哲学の科学

science of philosophy

私はここにいる(2)

2008-11-29 | x9私はここにいる

さて、「私はここにいる」という言葉。これの何が、問題なのか?

字句どおりに受け取れば、私、つまりこの小説(一九〇四年 ジャック・ロンドンシー・ウルフ海の狼)』)ではラーセン船長、という一人の人間が、北太平洋の無人島に打ち上げられた難破船の船室でベッドの上に横たわっている、ということです。しかし、主人公のハンフリーが、あるいは、ハンフリーの気持ちになって読者が、「私はここにいる」というラーセンの死に際の言葉を聞くとき、その男がそのベッドの上にいるかいないか、という物質的な情報が問題なのではない。そうではなく、ここには、人間ならだれもが感じる共通の大事な感覚が表されているから、印象深いわけです。それは、人間だれもが感じる、この世界の存在と自分の存在との間にある違和感、といえます。自分が今生きているとか、そのうち死んでしまうとか、を人間はだれもが気にする。気にしてもどうにもならないと思っても、やはり気にする。それは(拙稿の見解によれば)、世界と自分との関係の、この違和感があるからです。

自分が死んでしまっても、この世界は変わらずに存在し続ける。死んでしまうことまで考えないとしても、今のこの瞬間でも、自分が何を思おうと思うまいと、この世界は物質の法則にしたがって自分とは関係なく動いていくだけ、としか思えない。じゃあ、この世界にとって、私というものはいったい何なの? という違和感です。この違和感を、私たちのだれもが持っているから、死ぬ間際のラーセンが「それでもまだ、私はここにいる」と最後の力をふりしぼって主張するとき、私たちは強く共感できる。

私はこの世界にいる。この言葉の話し手の私は、聞き手のあなたといっしょにこの世界にいる。私は、あなたと共有するこの世界の中で、あなたがここにいると認める一人の人間として世界の一部分となっている。「私はここにいる」というこの言葉の話し手は、そう主張する。

聞き手は、むしろ、だれでもいい。だれかに私の言葉を聞いて欲しい。そうすることで、私がいるこの世界を確かめたい。この世界にいるこの私を確かめたい。私の言葉を聞いてくれる聞き手のあなたと共有するこの世界に、私はつながっているのだ、と思いたい。

その気持ちはよく分かる。よく分かるけれども、そのことを語ったからと言っても、それをどういう言葉で言ったとしても、世界と私との間の違和感はなくならない。ますます、はっきりしてしまう。そしてそうだから、私たちは死んでいくラーセンの気持ちがよく分かるわけです。

ラーセンの死体を海に葬るとき、ハンフリーの恋人モードは「さよなら、ルシファ(悪魔)」とつぶやく。信仰を否定するニヒリストの悪魔ではあっても、死ぬ間際に自分と世界との関係にこだわるところが憎めない、人間的と思える話になっている。小説の読者は、ここで、なにか納得した気持ちになれるようにできている。

小説の中で人物がしゃべる言葉というものは、劇的な、文学的な場面として作られているわけで、日常的なものではありません。では、私たちが日ごろ経験する日常的なふつうの場面では、こういう言葉は、どう使われるでしょうか?

私はここにいる。

この言葉がふつうに使われる場面を考えて見ましょう。迷子になった子供が泣きながら叫ぶ。「お母さん、どこ?」母親が後ろのほうから「私はここにいるわよ」と答える。

こういう場面での言葉の意味は明らかです。話し手(この場合、母親)は自分が発言している場所はどこかという情報を聞き手に伝えたい。つまり、話し手がいる場所を知らせたい。聞き手は、声を聞くことでその場所が分かる。この場合、「私はここにいる」という代わりに、「この発言の話し手は、聞き手の後方十メートルの地点にいる」と言い換えても、情報としては同じことになる。この場合、実際はむしろ簡単に、「はーい」とか、何でもいいから声を上げればよいのでしょう。声色でお母さんと分かる。それでも、情報としては同じことになります。

同じ質問を、携帯電話で聞かれた場合はどう答えるか?「お母さん、どこ?」と携帯電話で聞かれる。この場合、「私はここにいるわよ」という答えでは、役に立ちません。「銀座の三越の前、交差点のところ」などと答えるべきでしょう。こうすれば必要な情報は伝わる。

しかし、言葉は、そういう情報を伝達するだけではない。むしろ感情を伝える。日常的な場面に使われる場合であっても、文学的に使われる場合と同じく、「私はここにいる」という文には、実は違和感ないし神秘感が含まれている。

私はここにいるから、あなたたちが見つけようとすれば見つかるはずだ。ただし、あなたたちが見つけないとしても、私がここにいることは確かだからあなたたちとは関係なく私がここにいるのだ、と、この言葉は言っています。

