哲学の科学

science of philosophy

人類最大の謎(8)

2010-08-28 | xx3人類最大の謎

拙稿の見解としては、私たちの身体の外部の物質現象や仲間の人間から受け取る化学物質、エネルギー、情報あるいは感覚信号と身体の内部を駆けめぐる神経信号あるいは化学物質による信号が互いに干渉し影響し合って互いを変化させ、その結果が、さらにまた身体内外で互いを変化させ合って混ざり合うことで作りだすこのような諸々の存在感から、この現実世界は私の前に立ち現われてくる。それは私たちの外側に客観的現実世界を写しだすと同時に私たちの内側に自分の内面と感じられるものを作りだしている。

特に(拙稿として強調したいところは)私たちが仲間の身体の動きを目で見て、仲間の身体が出す音を耳で聞くことによって、それが一瞬の断片的なものであっても、それと意識しないうちに、いつのまにか反応する自分自身の身体内部の動きから来る信号を感じとることによって、客観的現実世界の存在感が立ち現われてくる。仲間が何を感じているか、その顔の表情を見て、その言葉を聞いて、書いたものを読んで、あるいは印刷物、新聞、ラジオやテレビで人々の動作や発言を見聞きして、私たちはそこに現実の存在感を感じる。私たちはそれを私ひとりが感じるというよりも、仲間としての集団的視座から見た、だれもが同じように感じられる客観的な現実世界があること、その存在感として感じとる。そのとき私たちは、現実の世界がここに客観的に存在している、と感じる(拙稿6章「この世はなぜあるのか?」)。

逆に、世界がここに客観的に現実として存在している、と感じられる場合、仲間(他者)も同じ世界を感じている、と感じられる。ふつう、これはいつのまにかそう感じているので、私たちは自分がそれをそう感じていることにはっきりとは気づかない。つまり私たちは(拙稿の見解によれば)、仲間も同じ世界を感じていると感じられるとき、それを仲間がそう感じていると自分が感じているとは気づかずに、ただ世界がここに客観的に存在していると感じる。私たちが客観的世界を感じるときはいつもそういう仕組みで感じている。もしそうであるとすれば、この仕組みによって、私たちの直感では、この現実世界を感じとっている人間が自分ひとりだけだとは決して思えないはずです。つまり私たちは、暗黙のうちに、だれもがこの世界を同じように感じとっている、と感じている。そのとき、そしてそのときに限って、(拙稿の見解によれば)私たちはこの現実世界が客観的に存在していると思う。

私たち人間は、自分を含めただれもがこの世界を自分と同じように感じとっている、と感じている。たとえば、人間の言語は(拙稿の見解によれば)、だれもがこの世界を同じように感じとっている、と感じる(私たちの身体に備わっている)仕組みを土台にして作られているシステムです(稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)。たとえ一人でいるときに独り言をいうとしても、そのとき私たちはすでに、仲間のだれもがこの世界を同じように感じとっている、と感じながら独り言をしゃべっている。このことからも分かるように(拙稿の見解によれば)、私たちは目が覚めているときはいつも、この仕組みで、自分が(目に見えるここにだれもいないとしても、どこかにいるはずの)仲間とともに客観的世界の中にいる、と思っています。

こういう仕組みによって(拙稿の見解によれば)、私たち人間は、だれにとっても世界は同じものとしてただ一つ存在する、と思っている(拙稿4章「世界という錯覚を共有する動物」)。まずそう思っていれば、人々とうまく付き合っていかれる。話が通じる。言語が理解できる。仲間と協力して生活していけます。逆に、仲間とうまく協力して生きていくためには、仲間の皆がここにあると思っているらしいただひとつの客観的現実世界の中に、自分もいると思いこむ必要があります(拙稿12章「私はなぜあるのか?)。仮にそう思わないような脳神経系を持った人がいたとしても(拙稿の見解によれば)、そういう人は子孫をうまく残せないでしょうから、そういう神経構造は私たちの間に生き残っていないはずです。

