哲学の科学

science of philosophy

この世はなぜあるのか(4)

2007-06-30 | 6この世はなぜあるのか

この世界には、おいしそうな食べ物とまずそうな食べ物とがある。火は熱く氷は冷たい。美しい人間と醜い人間とがいる。若い異性は美しい(かわいい?)。骸骨は怖い。糞便は汚い。なぜでしょうか? 全部ただの物質なのに。

世界はなぜあるのか? 宇宙の、そして地球上のこれらの物質は、なぜ今あるようにこうなっているのか? この世界はそれを人間が感じて、しかるべく身体運動を発生し、経験を記憶して必要なときに思い出し、知識を蓄積し、その知識を利用してこれからの運動を計画し、上手に生き抜いて繁殖していくためにこうなっている。いや正確に言えば、世界がこうなっていると感じられるように人類の脳は進化してきた。

このように存在感があって、美しくて、心地よくて、あるいは気持ち悪くて、それぞれの形が何かを人間に語りかけている物質たち。それらがそうあるのは、人間の脳がそれら物質をそう感じ、その感じを記憶して学習し、必要なときに想起し、それを使って(おおかたは無意識に)将来を予測して生存繁殖に有利な運動を形成するようにできているからです。カロリーの高い食べ物はおいしい。身体を損なう温度は不快。交尾して優秀な子を作れる異性は美しい(かわいい?)。感染症の危険がある物質は臭く汚い。だれもがそう感じて、それに対応して身体を動かしていく。お互いに毎日その感覚を言い交わし、人間はだれもがそうとしか感じないようになっている。

この世にあるもろもろの物質、それぞれの見かけ、それが与える感覚をそう感じて、じょうずに適当な運動を形成するように進化した人類だけが生き残った。その子孫が我々だからです。

だから、世界はこういうふうに見え、こういうふうに存在している。逆に言えば、こういうふうに存在しているものを、私たちは、世界だと思っている。人間の脳が身の回りの物質の変化に対応して、どういう運動を形成する機構になっているか。脳のその機構がこの世界を作っています。それも個々の人間ではなく、群れとしての人間集団(仲間)の運動形成の共鳴がこの世界を作っている、ということでしょう。この世界を作っているのはそのように働く人類集団の脳であり、それを作る人類のDNA配列(ゲノム)なのです。

たとえば、物の色は三原色からできている、といいます。それは人間の網膜の光感受細胞が三種類あるからです。しかし、ある種の猿はそれが二種類しかない。また、それが四種類の猿もいます。彼らにとって色の付いた世界は、二原色とか四原色の世界なのです(二〇〇四年 リチャード・ドーキンス 『先祖の物語』)。

世界は、生物の感覚器官と運動器官の構造により、また神経情報処理システムの構造により、また、それがどういう生存環境の中で進化したかの原因により、違ったものになって存在する。つまり、人間が感じるこの世界は、人間がそれをこう感じると生存に便利なように、そのようにできている。

クイズ:なぜ、リンゴは赤いのでしょうか? なぜ、雪は冷たいのでしょうか?

答え:リンゴは赤いと便利だからです。それを見つけて食べやすいから。

雪は冷たいと便利です。手が凍傷にかかるまえに引っ込めて暖めるから指を失わずにすみます。

それで、リンゴはこんなに赤いし、雪はこんなに冷たいのです。

人間が(仲間と共感して)感じ、共鳴して身体を動かし、そして記憶し、そして共感して語り合うから、この世界はこういうふうに存在するのであって、人間が感じない、あるいは感じても記憶しない、あるいは記憶しても他人と共感しない、他人と共鳴して神経系が連動しない、というならば、世界が存在するといっても意味がない。

そして、目の前に世界がこういうふうに存在しているように見えるから、この世界でいろいろ実験、観察を重ねると科学という模型のとおり再現できるらしい、と思える。それはあまりにも尤もらしく見えるので、科学という模型は本当に存在しているかのように見える。科学の法則は人類の脳と関係なく存在するように思える。だがこれも正しくは、人類の脳がそれをそう感じるからだ、ということでしょう。

私たち人間が、客観的な世界だと思って目の前に見て手で触っているこの世界は、たしかに人間であれば、だれでも同じように感じる世界ですが、人間という生物の感じ方だけで作られている。人間が生活するのに便利なように、そのために作られた世界だけが存在している、ということができる。この点を強調して構成主義と名乗る現代哲学がある(一九八一年 エルンスト・フォン・グレーザーズフェルド根本構成主義入門』)。

リンゴを構成している原子、電子、そして素粒子は、どのように存在しているのか? 精密に言えば言うほど、物理的な存在は、不確定原理によって不確定になってしまう。それら粒子の働きによってリンゴから反射されてくる光を網膜で受けている人間は、視覚神経を伝わってくるその感覚データがどういう条件を満たすときに、それがリンゴであると、判断できるのか? こういうことを正確に言おうとすればするほど、哲学としてはいい加減なものになってしまうしかない(二〇〇五年 クロフォード・エルダー本当の自然とよくある物体たち』)。

そういう存在(原子、電子、そして素粒子など)は、人類の脳がバーチャルに、科学的実在と感じているだけなのかもしれない。いや、正確にはそうとしか言えないでしょう。バーチャルなのに完璧にもっともらしいものと実物とを見分けることはできない。それは区別できません。脳の扁桃体が同じ反応をすれば、私たちは、まったく同じ存在感を感じる。完璧な存在感を与えるバーチャルリアリティがもし作られたとすれば、それはどんな観察をしてもどんな実験をしても見破れない。そうなれば、もう、それは現実でしかない。

バーチャルリアリティの語源的な意味は「実質的に現実であること」です。われわれが感じて現実の存在としか感じられないもの、完全な存在感を与えるもの、もしそういうバーチャルリアリティがあれば、それは現実の存在というしかないでしょう。もっと割り切って言えば、われわれが感じているものはすべて、この目の前の物質世界も含めて、すべてはそう感じるだけだといえます。

リアルかどうか、という問いは意味がない。すべてはバーチャルリアリティ、つまり実質的にリアルと思えるからリアルということなのだ、ということもできる。

まったく完璧に現実らしく見えるもの(偽現実ともいう)を現実と言わなければ、現実というものはないことになってしまう。拙稿では、だから、そういうものを現実と言うことにしましょう。逆に言えば、現実とは最も完璧な偽現実のことだ、とするわけです。

哺乳類は身の回り、特に目の前の物質の動きに敏感です。目の前のものに注目し、匂いをかぎ、耳を立ててかすかな音も聞き取る。目の前の現実に強い存在感を感じているかのごとく運動する。便宜上、擬人的な言い方を使うことにすれば、哺乳類は、目の前の現実に存在感を感じる、といえる。哺乳類の脳が目の前に見える物質に、現実感、存在感、を感じるように進化した理由は(拙稿の推測では)、たぶん、この動物類が鮮明な記憶再生能力を持つようになったからでしょう。

