個人の自由と平等という近代政治理念からは無視すべき現象とされるしかありませんが、国民国家や宗教集団に現れる敬礼、お辞儀あるいは祈祷など外形様式は、その根強い継承のされ方をみると、深く人間の本性につながるところがあり、実際は社会の骨格を支えている基礎構造である、と考えるべきでしょう。
学校、会社、役所、軍隊、そして国民国家は、法的政治的構造と見ることもできると同時に、法や規則や契約という外形の底に、敬礼に見られるような集団の運動共鳴に支えられる帰属意識と結束力という骨組みができあがっているから成り立っている、といえます。
ちなみに敬礼は英語でsaluteといい、古代ラテン語の健康を祈るという意味から来ていますが、近代以降、まさに集団の結束を高める儀式を意味するようになっています。アメリカの大学の卒業式で総代挨拶をSalutationといい、現代でも成績優秀な学生が古代ローマ人を真似てラテン語で母校への最後の挨拶をしたりしています。■
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はじめに身体行動が(拙稿の見解では)運動共鳴を引き起こし、標準化された儀礼動作が階層構造を生み出し、規則となり法となり、価値観を作り、社会経済を動かしていく。
しかしながら、私たち現代人は、自分たちが規則に従い損得の自己判断に従うべきであると教え込まれているので、自分たちの行動は自己判断で作られている、と思い込んでいます。つまり、はじめに身体行動があるのではなく、行動は自分が考えて作っていくもの、と思いこまされています。人間というものはだれもが、規則と損得判断にもとづいて自分たちの行動を自分で決めていくものである、と思っています。
現実社会の基礎骨格を作っている階層構造とその裏付けとなっている上級者の権威を支持するものは、しかしながら、実は法や規則や損得判断ではなく、運動共鳴を引き起こす多くの習慣的儀礼的動作からなる行動様式です。軍隊や会社など現代社会の基礎構造には、そのような外形的な行動様式を再生産する機構が装備されています。
人類社会では、敬礼や呼びかけ、言葉遣い、目つき表情や手ぶり歩き方まで運動共鳴を引き起こすように標準化された外形様式が伝承されていきます。それらが権威の表現であり階層の象徴であるといえます。
より単純に見れば、敬礼やお辞儀、言葉遣い、表情など身体表現、それら自身が権威を作り出す階層構造である、といってよいでしょう。
権威を備えた大きな階層構造に組み込まれてその外形様式である敬礼や集団行動をするとき、人は安心感を持ち、集団は結束力を持ちます。会社や学校への帰属意識から、さらに大きいもの、国家や宗教への帰属へと発展します。
大きな集団がそのメンバーに帰属意識を持たせることに成功すれば内部の小さな集団を吸収し、スケールメリットを極大化することができます。特に、ナショナリズムに支えられる国民国家がこの二百年では最大の成功例です。また大小の宗教は現代でも依然として結束力を持っています。
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集団の結束を高めるためには、会議室に集まる、あるいは敬礼する、というように全員が同じ行動をとるための全身を使う動作が最も効果的です。会社や役所で頻繁に会議が開かれ軍隊で頻繁に敬礼が行われる理由はそこにあるといえるでしょう。
軍隊ばかりでなく、結束が必要な階層組織、教会(聖職者階層)、会社、学校、部活、運動部などでも敬礼あるいは会議、朝礼、集会の儀式などで階層の権威を確認し集団の結束を固める様式が重要な役割を果たしています。
身体動作によって集団の結束を高めていく方法は、狩猟採集時代の部族社会から現代におよぶ人類共通の運動共鳴の様式です。数十人の集団を組んで手に手にヤリを持ち、全員が互いの運動を認めながら前進していく集団行動そのものが結束を高め、帰属意識とプライドを呼び起こします。
スポーツでもフットボールや駅伝や集団ランニングなど集団で前進する動作が楽しい。スポーツやダンスや音楽や劇など現代にまで伝わる芸術活動あるいは娯楽活動は、集団の結束を固めるために人類が継承してきた伝統となっています。
農耕牧畜社会になって階層構造が発展した後では、階層の権威を象徴し確認する方法として敬礼、礼儀作法などの身体動作がスタンダードとなっていきます。文字が使われる歴史時代に及んで権威の概念は法や規則として文書化され、形式的には法規制が逆に社会構造を作り出しているという擬制が敷衍していきます。