ちなみに拙稿とは観点が少しずつ違いますが、人間が自分の身体や仲間の身体を介して世界を捕らえることでこの世界が現れる、という考え方は、現代哲学や現代心理学の理論にも出てきています。たとえば現代哲学では、主体でありかつ客体である私たちの身体がそれに働きかけることによってこの世界は知覚として現われてくる、という考え(一九四五年 モーリス・メルロポンティ知覚の現象学』)、あるいは、世界は共同体による共有によって認識される、という考え(一九七九年 リチャード・ローティ哲学と自然の鏡』)などが提唱されています。また、最近の発達心理学では、五か月児は特定の慣れ親しんだ物体の存在を脳の短期記憶(ワーキングメモリー)機構に保持することから発展して一般的な物体の存在について理解していく、という理論の検証がおこなわれています(二〇〇五年 ジャン・シンスキー、宗像優子『親近性が探索を育てる:幼児は隠し物探しで好奇心を反転する』)。

古代から近代までの哲学と科学では、現実世界が存在していることは当然の前提であると考えられていました。それに対して二十世紀以降の現代の哲学では、このように、現実世界の存在は私たちの身体を介して現れてくる、という考えがかなりひろく取り入れられてきているようです。このことは、拙稿本章のテーマである存在の謎を検討するための大事なヒントになっています。

自分が目の前に感じ取っている現実を、ただひとつの現実だと思う私たちの身体の仕組み。あるいは、私の身体を私だと思う私たちの身体の仕組み。こういう話を考える場合(拙稿の見解では)、私たちが感じとる存在感、ということが重要でしょう。日本語で存在感という語は、ふつう人物の権威や威厳の大きさを表現したいときに「A君は存在感がある人だ」というような使われ方をします。拙稿では、この語感をもう少し広げて、字の意味どおりに使うことにします。つまり、人物に限らず物事が単に存在するという単純な感覚を表すことにします。つまり、そこにそのものが存在するように思えるという感覚のことを、そのものの存在感、といいます。

ふつうは、物が存在するからその存在感(存在菅でなくて)が感じられるわけですね。菅首相が存在するからその存在感が感じられる。その人の存在感が、もう少し大きくてもよさそうなのにそれほど感じられないときに、私たちは、あの人は存在感がない、という。いずれにせよ、菅首相が総理官邸の中に存在することはたしかなことです。しかし、物が存在しないのに、存在感だけが感じられる場合もある。たとえば幽霊が怖いと思うときなど、実体がない存在感を恐怖の対象として感じています。

もう少し科学的な話としては、たとえば、ーキューブというダマシ絵があります。ネッカーキューブとは、斜めから見下ろした立方体を十二本の稜線だけで表現した線図です。立方体を右斜め前方から見下ろした図に見えるが、しばらく凝視していると、突然、左斜め前方から見上げた図に見えてくる(二〇〇〇年 谷部好子、藤波努『3次元物体の認知過程における主体的操作の特徴について-ネッ カーキューブ操作行動に見られた共通点』)。網膜に映っている画像信号はまったく変化していないのに、脳内の存在感だけが変換してしまう。つまり、世界は変化してしまうのです。現実が一つしかないならば、これはありえないことです(拙稿19章「私はここにいる(18)」)。ネッカーキューブの存在感は、ただひとつの現実を反映したものではない。似たような効果を持つダマシ絵には「アヒルかウサギか?」とか「右回り?左回り?」なんていうものもあります。これらは、私たちの身体が感じとる存在感が現実世界をそのまま正しく反映するものではない、という例証といえます。

私の身体の外側の客観的世界に何かが存在している、また私の内面で何かが起こっている、そこに何かがあるように感じられる、あるいは、何かが起こっているように感じられる、そしてそれはあれだ、という感覚が存在感です。それらのうちのあるものは、だれでもそう思っていると思われる。つまりその存在感を仲間と共有できると感じられる。残りのものは仲間と共有できるとは感じられない。私たちは、そのうちで、仲間と共有できると感じられる存在感をあらわすものを、現実に存在する、と感じる。仲間と共有できない存在感をあらわすものを、自分の内面と感じる。

