この世界には、おいしそうな食べ物とまずそうな食べ物とがある。火は熱く氷は冷たい。美しい人間と醜い人間とがいる。若い異性は美しい(かわいい?)。骸骨は怖い。糞便は汚い。なぜでしょうか? 全部ただの物質なのに。
世界はなぜあるのか? 宇宙の、そして地球上のこれらの物質は、なぜ今あるようにこうなっているのか? この世界はそれを人間が感じて、しかるべく身体運動を発生し、経験を記憶して必要なときに思い出し、知識を蓄積し、その知識を利用してこれからの運動を計画し、上手に生き抜いて繁殖していくためにこうなっている。いや正確に言えば、世界がこうなっていると感じられるように人類の脳は進化してきた。
このように存在感があって、美しくて、心地よくて、あるいは気持ち悪くて、それぞれの形が何かを人間に語りかけている物質たち。それらがそうあるのは、人間の脳がそれら物質をそう感じ、その感じを記憶して学習し、必要なときに想起し、それを使って(おおかたは無意識に)将来を予測して生存繁殖に有利な運動を形成するようにできているからです。カロリーの高い食べ物はおいしい。身体を損なう温度は不快。交尾して優秀な子を作れる異性は美しい(かわいい?)。感染症の危険がある物質は臭く汚い。だれもがそう感じて、それに対応して身体を動かしていく。お互いに毎日その感覚を言い交わし、人間はだれもがそうとしか感じないようになっている。
この世にあるもろもろの物質、それぞれの見かけ、それが与える感覚をそう感じて、じょうずに適当な運動を形成するように進化した人類だけが生き残った。その子孫が我々だからです。
だから、世界はこういうふうに見え、こういうふうに存在している。逆に言えば、こういうふうに存在しているものを、私たちは、世界だと思っている。人間の脳が身の回りの物質の変化に対応して、どういう運動を形成する機構になっているか。脳のその機構がこの世界を作っています。それも個々の人間ではなく、群れとしての人間集団(仲間)の運動形成の共鳴がこの世界を作っている、ということでしょう。この世界を作っているのはそのように働く人類集団の脳であり、それを作る人類のDNA配列(ゲノム)なのです。
たとえば、物の色は三原色からできている、といいます。それは人間の網膜の光感受細胞が三種類あるからです。しかし、ある種の猿はそれが二種類しかない。また、それが四種類の猿もいます。彼らにとって色の付いた世界は、二原色とか四原色の世界なのです(二〇〇四年 リチャード・ドーキンス 『先祖の物語』)。
世界は、生物の感覚器官と運動器官の構造により、また神経情報処理システムの構造により、また、それがどういう生存環境の中で進化したかの原因により、違ったものになって存在する。つまり、人間が感じるこの世界は、人間がそれをこう感じると生存に便利なように、そのようにできている。
クイズ:なぜ、リンゴは赤いのでしょうか? なぜ、雪は冷たいのでしょうか?
