拙稿の見解としては、私たちの身体の外部の物質現象や仲間の人間から受け取る化学物質、エネルギー、情報あるいは感覚信号と身体の内部を駆けめぐる神経信号あるいは化学物質による信号が互いに干渉し影響し合って互いを変化させ、その結果が、さらにまた身体内外で互いを変化させ合って混ざり合うことで作りだすこのような諸々の存在感から、この現実世界は私の前に立ち現われてくる。それは私たちの外側に客観的現実世界を写しだすと同時に私たちの内側に自分の内面と感じられるものを作りだしている。
特に(拙稿として強調したいところは)私たちが仲間の身体の動きを目で見て、仲間の身体が出す音を耳で聞くことによって、それが一瞬の断片的なものであっても、それと意識しないうちに、いつのまにか反応する自分自身の身体内部の動きから来る信号を感じとることによって、客観的現実世界の存在感が立ち現われてくる。仲間が何を感じているか、その顔の表情を見て、その言葉を聞いて、書いたものを読んで、あるいは印刷物、新聞、ラジオやテレビで人々の動作や発言を見聞きして、私たちはそこに現実の存在感を感じる。私たちはそれを私ひとりが感じるというよりも、仲間としての集団的視座から見た、だれもが同じように感じられる客観的な現実世界があること、その存在感として感じとる。そのとき私たちは、現実の世界がここに客観的に存在している、と感じる(拙稿6章「この世はなぜあるのか?」)。
逆に、世界がここに客観的に現実として存在している、と感じられる場合、仲間(他者)も同じ世界を感じている、と感じられる。ふつう、これはいつのまにかそう感じているので、私たちは自分がそれをそう感じていることにはっきりとは気づかない。つまり私たちは(拙稿の見解によれば)、仲間も同じ世界を感じていると感じられるとき、それを仲間がそう感じていると自分が感じているとは気づかずに、ただ世界がここに客観的に存在していると感じる。私たちが客観的世界を感じるときはいつもそういう仕組みで感じている。もしそうであるとすれば、この仕組みによって、私たちの直感では、この現実世界を感じとっている人間が自分ひとりだけだとは決して思えないはずです。つまり私たちは、暗黙のうちに、だれもがこの世界を同じように感じとっている、と感じている。そのとき、そしてそのときに限って、(拙稿の見解によれば)私たちはこの現実世界が客観的に存在していると思う。
私たち人間は、自分を含めただれもがこの世界を自分と同じように感じとっている、と感じている。たとえば、人間の言語は(拙稿の見解によれば)、だれもがこの世界を同じように感じとっている、と感じる(私たちの身体に備わっている)仕組みを土台にして作られているシステムです(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)。たとえ一人でいるときに独り言をいうとしても、そのとき私たちはすでに、仲間のだれもがこの世界を同じように感じとっている、と感じながら独り言をしゃべっている。このことからも分かるように(拙稿の見解によれば)、私たちは目が覚めているときはいつも、この仕組みで、自分が(目に見えるここにだれもいないとしても、どこかにいるはずの)仲間とともに客観的世界の中にいる、と思っています。
こういう仕組みによって(拙稿の見解によれば)、私たち人間は、だれにとっても世界は同じものとしてただ一つ存在する、と思っている(拙稿4章「世界という錯覚を共有する動物」)。まずそう思っていれば、人々とうまく付き合っていかれる。話が通じる。言語が理解できる。仲間と協力して生活していけます。逆に、仲間とうまく協力して生きていくためには、仲間の皆がここにあると思っているらしいただひとつの客観的現実世界の中に、自分もいると思いこむ必要があります(拙稿12章「私はなぜあるのか?」)。仮にそう思わないような脳神経系を持った人がいたとしても(拙稿の見解によれば)、そういう人は子孫をうまく残せないでしょうから、そういう神経構造は私たちの間に生き残っていないはずです。
ちなみに拙稿とは観点が少しずつ違いますが、人間が自分の身体や仲間の身体を介して世界を捕らえることでこの世界が現れる、という考え方は、現代哲学や現代心理学の理論にも出てきています。たとえば現代哲学では、主体でありかつ客体である私たちの身体がそれに働きかけることによってこの世界は知覚として現われてくる、という考え(一九四五年 モーリス・メルロポンティ『知覚の現象学』)、あるいは、世界は共同体による共有によって認識される、という考え(一九七九年 リチャード・ローティ『哲学と自然の鏡』)などが提唱されています。また、最近の発達心理学では、五か月児は特定の慣れ親しんだ物体の存在を脳の短期記憶(ワーキングメモリー)機構に保持することから発展して一般的な物体の存在について理解していく、という理論の検証がおこなわれています(二〇〇五年 ジャン・シンスキー、宗像優子『親近性が探索を育てる:幼児は隠し物探しで好奇心を反転する』)。
