さて、「私はここにいる」という言葉。これの何が、問題なのか?
字句どおりに受け取れば、私、つまりこの小説(一九〇四年 ジャック・ロンドン『シー・ウルフ(海の狼)』)ではラーセン船長、という一人の人間が、北太平洋の無人島に打ち上げられた難破船の船室でベッドの上に横たわっている、ということです。しかし、主人公のハンフリーが、あるいは、ハンフリーの気持ちになって読者が、「私はここにいる」というラーセンの死に際の言葉を聞くとき、その男がそのベッドの上にいるかいないか、という物質的な情報が問題なのではない。そうではなく、ここには、人間ならだれもが感じる共通の大事な感覚が表されているから、印象深いわけです。それは、人間だれもが感じる、この世界の存在と自分の存在との間にある違和感、といえます。自分が今生きているとか、そのうち死んでしまうとか、を人間はだれもが気にする。気にしてもどうにもならないと思っても、やはり気にする。それは(拙稿の見解によれば)、世界と自分との関係の、この違和感があるからです。
自分が死んでしまっても、この世界は変わらずに存在し続ける。死んでしまうことまで考えないとしても、今のこの瞬間でも、自分が何を思おうと思うまいと、この世界は物質の法則にしたがって自分とは関係なく動いていくだけ、としか思えない。じゃあ、この世界にとって、私というものはいったい何なの? という違和感です。この違和感を、私たちのだれもが持っているから、死ぬ間際のラーセンが「それでもまだ、私はここにいる」と最後の力をふりしぼって主張するとき、私たちは強く共感できる。
私はこの世界にいる。この言葉の話し手の私は、聞き手のあなたといっしょにこの世界にいる。私は、あなたと共有するこの世界の中で、あなたがここにいると認める一人の人間として世界の一部分となっている。「私はここにいる」というこの言葉の話し手は、そう主張する。
聞き手は、むしろ、だれでもいい。だれかに私の言葉を聞いて欲しい。そうすることで、私がいるこの世界を確かめたい。この世界にいるこの私を確かめたい。私の言葉を聞いてくれる聞き手のあなたと共有するこの世界に、私はつながっているのだ、と思いたい。
その気持ちはよく分かる。よく分かるけれども、そのことを語ったからと言っても、それをどういう言葉で言ったとしても、世界と私との間の違和感はなくならない。ますます、はっきりしてしまう。そしてそうだから、私たちは死んでいくラーセンの気持ちがよく分かるわけです。
ラーセンの死体を海に葬るとき、ハンフリーの恋人モードは「さよなら、ルシファ(悪魔)」とつぶやく。信仰を否定するニヒリストの悪魔ではあっても、死ぬ間際に自分と世界との関係にこだわるところが憎めない、人間的と思える話になっている。小説の読者は、ここで、なにか納得した気持ちになれるようにできている。
小説の中で人物がしゃべる言葉というものは、劇的な、文学的な場面として作られているわけで、日常的なものではありません。では、私たちが日ごろ経験する日常的なふつうの場面では、こういう言葉は、どう使われるでしょうか?