目の前に広がっているこの客観的物質世界は、仲間と共有できると感じられる存在感を持つものですから、現実に存在すると感じられます。人々の身体の中にあると感じられる心といわれる何かも、仲間と共有できると感じられるある程度の存在感を持つものですから、ある程度は存在すると感じます。一方、私の鼻腔内の痒さとか、いつまでも寝巻きでいるから妻に嫌われているらしいという不安とか、私の人生の小ささとか、XX君と関係したことの体験からくるむかつきとかは、仲間と共有できない存在感を持つものですから、自分の内面にあると感じられる。

しかしこの内面にあると感じられる存在感には注意が必要です。実際、自分の内面にあると感じられるものも、それなりに存在する、といってよいでしょうか? ふつう私たちはそういうものも「(私の心の中に)・・・がある」と言いあらわしますね。ここは(拙稿の見解では)重要です。

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人類最大の謎(7)

2010-08-21 | xx3人類最大の謎

私にとって私の身体が私に感じさせてくれるものは、目で見えたりカメラで撮影できたりするものばかりではない。カメラに写る私のヌード写真やMRI画像や電子顕微鏡データばかりでなく、目に見えずカメラで写せない私の感覚や感情や気分がある。五感と内部体感。気分として身体の内部の感覚で感じられるものや、感情として身体の変化で感じられるものがある。たとえば内臓や体内各部の筋肉や関節や分泌腺や血管からくる緊張や弛緩の微妙な感覚、全身の重さ、あるいは空気の重さ軽さ、連想や経験や記憶からよみがえってくる過去の出来事の体感や存在感、想像する将来に起こりそうな物事の存在感、それらの重さそして軽さのようなものが感情や気分を伴って感じられることがある。それ以外に、私の身体からそれがきているとは感じていないけれども私の身体が動くたびに身体の内部から発生している断片的な種々の信号や存在感を、私はいつの間にか受け取っている。

たとえば、まぶたの重さとか、頭の表皮のつっぱりとか、鼻腔を通過する空気の摩擦とか、動脈を通過する血液の圧力変動とか、また血圧や酸素濃度や血糖濃度などは内分泌系や神経系を介して体中に信号を送っている、それら体内を駆けめぐる種々の化学物質や神経信号は体内の各所で感知されてそれがまた神経系や筋肉や分泌腺を動かしている。私たちは、ほとんど、そういう体内の動きを直感ではつかめません。たとえば首を動かす時に連動して目玉が回旋する慣性力とか、消化管の蠕動とか、それら体内のきわめて微妙な信号が断片的にいつも私の体感に届いているはずですが、それをそれと意識することはまず不可能です。それらは意識できないにもかかわらず(拙稿の見解では)、目や耳など五感からの感覚信号および連想や知識や経験や記憶と組み合わされ混ざり合って、私たちが自覚する自分の感覚や感情や気分や、さらに世界の物事についての認知を形成している。

たとえば、おなかが減っているときは、食べ物がおいしそうに見える。言葉で言えば、私がその食べ物をおいしそうと思っているかいないかというおおまかな状況は通じるけれども、実際どのように、またどの程度、私がその食べ物をおいしそうだと思っているのか、その微妙なニュアンスは、私以外の人には分からない。

食べ物のおいしさに限らず、結局は、あらゆる物事の生の感触は私にしか分からない、と思える。すがすがしいくちなしの香りで気分がよくなるとか、遠くからかすかに聞こえるピアノの旋律が耳に心地よくて口ずさみたくなるとか、夕食に食べたネギラーメンのおいしさが口中に残っているとか、私の人生の小ささを思って肩の力が抜けるとか、きのう会ったXX君とかかわりあいになるとろくなことがないと思うとむかつくとか、外人に話しかけられてもそれが何語かも分からないので困惑して横を向きたくなるとか。自分の身体の外からくるようでもあり中からくるようでもあると感じられる諸々の断片的な信号や判定や反射的行動や存在感を、私たちはいつのまにか感じ取っている。それらはあるときは夢のようでもあり、また別のときは生々しい現実世界の部分をなす物事や私の内面にある個々の感覚のそれぞれの属性であるとも感じられます。いずれにせよ、それがもともとはどこからくるかといえば、身体内外からくる種々の切れ切れの信号を感じとって私たちの身体が無意識のうちに、私の奥にしまい込まれている諸々の経験や感覚を想起したり、連想したり想像したり、あるいは反射的行動を起こしたりすることで現われてくる。