脳内で記憶から再生されるシミュレーション(過去の記憶、願望、不安、未来の予測、白昼夢など)のバーチャルな虚像と目の前の実像とを区別するためには、存在感が役に立つ。目の前の捕食者あるいは獲物の出現に応じて、瞬時に感情回路を発動させアドレナリンなどを分泌することで高効率のエネルギー代謝を回転させて身体の運動系を急加速できる生理機能が、哺乳類の繁栄を実現した。覚醒時にいつも身の回りを監視し、危険や利害のある信号に敏感に注意を集中して注目し、必要な運動を発動し、同時に現象の特徴を記憶していく。このように注目すべき現実世界に、機敏に反射的に対応する運動形成神経活動を最優先で加速し、その記憶を確定する、哺乳類共通のこの神経回路、つまり感情回路、の働きが、拙稿のいう「存在感」に対応している。

存在感を生成するこの感情回路の機構は、現代科学では、まだまだ完全に解明されてはいませんが、大脳の奥にある扁桃体視床のあたりにあって、五感と自分の運動との関係で知覚できる身の回りの物事の変化を総合して現実らしさを判定しているようです。特に、動眼神経の反射による視線の振り向けによって、その対象が視野の中央に来ること、輪郭がはっきりしていること、顔を動かして距離感と立体感を感じられること、過去の経験と矛盾しないこと、過去にそのものと対面した時の過去の感情が想起されること、などを感じると、その対象物の存在感が強められる。つまり、物質を対象とする運動とそれの結果による感覚信号の変化が、過去の記憶、習熟した経験の記憶とうまくつながることで、物質の存在感、現実感が発生する。

脳のこの機構に障害が起こると、現実と妄想を混同する意識障害(アルツハイマー病などの症状)に落ちいります。芥川龍之介の小説「杜子春」などのように夢の中で実人生のように生きるという幻想フィクションは楽しいですが、正常な人間の脳ではそれは不可能です。断片的な夢や幻覚や病的妄想のほかには、人間は現実感を、覚醒時の目の前の物事の存在感にしか感じられない。

その現実感、つまり目の前の世界の存在感の知覚を基盤として、人類は精緻な「現実世界」を把握する神経機構を発展させた。自分の運動とそれに対応して変化する五感からの知覚入力情報を総合して過去の経験記憶と照合し、次の瞬間の自分の運動が世界の変化によってどのように干渉されるかを予測計算する。予測可能な知覚信号のその規則性を、現実世界として目の前に存在感をともなって感じるような脳になった。その感知した現実世界の変化を、時間推移をともなった経験と感じて記憶していく。その記憶を常に予測に使い、過去から現在への世界の時間推移を感じることができる。その経験記憶と現在の受信感覚信号の全体と未来の予測が、時間空間の広がりを持った世界の一体的な存在感を作っている。覚醒時の人間は、いつも、自分を中心として広がるように感じられるこの時間空間の感覚を持っていて、その中で自分の身体を動かす次の運動を(おおかた無意識に)計画していく。

人類はこの世界の存在感を、さらに他人の振る舞いを観察することで確認する能力を持っている。自分が感じる目の前の物質の存在感を、目の前の他人も感じていることを感じる。前を歩いている人が石ころをよける動作をすると、私もしっかりその石ころをよけることができる。

人間どうしによる世界の存在感の共感の相互作用が、さらに世界の存在感を極限にまで強めている。逆に言えば、この世界は人間が群として集団的に感じ取っている存在感の共鳴の上に作られている、といえる。

身の回りの物事や環境の存在感を共感する神経活動は、始めは群動物としての霊長類が仲間と感覚を共有して、集団として危険を避けるために発展し始めたのかもしれません。しかしのちには仲間同士のコミュニケーション、獲物相手の狩猟、敵との戦い、そして個人の経験の蓄積のためなど多目的になり、ますます不可欠な道具となってこの脳の構造は大発展した。その結果、現生人類の脳は、自分の身体の周りに時間空間となって広がる複雑な物質世界が客観的に確固として存在するように感じることができる。

しかし、その世界の存在のもともとの根拠は私が感じ取る存在感の感覚、つまり私の運動と五感からの入力情報との相互関係を経験記憶と照合して身体運動への干渉を予測評価する脳の辺縁系神経細胞の活性化、でしかない。これらの神経回路は、錯覚にも良くだまされるような情報処理装置です。

そういう神経回路機能が五感の末梢神経への物質のエネルギー作用を情報変換して脳の中で存在感を作り出すことによって、物質世界の存在を感じる。そのように人間の身体は作られている。だからいわば人類共通のその神経機構の共鳴によって人間が感じるこの世界が作られている、といえる。逆に言えば、人間が他人と共有できる物質の存在感だけから、この物質世界は作られている。他人と共有できない感覚に対応するものはこの物質世界には存在できない。つまり人間集団が神経回路を共鳴させられる客観的な物事だけからこの物質世界は作られている。そういうように世界を感じ取る神経回路機構を人間は持っている。

そういう神経回路機構の持ち主の集団全体、つまり人類、がだれもいなくなると、私がいま感じているようなこの世界、つまりこういう感じのこの世界はもう存在しない。

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この世はなぜあるのか(3)

2007-06-23 | 6この世はなぜあるのか

さて次には、動物の中で人間だけが、なぜそう進化したのか? 人間だけがこの世界をはっきりと客観的に感じられるように進化したのは、なぜか? という質問が、科学として問われるでしょう。

哺乳動物を観察すると、それらがかなりしっかりと、他の動物や動物以外の物体(特に食べ物)の動きや変化を、嗅覚や視線で追跡できることが分かる。視界から消えた後、ふたたび出現した物が消える前の特徴を再現する、ということを動物が予想できることも観察で確かめられる。

忠犬ハチ公は、渋谷駅の改札口から夕方出てくるご主人を、朝別れたご主人の特徴を全部持っている人物として対応するのです。しかしハチ公は、夕方のご主人を朝別れたご主人と同一の存在だと思っているのでしょうか? 目の前のご主人がこの世に一人しか存在しないのだということを、理解しているのでしょうか? ハチ公は、ご主人が死んで存在をやめたことを理解できませんでした。人間ではないハチ公が、そもそも、個々の人間がこの世に存在しているということを理解できていたのでしょうか? この質問は、答がありません。というよりも、拙稿の考え方によれば、意味がない、というべきでしょう。自分がご主人をどう感じているか、だれかと話し合って共感することのできないハチ公は、ご主人の客観的な存在感を自覚することもできないからです。人間でないハチ公は、この世界の何者についても、その存在感を客観的には感じることはない。人間だけが、それをできる。

ちなみに、現代の分析哲学者は、ギリシア神話の英雄オデュッセウスの愛犬アルゴスが二十年ぶりに帰館した主人をすぐに見分けたという古代ギリシアの叙事詩『オデュッセイア(BC八世紀頃 ホメーロス)』の逸話を例に挙げて、犬が存在の同一性を認知しているかという疑問を論じています(一九九六年 ダニエル・デネット『心の種類』)。