「私はここにいる」 この文は、私が私の状態を語っている。つまり、話し手が話し手自身に関して語っている。しかも話し手を原点として周りの世界を見渡しながら語っている。話し手は、まるで、自分だけの世界について自己中心的に語っているかのようです。しかし、だれがどのような言葉を語るとしても、言葉を語る以上、語られるその世界は話し手だけの世界ではない。かならず、聞き手がいる。

独り言だろうと、言葉を話す限り、自分という聞き手に向かってしゃべる。言葉というものは(拙稿の見解では)話し手と聞き手の両方が共有する世界についてだけ語ることができる。一人だけのための言葉というものはない。それなのに、この文は、話し手が自分ひとりの世界についてだけを語っているつもりになって語る。あるいは、そうであるように聞こえる。聞き手を無視しているかのように聞こえる。そこに、違和感が現れる。

「私はここにいる」というこの文は、実際、話し手、聞き手、話し手から見た世界、聞き手から見た世界、客観的な世界、といういろいろな存在とその相互関係が同時に表れてくる問題を作り出す。その、興味深いけれどもいささか複雑な構造を、よく調べてみる必要がありそうです。

二人の人間が会話する場合、言葉を交わすことによって話し手と聞き手は、ともに、(拙稿の見解では)主語が表わすものに憑依する憑依:拙稿の造語→拙稿4章「世界という錯覚を共有する動物」。これは話し手と聞き手、二人の脳内の神経活動が共鳴する現象といえます。共同してそれを行うということでは集団活動といえる。つまり、話し手と聞き手は、憑依という仮想運動に共鳴することで、文の内容に対応する運動―感覚神経活動を集団(ここでは話し手と聞き手で構成する二人だけの集団)として仮想体験する(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」)。

文「私はここにいる」の主語は「私」なので、話し手と一致する。この場合、話し手と聞き手の二人は、集団運動として(あらためて)話し手に憑依する。つまり聞き手は話し手に憑依し、話し手は自分自身に憑依する。重要なことは、この場合、話し手は聞き手と無関係に単独で憑依運動を起こすのではないことです。話し手は、無意識のうちに、聞き手と一緒になって、二人で一個の集団としての運動共鳴を起こす(つまり群行動で使う集団的運動共鳴の神経機構を使っている)。その集団的共鳴運動として、一人の人物(この場合は話し手自身)に憑依することになる。

話し手と聞き手の二人でつくる集団は、続いて、「ここにいる」という述語の内容である仮想運動(「いる」という運動)に共鳴する。「ここにいる」という語はどう使われるか?

「○○はここにいる」と言うとき、話し手は○○という人物を、今、目の前に見ている。あるいは、目をつぶっていたり、顔をそらしていたりして、実際は見えていないかもしれないが、それでも、見ているかのようにその姿を想像しながら言っている。話し手の身体は、今まさに○○を実際に見ている場合と同じように反応している。

聞き手のほうは、○○を実際に見ている場合もあれば、遠くにいて見ていない場合もある。聞き手が今見ていないとしても、振り返ったり、移動してある場所に行ったりすれば、○○を見ることができる。あるいは、あたかもそうできるかのように想像している。こうして、聞き手の身体もまた、話し手の身体と共鳴して、同じように、今まさに○○を実際に見ているかのように反応する。

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私はここにいる(1)

2008-11-22 | x9私はここにいる

(19 私はここにいる begin







19 私はここにいる―私と世界とのいかがわしい関係




筆者は、若いころ、アーリーアメリカンの小説が好きでした。今思うと、超長編の『白鯨』(一八五一年 ハーマン・メルヴィル『白鯨』)など、よく飽きずに読んだものです。若いころの体力に感心します。特に海洋ものが好きでした。『シー・ウルフ』(一九〇四年 ジャック・ロンドンシー・ウルフ海の狼)』)など、今でも人生観の土台にはめ込まれているような気がします。北太平洋でアザラシを狩る孤独な猟船の話です。サンフランシスコあたりから出港して、最果ての日本近海にまで航海する。

ウルフ・ラーセンという名の独裁者的な船長が出てくる。主人公ではありません。乗組員の主人公をいじめる悪役ですが、実に面白いキャラクターです。乗組員に君臨するこの暴君は、やたら頑強な身体を持っていて、サディストでニヒリストです。部下をいたぶりながら、魂などあるものか、死んだらナッシングだ、などとつぶやいている。百年前の作家が描いた人物像ですが、現代人に広がるニヒリズムの原型を見るようで面白い。

