こうして人生保持機構が家族あるいは一族郎党の共同生活を支えることで、子供の養育に必要な長期にわたる緊密な協力体制が維持される。このことから推測すれば、人類の人生保持機構は、脳の大きな子を数少なく産み、(他の動物に比べてきわめて)長期間にわたって保護し教育しながら育てあげることとの組み合わせになって共進化したと推測できます。
このように人生保持機構を備えた人々は、まず人生の先を見通す力を持つ。女の妊娠を見て取ることで、子が生まれた後のことを現実として感じ取れる。またその子供の将来が予測できるようになる。食料の獲得に失敗して赤ちゃんが死んでしまうことを想像すると、ぞっとする。人類の場合、その予測を仲間で共有できる。そういう事態を招くと予測される自分たちの行為を身体が拒否する。人類では、仲間の共有する感情として身体がそう動くのです。
脳が大きく手間のかかる子を産み育て、それに必要な高い栄養価の食料を確保するために緊密に協力する集団を作る。家族あるいは共同生活をする小規模社会集団の中でのしっかりした役割分担ができる。人生保持機構が表現する家族内の役割、あるいは小集団内の役割に従って身体が動いていく。そういう身体を持っている人々だけが(拙稿の見解では)協力して縄張りを守り、栄養価の高い希少な食料を調達し備蓄し、妊婦を扶養し、生まれた子の養育をすることができます。
互いの人生経験を共有する一族郎党の人々が緊密に協力して集団生活し役割分担することができなければ、手間のかかる人間の子は育たない。そのような原始時代を過ごした人類には人生保持機構が必要だった、といえるでしょう。
さて、いったん人生保持機構ができてしまうと、この機構は出産育児ばかりでなく、いろいろな面での生活の効率化に役立ってきます。
明日や明後日の食糧の必要性が予測できるようになるから、食糧を倹約して残し、土器などを使って貯蔵するようになる。狩猟採集や備蓄のために、道具を作って大事に使うようになります。
また集団で生活する仲間との間に、長い人生にわたる協力関係を築くことができる。これは人間社会の基盤となっていきます。
原始時代の一族郎党はいつも一緒にいて食糧の獲得と配分を繰り返す関係ですから、終身雇用で同じ会社にいる日本のサラリーマン仲間のようなものです。生まれてから死ぬまで人生を共有すれば、まちがいなく強く団結した集団が作れる。集団が強くなれば、大きくなる。大きくなれば隣接した集団どうしで資源を奪い合う競争が起こります。そうなると、ますます集団は大きいほど有利になるから、競争相手を殲滅、あるいは吸収合併して、ついには大きな部族ができる。その過程で、習慣、文化、言い伝え、宗教、言語が発展します。
ちなみに、人類の社会的発展と言語の発生との関係については、人類学でも科学的な研究方法の模索がはじまったばかりの段階で定説といえるものはありません(二〇〇一年 デイヴィッド・ギアリ、マーク・フリン『ヒトの育児行動とヒト家族』既出)。しかし密接に関係していることは間違いないでしょう。拙稿が採用する仮説としては、人生保持機構が家族生活と言語の発展を結び付けている、と考えます。
人生保持機構は(拙稿の見解では)、憑依機構を土台として、出産育児を支える家族・共同生活形態と共進化した。また同時に言語とも共進化した、と思われます。人類の家族生活と出産育児を支える家族・共同生活形態と言語は、ともに仲間の視点から世界と自分を客観的に感じとる客観的現実感の獲得を基礎としています。他の動物と違うこれら人類特有の能力は(拙稿の見解では)、憑依機構にもとづいている(拙稿8章「私はなぜ言葉が分かるのか」)。この憑依機構は群棲霊長類(サルやチンパンジーなど)共通の群行動機構から発展したと思われますが、人類において、たぶん大脳の機能拡大によって、飛躍的な性能向上を達成したのでしょう。
さて、人類社会がうまく発展して規模を大きくして来るにしたがって、生産性が上がって、食べるだけよりは余裕ができてくる。そうなると、将来使う物財を蓄えるようになる。それらはいくらでも多く蓄えたほうがよい。物欲も人生保持機構の重要な構成要素です。人生保持機構が働いて自分の将来をはっきりと予測することができると、物欲が強くなってきます。
使う価値が高い物財が欲しくなります。私たちは周りの人々とうまく付き合って、物やサービスの交換をして、価値の高い物財を手に入れるようになる。人々は収入を求めて生産性の高い仕事に専門化していき、交換のネットワークができる。はじめは暗黙のうちに、後には制度化されて、分業社会がなりたつ。人が多く集まるほど、その社会集団はスケールメリットを持ち、生産性が高くなって武装もするので安全が高まる。安定した人生を求めて人々はますます大きな社会に参加してくる。人口はますます集中してきて、ついには都市化する。貨幣経済が始まって、最後には、現代のような社会になっていきます。
これらの人類に特有な発展過程は、すべて人生保持機構がなければ発生しなかったでしょう。人々がそれぞれ人生保持機構を働かせて自分の人生を予測し、仲間と協力して役割分担し、よりよい明日の人生を求めて行動していくから、手間のかかる脳の大きな子を養育する家族が安定的に維持できる。逆に言えば、人類がこのような発展過程を経てきたとするならば、私たちが人生保持機構を備えていることは必然であったことになります。
人類の進化においては、人生保持機構を備えるかなり大きな脳を持った子を数少なく産んで手間をかけて育て上げるか、あるいは人生保持機構を備えない小さな脳のままにとどめて、手間のかからない子をどんどん産み落としていくか、いずれかの選択しかなくて、中途半端な折衷型の人類は滅びていったはずです(一九九五年 スーザン・グリーンホーグ『人類学は生殖を理論化する:習慣、政治、経済、およびフェミニスト観点の統合』既出)。
もちろん、進化は漸進的でしょうから、中間点では脳が大きくなった割には人生保持機構が完全ではない状態があったでしょう。その時期の人類は、幸運であってたまたま食糧が豊富な環境にいたのかもしれません。幼児を抱えた母親が、協力者がなくても、一人で簡単に多くの食料を獲得できる環境が存在したのかもしれない。たとえばアフリカに住む現在のチンパンジーなどはこういう生態です。その後、環境が悪化したとき偶然人生保持機構を獲得した一族だけが生き残って大繁殖したのかもしれない。そこは謎です。生物進化にはよくある過渡現象の謎です。中途半端な翼をもった始祖鳥は空を飛べずにどうして繁栄できたのか、とか、暗すぎて見えないランプしか持たない初期のホタルはそれをどう役立てたのか、とか、生物進化にかかわる謎はいくらでもあります。
いずれにせよ、現生人類の私たちの特徴として、古い時代の人類に比べて大きな脳を持ち子供の養育にエネルギーと時間と手間がかかることは事実であるし、原始人類に比べるとずっと精緻な人生保持機構を持っていることも確かです。このことから、この二つの特徴が相互に依存しながら共進化したという(拙稿の)仮説は否定しにくいでしょう。