

実際、生後一年もの間、走ることもできず、生後数年たっても自分でまったく餌を採れないような動物は人類以外ありません。長期にわたる母親の手厚い世話を受ける必要があります。栄養価の高い果実や肉などの食料を採集しながらの育児は母親一人ではできない。栄養価の高いおいしい食べ物はだれもが欲しい物です。競争相手に奪われてはならず、むしろ奪い取らなければならない。天候不全などで環境が悪化したときでも人間の子供は高い栄養価を必要とする。

食糧がつねに多く確保できるように縄張りを守り、さらに隣接する集団との戦いに勝って拡大しなければならない。子供とその母親を守り食料を獲得してくる強い男が必要です。それは孤立した男ではなく、団結して縄張りを守れる実用的な強さを持つ男たちの集団でしょう。兄弟や一族の仲間と緊密に協力し一緒に集団で行動する男が、脳が大きな子供が成長するためには必要なのです。つまり人類は、緊密に協力する社会集団を作って縄張りを守り恒常的に高栄養価の食料を獲得し続けなければ、脳が大きくて発育が遅い子供を産み育てられない動物となっています。

子供の父親をはじめ、連携する男たちを含む一族郎党のメンバーが、人生保持機構を働かせて互いの過去の経験を共有し、自分の人生の将来を予測する。仲間の各人がそれぞれ自分にとって大事な人生を持っていることを確認しあう。だれもが自分の人生を懸命に生きている。自分も同じように自分の人生を生きている。さらに生まれてくる子供や家族あるいは一族郎党、自分たち全体の人生を支えるためにいま何をしなければならないかが分かっている。人生保持機構は、生まれてくる子供、母親、男、女、青年、老人、各世代それぞれの人生上の役割を明らかにすることで、役割分担のある協力体制を作り上げる。これによって、家族あるいは一族郎党の共同生活は、生産性の高い、安全で高効率の生活機能を持つシステムになります。

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私にはなぜ私の人生があるのか(12)

2010-06-12 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

たとえば、私はなぜ子供を産むことにしたのか? 私には私なりの理由ないし目的がある。それを皆さんにきちんと語ることもできる。しかしそれは私がそう思っているだけで、私の身体が子供を産むのは、私たち人類の身体がそう作り込まれているから、ということではないだろうか? たとえば私たちは結婚すると子供を産む。それには産婦自身あるいは夫婦あるいはその他の人々との間でのいろいろな計画や思惑や話し合いがあってのことと思われている。それは確かにそう見ることもできる。しかし世界中の人々が数千年あるいは数万年にわたって、いろいろなことを言いながらも、結局は、結婚して子供を産む。それだけが事実ではないか?

私たちは、結婚、出産という、こんな簡単な自分たちの行動さえ、正直に言えば、その本当の仕組みを知らない。人類学の研究テーマではある。しかし現状の人類学は(拙稿の見解では)、この問題を実は解明できていません。現在、ようやく、科学としてこの問題がよく分かっていないということが分かるようになってきた。つまりやっと課題を科学的に記述できるようになった段階です(二〇〇八年 ヴァージニア・ヴィッツム『女性生殖機能の進化モデル』、二〇〇一年 デイヴィッド・ギアリ、マーク・フリン『ヒトの育児行動とヒト家族』)。これは人類学者が怠けているからではなく、この問題解決の基礎になる生物科学や認知科学が、まだ解明の方法論を提供できるほど発達していないからです。そういう現状ですから、たとえ対症療法が見つかって人口問題や少子化問題がいちおうは解決できたとしても、私たちがその本当の機構を理解していないことは変わりません。

たとえば、人類学の調査によると、世界的に伝統的宗教・文化が強い地域では多産であり、伝統宗教・文化が薄れている地域では少子化の傾向があるとされている(一九九五年 スーザン・グリーンホーグ『人類学は生殖を理論化する:習慣、政治、経済、およびフェミニスト観点の統合)。それはなぜかという仮説なども種々提唱されているが、どれも科学的な根拠がない。調査データによると、単に避妊に否定的か肯定的かということではない。産業構造の現代化の影響ということでもない。教育の浸透という効果もあまりない。説得力のある科学的理論はできていません。

いずれにせよ出生決定の問題が宗教や文化に影響される理由は、この意思決定が、人それぞれが自分の人生をどう認知するかに深く関係しているから、と思われます。妊娠出産育児に関して、女性は家族や同性の仲間と認識を共有して行動する傾向があるとされる。その過程で宗教と文化が個人の行動に影響を与えるとされています。子供の出生につながるこれらの行動の意思決定は実際、だれによって、いかになされているのか?