 さて、この人物は実は病気持ちで、ラストでは、全身が麻痺し視力も聴力も失う。三重苦のような状態になって死ぬ。主人公の青年紳士ハンフリーを苦しめて殺そうとしたり、自分の死期を悟ると船に放火して主人公たちも道連れにしようとしたりする極悪人なのですが、最後は人道的なハンフリーに手厚く介護されて死ぬ。憎たらしいニヒリストも、最後には、申し訳ない、と思ったのでしょうか、介護するハンフリーに「それでも俺はまだここにいる」と、最後の筆談で訴える。

小説の筋はおおかた忘れてしまいましたが、この場面は筆者の記憶に残っています。ちょっと、読み直してみましょう。 本棚の隅にあるはずです。

ありました。何年分かのほこりを払ってページを見つけます。ここを(時効で著作権はなくなっているので)抜粋してみましょう。

―「身体の左側も行っちゃったようだ」船に放火しようとした翌朝、(筆談で)ウルフ・ラーセンは書いた。「麻痺が進んでいる。腕を動かすのがむずかしい。大きな声で言ってくれないとだめだ。全部だめだ」

 「痛みますか?」私(ハンフリー)は聞いた。

 大声で質問を繰り返すと、答えが来た。

 「いつでもというほどではない」

 左手がよろよろと、つらそうに紙を横切ったが、文字は判読しがたかった。巷の交霊師が書き下ろす「霊のお告げ」のようにみえた。

 「それでも俺はまだここにいる。ちゃんと、ここにいる(But I am still here,all here)」手は、いっそうよろめきながら紙の上を這った。

 鉛筆が転げ落ちたので、もう一度握らせなければならなかった。

(一九〇四年  ジャック・ロンドン シー・ウルフ』38章から 訳文 筆者)

 さて、「私はここにいる」。このセンテンス。

どういう意味でしょうか? 意味は明瞭ですね。私はここにいる、という意味です。だれかが、「私はここにいない」といったらおかしな話です。自分がどこにいるか、という話題について、だれがしゃべっても、私はここにいる、という言葉をしゃべるしかない。自分がいるところを「ここ」というのですから、この文は「私がいるところに私はいる」と言っているだけ。つまり、意味ないことを言っている。

「私は生きている」とか、「私は息してる」とか「私は今、日本語でしゃべっている」とか「私は今、このことをしゃべっている」とか、と同じで、否定しようがない、否定したらまったくおかしいことを言っている。

 しかし、理屈はともかく、もう一度、素直に、声を出してこの言葉を繰り返してみましょう。

アイ・アム・ヒア。私はここにいる。

何か、心に響くような気がしませんか? さすがに、才能ある作家が使うフレーズです。意味がないはずなのに、心にしっかり響く。印象が強い。この強い印象は何なのか?

これを「I-AM-HERE問題」と名づけて、拙稿本章のテーマにしたいと思います。

 私は、今、ここに、いる。

 「私は」という言葉、そして「ここ」あるいは「今」という言葉。しみじみと語感を味わってみると、何か実に神秘的な感じがする。詩的な、というか、哲学的といえるような響きを帯びてきます。たぶん、そういうところが、ロマンチックな、文学的表現として好まれるところなのでしょう。

拙稿15章「私はなぜ死ぬのか?」でも述べましたが、ポール・ゴーギャンの有名な疑問文、「私たちはどこから来るか?何なのか?どこへ行くか?(D'où venons-nous? Que sommes-nous? Où allons-nous?」も、実にロマンチックな、神秘的な響きを持っている。エッセイや論文などに好んで引用されます。

私たちは、どこからこの世に来たのか? 私たちは、この世の何ものなのだろうか? 私たちは、いつかこの世からいなくなるが、どこへ行くのだろうか? 

私たち現代人は、こういうことを疑問に思っている。だから、こういう文に共鳴する。この世はここに、こうしてはっきりとあるのに、そこにいる私たちはこの世の一部であるには違いないが、この世自体とは、どうも、なにか違う。この世界は、どっしりと永遠にここにあるようだが、私たちはそこを旅人のように、あるいは風のように、通り過ぎていくだけ、という気がする。

なにか、私たちは、この世界に自分がいるという事実に、違和感のようなものを持っている。なにか不思議だ、という感じがある。こういう世界があって、そこにこういう自分が今いる、ということ。この世界とこの自分というものとの関係、に何らかの違和感、あるいは少なくとも微妙な神秘感のようなもの、を感じている。そして、この違和感ないし神秘感は哲学的な匂いがする。

まさにそのとおり。この違和感は哲学の問題です。

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私はなぜ言葉が分かるのか(23)

2008-11-15 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

言語を含めた人類の相互理解の手段と様式は、世代交代を重ね、歴史的に変化してきている。特に近代以降、言語を利用する相互理解の様式が、言語自体の変化より、ずっと速い速度で変化する。