そういう目に見えない諸々の存在感を、私はいつのまにか感じとっているけれども、私以外の人は、私がいま何をどう感じ取っているのかを体感することはできない。言葉でいくらじょうずに説明しても、私の内面の感覚をそのまま感じとってもらうことはできないでしょう。そういう言葉の限界を私たちはよく知っています。言葉の限界は、私と他の人との間の共感の限界から来ている。その共感の限界は、結局は、私が身体で感じられることを、私以外の人は直接感じられない、という単純な事実から来ている、といえます。

重要なことは、それらの存在感を私だけが感じられて、他の人はそれらを感じられないだろうと思えることです。私がいま思っていることは、ふつう、人には分からないはずです。言葉で正直に言わない限り分からないでしょう。言葉で言わなくても、表情や動作に表れる場合もある。しかしあまり正確ではないでしょう。ふつうは、なかなか他人には分からない。思っているだけのことは、結局、本人以外には分かりにくい。

同じように身体の中で感じていることも他人には分からないのがふつうです。くしゃみが出そうなときの鼻腔の痒さだとか、あくびが出そうなときの倦怠感だとか、よだれが出るときの空腹感だとか、そのときの私の微妙な生々しい感覚を、私以外のだれが分かるか? そればかりではなく、私がいま感じているくちなしの香りのかぐわしさとか、かすかに聞こえるピアノの旋律のはかなさとか、夕食に食べたネギラーメンのおいしさとか、私の人生の小ささとか、XX君と関係したことの体験からくるむかつきとか、その生々しい感覚を、私以外のだれが分かるでしょうか? 

私が自分の内面として感じとっている感覚や感情や気分ばかりでなく、目や耳で感じとっている客観的世界にある物事の生々しい実感も私以外の人には分からないと思われます。たとえば、ここにあるこのリンゴの鮮やかな赤い色は、言葉では完全に正確には言い表せない。百聞は一見にしかず。そのものを見ないと色の鮮やかさは分かりません。いや、たとえ、目で見たとしても、私とあなたが同じ色を感じるかどうかは分からない。色について言葉を交し合うことで共感できたとしても、同一の感覚を共有しているかどうかは分かりません。同じであると、証明する方法がない。このことを現代哲学では、クオリア問題と呼んで問題にしています。拙稿の見解では、この問題は実は問題のように見えるだけで問題になっていない偽問題です。このことは本章でもだんだんと述べていきます。いずれにせよ、これらの私だけが感じているのかもしれないという気がする物事の生々しい存在感は、現実感覚や自意識の感覚にもニュアンスとしても織り込まれているようです。しかしこれらのものは、カメラで写すことはできない。つまり私以外の人には感じとることができません。

それら私だけが感じとっている諸々の存在感は、他の人がそれをそのまま私とまったく同じように感じられない限り、どうしても客観的に観測できない。どのようにしても客観的に観測できないものは物質現象ではない。物質現象でないものが客観的現実世界の一部分である私の身体の中に、はっきりとあるというのはおかしい、という論理になります。

これら諸々の存在感は、しかしながら、私自身は、それらが自分の内面、心の内側にそれが存在している、と感じる。あるいは別の場合は、しばしば、それらが客観的世界の状態として存在しているように感じる。たとえば、私たちは夕焼けの美しさにさびしさを感じることがある。また別の場合は、夕焼けに自然の偉大さを感じる。そのような存在感は、たしかに、私がそれを感じているとき私以外の人が私と同じものを感じているかどうかは分からない。同じようなことを感じているだろうな、とは思えるが、それが同じものだと判断できる証拠はない。しかし、いずれにせよ、それらの存在感は、すべてを含む大きなものの一部である、とはいえる。

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人類最大の謎(6)

2010-08-14 | xx3人類最大の謎

さてその大きなものとは、神様でないとすると、何でしょうか?