この、人間に特有と思われる、世界の客観的な存在感を感じる、という脳の機構の獲得は、人類の能力を飛躍的に高めた。人間は、お互いに客観的世界という同じ村に、皆一緒に住んでいることを確信できる。脳のこの機構を使って人間は自分の行動の結果を予測できます。仲間の行動の結果も予測できる。

この能力によって、原始時代から人間は、仲間と協力して、上手に狩猟採集生活をしてきた。物質世界の中での自分の身体の形と位置と動きがはっきりと分かる。人間集団の中での仲間と自分の関係がはっきり分かる。自分の立場、自分の役割が分かる。(拙稿の見解では)人類で大きく発達した大脳新皮質が、この機能を果たす。

マンモスも上手に獲れるようになったでしょう。仲間がどう動くか、マンモスがどう動くかもよく分かるからです。マンモスの肉を平等に切り分けることもできる。勇敢に働いた仲間を誉めることもできる。ズルをして働きもないのに肉だけもらう奴を責めることもできる。仲間と自分の実績を覚えておくこともできる。協力を維持し、分業し、団結を強化できる。その結果、高い栄養を確保でき、極端に発育の遅い高度な脳を持つ幼児とその母親を扶養することができるようになったから、人類という動物種は繁殖し地球上に拡散したのです。

人類が他の動物に卓越するこのような能力を獲得した時期は、今から、四、五万年くらい前という推測が人類学ではなされている。人類の能力のこの大発展は、「大躍進」と名づけられています(一九九二年 ジェレッド・ダイアモンド第三のチンパンジー』)。この時代の遺跡から鋭利な石器の槍、骨の釣り針、装身具、壁画、埋葬などが短期間に出現したことが分かった。この時期から、クロマニヨン人に代表される現生人類が、ネアンデルタール人など古い人類を駆逐して世界中に拡散し繁栄するようになった。この大躍進の原因について、この時期にはじめて言語が発生したらしいから、とか、言語はあったが仮定法話法がこのとき発明されたから(二〇〇四年 リチャード・ドーキンス 『先祖の物語』)とかの興味深い説が出されていますが、鶏が先か卵が先か、面白い。筆者が思い付いた仮説では、この時期に人類が、燻製や干物や容器など食料の貯蔵法を発明したから、つまり、自分の財産を主張することで他人の立場も分かるようになり、自分を含む客観的世界の存在感を認知する必要が出てきたから、というものです。まあしかし、そろそろ、こういういいかげんな仮説を言い散らかしている段階ではなく、真面目な実証的研究が待たれるところです。

猿は、集団で暮らしてはいても、複雑な協力はできない。人間は、自分が置かれている世界を客観的に見ることができる。世界を他人の目で見ると同時に、自分という一個の動物を、他人の目で客観的に見ることができる。この能力で、人類は強力な社会をつくり、地球生態系の王者になった。

世界の客観的な存在感は、(拙稿の見解によれば)言語の基礎にもなりました。客観的世界の認識と他人への憑依の機能を組み合わせて、人類は複雑な文法を持つ言語を開発した。

話し手は聞き手の目を見てから、次に第三者の動作に視線を走らせる。そして聞き手に何か発声する。こうして話し手は聞き手に、第三者の運動形成を伝達する。つまり、話し手は第三者の運動を見て感じ取ったその運動共鳴を、音声に変換して、聞き手の脳に伝え、聞き手の脳内で同じ運動共鳴を引き起こすことができる。

また、話し手は聞き手に向かって物質を指差して言葉を叫ぶ。物質に対して何か運動を加えながら言葉を叫ぶ。それを見た相手の脳は、発話者の脳内の運動形成活動に共鳴する。そうして二人は、自分たちが共有する客観的物質世界での操作とその対象物を、言葉で名付けていくことができる。

(拙稿の見解によれば)こうして、仲間どうし共鳴できる脳内の神経回路における運動形成活動の一つ一つに対応して、言葉が作られていった。

 さらに人類は科学を作り出した。物質の変化を観察して経験から規則性を見つけ出し、仮説を作ってその規則性を実験観察で検証する。これを熟練したプロ、科学者が科学者集団として組織的に、慎重に論理的にやると、科学ができあがる。科学は、こうして作られた「確かに存在しているらしい」世界の模型です。

自分が見えないところまで、宇宙から素粒子まで、理論を使って世界を広げることができる。一方、世界を広げるほど、直接的な身体感覚から直感で感じられる存在感は薄れてくる。それでも、科学は、身体感覚の存在感を基礎にして理論で作り上げた物質世界の、一番よくできた模型です。

 目の前のこの物質世界は、どう見ても存在するとしか思えない。直感で存在感を感じますね。さらに、私が見ていないところまでも、感じないところまでも、この物質世界は私の周りにどこまでも連続して広がっているらしい。そういう物質の広がりの全体である宇宙というものも存在するらしい。そういうものにも、想像上ですが、存在感を感じられる。私が生まれる前から、そして私が死んでしまった後も、この世界は同じように存在するらしい、と思える。また、私自身がどう感じるかとは関係なく、だれにとってもこの世界は同じように存在すると感じられるようです。だから、間違いなくこの物質世界は、このように存在するらしい。

そうだとすると、私がこの物質世界をこう感じることはもっともだと理解できる。逆にそうでないとすると、私がなぜ物事をこういうふうに感じているのか、まったく理解できない。そして、それは私ばかりでなく、どんな人間でもそう思えるらしい、ということが分かる。

要するに、自分だけでなくどんな人間でもそう思っているはずだとだれもが思えるところから、この世が確かに存在している、と思える。

これがこの世の存在のしかたです。これ以外に、この世の存在のしかたがあるとは考えられませんね。これがすべての出発点です。

この出発点を忘れてはいけない。これを忘れて素朴に、世界が実在する、ということを出発点にすると、人生の深いところで間違えていきます。この物質世界がまず実在していて、それから、その中にある物質である人体のひとつが私だ、と思うところから間違いが生まれてくる。そこから真面目に考えれば考えるほど、不可思議な哲学的な謎の一群、たとえば宇宙とは何かという謎、自分自身という謎、死という謎、人生の目的という謎、神的存在という謎、などなどが次々と襲ってくる。それらは偽の謎です。世界が実在すると思うところから、それら偽の謎たちも実在することになってしまう。伝統的な西洋哲学というのは、こういう間違いにふりまわされてできあがっている。おもしろいことに東洋の哲学は、概して、物質の実在を西洋哲学ほど絶対的には捉えないからでしょうか、世界の実在という思い込みから生ずる間違いについても、比較的に深く落ち込まずにすんでいる。だからといって筆者は、東洋の知恵が西洋の論理よりも優れている、などと主張するつもりは、まったくありません。