文字の普及、印刷の普及、宗教、儀式、学校、出版、新聞、電話、ラジオ、テレビ、パソコン、インターネット、携帯電話・・・。こういう相互理解の手段と様式の出現によって、人間の言語は信頼され、権威付けられる。信頼できる言語によって表現されることで、世界の物事は、しっかりした存在感と現実感を与えられる。人間どうしは、その現実を共有することで、さらに相互理解を広げることができる。現代の産業の発展と技術革新によって、近い将来、相互理解の手段と様式はさらに発展していくでしょう。たとえば脳内の神経活動を視覚化する装置の高性能化、などによって、人間の相互理解は大きく改善されていく可能性があります。

軽くて薄いヘルメットのような神経活動測定装置をかぶることで、テレパシーができる未来技術。頭の中で考えている言葉がパソコン画面の文字に表れる。心に浮かんだメロディーがパソコンのスピーカーから流れる。あるいは、冷蔵庫からビールを持ってくる自分を思い浮かべると、家事ロボットがビールを持ってきてくれる。そんな話は、かつてはマンガの世界でした。最近の科学の現状では、もうマンガではなさそうです。研究室で、その程度の技術は実験されています。コストが高くても買ってくれるマーケットがあれば、近い将来実用化されるでしょう。その先の時代には、言語に代わって、あるいは言語を大きく包含して、人間と人間との脳神経系の共鳴現象を表現するシステムの実現が予想されます。そうなると、相対的に、言語の重要性は薄れてくる。言語の地位は、言語発展以前の原始時代のようなところへ戻っていくでしょう。そういう時代になるとすれば、言語技術者の特権も危うくなってくるかもしれませんね。

人間の相互理解は、(拙稿の見解によれば)目の前の物質現象に関する運動共鳴から始まる。物質を扱う互いの身体運動に対する共鳴から物質の認識が共有される。その共鳴の共有を土台にして、言語が発生する。いったん、言語が獲得されれば、人間は、言語を使うことによって、目の前にはない遠方の物質現象、過去の事象、集団感情などをしっかりと共有できるようになる。

さらに、言語が扱う対象は拡張されて、感覚、感情、信念、欲望などを個人に帰属するものとして認知する機能が追加される。文字の時代になると、言語は、宗教、哲学など抽象的な観念を語る機能を獲得してくる。近代に至り、言語は科学、論理、法律などを明確に表現する能力を確立し、社会を維持するインフラ構造となっている。

私たち現代人が用いる言語の使い方は、過去の使われ方に比べると二極化している。一方の極には、数学と数値データを使って目に見える物質現象を明快に記述する科学の言語があり、他方の極には、擬人化や比喩を使って、目に見えない人心の動きや感情を精緻に記述する文学・人文の言語がある。

拙稿の見解によれば、人心を記述する場合に用いられる言語が表わそうとする対象は、物質世界の中には実体がない。命、あるいは、心、欲望、存在、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・。こういうメタフィジカルなもの、感情的なもの、人間が内面で感じるけれども、脳の外の物質世界にはないもの、それらは、いわば錯覚であるともいえる。

私たちは、それにもかかわらず、それらの錯覚がこの世に実際に存在すると感じる。それらの存在感を、だれもが感じていると、私たちは感じる。それらの存在感に、人間は集団として共感する。それに対応して私たちは、無意識のうちに神経系を共鳴させて運動する。さらに、その存在感を言葉に置き換えて使っている。

人心をあらわすそれらの言葉に、私たちの身体は無意識に反応する。言葉を聞くと、その内容によって、腹が立ったり、喜んだりする。つまり、脳神経系ではそれぞれの感情に対応する神経伝達物質が分泌され、自律神経系が活動して、心臓、血管や顔やおなかの筋肉がひきつったり、弛緩したりする。言葉や言葉にならない多くの共有された錯覚は、こういう仕組みで、私たちの毎日の生活そのものになっている。この仕組みによって人間は生きている、といえる。逆に言えば、そうして無意識のうちに私たちに共有されて使われている錯覚は、過去何万年にもわたって人類の生活に有益であったから遺伝的にも文化的にも継承されてきた。その結果、現在、私たちに使われている。

それらは、科学で扱われる物質の属性や、経済で扱われる貨幣による価格など、目に見えて数字で表わせるものよりもずっとあいまいなものです。たとえば、命一個の重量は何グラムか? 心一個の値段は何円か? A君の欲望はB君の欲望に比べて、何倍あるのか? 測定方法もない。どの本にも書いてない。だれに聞いても答えられません。