仮に、私たちが感じとっているこの世界全体も、またこの世界に含まれているようでもあるがもしかしたら含まれていないかもしれない私というものも、それらすべてがずっと大きい何ものかの中に作りこまれている、としましょう。その大きなものが何かは分からない。私たち自身はそれを感じることができない。そのすべてを作りこんでいる大きなものは、形式的に表現すれば、私が感じるすべて、ということになるが、その全体がどういうものなのかは直感では感じとれない、ということになります。その全体がどういうものなのか、分かる方法はなさそうです。こういう場合、拙稿としては、とりあえずは、それに名前をつけたり定義したりしようとがんばるのはやめて、部分的でよいからその特徴を書き出してみることにします。

その大きなものの全体は、私たちの直感で感じとれないけれども、その部分のいくつかは感じとれる。まず、ここにあるように感じられるこの世界が、その一部分です。宇宙全体もその過去も未来も全部その大きなものの一部分ですね。この私の身体も、もちろん、その大きなものの一部分です。また、この身体の中にあると思われる私自身の心も、たぶん、それの別の一部分でしょう。それらの部分は重なっているかもしれないし、重なっていないかもしれません。その重なり具合は、後で調べていきましょう。

さらに、その大きなものの断片的な部分として思いつくものを書き並べてみましょう。まずは、私がよく気づかないうちに私の身体からときどき立ち現われてくるいろいろな感覚や感情などでしょう。くしゃみをしたり、あくびをしたり、よだれを流したり、眠ったり、目覚めたりする私の身体の動きの大部分を、実は、私はよく知らない。いつの間にか身体が動いているらしい,としか分からない。しかしそれらの動きから私はいろいろな感覚や印象や記憶を受け取っているらしい。それらもまた、ここでいう大きなものの一部分でしょう。

また目に見えたり耳に聞こえたり身体に触ったりする身の周りの物によって私の身体に起こる感覚を私は感じている。これらも大きなものの一部分というべきでしょう。さらに、それらの物事や人々の動きを見たり聞いたり匂いをかいだりしたときに、私の内部でなにか感情あるいは気分のようなものが立ち上がってくるように思えますが、それが何かはたいてい分かりません。そのままに過ごしてしまうが、しばらくしてふたたび関係がありそうな気分になったりする。それは思い出しというか、連想というか、想像というか、私自身よく自覚できないうちに私の気分や感情に影響している。そして、物事を見たり聞いたり触ったり、それらを思い出したり、連想したりするときに、それらが収まっている空間と時間、それらとの関係で私が感じる私の身体の形や動きやそれらから受ける反作用などが、同時に浮かび上がってくる。

目をつぶっていても分かる私の身体。そこから前後左右上下に広がる空間。今と過去と未来を流れる時間。私の周りの人々のありさま。家族と私。友人、仲間、知り合い。その小さな社会。お金。私の家計のやりくり。子供の将来。昔の思い出。時代の流れ。それらに伴う感慨と感情。ふつうはたいして気にしているわけではないが、いつも繰り返し私の中のどこかに浮かんでくる物事たち。自分がそれらをはっきり感じているかどうかもよく分かっていない。しかしそれらの動きの中から、ときどき断片的に世界が立ち現われ、人々の心が立ち現われ、人々が感じていることがまた私の中のどこかに現われ、さらにそこから私の別の感情が立ち現われ、それらが組み合わされて私というものが立ち現われてくるのではないか? それらもまた、ここでいう大きなものの部分部分であるといえるでしょう。