私はここにいる。
この言葉がふつうに使われる場面を考えて見ましょう。迷子になった子供が泣きながら叫ぶ。「お母さん、どこ?」母親が後ろのほうから「私はここにいるわよ」と答える。
こういう場面での言葉の意味は明らかです。話し手(この場合、母親)は自分が発言している場所はどこかという情報を聞き手に伝えたい。つまり、話し手がいる場所を知らせたい。聞き手は、声を聞くことでその場所が分かる。この場合、「私はここにいる」という代わりに、「この発言の話し手は、聞き手の後方十メートルの地点にいる」と言い換えても、情報としては同じことになる。この場合、実際はむしろ簡単に、「はーい」とか、何でもいいから声を上げればよいのでしょう。声色でお母さんと分かる。それでも、情報としては同じことになります。
同じ質問を、携帯電話で聞かれた場合はどう答えるか?「お母さん、どこ?」と携帯電話で聞かれる。この場合、「私はここにいるわよ」という答えでは、役に立ちません。「銀座の三越の前、交差点のところ」などと答えるべきでしょう。こうすれば必要な情報は伝わる。
しかし、言葉は、そういう情報を伝達するだけではない。むしろ感情を伝える。日常的な場面に使われる場合であっても、文学的に使われる場合と同じく、「私はここにいる」という文には、実は違和感ないし神秘感が含まれている。
私はここにいるから、あなたたちが見つけようとすれば見つかるはずだ。ただし、あなたたちが見つけないとしても、私がここにいることは確かだからあなたたちとは関係なく私がここにいるのだ、と、この言葉は言っています。
「私はここにいる」 この文は、私が私の状態を語っている。つまり、話し手が話し手自身に関して語っている。しかも話し手を原点として周りの世界を見渡しながら語っている。話し手は、まるで、自分だけの世界について自己中心的に語っているかのようです。しかし、だれがどのような言葉を語るとしても、言葉を語る以上、語られるその世界は話し手だけの世界ではない。かならず、聞き手がいる。
独り言だろうと、言葉を話す限り、自分という聞き手に向かってしゃべる。言葉というものは(拙稿の見解では)話し手と聞き手の両方が共有する世界についてだけ語ることができる。一人だけのための言葉というものはない。それなのに、この文は、話し手が自分ひとりの世界についてだけを語っているつもりになって語る。あるいは、そうであるように聞こえる。聞き手を無視しているかのように聞こえる。そこに、違和感が現れる。
「私はここにいる」というこの文は、実際、話し手、聞き手、話し手から見た世界、聞き手から見た世界、客観的な世界、といういろいろな存在とその相互関係が同時に表れてくる問題を作り出す。その、興味深いけれどもいささか複雑な構造を、よく調べてみる必要がありそうです。
二人の人間が会話する場合、言葉を交わすことによって話し手と聞き手は、ともに、(拙稿の見解では)主語が表わすものに憑依する(憑依:拙稿の造語→拙稿4章「世界という錯覚を共有する動物」)。これは話し手と聞き手、二人の脳内の神経活動が共鳴する現象といえます。共同してそれを行うということでは集団活動といえる。つまり、話し手と聞き手は、憑依という仮想運動に共鳴することで、文の内容に対応する運動―感覚神経活動を集団(ここでは話し手と聞き手で構成する二人だけの集団)として仮想体験する(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」)。
文「私はここにいる」の主語は「私」なので、話し手と一致する。この場合、話し手と聞き手の二人は、集団運動として(あらためて)話し手に憑依する。つまり聞き手は話し手に憑依し、話し手は自分自身に憑依する。重要なことは、この場合、話し手は聞き手と無関係に単独で憑依運動を起こすのではないことです。話し手は、無意識のうちに、聞き手と一緒になって、二人で一個の集団としての運動共鳴を起こす(つまり群行動で使う集団的運動共鳴の神経機構を使っている)。その集団的共鳴運動として、一人の人物(この場合は話し手自身)に憑依することになる。
話し手と聞き手の二人でつくる集団は、続いて、「ここにいる」という述語の内容である仮想運動(「いる」という運動)に共鳴する。「ここにいる」という語はどう使われるか?
「○○はここにいる」と言うとき、話し手は○○という人物を、今、目の前に見ている。あるいは、目をつぶっていたり、顔をそらしていたりして、実際は見えていないかもしれないが、それでも、見ているかのようにその姿を想像しながら言っている。話し手の身体は、今まさに○○を実際に見ている場合と同じように反応している。
聞き手のほうは、○○を実際に見ている場合もあれば、遠くにいて見ていない場合もある。聞き手が今見ていないとしても、振り返ったり、移動してある場所に行ったりすれば、○○を見ることができる。あるいは、あたかもそうできるかのように想像している。こうして、聞き手の身体もまた、話し手の身体と共鳴して、同じように、今まさに○○を実際に見ているかのように反応する。