呼吸の話を例に取れば、私たちがふつうに呼吸している場合、その運動は意識されない。呼吸運動の結果を予測していないからです。風邪をひいて鼻が詰まっているとき、しかたないから口で息をする。鼻をかみたくなる。そういうときは、いくらか意識して呼吸運動をしています。しかしこういう場合、他人の視点から自分の行為を見ているわけではありません。
他人に憑依して、その人の視点に乗り移って自分の行為をながめるとき、意識は鮮明になる。たとえばコンサートで音楽を聴いている場合、鼻をかむわけにいかない。音を立てないように鼻をかめるか? こういうときは、はっきり呼吸運動を意識している。鼻をかむ音を周りの人に聞かれてはいけない、というコンテキストの上で、他人の立場から見た自分の行為の結果を予測している。
コンテキストがあるとき意識ははっきりする。それでは、どういう場合にどういうコンテキストがあるのか? もっとも鮮明なコンテキストは、自分の次の行動の結果によって自分自身が強い影響を受けると予想されるときです。恐れや期待という強い感情を伴った意識的な行動が行われる。自分一人だけ目立ってしまう場面だとか、一発ショットだとか、勝負どころだとか、いう場合ですね。
今私はどうしたらいいの? 今この場面で間違った動き方をしたらひどい目にあってしまうかもしれない。こういう場面で私たちはどのようにして自分の動き方を選択しているでしょうか?
こういうコンテキストの上での行動選択は、意思決定理論でいうゴール、アウトカム、ゲイン、コスト、リスクというような概念で説明できる。うまくやり遂げた成功状態がゴール。成功して獲得できる結果がアウトカム。アウトカムを金額などの数値で表現できる場合それをゲインといいます。
ゲインを獲得するときに支出しなければならない経費、あるいはもっと一般的に、支払わねばならない犠牲の量をコストという。確率的に起こるかもしれない危険の見積もり量をリスクという。
意思決定理論では、これらを数値化して計算で最適解を求めるが、実際の人間の行動は数値計算で決まるわけではありません。人間は(拙稿の見解では)無意識に衝動的に行動を決める。私たちは、自分では考えてから動いていると思っているけれども、実際は無意識に衝動的に行動します。ゴール、アウトカム、ゲイン、コスト、リスクというような立派な概念は、人間の運動形成機構の中にはない。運動形成機構は、(拙稿の見解では)運動結果がなす状況変化を自動的に予想して、それへの好き嫌いのような反射的反応を使って運動を形成します。
運動形成機構は、過去の行動結果をその時々のコンテキストの上で評価して、その経験を記憶する。この機構は経験を学習して、現実に即した判断ができるようになっています。好きなことが起こるように、嫌いなことが起こらないように、学習によって行動結果の予測ができるようになっている。逆にいえば、経験から学習した運動形成機構が予測する状況の評価によって、物事のコンテキストが現れてくる。
コンサート会場で鼻をかむ場合、意思決定理論で解決しようとすれば、無意識の衝動的反応は必要ありません。むしろ、衝動は邪魔になる。冷静に事態を予測して結果の損得を計算することだけが必要です。もう演奏は始まっている。始まったばかりなので終わるまでには二十分くらいはかかるだろう。もしかしたら二十五分以上かもしれない。鼻をかむと大きな音が出る。会場中の人に聞こえるでしょう。
楽に息をするという状況をゴールとして、そのゴール到達の一つの手段としての鼻をかむという行為を評価する。その行為の結果、つまりアウトカム、を予測して、それに対するゲイン、コスト、リスクなどを計算してみましょう。鼻を思いっきりかむと、息がしやすくなってゴールは達成される。百パーセントのゴール達成というゲインを得る。一方、それに伴ってコストやリスクが発生する。さらに、対案として、いっさい鼻はかまない、という(抑制)行為のゲイン、コスト、リスクなども計算して比較検討してみましょう。
まず、隣の席に座っている私のつれあいは、せっかくいい気持ちで音楽に浸っていたのに、突然、不快な音を聞かされて非常に不愉快になる(コスト)。それよりも、私に対して非常に怒る(コスト)。なんて品のない人だ。こんな人のつれあいだと思われて恥ずかしい。一緒に来るのではなかった、などと後悔する(と私が思う)。
そう思われて私はその後、コンサートに誘われなくなるでしょう(リスク)。そればかりではない。相手は、こんな非常識な人と付き合う気がしない、と思うかもしれない(リスク)。これからは、付き合い自体が危うくなるかもしれない(リスク)。さらに、というか、結局一番不愉快になるのは変な音を立てるこの私だ(コスト)。周りからもつれあいからも下品だとか迷惑だとかと思われるし、さげすまれるし、それがよく分かるから瞬間に気がめいってしまうだろう(コスト)。
そういう場面で私はどんな気持ちになるだろうか? 穴があったら入りたくなる。顔が赤くなってしまう。その顔色を見られるのもいやだから、つとめて平静な気持ちを保とうと思うのだけど、そうすると、緊張が高まってトイレに行きたくなってしまうだろう(リスク)。結局、顔面は緊張するし、トイレには行きたくなるし、そうなると、音楽を聞くどころではなくなって、いらいらしてこの場を逃げ出したくなる(コスト)。
そういっても、この満員のコンサート会場で立ち上がってでて行くとなると、右側の五人か左側のつれあいを含めた六人を演奏中というのに立たせて「すみません、すみません」を繰り返しながら、もたもたと通路へ泳ぎ出なければならないだろう(リスク)。それはまず不可能に近いというべきだろう。という二重苦、三重苦の絶体絶命の運命に私はある。