西洋でも現代の哲学者は、さすがにこのことに気づきはじめましたが、つい最近のことです(たとえば一九七九年 リチャード・ローティ哲学と自然の鏡』)。

私たちの常識というものは、こうです。「私の外部に、物質としての世界が実在していて、それは私の考えや私の感じ方と関係なく存在している。一方、私の内部の私の考えや、私の感じ方は、私の外部に広がっている物質世界と関係なく私の内部で作られ内部にしかない」こういうふうに、私たちは思っていますね。

しかし、これは間違いです。脳が作り出す錯覚です。実は、内部と外部は違う世界ではない。私の内部にあるように感じられる感覚や内観は、物質である私の脳神経系が周りの物質との情報のやり取りから生理的に作り出している神経活動という物質現象の反映でしょう? 同時に、私の脳という物質も含むそれら私自身の外部にあるように見える物質世界は私の脳の内部の働きでこのように作られているからこのように感じられるわけです。

こうして私たちには、外部の物質世界と自分の内面というものが共に存在しているように感じられる。しかし、両方とも、そう感じられるからそうであるらしい、ということではひとつのことです。ひとつのものが、ふたつにみえるわけですね。

私の内側のことは、後で詳しく論じることにして、まずここでは、私の外側にあるらしい物質世界のことを、あらためて考えてみましょう。

物質世界は確かに存在するように感じられるけれども、本当にそうかどうかは確かめようがない。確かかどうか、いかようにしても確かめられないこの世界を、人間は確かだと信じて生きているのです。それがそもそもの出発点でしょう。

私の脳神経系が、それが存在するように直感で感じるから、世界は存在するらしい。私以外の人間の脳も間違いなくそう感じるらしいから、世界はますます存在するらしい。

そこで拙稿では、ここのところをいちおう、「人間のだれもがそう感じているらしいということだけを理由にして、世界は存在する」という言い方に整理しておきましょう。

じゃあ、人類が全滅してもこの世界は存在するのか? 月や火星の上でも宇宙のどこでも、科学の法則は成り立つことが分かっていますから、人類がいなくても、科学法則が描くような物質の分布とその変化の過程は変わらずに存在するはずです。だからNASAの火星探査機が無人の火星表面で現在しているように、人類が全滅した後、だれもいなくなった地球で、自動機械が物質とエネルギーの変化を測定してデジタルメモリに刻々と書き込んでいくような仕掛けを残しておくことは可能です。あるいは自動ビデオカメラが、延々と人間のいない地球表面の風景を記録し続けることもできます。

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この世はなぜあるのか(2)

2007-06-16 | 6この世はなぜあるのか

 目の前の物質の存在感、そしてそこから引き出されてくる世界全体の存在感。目や耳を働かすときの私たちのこのような感じ方、言い換えれば、このような現実世界の成り立ち方は、(拙稿の見解によれば)人間の脳神経系が持つ独特な憑依機能(筆者の造語)に根ざしている。

 憑依とは、「狐が憑く」という表現があるように、他人の内部に、その人物の外部から乗り移ることです。その人物の身体を乗っ取る、というような言い方もある。狐つきのような化け物話とか、幻想小説、SFなどにしか出てこない。現実にはありえない行為ですね。拙稿では、あえてこの言葉を使って、人間の脳の基本的な働きを表現することにしています。語感が良いとはいえないので、他によい言い方があれば交換したいのですが、今のところ、適当な言葉は思いつきません。

さて拙稿でいう憑依は、視覚聴覚からあるいは想像からイメージする他人の身体の動きを予測するために活動する脳の運動形成回路の働きを指します。人間の脳は、他人の人体を知覚すると同時に自動的に、自分の運動形成回路を使ってその動きを予測するようにできている(その働きをする神経細胞をミラーニューロンという)。

つまり、人間は脳の中で他人に乗り移れる、と言ってよい。他人の心を感じ取る、と言うのは、このことを指して言うわけですね。想像の上では、他人として生まれ変わることさえできるような気がする。むしろ、私という一人の人間は、実はどの人間にもなれる。あるいは、はじめからどの人間でもある、と考えてもよいのかもしれません。どの人間でもある私が、たまたまここにあるこの人体に入っていると思い込んでいるだけ、と感じることもできますね。昔の人は、こういう感覚から「憑依」という概念を思いついたのではないでしょうか。こういう見方をすれば、自分というのは、たまたま私が入っている人体のことだ、ということになる。

こういう感じ方から、「自分は自分の肉体とは別に存在しているもの(精神とか魂のようなもの)であって、自分の肉体が死んでも、自分自身はもしかしたら存在し続けるかもしれない」というような幻想もでてくる(二〇〇四年 ピーター・カルーサーズ『心の実態』)。科学がよって立つところの唯物論的世界観では、こういう感じ方自体を一笑に付すわけですが、拙稿の考えではそうするべきではない。

拙稿の考えでは、「自分の肉体だと自分が思っている物質は、自分そのものとはちょっと違う」という違和感は大事なところです。この感覚は、私たちが自分の肉体を他人の肉体と同じ物質に過ぎないと思っていることの裏返しなのです。

人間は、仲間の人間の身体を見て、それを手本にして自分の身体の感覚を把握している。無意識のうちには、自分の動きよりも先に仲間の動きが分かる。そのことから(世の中の常識とは違いますが)拙稿の見解では、人間は、自分の心の中が分かるよりも前に、周りに見える仲間の人間の心の中が分かってしまう、と考える。

私たちの毎日の経験でも、目の前の人の心の動きは、目と耳をふつうに使うだけで簡単に分かる。その表情や動作を目で見て、また発声や動作で出す音を耳で聞いて、私たちはごく簡単に、どの人間の心の中でも一瞬にして分かる。脳のその仕組みで、まず他人の心が分かり、次に、それを応用して自分の心が分かる。逆に言えば、それ以外に、他人についても自分についても、心が分かるということはない。私たちは、そのようにして分かるものを、心、といっている。人間は、テレパシーを使えるわけではないから、目と耳だけですべてを理解する。

拙稿の見解によれば、人間は自分自身の心も、(内観とか自覚などという神秘的な感覚を使ってではなくて)自分の運動形成とその結果予測に対して目と耳と皮膚感覚と、筋肉や関節や内臓の体性感覚(目をつぶったときに自分の身体を感じる感覚)からくる信号の変化とその記憶だけから(他人の心を理解するときと同じように)理解していると考えられる。拙稿独特のこの仮説は、内観による自意識の存在を当然の前提としている現代人の常識とも現代心理学の理論とも違うが、昨今の脳神経科学や認知科学の急速な発展に期待すれば、(筆者の楽観的予想では)この問題についてもいずれは実験観察で検証できるようになる。

自分の心は自分が一番よく分かる、と私たちは自信を持っていますが、拙稿の見解が正しいとすれば、それは間違いです。私の心は私以外の人のほうがよく分かるはずです。それは私が内省力のない未熟な人間であるからということではなくて、人間はだれもが、自分の心よりも他人の心のほうが先に分かるのです。