答え:リンゴは赤いと便利だからです。それを見つけて食べやすいから。
雪は冷たいと便利です。手が凍傷にかかるまえに引っ込めて暖めるから指を失わずにすみます。
それで、リンゴはこんなに赤いし、雪はこんなに冷たいのです。
人間が(仲間と共感して)感じ、共鳴して身体を動かし、そして記憶し、そして共感して語り合うから、この世界はこういうふうに存在するのであって、人間が感じない、あるいは感じても記憶しない、あるいは記憶しても他人と共感しない、他人と共鳴して神経系が連動しない、というならば、世界が存在するといっても意味がない。
そして、目の前に世界がこういうふうに存在しているように見えるから、この世界でいろいろ実験、観察を重ねると科学という模型のとおり再現できるらしい、と思える。それはあまりにも尤もらしく見えるので、科学という模型は本当に存在しているかのように見える。科学の法則は人類の脳と関係なく存在するように思える。だがこれも正しくは、人類の脳がそれをそう感じるからだ、ということでしょう。
私たち人間が、客観的な世界だと思って目の前に見て手で触っているこの世界は、たしかに人間であれば、だれでも同じように感じる世界ですが、人間という生物の感じ方だけで作られている。人間が生活するのに便利なように、そのために作られた世界だけが存在している、ということができる。この点を強調して構成主義と名乗る現代哲学がある(一九八一年 エルンスト・フォン・グレーザーズフェルド『根本構成主義入門』)。
リンゴを構成している原子、電子、そして素粒子は、どのように存在しているのか? 精密に言えば言うほど、物理的な存在は、不確定原理によって不確定になってしまう。それら粒子の働きによってリンゴから反射されてくる光を網膜で受けている人間は、視覚神経を伝わってくるその感覚データがどういう条件を満たすときに、それがリンゴであると、判断できるのか? こういうことを正確に言おうとすればするほど、哲学としてはいい加減なものになってしまうしかない(二〇〇五年 クロフォード・エルダー『本当の自然とよくある物体たち』)。
そういう存在(原子、電子、そして素粒子など)は、人類の脳がバーチャルに、科学的実在と感じているだけなのかもしれない。いや、正確にはそうとしか言えないでしょう。バーチャルなのに完璧にもっともらしいものと実物とを見分けることはできない。それは区別できません。脳の扁桃体が同じ反応をすれば、私たちは、まったく同じ存在感を感じる。完璧な存在感を与えるバーチャルリアリティがもし作られたとすれば、それはどんな観察をしてもどんな実験をしても見破れない。そうなれば、もう、それは現実でしかない。
バーチャルリアリティの語源的な意味は「実質的に現実であること」です。われわれが感じて現実の存在としか感じられないもの、完全な存在感を与えるもの、もしそういうバーチャルリアリティがあれば、それは現実の存在というしかないでしょう。もっと割り切って言えば、われわれが感じているものはすべて、この目の前の物質世界も含めて、すべてはそう感じるだけだといえます。
リアルかどうか、という問いは意味がない。すべてはバーチャルリアリティ、つまり実質的にリアルと思えるからリアルということなのだ、ということもできる。
まったく完璧に現実らしく見えるもの(偽現実ともいう)を現実と言わなければ、現実というものはないことになってしまう。拙稿では、だから、そういうものを現実と言うことにしましょう。逆に言えば、現実とは最も完璧な偽現実のことだ、とするわけです。
哺乳類は身の回り、特に目の前の物質の動きに敏感です。目の前のものに注目し、匂いをかぎ、耳を立ててかすかな音も聞き取る。目の前の現実に強い存在感を感じているかのごとく運動する。便宜上、擬人的な言い方を使うことにすれば、哺乳類は、目の前の現実に存在感を感じる、といえる。哺乳類の脳が目の前に見える物質に、現実感、存在感、を感じるように進化した理由は(拙稿の推測では)、たぶん、この動物類が鮮明な記憶再生能力を持つようになったからでしょう。
脳内で記憶から再生されるシミュレーション(過去の記憶、願望、不安、未来の予測、白昼夢など)のバーチャルな虚像と目の前の実像とを区別するためには、存在感が役に立つ。目の前の捕食者あるいは獲物の出現に応じて、瞬時に感情回路を発動させアドレナリンなどを分泌することで高効率のエネルギー代謝を回転させて身体の運動系を急加速できる生理機能が、哺乳類の繁栄を実現した。覚醒時にいつも身の回りを監視し、危険や利害のある信号に敏感に注意を集中して注目し、必要な運動を発動し、同時に現象の特徴を記憶していく。このように注目すべき現実世界に、機敏に反射的に対応する運動形成神経活動を最優先で加速し、その記憶を確定する、哺乳類共通のこの神経回路、つまり感情回路、の働きが、拙稿のいう「存在感」に対応している。