マスコミなどで行われる素朴な議論では、子を産む女性当人の自由意思で決定されている、ということになっている。しかしこれは無理がある議論でしょう。人間が子を産むということは受精があり十カ月に及ぶ妊娠中の生活コストの問題があり、分娩とその後の養生があり、どれをとっても母親一人でできることではない。 さらに決定的な問題は、出産後十数年以上にも及ぶ育児教育の手間とコストはだれが負担するのか? 

そして、成人した男女が社会に出て活躍することによって社会の活力が上がり受益するものは、その母親や家族だけでなく、社会全体に及ぶ。そういう背景を持つ一人の人間の出生という行為については、いつの時代もどの社会でも、それを強制したり誘導したり援助したり促進したりする種々の集団的社会的な力が働くことで維持されているはずです。それらの社会、家族、親兄弟、配偶者などが加える多くの力が働いて新しい出生が起こると見なさなければならないでしょう。

人の出生に関する問題は、出会い、結婚、性交渉、妊娠、避妊、中絶、分娩、授乳、育児、次子妊娠、家族計画、住居問題、相続問題など、それぞれ個別の科学、医学、社会問題、経済問題、実務問題としては現在も活発な議論がなされている。しかし全体として、人はなぜ子を産むのか? あるいは産まないのか? 簡単な質問の答えが簡単ではないところに、私たちの理解の限界が表れている。

子供を産むということは、夫婦、親子の小さな関係だけではなく、家族、仲間集団との関係、社会の慣習や文化、あるいは時代背景、などの影響がかなり大きいと推測できます。さらにこの問題は、別の観点からは、男女の生理、内分泌活動、保健衛生環境などの組み合わせによって影響される、ともいえる。しかし、このように社会現象と人体生理が深くかかわりあった現象を解明する方法論を、今のところ、私たちの(社会学、人類学、心理学、医学を含めて)科学は持っていない。

もしかしたら現代のヨーロッパや日本で進行している少子化問題は、単に経済が沈滞するという問題ばかりでなく、ずっと深いところで人類の人生保持機構が変質してきているという問題なのかもしれません。あるいは、できあいの人生保持機構にもともと内在していた瑕疵が、現代社会の変化を受けて、顕在化したのかもしれない。しかし、その先はもう分からない。現代文明の影響であるとしてもそのメカニズムは分かりません。そもそも現代文明の問題以前に、人間が自分と家族、仲間集団あるいは社会との対人関係や集団的社会的関係を、無意識のうちに認知して身体(中枢神経系や、自律神経系、内分泌系、免疫系)が応答する仕組みについて、私たちはよく分かっていないからでしょう。

この仕組みは、精緻な社会構造を維持できる人類においては、高度に進化発展しているはずです。しかし残念ながら現状の科学では、これは解明できていない。人生保持機構の働きは、このよく分かっていない私たちの身体内部の仕組みに基づいてできあがっているようです。

まあしかし拙稿としては、ここでしり込みせずに、かなり手ごわそうなことが分かってきたこの人生保持機構のメカニズムについて、別の切り口から、もうすこし大胆に切り込む方法を考えてましょう。

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私にはなぜ私の人生があるのか(11)

2010-06-05 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

人類の前頭葉が大きいのは事実ですが、その働きが他の動物とどう違うのか、あまりよく分かっていない。まず人間の身体が、他の動物の身体とそれほど違うという根拠がない。身体の見かけは確かに違って見えますが、その造りは他の動物、特に哺乳類の共通の造りからあまり違わない。

自動車にたとえれば、バスとスポーツカーは見かけはだいぶ違うけれども、同じような機械部品を同じように組み合わせて作られていて、同じ仕組みで動く。人間も他の哺乳類に比べて、二本脚で歩くとか、脚が長いとか、体毛が少ないとか、顎が小さいとか、見かけはだいぶ違うといえば違うが、つまりは身体部品のプロポーションが違うくらいのものです。

だからおおざっぱにいえば、人間以外の動物も人間も(拙稿の見解では)ほとんど同じ仕組みで動くようになっているはずです。動物共通の動き方のその詳細な(神経活動の)仕組みは、現代科学でも、まだよく分からない。分からないけれども、人間だけ違うという理由はないわけです。

拙稿の見解では、むしろ「動物はくしゃみやあくびやよだれのような反射運動の組み合わせで行動する。人間も同じように、くしゃみやあくびやよだれのような反射運動の組み合わせで(思考し、また)行動する」とするほうが科学的でしょう。そこから、なぜ理性的行動に見える動きができてくるのか、それは、正直に言って、まだ科学ではよく分かっていません。

これに関して拙稿の見解を述べれば、人間は、仲間の視座から見て客観的に予測できる世界を現実として感じ取って、その中に自分の行為を予測して客観的に見る機構を持っているところが他の動物との違いを生んでいる(拙稿19章「私はここにいる―私と世界とのいかがわしい関係」)。