私たちは、赤ちゃんのころ、まず目や耳の感覚情報とその記憶だけから他人の運動が予測できるようになり、それによって人の内部状態を感じられるようになる。つまり、人の心が分かるようになる。次に、それと同じ方法を自分に応用することを(幼児のころに)覚える結果、目で見えて同時に体性感覚で感知できる自分の身体の変化とその記憶から想像して、自分の心の中(の一部分)が、分かるわけです(二〇〇六年 ピーター・カルーサーズ意識経験対意識思考』)。他人が先、自分は後、です。他人を真似て、自分というものが作られるわけですね。これは、人類特有のかなり高度な神経機構です。人類以外の動物は仲間どうしであっても、他人(他動物?)の心など、分かりはしないでしょう。

人類のこの能力は、群棲動物共通の仲間との(ミラーニューロンなどを使う)運動共鳴の神経機構、から進化したものなのでしょう。しかし、他人をひとりひとり識別して、その内面の心、つまり脳内の感覚状態や運動計画までをはっきり予測し、それを記憶する機能は、人類特有のものでしょう。この機能は、大きな大脳皮質と高機能の小脳を使って目で見える仲間の人間の一瞬の表情を読み取り、微妙な動きを予測する(人類特有の)高性能の神経活動からきている。高性能のビデオカメラとコンピュータを備えたロボットでも、瞬間的にこれをするのは、現代の技術水準では、まだまだ無理です。

人間の脳は、他人も自分も、どの人間の身体も、それらしいその動きを見た瞬間にまずは自分の身体であるかのように感じる。正確にいえば、自分であるかのようにというよりも、自分であるか他人であるかの区別がなく、脳の運動生成法則に対応する変動構造、つまり人体、と感じる。ここまでは、たぶん、古くからある哺乳類共通の脳の基底部が働くのでしょう。次に、たぶん大脳新皮質で、個々の人間の違いが区別できて、その人体は自分ではない、とか、自分だとか、だれそれだ、とか感じるようになっているようです。

目や耳を使って他人の運動計画を予測する脳の機能を「憑依機能」と筆者は呼んでいますが、この機能を持つ脳は言語のようなものを獲得できるはずですから、言語能力を持たない猿には憑依の機能はないはずです。猿は他人(他猿?)の心に乗り移ったような気になることはないはずです。猿は自分の感覚しか感じられない。他人(他猿)の感覚は感じられない(類人猿{ヒト科}にはこの機能の原初的なものはあるかもしれないので類人猿学の今後の研究が期待されます)。だから猿(少なくとも類人猿以外の猿)にとっては、他猿と共有できる客観的世界はない。猿にとっては、自分の空腹感も、目の前の柿の木の存在感も、同じように主観的なものです。ところが人間にとっては、前者は主観的にしか存在しませんが、後者は客観的に存在する。

人間は、他人(人間仲間)に憑依することで、物質世界の客観的な存在感を仲間と共有できるからです。(拙稿の見解では)人類に特有の憑依機能が、客観性、そして客観的物質世界、というものを作り出している。この憑依機能は、生まれつき人類の脳だけに備わっている機能です。大きな大脳新皮質(+精緻な小脳)の働きが不可欠なのでしょう。この憑依機能を使って人間は、この物質世界を、他人の視座から見通して認識できる。世界からの直接の感覚情報の変化と、他人に憑依することで感じられる他人の視座から予測される感覚情報の変化、それに記憶から再生する世界の印象を組み合わせて大脳皮質で構成する世界の像を脳の基底部で発生する存在感と結びつけ、人間は(拙稿の見解では)世界の客観的な存在を感知するという仕組みになっているようです。この仕組みが自動的に働くことで、人間は、この柿の木が自分の主観と関係なく「客観的に」存在している、と感じられる。人間以外の動物は、これができない。(拙稿の見解では)人間の脳のこの機能が、人間が現実と思っているこの物質世界の客観的存在の基礎です。しかし、残念ながらこのような考え方は、脳神経科学や人類学では明確には提起されていない。また哲学としては、この考え方は一種の心脳一元論ということになりますが、これに類する議論が多く語られるようになったのはつい最近のことです(古いほうでは、一九七〇年 ドナルド・デイヴィッドソン『心的事象(行為と事象)』など)

この脳機能のおかげで、人間は、目の前のこの世、つまりこの空間と時間でできた宇宙全体は自分の主観と関係なく客観的に存在する、と感じられる。この結果、人間は、いつも、客観的な物質世界とその内部にある自分の物質的身体の存在感を感じる。言い換えれば、人間にとって、世界と自分が客観的に存在できるのです。

客観的に存在する空間と時間でできたこの世界の中に自分のこの身体が置かれている、という感じはここから来ています。逆に言えば、身体の周りに存在するように感じられるから、「この」世界と言うわけですね。

そして記憶と推測によって過去の世界も感じられる。予想と推測によって未来の世界も感じられる。それで、過去から未来にかけて変化しているこの世界で私のこの身体がどう変化してきたか、これからどう変化していくのか、という我が人生の問題の存在にも気がつく。こうして、人間は、この世がある、という感覚、というか理論、つまりいわば、「世界が存在するという理論」を身につける。

この世はなぜあるのか、(拙稿の見解によれば)その答えがこれです。

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この世はなぜあるのか(1)

2007-06-09 | 6この世はなぜあるのか

第二部

6  この世はなぜあるのか?

 「世界の中心で・・・」という題の小説がベストセラーになったころ、インターネットでアンケートをしていました。「世界の中心はどこだと思いますか?」という質問に老若男女が回答した。いろいろな答えが出てきますが、「世界の中心は私だ」という回答が多いようでした。

 自分が一番大事だ、という単純な価値観の表明とも受け取れますが、微妙なニュアンスの中にはもう少し深い意味も含まれているのではないでしょうか? 宗教も関係しているかもしれない。こういうところに日本人の宗教観が反映されているのでしょうか?

いずれにせよ、「私がいなければ世界は意味がない」とか、「私が感じなければ世界は存在しないのと同じだ」というような感覚を、かなり多くの、特に若い日本人が持っているようです。現代日本の特徴なのでしょうか?

ところで筆者は、この「私が感じなければ世界は存在しないのと同じだ」という考え方が気に入りました。なるほどそう言えばそうだ、とも思える。もっと言えば、この世界は存在などしていないのに私たちがそれを存在していると勘違いしているだけではないのか? そうでない証拠があるのでしょうか。

そもそも、私たちはなぜ、世界が存在していると思っているのか? 人間は、なぜこの世があると思うのでしょうか?

この世は本当に存在しているのか? もしかしたら存在していないのではないか? すべての人間が、この世は存在する、と感じていることは確かなようです。その証拠はいくらでも集められる。しかし、それだからといって、この世が存在するかどうか、そのこと自身は確かめようがない。

確かめようがないということを確かめるために、次のような思考実験をしてみましょう。まず、この世は存在していない、という仮定をおいてみる。

この世が存在していないとしたら、それはどういうことなのか?