存在感を生成するこの感情回路の機構は、現代科学では、まだまだ完全に解明されてはいませんが、大脳の奥にある扁桃体や視床のあたりにあって、五感と自分の運動との関係で知覚できる身の回りの物事の変化を総合して現実らしさを判定しているようです。特に、動眼神経の反射による視線の振り向けによって、その対象が視野の中央に来ること、輪郭がはっきりしていること、顔を動かして距離感と立体感を感じられること、過去の経験と矛盾しないこと、過去にそのものと対面した時の過去の感情が想起されること、などを感じると、その対象物の存在感が強められる。つまり、物質を対象とする運動とそれの結果による感覚信号の変化が、過去の記憶、習熟した経験の記憶とうまくつながることで、物質の存在感、現実感が発生する。
脳のこの機構に障害が起こると、現実と妄想を混同する意識障害(アルツハイマー病などの症状)に落ちいります。芥川龍之介の小説「杜子春」などのように夢の中で実人生のように生きるという幻想フィクションは楽しいですが、正常な人間の脳ではそれは不可能です。断片的な夢や幻覚や病的妄想のほかには、人間は現実感を、覚醒時の目の前の物事の存在感にしか感じられない。
その現実感、つまり目の前の世界の存在感の知覚を基盤として、人類は精緻な「現実世界」を把握する神経機構を発展させた。自分の運動とそれに対応して変化する五感からの知覚入力情報を総合して過去の経験記憶と照合し、次の瞬間の自分の運動が世界の変化によってどのように干渉されるかを予測計算する。予測可能な知覚信号のその規則性を、現実世界として目の前に存在感をともなって感じるような脳になった。その感知した現実世界の変化を、時間推移をともなった経験と感じて記憶していく。その記憶を常に予測に使い、過去から現在への世界の時間推移を感じることができる。その経験記憶と現在の受信感覚信号の全体と未来の予測が、時間空間の広がりを持った世界の一体的な存在感を作っている。覚醒時の人間は、いつも、自分を中心として広がるように感じられるこの時間空間の感覚を持っていて、その中で自分の身体を動かす次の運動を(おおかた無意識に)計画していく。
人類はこの世界の存在感を、さらに他人の振る舞いを観察することで確認する能力を持っている。自分が感じる目の前の物質の存在感を、目の前の他人も感じていることを感じる。前を歩いている人が石ころをよける動作をすると、私もしっかりその石ころをよけることができる。
人間どうしによる世界の存在感の共感の相互作用が、さらに世界の存在感を極限にまで強めている。逆に言えば、この世界は人間が群として集団的に感じ取っている存在感の共鳴の上に作られている、といえる。
身の回りの物事や環境の存在感を共感する神経活動は、始めは群動物としての霊長類が仲間と感覚を共有して、集団として危険を避けるために発展し始めたのかもしれません。しかしのちには仲間同士のコミュニケーション、獲物相手の狩猟、敵との戦い、そして個人の経験の蓄積のためなど多目的になり、ますます不可欠な道具となってこの脳の構造は大発展した。その結果、現生人類の脳は、自分の身体の周りに時間空間となって広がる複雑な物質世界が客観的に確固として存在するように感じることができる。
しかし、その世界の存在のもともとの根拠は私が感じ取る存在感の感覚、つまり私の運動と五感からの入力情報との相互関係を経験記憶と照合して身体運動への干渉を予測評価する脳の辺縁系神経細胞の活性化、でしかない。これらの神経回路は、錯覚にも良くだまされるような情報処理装置です。
そういう神経回路機能が五感の末梢神経への物質のエネルギー作用を情報変換して脳の中で存在感を作り出すことによって、物質世界の存在を感じる。そのように人間の身体は作られている。だからいわば人類共通のその神経機構の共鳴によって人間が感じるこの世界が作られている、といえる。逆に言えば、人間が他人と共有できる物質の存在感だけから、この物質世界は作られている。他人と共有できない感覚に対応するものはこの物質世界には存在できない。つまり人間集団が神経回路を共鳴させられる客観的な物事だけからこの物質世界は作られている。そういうように世界を感じ取る神経回路機構を人間は持っている。
そういう神経回路機構の持ち主の集団全体、つまり人類、がだれもいなくなると、私がいま感じているようなこの世界、つまりこういう感じのこの世界はもう存在しない。