それにもかかわらず、命も心も欲望も、人間にとっては、物質や金銭よりもずっと重要なものと感じられる。私たちにとってそれらの錯覚は、錯覚というのがはばかられるような重い存在感を持っている。

命は地球よりも重い。心はお金で買うことはできない。あの人はだれよりも欲が深い。などと言う。私たちは、それらの存在感をはっきり分かっている。それらは、人間だれもにとって、無意識のうちに身体が共感し共鳴して動いていくことで、客観的なものであるかのように安定して存在する。

命、あるいは、心、欲望、存在、自分、生きる、死ぬ・・・私たちは、これらの存在によって私たち人間が動いている、という感覚を体感する。その動きは、私たちだれもがよく知っている、世の常識、に従っていると感じられる。その常識を使って、私たちは、他人や自分の、毎日の行動を予測することができる。それらの存在やその常識は、しかしながら、実は、物質現象ではない。物質現象でないものは科学では説明できない。そしてそれらは物質現象ではないが、私たちがよく知っている常識として、れっきとした法則にしたがっている。それは、科学でいう自然法則とは別の、信頼性と再現性のある法則である、と感じられます。

拙稿では、これらを錯覚であるとする(拙稿第4章「世界という錯覚を共有する動物」)。これらは、たしかに、物質として実体がない、という意味で錯覚といわざるを得ない。ふつう私たちが、あるものを錯覚と呼ぶときは否定的な意味で言う。「それはただの錯覚に過ぎない」とか、「錯覚にだまされてはだめだ」などと言う。しかし、拙稿で筆者は、実体がない錯覚はだめだ、とか、だまされてはいけない、とか言いたいわけではありません。

この点に関しては、拙稿の見解は、まったく逆です。私たちは、それら有益な錯覚を共感し言葉に置き換えて使いこなすことで、それらを私たちの間で、しっかりと存在させることができる。そして、そうすることで人間は互いに結びつき、社会生活がなりたっている。逆に言えば、そのようにして社会を維持することでしか、私たち人間は生きていけない動物です。

しかし、自分たちの脳の機構もその集団的共鳴の機構もよく分かっていない私たち現代人の浅い知識だけにもとづいて、これ以上、新しい錯覚を大量に作り出すのはよくない。特に、錯覚を操作する言葉のゲームに、これ以上、熱中したりすることは危ない。心とか自分とか命とか生死とか存在とか、こういう言葉で表わされるもの、それら目に見えない、物質世界には実体がない(どのように実体がないかについては拙稿第一部第二部を参照)、メタフィジカルなもの、つまり集団共鳴による錯覚を、あまりまじめに追求してはいけない。心とか自分とか命とか生死とか存在とか、とても便利な言葉ではある。けれども、そういう言葉のさらに奥底に、私たちがふつうに分かっていることより深い意味が見出せるかもしれない、という間違った期待を抱いてはいけません。

それら錯覚を、個人が強い神秘感を伴って内面化したり、ラジカルに深く議論したりすることは危険です(どのように危険か、については拙稿第一部第二部を参照)。哲学は、古来、その危険を冒す行為として始められた。まじめな哲学者ほど、危険に気づかずに落とし穴にはまっていった。哲学が抱え込んでいるその間違いを、拙稿は指摘してみました。

まあそれでも、筆者などでもこれに気がつくくらいに、現代では、原子や宇宙や人体など、物質に関する科学の実績が深まり、従来の哲学の領域を深く侵し始めている。いずれそれほど遠くない将来、有史以来の哲学が格闘してきたメタフィジカルにみえる謎や神秘や錯覚の正体も、哲学用語を使わずに、物質の言葉で明快に表現できる時代が来る(と筆者は確信しています)。

あるいは、脳内の神経活動を画像や音で直接リアルタイムに受け手の視覚と聴覚に伝える便利な装置が開発される。あるいは、哲学を講義するロボットを作れるようになる。あるいは、筆者のように哲学に懐疑的な話をしたがるロボットも作ることができる。もしそのようなときがくるとすれば、人間どうしの相互理解は完全に近くなるはずです。そしてようやく、哲学は科学を羨む必要がなくなるのでしょう。

(18 私はなぜ言葉が分かるのか? end

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19 私はここにいる

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私はなぜ言葉が分かるのか(22)

2008-11-08 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

命、あるいは、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・、人間にとって一番大事だと言われている、こういうメタフィジカルな言葉は、実は何なのか? 実体がない錯覚だとしたら、これらはなぜ、これほど強く私たちの感情に訴えるのでしょうか? 