古代から近代までの哲学と科学では、現実世界が存在していることは当然の前提であると考えられていました。それに対して二十世紀以降の現代の哲学では、このように、現実世界の存在は私たちの身体を介して現れてくる、という考えがかなりひろく取り入れられてきているようです。このことは、拙稿本章のテーマである存在の謎を検討するための大事なヒントになっています。
自分が目の前に感じ取っている現実を、ただひとつの現実だと思う私たちの身体の仕組み。あるいは、私の身体を私だと思う私たちの身体の仕組み。こういう話を考える場合(拙稿の見解では)、私たちが感じとる存在感、ということが重要でしょう。日本語で存在感という語は、ふつう人物の権威や威厳の大きさを表現したいときに「A君は存在感がある人だ」というような使われ方をします。拙稿では、この語感をもう少し広げて、字の意味どおりに使うことにします。つまり、人物に限らず物事が単に存在するという単純な感覚を表すことにします。つまり、そこにそのものが存在するように思えるという感覚のことを、そのものの存在感、といいます。
ふつうは、物が存在するからその存在感(存在菅でなくて)が感じられるわけですね。菅首相が存在するからその存在感が感じられる。その人の存在感が、もう少し大きくてもよさそうなのにそれほど感じられないときに、私たちは、あの人は存在感がない、という。いずれにせよ、菅首相が総理官邸の中に存在することはたしかなことです。しかし、物が存在しないのに、存在感だけが感じられる場合もある。たとえば幽霊が怖いと思うときなど、実体がない存在感を恐怖の対象として感じています。
もう少し科学的な話としては、たとえば、ネッカーキューブというダマシ絵があります。ネッカーキューブとは、斜めから見下ろした立方体を十二本の稜線だけで表現した線図です。立方体を右斜め前方から見下ろした図に見えるが、しばらく凝視していると、突然、左斜め前方から見上げた図に見えてくる(二〇〇〇年 谷部好子、藤波努『3次元物体の認知過程における主体的操作の特徴について-ネッ カーキューブ操作行動に見られた共通点』)。網膜に映っている画像信号はまったく変化していないのに、脳内の存在感だけが変換してしまう。つまり、世界は変化してしまうのです。現実が一つしかないならば、これはありえないことです(拙稿19章「私はここにいる(18)」)。ネッカーキューブの存在感は、ただひとつの現実を反映したものではない。似たような効果を持つダマシ絵には「アヒルかウサギか?」とか「右回り?左回り?」なんていうものもあります。これらは、私たちの身体が感じとる存在感が現実世界をそのまま正しく反映するものではない、という例証といえます。
私の身体の外側の客観的世界に何かが存在している、また私の内面で何かが起こっている、そこに何かがあるように感じられる、あるいは、何かが起こっているように感じられる、そしてそれはあれだ、という感覚が存在感です。それらのうちのあるものは、だれでもそう思っていると思われる。つまりその存在感を仲間と共有できると感じられる。残りのものは仲間と共有できるとは感じられない。私たちは、そのうちで、仲間と共有できると感じられる存在感をあらわすものを、現実に存在する、と感じる。仲間と共有できない存在感をあらわすものを、自分の内面と感じる。
目の前に広がっているこの客観的物質世界は、仲間と共有できると感じられる存在感を持つものですから、現実に存在すると感じられます。人々の身体の中にあると感じられる心といわれる何かも、仲間と共有できると感じられるある程度の存在感を持つものですから、ある程度は存在すると感じます。一方、私の鼻腔内の痒さとか、いつまでも寝巻きでいるから妻に嫌われているらしいという不安とか、私の人生の小ささとか、XX君と関係したことの体験からくるむかつきとかは、仲間と共有できない存在感を持つものですから、自分の内面にあると感じられる。
しかしこの内面にあると感じられる存在感には注意が必要です。実際、自分の内面にあると感じられるものも、それなりに存在する、といってよいでしょうか? ふつう私たちはそういうものも「(私の心の中に)・・・がある」と言いあらわしますね。ここは(拙稿の見解では)重要です。