また、私たちが持っている知識のすべても、正しいものも正しくないものも、ひっくるめて、それらがこの世にある、というとらえ方をすれば、それらも、大きなものの一部分である、となります。百科事典に載っている事柄、地理、歴史、あらゆる学問知識、図書館や博物館や官庁に保管されている知識と情報、インターネットの中にある世界中のあらゆる情報、すべてここでいう大きなものの一部分ということになる。人間が理解し得るあらゆる概念、知識は(正しいものも正しくないものも)すべてそれに含まれる、となります。

さらに、人々が物の価値というものを知っているということから、世界中の物事の価値というものがあります。それらもまた、すべてを含む大きなものの一部分でしょう。カレーライスの価値とか、金閣寺の価値とか、銀座鳩居堂前の土地の価値とか、人の命の価値とか、それらもこの世に存在する物と考えれば、この大きなものの一部といえます。会社の株価とか、ドルや円の価値とか、いろいろな経済価値などもそれぞれそれなりに存在している、と考えれば、それも大きなものの一部です。

さらに、私たちが知っている言語、日本語とか、英語とか、そういうものも存在するといえる。地球上に数千種くらいあるといわれる古今東西の人間の言語のほとんどを私は知らないけれども、それらの言語のおかげでたぶん私も何らかの影響を受けているということを考えれば、それらもそれなりに存在している、と言うべきでしょう。それらの言語で書かれた文章も同じような意味合いで存在しているといってよい。古代サンスクリット語で書かれていた古代インドのリグヴェーダとか、古代中国語で書かれていた孔子の論語とか、村上春樹の1Q84とかは、本という物質としても存在しているが、同時にテキストとしても存在している。さらにその文学的内容も存在している、といえる。また実数や虚数など数学的なシステムも、抽象的な存在ではあるが、間違いなく存在している、といえる。足し算、掛け算、算数や位相幾何学は存在している。いろいろな文字や記号は存在している。コンピューター言語もプログラムも存在している。歌や踊りや演劇や音楽は存在している。野球やサッカーや将棋やパチンコなどゲームは存在している。法律や契約も存在している。人々の間の暗黙の貸し借りや義理人情や人気度や風評なども、あいまいさはあるが、それなりに重要なものとして存在している、とすべきでしょう。それらはそれを使いこなす人々とともに存在している。人々がそれを使いこなすことによって存在している、といえます。そういうものたちは、すべてここでいっている大きなものの一部分です。

また、ごく少人数のプロフェッショナルだけが身につけているむずかしいスキルや知識体系も私たちがその存在を知っていたり、それから影響を受けていたりすれば、それは存在するといえるので、もちろん大きなものの一部になります。たとえば、心臓手術の手法だとか、ジェット旅客機の操縦法だとか、パソコンの設計だとか、アニメの作り方だとか、癌特効薬の分子設計だとか、関数解析だとか、中央銀行の為替介入だとか、水爆の作りかただとか、宇宙年齢の計算法だとか、オーケストラの指揮だとか、スケートの四回転ジャンプだとか、です。

思いつくままにだらだらと、脈絡もなく分類もせずに書き連ねてみました。まあこのくらい書けば、大きなものに関するイメージができてくるでしょう? すべてを含む大きなものの内容ですから、まじめに書いて行けばいつまで書いても終わりません。さらに書き出したそれぞれの物事についても具体的に例を挙げていけばいくらでも挙げられる。こういう具合でよければ、どこまでも書き続けることができます。しかしながら読者はもちろんでしょうが筆者も、だんだん退屈してきますね。結局いくらこういう部分的な話を書き出しても、大きなものの全体はさっぱり分かりません。

いくら語り続けても終わらない。終わらないどころかますます分からなくなりそうです。大きなものの話をするということは、しょせん不可能なことなのです。もしだれかがそれを分かりやすく語れるとしたら、それは間違いを語っているからです。それは分かっていますが、それでも拙稿が大きなものの話を続けているのは、私たちがそれがあると思っているからです。何もかもを含んでしまう大きなものがある、と私たちが思っている、ということが拙稿本章のテーマである存在の謎に重要なヒントになると思われるからです。