 これを出発点にして、議論を組み立ててみましょう。

次のような仮説から始める。

この世は存在しない。世界は存在しない。存在するかのように私が感じているだけだ。

 さて、その上でじっくり考えてみましょう。

目の前の物質は目で見えて手で触れるから、確かに存在感がある。存在感という感覚は、五感を総合して自分が感じる主観的な身体感覚です。正確には存在感というのは、五感で感じるだけでなくそのときしている自分の運動とそのとき受ける感覚の変化との関係を感じることで、目の前の物質が確かに存在しているという感じがしてくることです。この存在感は科学者が脳を観察するとき、前部帯状回扁桃体の神経回路が活性化する、という現象に対応している。これらの神経回路は錯覚することがある。もっともらしいバーチャルリアリティなどにだまされて、実物とまったく同じ存在感を感じる。

 それでも、人間の身体にはこれ以外に存在感を感じる仕組みはない。ここは大事なところです。つまり、脳の神経活動で生じる存在感という感覚が、主観的に感じるところの、存在の根拠というべきものです。

 目の前の物体は存在感がある。たとえば、目の前の机が見える。身体か顔を移動して視座を振ると、その分、斜めからその机が見えて、奥行きを持った立体的な形が分かる。それでまた別の角度から見ると、そこから見えるはずの机の形にちゃんと見える。しかも、身体を移動して別の場所へ行き、戻ってきてみると、また同じところにさっきの机が同じ形で置かれているのを見ることができる。つまり、その場所の物質の構成はさっきと変わっていなかったことが分かる。こういう経験を、人間の脳は、その空間と時間とその中にある物質構成(たとえばこの机)の存在感として感じる。空間と時間と物質とは、すべて、自分の目玉や顔や身体全体を動かしながら目の前の物を見るときに同時に感知できる。

人間が物を見ているときは、目に入ってくる光の変化の信号が脳の中で神経細胞(ニューロン)を次々に活性化(発火)させて、いろいろな神経回路を巡った末、扁桃体神経回路の周辺を活性化させて、その物の存在感覚が作られる。本人はその脳内の過程は感じられない。その物の存在感が感じられるだけです。本人には自分の目の働きや光の強度や神経信号の伝達が感じられるのではなく、空間の中のそこにその物体がある、時間の中の今、そこにそれがある、という存在感覚だけが感じられる。これが人間の感じる存在感の特徴です。

動物が運動すると、目に映る景色が変わっていく。動物は運動による景色の変化を感じて自分の身体の移動距離と移動方向を感じ取り記憶していく。運動距離と運動方向から一定時間に自分が運動した量(速度ベクトル)が分かる。この運動による空間速度ベクトルを積分していけば運動の開始点(自分の巣)の方向と距離が分かる。動物は、この情報を使って巣に帰れる(二〇〇二年 ワン、スペルク『人間の空間表現:動物からの洞察』)。このことから、動物は運動しながらそれによる空間速度ベクトルを積分していくための脳神経回路を持っていることが分かる。人間が移動するときにも、自分の位置を感じるのに、この神経回路を使っているようです。さらに、人間はこの神経機構を利用して、(視差による奥行き知覚と連動させて)自分の周りの空間と時間の感覚を作り出す。この仕組みは、上手に設計すれば、ロボットでも実現できるはずです。この機構を使って、人間は、自分の周りに空間が広がっていて、その中にいろいろな物質があり、時間がたつと物質は空間の中を動き、変形変化して物事が起こっていく、という世界の感じ方を身に着けたのです。

運動を積分して自分の身体と物質の変化を導き出すという脳のこの仕組みは、自然の中で人間が生存するためにとても便利です。その物質がこれからどう変化して自分の身体とどういう関係になるか、すぐ予想がつく。ふつうの生活場面で、自分の目がどう働いているか、とか、光がどう反射しているか、など細かい物理的過程を知る必要はない。目の前の空間の中にある物質に対して自分の身体の各筋肉は今すぐどう動いたらよいのか、を知ることだけが重要です。

目に映る目の前のその物質らしい映像が、幻影ではなくて、質量を持った物体であるかどうか。相手の動きと自分の動きを調べることでそれを知覚する機能が、存在感です。生存のために進化した哺乳類の脳は、物質を見たときに、こういう働きをする存在感を知覚する機能を持つようになった。人間の脳も、もちろんそのように身体の周りの物質の存在感を感じとる(一九九五年 バリー・スミス常識世界の構造』)。

他人の身体という物質も強い存在感がある。むしろ自分の身体よりも強い存在感がある。(拙稿の見解では)人間は、人体に関する視覚、聴覚の信号が得られると、それを感じた瞬間に脳の特別の回路が共鳴する。この神経回路は、特に顔と目の動きを敏感に捉える。その瞬間にその視覚聴覚信号に注意が集中する。つまり、自動的に人間は他の人間の動作にひきつけられてしまうようにできている。

他人の身体は、その中に「心」が入っていると感じさせる。その他人の心がその人の身体を動かしている、と思える。その人が、この世界をどう感じているかが良く分かる。私の目と耳で、その人の視線や表情、発声、身体の動きを見ていると、その人が、そこに見えている目の前の物質に、私と同じように存在感を感じていることが、はっきり感じらる。その人がその物質をどうしようとしているのか、予想できる。

そして予想通りその人が動くのを見ると、脳の中でその感知信号は自動的に感情回路に送られそこが無意識のうちに働いて、私たちは物質の完全な存在感を感じる仕組みになっている、と(拙稿の見解では)推定されます。こういうとき、目の前に見えるこれらの物質は私だけの幻覚ではない、と感じますね。彼あるいは彼女にも、この物質は、私が見るのと同じように見えているらしい。今見ていなくても見れば、こう見えるはずだ。彼も彼女も私と同じように、その物質の存在感を感じるらしい。このように存在感を他人と共有できるとき、その物質の存在感はしっかりと間違いないように感じられます。

自分の目や手やその他の身体の部分をいろいろ動かしてみて、確かにその物質の存在感を感じ、さらにその存在感を他人と共有できることまで感じられた場合、私たちは「そこに○○がある」と言い合って話が通じる。私も、そして私でないだれでもが、はっきりと「○○が存在する」と言っているのであれば、そこに○○があるという感じは絶対に間違いない、と感じられますね。

こういう場合、目の前に見えるこれらの人々とこれらの物質は、確かに「存在している」と言って良いのではないでしょうか? ふつう、そう言って良いでしょう。こういう場合でも目の前の物質や自分以外の人々が「存在している」と言ってはいけないとすると、何も存在できません。せっかく私たちは「存在している」という言葉をよく知っているのですから、それを今ここで使ってみましょう。言葉はうっかり使うと間違いの元になりますが、気をつけて使えば大丈夫でしょう。だから、ここで「物質は存在しない」という最初の仮説をすこし変更して、こういう場合(自分の目や手を動かしてその物質の存在感を感じ、さらにその存在感を他人と共有できることまで感じられた場合)は、その物質は存在している、と言うことにしましょう。