こういう言葉が意味するところを知ることは、確かに人間を理解することにつながりそうです。しかし、これらの言葉を本当に知るためにまず必要なことは、ナイーブにこれらの語感や存在感を足場にして、込み入った構造物を築き上げ、その屋上に屋を重ね、これ以上新しい観念を作り出して言葉を空転させることではないでしょう。むしろ、これらの語感や存在感の発生源を探る。その源にもぐりこんでいく。それらのもとになっている錯覚を映し出す物質現象、つまり生物としての人体の構造、生理、生態(社会、文化、理論を含む広義の人間行動)、そしてその進化の仕組みを調べることが大事なのではないでしょうか?

こういう重要な機能を持つこれらの錯覚の存在感が人間の集団で共有される仕組みは、どうなっているのか? 言語という媒体によって、人体から人体へ物質現象として、何が伝播しているのでしょうか? 

言語の内容が伝播する仕組み、(拙稿で運動共鳴と呼ぶ)それは、伝播というよりも共鳴ではないか? テレビは送信された周波数に共鳴することで電波情報を受け取る。受信機は、もともとその周波数を内部で発生する働きを持っている。送信された電波の周波数と同じ周波数を内部で発生することで受信機の電気回路は共鳴する(電子工学では共振という)。では、人から人へ言語の内容が伝播する場合、人間の脳内の物質現象としては、どうなっているのか? 人と人の間で、神経回路の共鳴現象として捉えられる機構があるのか? (拙稿の見解では)共鳴現象の受信側の個体(聞き手)の内部でもともと記憶に保持されている身体運動‐感覚受容シミュレーションが、仲間の人間(話し手)の言葉を聴くことで、無意識のうちに想起されて神経回路の共鳴を起こす。もしそうだとすれば、人類の進化の過程で、それはどう働いたのか? 

これらの錯覚を共有する仕組みの正体は、(拙稿の見解では)おそらく、人間の群集団における不完全な運動の共鳴です。物質現象としては、運動共鳴を起こす脳の運動形成回路の活動として捉えるべきでしょう。これは、たぶん、群行動をする動物が一斉に身体の向きを変えるときに使われる機構と同じものです。動物の群行動は、集団全体が敵を回避したり、食物の多い土地へ移動したりすることができる。一方、しばしば敵を見間違える。鳥の群れは、わずかな物音に驚いて一斉に飛び立つ。これはエネルギーの浪費ではないか? 群れは役に立たない行動をも共有しやすい。それでも、その機構のおかげで群れは生き延びる。

群棲動物のDNA配列(ゲノム)は、新しい群行動を作っては、役に立たない群行動を書き換えていく。鳥の群れは、DNAを変異させることでしか、役に立たない群行動を改善することはできない。人間の群れは、DNAを変えずに、神経回路の共鳴を起こす身体運動‐感覚受容シミュレーションを変化させることで、群行動を改善することができる。人類の群行動は、この仕組みのおかげで、桁違いのスピードで環境に適応し、進化していく。

言語を使う人間集団における群行動の場合、言語による運動共鳴の機構は、物質世界に存在しない錯覚のシミュレーションをも仲間に伝達してしまう。しかし、錯覚だから役に立たないということはない。私たちのだれもが共有しているような錯覚は、むしろ、便利で実用的なものが多い。現在まで伝えられて、私たちが意識せずに毎日、使っている多くの錯覚は、どれも、きわめて実用的なものです。たとえば、暗いと危ない、とか、声が高い人は親切だ、とか。これらの錯覚は、社会を維持し、集団として人間が物質世界の環境を生き抜いていくために役に立つ(拙稿第4章「世界という錯覚を共有する動物」)。

天狗にさらわれることを恐れて子供に気を配るような一族は、幼児死亡率が減って人口が増えたでしょう。そうして天狗伝説は生き残っていく。それは、それらが実体のない錯覚であろうとも、それらの共有が集団的団結をもたらし、厳しい自然環境に置かれた人間集団の生存と繁殖に役立ってきたからです。

このような錯覚が人間の行動に影響をおよぼす仕組みは、どのような物質構造に支えられているのか? 現代科学は、ようやく、それを探求するための道具をそろえ始めている。まずこの数十年の生物科学の進展はすばらしい。特に脳神経科学や認知科学などにおいて開発されてきた最新技法は、脳内の身体運動‐感覚受容シミュレーション(拙稿では便宜的にこう呼んでいるが、萌芽的概念なので科学者の間で用語法は確定していない。伝統哲学でいう観念、イメージ、あるいは心理学でいう条件反射や手続き記憶などの概念に部分的に重複する)などの神経活動を、物質現象として、測定記録する方向に発展してくるでしょう。