客観的現実世界、物質、私の身体、そして私が感じるもの、私の直感、私の意識、そういうものたちをすべて含んでいる大きなものがある。さらにそれに含まれているのか含まれていないのかよく分からないような、私が思っている私というものがある。これらの存在は互いに矛盾する。たとえば客観的世界が存在するとすれば私が感じるもの、私の直感、私の意識というものは存在できない(拙稿9章「意識はなぜあるのか?」)。また客観的世界が存在するとすれば私が思っている私というものは存在できない(拙稿12章「私はなぜあるのか?」)。これらの存在の矛盾から(拙稿の見解では)本章のテーマである存在の謎は立ち上がってくる。なぜならば、すべてを含む大きなものについて、あるいはその一部分である私について、あるいはまた別の一部分である客観的世界について、私たちはどう考えているのか、私たちはなぜそういうものがあると思うのか、それが(拙稿の見解では)、存在の謎を作っているからです。

すべてを含む大きなものは、形式的にいえば、私が感じるもののすべてです。まず、私が感じるもののすべて、というこの形式的な言い方を考えてみましょう。

すべてを含むもの、という表現形式が矛盾を感じさせるところがあります。すべてを含むものは自分自身をも含むのか、という疑問に似たような疑問を呼んでしまうところがある。私が感じるもののすべてを含むものは感じている私をも含むのか? 感じている私は感じられるものを含むのではないのか、という形式的な疑問が出てくるでしょう。つまり、感じるものすべてという場合、それは私のこの身体の内部でそれらを感じている、ということではないか? この身体の目や耳など感覚器官を通じて受信した情報を脳で感じとるということではないか? ふつうそう思えます。そうであるならば、私が感じるものは私の身体の内部にある。私の身体というものは世界の一部分だから、世界の一部分である私の身体が世界全体を含む大きなものを内部に含んでいるというのはおかしい、という反論が出そうです。

たしかに、客観的な物質としての私の身体は客観的世界の一部分です。ここにある目に見える私の身体は、私の他、どの人でも、はっきりと見ることができる。必要とあれば(だれも見たくないでしょうけれども)ヌードになってカメラで撮影して画像データとして記録することもできる。高精細MRIで体内のあらゆる断面を撮像することもできる。さらにいざとなれば、体内のどの細胞でも精細穿刺で採取してあらゆる分子構造を電子顕微鏡で調べることだってできる。それは私の身体が物質であり、客観的世界の一部分であるからには当然そうでしょう。

さてそれでは、私の身体を構成するすべての細胞の活動状態とさらにその内部の分子構造とエネルギー状態がデータとして記録されたとしましょう。だれもが、それを、私を観察して分かることのすべてだと思うでしょう。しかし私にとって私は、それだけではない。私の身体を観察すればだれでも知ることができるような物質現象だけではない。私が私だと感じるものはそれだけではない。私にとって私は、私だけが感じられて他のだれにも感じることができない私の内面を私に感じさせてくれる。

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人類最大の謎(5)

2010-08-07 | xx3人類最大の謎

まず、このむずかしそうな謎、つまり世界と私が同時に存在することの矛盾について、拙稿の見解をまとめておきましょう。

ここまでに述べてきたように、西洋哲学ではこの問題を中心に啓蒙時代から哲学の近代化がはじまり、現代哲学に続いています。デカルト1596 ?1650)の「我思う、故に我あり(一六三七年 ルネ・デカルト方法序説』既出)」がそのスタートポイントであり、そこから近代の哲学と科学がともに生まれてきたとされます。二十世紀に入り、現代科学が相対性理論、量子力学、宇宙論、素粒子論、分子生物学、情報科学、脳神経科学、と発展するにしたがって、この哲学的問題は、哲学者の間で、あるいは科学者の間で、主観と客観の関係論、現象学、独我論、心身問題、心脳問題意識問題クオリア問題、ハードプロブレム、など形を変えて、繰り返し議論されてきています。