 次に、「存在している」というこの言葉の使い方を(行き過ぎに用心しながら)すこしだけ拡大してみましょう。私たちの身体の周りには、目に見えなくて手でも触れないけれども存在しているらしいとしか思えないものがたくさんある。たとえば、私の頭の後ろの風景だとか、私の頭の中の脳細胞だとか、地球の裏側の国だとかは、見えないけれども間違いなく存在していると思われる。

 それは私が直接は見えなくても、だれかには見えている。あるいは自分かだれかが見ようとすれば見えるはずだ、と感じられるからです。そういう物質は、私も他の人も皆が、経験にもとづいて、確かに存在する、と思っているからです。そういう経験にもとづいた理論でそれら物質の変化を予測すると、いつも成功するからです。それで、そういう経験にもとづいた理論による物事も強い存在感を持って存在するように感じられる。こうして、私も他の人も皆が、経験にもとづいた理論で、確かに存在する、と感じている物事をつなぎ合わせると、自分のこの身体が置かれている空間と時間、つまり物質としての世界全体、宇宙全体、が「確かに存在しているらしい」ことが分かる。

 こういうように、それが確かに存在しているらしいとだれもが感じられると思われる場合、「それは存在している」という言葉を使うことにしましょう。

 ここまでくると、この議論で使う「存在している」という言葉の使い方は、日常的に使っている「存在している」という言葉の使い方とまったく同じになる。使い方が同じ場合、それは同じ言葉だ、ということにしましょう。そうすると、私たちの身の回りの物質は、間違いなく、存在していることになる。そうすれば、ここからひろがっている空間、時間は存在している。そういうことで、宇宙全体も存在する。

 つまりこれで、この世は存在できることになりました。

 はじめ、「この世は存在しない」と仮定したのに、この世は存在できることになってしまいました。つまり、この世は存在すると仮定しても、その仮定が正しいかどうかを確かめる方法はありませんが、一方、存在しないと仮定しても、結局は存在するのと同じことになる。ということは、「この世は存在するか?」という質問は意味がない、と言ってもよいでしょう。つまりこの世が存在するかのごとく感じられることから、この世は存在する、と言うことにすればよいのです。

 こうしてこういう仕組みによって、私たち人間にとって、実際にこの世は存在しているのです。

 今晩、夕飯を食べながら、ご家族に言ってみましょう。「この世は存在するのだろうか? それとも、存在するかのごとく感じられるだけなのだろうか?」

ご家族は、一瞬真っ青な顔をしたり、箸を落としたりするかもしれませんが、その後、とてもやさしくしてくれるかもしれませんよ。

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哲学する人間を科学する(4)

2007-06-02 | 5哲学する人間を科学する

これは、現代人の脳が、生存繁殖に役立たないほうにずらされてきているということでしょうか? いや、そういうことは、まずないでしょう。人間は、予測する能力を持っているけれども、うまく予測できないときは適当に諦める、という能力も持っている。「分からないことを、いつまでも悩んでいてもしかたないや。くよくよ考えるのは、もうやめだ」と思うわけです。現代哲学の開祖と言われる大哲学者も、「言葉で言えないものはどうしようもない」というようなことを言っています(一九二一年 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』)。ふつうの大人は、もちろん、哲学の問題のようにはっきりした解決がなさそうな物事にいつまでもかかわっていてはいけない、と常識的に考えます。そのバランスで、現実の世界をうまく生きていくのです。 

西洋哲学の開祖といわれる古代ギリシアの哲学者ソクラテスは、「知らないということを知ることが大事なことだ」などと言ったと伝えられていて、哲学の教科書には、それが立派な認識(知を愛する、愛知=哲学のこと)なのだ、と書かれています。しかし、筆者に言わせれば、それはあまり立派な認識ではなくて、むしろ、「知らないということを知らないことが大事なことだ」とでも言ったほうがよかったと思います(その場合、教科書には載れませんが)。 

世の中の物事は、分らないと言い出せば、実は、だれにも何も分らないことだらけ。そうではあっても、分らないと気づかずに自分は何もかも大体分かっていると思い込んで行動するほうが、たいていはうまくいくものです。とにかく人を説得するには、分かったふうな顔をして分かったふうに語らなくては、だれもついてきてくれません。哲学は不要という哲学を持つ。そのためには、自分に対して理由のない自信を持たなくてはだめです。つまり、自分が知らないことはたいしたことではないのだ、と信じている人のほうが世の中で成功する確率は高いでしょう。

そういうことで大人になった人間は諦めが早いのですが(筆者のような中高年は特に早い)、諦めの能力は青少年ではまだ発達していません。それで実際、他の年代よりも青少年が一番、哲学的疑問にも悩む。しかし、幼稚園のとき、サンタクロースのことで大人には不信感を持たされたし、小学校に入ったころに「ぼくはどうやってお母さんのお腹に入ったの?」と聞いて、ちゃんと答えてもらえなかったりするので、ふつう大人には大事なことを聞かなくなります。それでも、夜中に一人で悩んだりします。「自分は頭がおかしくなっていて、今見ているのはバーチャルな世界で本当の世界じゃないのかもしれない(この問題を偽現実と称してこれを研究テーマにしている若い哲学者がいます)」とか、「私はもうすぐ大人になっちゃうけれど、今ここにいる子供としての自分の命、自分の人生、自分の幸福、とかはどうなるの?このまま消えちゃっていいの?」とか、「自分が死んじゃうのはいやだ。すごくこわい」とか、小学生が深刻に悩んでいたりします。思い切って大人に相談しても、「君らはまだ若いから、人生を知らない」とか言われてすぐ質問は終りにされてしまいます。そうかなあ、大人になればなんでも分かるようになるのかなあ、と思い、少年少女は疑問を先送りにします。

実は、大人は人生の真理を知っているわけではなく、忙しくなってそんなことを考えなくなるだけなのです。中学生も三年生くらいになれば勉強か部活動に忙しくなる。高校生になれば、受験やセックスのことを懸命に考えなければならないので、よけいに忙しい。さらに二十代以上になれば、就職恋愛結婚育児、仲間付き合い、ギャンブル、スポーツ。子供の世界と違って、大人の世界には夢中になれるものが多い。夢中にならなければ幸せになれない。夢中になれば幸せになれます。