それぞれの錯覚に伴って、どのような身体運動や生理現象が動いているのか? それは視覚、聴覚、体性感覚でどう感知されて、受け手の脳内の仮想運動に変換されていくのか? 生活の中で錯覚に伴う運動および仮想運動が、人間どうし、どう共鳴し、伝播し、どのようにして言葉になっていくのか? これらの現象をミクロな細胞や神経回路網のレベルで解明するまでには、まだまだ(今後数十年は)、科学者の努力が必要でしょう。それと並行して、(拙稿の楽観的な予想によれば)マクロな身体運動レベルでの人間行動の分析方法が発展してくるはずです。 

次の時代には、拙稿のいう運動共鳴など、人間の集団における脳神経活動の相互干渉あるいは共鳴現象の科学というべきものが、出現してくるでしょう。現在、コミュニケーション論など社会学的手法で研究されている領域とも重なってくるでしょうが、次世代には、まず、むしろ純粋な自然科学として展開されるでしょう。ミクロからマクロのレベルまで、物質現象として徹底的に追求されるべき課題だからです。

人間の社会行動などを含むこのような研究課題を、自然科学から始めようとすると、すぐに新しい理論を作る必要に突き当たる。現在の科学を超える新しい理論が作られるために、従来の自然科学はもちろん、社会科学も、そして哲学も、協力していくことになる。

その新しいものが、どのような形をとるのか、筆者にはまったく分かりません。ただ、それは、新しく、哲学の科学を作り、同時に、現在の科学を根本的に作りなおす可能性がありそうです。それがさらに、言語を含めた人間の表現力をさらに深め、人間どうしの不完全な相互理解を大きく改善することになるかもしれません。もしそうであれば、次の時代、人類は、自分たち自身の、より深い理解に到達することになるわけです。

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私はなぜ言葉が分かるのか(21)

2008-11-01 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

しかしながら、ここで安心して、「言葉は万能だ。言葉を上手に使いこなせば、人間は何でも表現できる。この世の真理を究められる」などと誇大な妄想を抱くのは間違いです。言葉に真理を期待し、言葉を磨くことですべての問題を解決しようとすることは、危ない。たとえば、学説や経典や哲学書などに究極の答えを求めようとすると、ひどい落とし穴に落ち込んでしまいます。

私たち人間の言語(自然言語)は、もともと、(拙稿の見解では)物質以外の経験を正しく表現することができない。人間の言語は、人間どうしを深く結びつける素晴らしい機能を持っていますが、それは真実を語れるからではない。語る内容にかかわりなく、まず対話の存在に反応してお互いの身体の感覚と運動が共鳴することで、人間どうしは結びつけられる。世界の真理を語るという機能については、言語は完全ではない。つまり、人類の生存と繁殖にとって、この世の真理を語り得るかどうかは、たいして重要な問題ではなかった。真理追求の機能ではなく、人間どうしの感覚と運動を共鳴させて、集団的な協力を作り上げるという機能が人類の生存繁殖に役に立ったから、言語は現在も存続している。

あえて言えば、言語は、現実の世界について正しいことを語るための道具ではありません。むしろ、人と人を結びつけるという機能を果たすために、言語は何かを語る。その何かは、実際に正しいことでもよいが、正しくなくてもかまわない。皆が正しそうだと感じることで、互いの身体が共鳴し、うまく協力できればよい。言葉が使われる場合、それが一番重要です。そのため、私たちが毎日使う言語は、正しいことも本当のように語ることができるし、正しくないことも、同じくらい本当のように語ることができる。そのように進化してきて、今ある。

もともと、人類の言語は、鳥のさえずりのように意味のない音の羅列から進化したと(拙稿の見解では)思われる。人と人が互いに影響し合い、共同でする運動共鳴を起こすことで気持ちを通い合わせる遊びのツールとして発達した。いわば、声遊び、ですね。口で作るいろいろな音の組み合わせのおもしろさとリズムと繰り返しの心地よさ。言葉が分からない赤ちゃんがする意味のない叫び。仲間が集まってする音楽や踊りの楽しさに似ている。そういう声遊びが、音節を作り、構文を作り、さらに憑依と身体運動‐感覚受容シミュレーションに連結して(拙稿の見解では)意味内容を表現するようになった。そして結果として、あるころ(たぶん、数十万年前ころ)から、今あるような言語になっていった。

その過程で、(拙稿の見解では)たまたま遊びの副産物として、物質を操る運動共鳴に音節列をむすびつけることで物質に関する身体運動‐感覚受容シミュレーションが言語化された。そうして言語は物質現象を正確に表現できるようになったのでしょう。また、さらにたまたま、人間どうしの関係を操る運動共鳴に音節列や構文をむすびつけて、人称構造ができてきた。そうして、言語には、社会関係を上手に表現して社会生活に役立つような機能がでてきたのでしょう。