この問題は、近代哲学以前に歴史上の文献をさかのぼればアリストテレスの形而上学以来めんめんと続いてきていると言えるようです。それより昔のことは完全な文献の形で残されていないので歴史としてさかのぼれないわけですが、たぶん、言語の発生と同じくらい古くから人類が悩んできた問題なのでしょう。その意味で、たしかに人類最大の謎といえますが、なかなか解決の糸口が見つからない。なぜか? それは、拙稿の見解では、私たち人間がこの問題を考えるとき、いつも考え方を間違ってしまうからではないでしょうか? それにはそれなりの理由があるはずです、拙稿では、そうであると仮定したうえで、それなりの理由を調べていくこととします。

まず、私たちがこの問題をふつうに考えるとき、どういう道筋を通ってどのような結論に行きつくのでしょうか? その道筋をチェックしながら、たどっていくことにしましょう。

私たちは、だれもが同じように感じとれるただ一つの現実世界がここに存在しているように思っているけれども、それが本当だという証拠はない。私たちはよく、これが本当であることの証拠として、私がこのようにはっきりとこの現実世界を感じとれるからこれは存在している、という考えを持つが、それはだめでしょう。私がそれを感じとるということだけが、この世界の存在の根拠になってしまっています。このことは、私がこの世界の内部にいるただの人間であるとすればおかしい。ただの人間である私ひとりだけが世界の存在を証明するような特権を持つはずがない。そうであるとすれば、世界を感じとっている私が世界の内側にいるふつうの人間であるとすることはおかしい。言いかえれば、私は世界の外側にいなければおかしい。

もしそうであって、私がこの世界の外側からこの世界を感じとっているからこの世界が存在すると分かるのだとすれば、この世界は人間だれもが同じように感じとれる世界であるのかどうかはあやしい。私の目の前にあるこの世界、いまここにあるこの世界を、私以外のだれかが私が感じているこのとおりの世界に感じとっているかどうかを確かめる方法はない。たぶんそうだろうと思えるけれども、そうであると決めつけることはできない。つまり、この世界はだれにとっても同じ客観的なものとしてはっきりと存在していると言いきることができない。

以上をまとめれば、次の結論を得る。

世界をこのように生々しく感じている私がはっきりと客観的世界の中にいるという説明はできない。また私がはっきりと世界を感じていると仮定すれば、この世界がだれに対しても同じように客観的にはっきりとここにある、ということはいえない。

ゆえに、客観的世界と私が同時に存在するとする考え方には矛盾がある。つまり「世界は、はっきりとここにあるし、私は、はっきりとその中にいる」という考えは間違いだというしかない。

これで、問題(世界と私が同時に存在することの矛盾)が、はっきりしたのですが、拙稿としては、この問題に関して、なぜ私たちがそれを謎と感じるのか、という観点で調べてみたい。

まず、この世界をこのように生々しく感じている私は、この世界の中にいるとはいえない、というところから出発してみましょう。

それではもし、私が私だと思っている私がこの世界の中にいるものではないとすれば、それはどこにいるのか? それを探してみましょう。それを探すには、私自身とこの世界とを同時に含み、さらにその他のすべてを含むような、何よりも大きなものを見つける必要があります。しかしまず、この世界全体よりも大きい、そんな大きなものがあるようには思えません。

そんな大きなものがもしあるとしても、直感ではとても感じとれないはずです。筆者などがいくら修行して瞑想で感じとろうとしてもだめでしょう。それが人類最大の謎である以上、人間に感じとれるような生易しいものではないと思えます。そう言ってしまうと、しかし、話は進まなくなってしまいます。そこで、拙稿としては、とりあえず話を進めるために、とにかくそういう大きいものが仮にある、として進みましょう。

何もかもを含む大きなもの。そういう、直感ではよく分からない大きなものについて、どう考えればよいのか?このような問題意識は昔からありました。西洋では科学が進むにつれて、この問題から近代哲学が始まっています。精神と物質、自我と客観的世界の存在の矛盾。それらすべてを大きな神の存在に包み込もうとする考えが近代哲学のはじまりとされています。

不可解な謎を神様のせいにすれば話はすぐおわってしまいます。拙稿としては神様に登場願わずに、もうすこし先まで進める方向を探っていきます。

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