人間の思考と行動も他の動物とまったく同じように(拙稿の見解では)、くしゃみやあくびのような生まれつきの反射や食事を知らせるベルを聞いて唾液を分泌する犬のように学習した条件反射の組み合わせでできている。ただ人間は、客観的世界を作る機構を持っていて、それを使うことで世界と他人と自分の動きを予測してそれを客観的現実として脳内に作り上げ、作り上げたその現実の変化から予測される存在感に対して生得反射や条件反射など反射運動を起こしている。

子供のころから予測と結果を照合して学習を続けると、予測精度が上がってくるので、成長した人間は理性的に考えて行動するように見える。実際、予測の経験から帰納的に理論ができてくる。人はその理論を言葉にして述べたりしながら行動するので、理性をもつ人間が理論にしたがって行動しているように見える。

拙稿の見解はともかくとして、現代科学では、このような問題を実証的に研究する方法を持っていません。けれども、これからも科学の発展は加速される。いずれは科学(と、たぶん、拙稿がいうところの哲学の科学と)によって、この問題も完全に解明されるはずです。たぶんそれは、次の次の時代でしょう。しかし確実にその時は来る、と言っておきましょう。

さて(拙稿の見解では)、人間は、憑依機構が働くことで、仲間の(他者の)視線の中に自分の姿を、存在感を伴う現実として客観的に、感じとる。それが自分というものの正体です。私たちの内部で自動的に起こるその自分の存在感の記憶と予測が、私たちが思うところの、自分の人生です。この働きを支えている憑依機構は(拙稿の見解では)群棲動物の運動共鳴から進化した仕組みでしょう。

私たちは、憑依機構を使って、仲間の身体に乗り移って、仲間集団が自分に対して抱く感情を自分の感情機構を使って(存在感を伴う現実として客観的に)感じ取る。眼前の人体の動きを仲間集団と共鳴して(存在感を伴う現実として客観的に)感じ取る。自分自身の動きをも仲間集団と共鳴して(存在感を伴う現実として客観的に)感じ取る。ここが人間以外の動物と違う点です。二歳児はすでにこの憑依機構を持っている。この機構が(拙稿の見解では)人生保持機構の土台をなしています。

仲間の視座で自分の行為を見る。集団的社会的感情を伴って、その行為を感じ取る。そのとき、仲間が私の行為に対して抱く感情は、私が仲間の一人の行為に対して抱く感情と同じようなものとなります。仲間の視座から見ると、私の今おかれたこの状況ではこういう行為をしてほしい。それが自分の行為に求められる仲間の要求である、となる。

これが特定の仲間の視座からというよりも人類普遍の立場から求められる、と考えると、広い意味で、モラルといわれるようなものになるでしょう(一七九七年 イマニュエル・カント『人倫の形而上学』)。他人の人生についてこうあるべきだ、と思うところが自分の人生のあるべき形になる。そうであれば、だれの人生においても、なすべきことは同じようにあるべきだ、という考えに収束していくのは当然の帰結でしょう。

私たちの仲間のA君の人生はどうあるべきか、考えてみましょう。A君は三十歳にもなればそろそろ結婚して一人か二人の子供を作るべきだ。子供の数は、まあ、二人も作ればよいだろう。五人も作る必要はない。十人も作ってしまってはよくない。皆に迷惑をかけることになる。親兄弟や周りの諸先輩の人生を見れば、それがふつうだろうと見当がつく。そう私が考えるとすれば、それはA君の人生のことであるが、同時に、私の人生のことでもあることになる。つまり、私がA君の人生としてよろしいと思うことは、自分の人生としてもよろしいことになる。

こうして、私は三十歳で結婚し、二人の子を作って育て上げるという人生を生きることになる。それが私の人生だと納得できるからです。これを、生物学的観点から見れば、私はこうして二人の子を産出し育成するという生殖行為をしたことになる。こうすることが人間の生殖行動である、ということになります。

しかしそもそも、私はなぜA君の人生に関して「A君は三十歳にもなればそろそろ結婚して一人か二人の子供を作るべきだ」と思ったのだろうか? 一人前になった大人は当然結婚して子を持つべきだから、と思ったのでしょう。だれもがそうするから、という理由かもしれない。皆と同じようにして、なぜそうしないかと聞かれないようにしたいからかもしれない。あるいは、老後、子がいないとさびしい、と思ったのかもしれない。あるいは、生きがいとして、あるいは生きたあかしを残すには子供が一番だ、と思ったのかもしれない。

このように、人間ならばだれでもが結局は同じようにすることが、人によってその目的として述べる答えがまちまちである場合、拙稿の見解では、それは本人たちがその目的だと思っていることがその行動を引き起こしているのではない。むしろ、人間の身体が、数十万年にわたる進化の結果、生得的に(あるいは人類の生態環境においては必然的に)その行動を起こすような仕組みに作り込まれているからというべきです(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか?」)。

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