このように発展するとすれば、言語は身体運動の共鳴に結びつき、感情の共鳴に結びついて、仲間と、共有する世界について、ますます親密に語り合うための道具として使えるようになる。その結果、言語は、ますます人間どうしを強く結びつけられるようになった。ちなみに拙稿のこの見解に近い理論として、音韻、構文、意味内容はそれぞれ別々に進化発達して現在の言語に収束していった、という最近の言語学理論があります(二〇〇二年 レイ・ジャッケンドフ言語の基盤 脳・意味・文法・進化』)。

私たちは上手に言葉を使っている。それを使って、精妙な社会を作っています。しかし一方、言語をいくら上手に使っても、現実世界を正しく語ることは、かなりむずかしい。そればかりか、人間どうしの正しい相互理解もなかなかうまくいくものではない。楽しく言葉を交わすということと、正しく相互理解できるということとは違う。言葉を上手に使えば人と仲良くなれる。それで精妙な社会を作ることはできる。けれども、人々がいくら仲良くなれても、相互理解が深まるということはありません。言語は、人間の間に、きわめて不完全な相互理解しかもたらすことはできない。これを忘れると深い落とし穴に陥る。

人間の言葉は物事について語る。物質について語る。人間について語る。その他いろいろ、抽象的なものについても簡単に語ることができます。しかし、物質について語る方法も、人間について語る方法も、また抽象的なものについて語る方法も、言葉の作り方は、基本的には同じです。何について語る場合も、人間の言語は、(拙稿の見解では)仲間や自分の身体の動きとして語る。つまり、物事は擬人化されることで言葉になる。

物質現象について語る場合も、言語を使う限り、すべての現象は、人体の動きに模して、擬人化されてから語られる。擬人化システムを使って物質の動きを表現することによって、言語は、目に見える自然の法則を描写することに成功した。コンビニで買い物をするとき、あるいはレストランでメニューを選ぶとき、私たちは、自分たちの毎日の行動を、こうして得られた法則を利用して考える。科学は、その方法を、多少厳密に適用することで作られている。科学は、自然言語を厳密な論理で再構成して、物質について、正確に語る言葉を開発した。正確にしか語れないように言葉の使い方を限定することで、正確な科学の言葉が作られていきました。

逆に言えば、科学は、言葉を使って正確に語れるものについてだけ語る。厳密にそうすると、科学が語れるものは物質だけになる。物質についてしか語れないと、つまらない話しかできません。科学はそういう事情で、学ぶのが面倒な割に、いつもつまらなさが伴うことになってしまった。それでもめげずに科学は、あえて、目に見える物質についてだけ語り続けた。そうして大成功しました。

科学が使う言葉は、論文に書いても査読者にとがめられないように、決まり文句の羅列になったり、数学を援用したり、専門語をテクニカルに定義したり、かなり人工化されています。しかしそれにもかかわらず、科学の言葉は、まぎれもなく自然言語です(一九八八年 アラン・フォード、F・デイヴィッド・ピート『科学における言語の役割)

物理学、化学、生物学、地学、など現代の自然科学は、どれも基本的には、自然言語を使って語られる。科学の言葉遣いは、自然言語が、使用目的にあわせて効率化されたものとみることができる。こういう言葉は、狭い領域で正確かつ迅速な情報の伝達と共有を必要とする専門家集団の内部で磨き上げられてくる。専門家以外の人々にとっては難解ですが、専門家にとってはとても分かりやすい効率的な言葉になっています。

一方、物質世界だけを語って大成功した科学を羨み、その言葉遣いを真似して実体のないメタフィジカルな概念について精緻な理論を語ろうとした近代の(西洋)哲学は、外見だけが精緻になり、言葉が難解になると同時に、中身はますますおかしくなっていった。ナイーブに語感だけに頼って言葉を拾い上げ、それを組み合わせて複雑な議論を展開しようとすれば、たいていの場合、おかしな話になってしまう。言語技術に優れた知識人が語るとしても、いや言語技術が優れている人たちが語るからこそ、結局は落とし穴に陥る。

ちなみに、(二十世紀以降の)現代の哲学は、(十九世紀以前の)近代哲学への反省もあって、思考と言語の関係の探求が重要な課題とされています(二十世紀の言語論的転回などという)。特に、思考とは何か、という古くからの認識論の伝統を汲むアプローチから言語の役割を分析する議論が多くある(たとえば一九七四年 ドナルド・デイヴィッドソン『思考と言葉』)。一方、(分析哲学の中には)拙稿のような方向への流れも出ていて、たとえば、「人間どうしは自然について語ることで相互に通じ合えるが非自然について語ると通じ合えない(一九八三年 デイヴィッド・ルイス『完全解釈』)」という議論などがあります。

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