大人は、特に、社会的地位の確保、生計の維持、蓄財と自分や子供の出世、そのためのビジネスと人付き合い、情報収集、などなどに熱中して忙しく、他の問題は忘れてしまいます。現代、特に、確実にお金を稼げるビジネスは、どの人間にとっても魅力的になっています。お金を稼ぐという表向きの目的ばかりでなく、実は、仕事といわれるものは、社会的認知を得て自尊心を満たすために必要とされます。さらに、ワーカホリック(仕事中毒)という言葉があるように、ビジネスは、それ自身が麻薬の働きを持っています。脳神経が休みなく刺激されて神経伝達物質を分泌させられるので、継続的に興奮し続けたくなり、仕事というゲームに熱中させられるのです。

育児やビジネスやギャンブルのように、いつも熱中できることがあれば、人間は、ややこしくてわずらわしい問題を忘れることができます。解決不可能な問題はとりあえず放っておいて,手近の雑事をこなす、現実というゲームに集中する、という大人の態度を身につけるわけです。最近の情報戦略論では、「一定時間に解決しない情報探索は中止してしまって、最新で多数の人が検索している情報の検索に集中する」という単純な戦略が実務上成功しやすい、という理論が提起されています(二〇〇〇年 ゲルド・ギゲレンツァ、ペテル・トッド他『かしこい単純発見的方法』』)。

人生において、こういうやり方は悪いことではありません。いつまでも答えが出ない哲学のような難問にこだわるのはやめて、最近流行っていること、多数の人がしていること、に取り組んで毎日がんばればよろしい。逆に言えば、何でもよいから多数の人がしているような、毎日しなければならない仕事のようなものを持つ、ということが、大人になる、ということなのです。

社会で仲間に認められた役割を果たす。社会的安定、経済的成功を目指して努力する。家族を養い育てる。こういう現実のゲームを始めると、毎日忙しくてたまらない。ストレスも多く、苦しいことが多いが、それでも結局は無事に生きていける。その毎日の生活を守るためにがんばる。自分がいま幸福かどうか、などと考えない。実際、人間の本当の幸福はこういうところにあるのでしょう。そういう意味で、大人は子供よりも幸福なのです。

脳が備えているこういう能力、〝現実主義〟が十代後半から三十代にかけて徐々に発達するおかげで、人間は、神秘的な哲学の謎などに悩まされずに、上手に生きていかれるのです。

余談ですが、最近筆者は、アマチュア的興味から各世代の書くブログを拝見していまして、それぞれの世代の特徴を見分けられるようになりました。十代前半くらいの少年少女の日記が生き生きしていておもしろい。二十代の学生、大学院生、職探し、フリーターの人たちのものがまた、おもしろい。三十代の子育て主婦の書くものが実におもしろい。リタイアしたシニアのものもおもしろい。それ以外の高校生、安定したサラリーマンなどはあまり面白いことは書かないようです。精神的に忙しいのでしょう。目の前の仕事、課題と毎日の仲間との付き合いに忙しいように見えます。素人の観察で、いいかげんで偏見が入っているといわれそうですので、これだからどうだとかいう主張はしませんが、個人的には面白いと思いました。社会学者の研究が期待されます。

閑話休題。さて、人生におけるこういう社会的成長の仕組みはうまく働いているようです。もともと人間は、外界の現実、人間関係(社会的関係)に興味を持ち、それを材料にして現実世界の中で何かをしていくようにできている動物なのでしょう。いつまでも自分探しをしたがる哲学少年少女のように、外界を無視して自分の内面だけを見つめても、何も見つからない。肉の存在を無視してひき肉機の存在意義をいくら考えても何も分らないわけです(一九三〇年 バートランド・ラッセル『幸福の達成』)。

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五億六千五百万年前の海を泳いでいた脊椎動物の先祖に当たる脊索動物の中に、頭を海底の岩に接着させて固定生活を始めたものがありました。海底に根付いて流れてくる栄養物を食べるだけで何もせず何も考えず楽に生きていかれるように進化したのです。脳や脊髄になるはずの神経系も退化してなくなり、消化器と生殖器だけが残りました。それが現在のホヤの先祖です(二〇〇四年 リチャード・ドーキンス 『先祖の物語』)。ホヤは幼生期には運動器と脳神経系を持ち海中を遊泳しますが成体ではそれらが消失して固着生活に入ります。海底に根付く能力を獲得しそこなった脊索動物の別の兄弟の子孫は、大人になっても固着できないので、しかたなく一生泳ぎ続けてやむをえず運動器と脳神経系を発達させた。そのうちの一派であるナメクジウオの祖先から魚類に進化するものがあり、その子孫は、両生類になり爬虫類になり、人間を含む脊椎動物全体になった。

人間も成人すると固着して何も考えなくなるという遠い従兄弟(ホヤ)の人生(ホヤ生?)設計をどこかで記憶しているのでしょうか? 遊泳し続けるか、固着生活に入るか。どちらが幸せだったか、ホヤに聞いても分からないでしょうね。

ものを考えない固着成体になるかならないか、人間は小学生の頃に一番悩むわけです。

まあしかし、拙稿としては、ここでは歳若き哲学少年少女(および少数の年長の人々)のように「命、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・」というようなものにこだわって、それらが何であるか、もう少し考えていきましょう。

筆者は、社会生活も一応は経験して、これから老年に入るところですが、曲がる背中をちょっと延ばして、命や心や自分の問題で頭がいっぱいになっていた少年のころを思い出してみようかと思います。とっくに捨ててしまったその幼いこだわりを、もう一度探し出し拾い上げていくことを、読者の皆さんと一緒に楽しめるかもしれません。

そうすれば、哲学がどこでどう間違えていったのか、そして私たち現代人は、どうすればその間違いから脱出できるのか、分かってくるかもしれませんよ。

なぜ、哲学は間違うのか? 

なぜ、人を殺してはいけないのか? 

なぜ、全裸で街を歩いてはいけないのか?

そういうことはなぜなのか、どういうことなのか、分かってくるでしょう。

人の命、人の心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義、全裸・・・。こういう存在感の強い言葉は、いったい何を意味しているのでしょうか? 私たちは、こういうものに囲まれて、それらをどうしようかと考えることで、毎日を生きている。

それなのに、こういうものたちは、科学ではまったく捉えられない。科学者はこれらを説明できないばかりでなく、なぜ説明できないかも説明できません。これが表しているものが物質そのものとして示せないからです。こういうものたちは、人間の脳の中にしかない錯覚なのでしょうか? そういう錯覚がなぜ、こんなに強く人間の感情を揺すぶるのでしょうか?

こういう言葉が表している目に見えないものたちと、それを思い浮かべるときに私たちの中で湧き上がる強い感情は、目に見えるこの物質世界の中にはないとすれば、この物質世界とどういう関係になっているのでしょうか? 拙稿の第二部では、これらの錯覚のようにも思える感覚や感情の作られ方を調べることからはじめます。また同時に、それでは科学の対象であるところの客観的な物質世界とは一体何なのか、という問題をも並行して考えていこうと思います。

5 哲学する人間を科学する end

(第一部 哲学はなぜ間違うのか end

(第二部 この世はなぜあるのか)

6  この世はなぜあるのか?

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