軍の規則で決められているから上官には敬礼する、と個々の兵士は教え込まれていますが、兵士が敬礼する相手であるからその人は上官である、ともいえます。外形的には後者の言い方が分かりやすい。
藪に潜む敵の狙撃手は、敬礼を受ける人物に狙いを定めます。士官を殺せば部隊は大きく弱体化するからです。その場合、士官とは、敬礼を受ける人物、と決めつければよろしい。
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敬礼される上級者はそれなりの権威を持っている、といってよいでしょう。もしかしたら逆に、敬礼されること自体が権威である、といえるのかもしれません。軍隊や会社や教会が階層構造となっているのは、法令や定款や規則によって、といえますが、同時に権威の構造によって階層が支持されているから、とみることもできます。
法や規則だけで階層構造を保とうとしても捕虜収容所や刑務所のように物理力で人を拘束するしかなくなり、集団としての実行力は発揮できません。実行力のある集団行動を実行するためには、どうしても構成員の内発的意欲が必要になります。
軍隊での敬礼は、士官と兵士の結束を維持する重要な装置となっています。敬礼動作を繰り返すことで、軍隊では、階級の権威を作り出しています。そしてこの権威の在り方が、構成員の内発的意欲によって支持されています。
軍隊において士気を維持するためには、その構成員である士官と兵士がその階層構造への賛同とプライドを持っている必要がある、とされています。そのためには集団としての目的が共有されていなければならないでしょう。軍隊は、戦闘能力を維持するという目的が明確であるので、その目的に疑問が生じない限り、結束の維持は比較的にむずかしくありません。
軍隊などはっきりした目的を持った集団は、一か所に集まるだけで構成員の参加意欲とそれに伴うプライドを高めることができます。会社でも、目的のはっきりした会議は会議室に集まるだけで結束を高める効果があることを、会議の招集者である上長は知っています。
全員が一か所に集まることで、集団の階層構造の認識が共有されます。集団は、恒常的に階層構造を確認することで権威の効果を発揮できるようになります。
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(63 敬礼する人々 begin)
63 敬礼する人々 権威の存在論
火星防衛隊第二班長ケチャップ大尉は襲来する宇宙人部隊を火星の砂漠で迎え撃ち全滅させたが自らは被弾し戦場に散りました。アトム隊長は硝煙くすぶる戦場を走行する装甲車(火星ローバー?)の上に立って敬礼を捧げます(一九五六年 手塚治虫「鉄腕アトム①」)。当時、小学生だった筆者はマンガのこのシーンを、なぜか、はっきり記憶しています。
大人になってから、このマンガの図式は、トラファルガー海戦に勝利して戦死したネルソン提督をなぞったヒロイズム描写の典型だ、と気づきましたが、だからこそ、小学生にストレートで入るマンガになっていたと思われます。
軍隊では儀式的な敬礼が日常的に行われます。戦時ではなく平時に敬礼はよく行われる。毎朝の国旗掲揚では全身で国旗に注目し、緊張をもってきちんとした敬礼をしなければなりません。しかし軍人が最も重要な仕事をしている戦場では、むしろ敬礼は省略される。戦場では戦闘作業に集中するべきであって挨拶は後回し、が当然でしょう。
敬礼や挨拶は、戦時ではなくて平時に必要なのでしょう。なぜか?平時に敬礼をおろそかにする軍隊は戦時に勝てない。だから毎日の敬礼が必要である。スポーツ選手のトレーニングと同じです。
戦場の兵士が上官の命令を逡巡なく実行できないような軍隊は、負けて消えるでしょう。兵士が戦場で死なないために上官は偉い。どう偉いのかではなくて、上官であるということだけでひたすら偉い。ということでなければならない。そうするためには上下関係を身体に覚えこませる敬礼動作が効果的です。
偉い人は上体をそらせる。偉さを認める人は頭を下げる。つまり、「♪一歩進んで前ならえ 一歩進んで偉い人 ひっくりかえってぺこりんこ (NHK教育テレビ『ピタゴラスイッチ』アルゴリズムこうしん)」となるのが人間感性の自然です。お辞儀や敬礼はそれを様式化したものでしょう。
偉さというか、権威というか、敬礼したくなる人の偉大さ、怖さ、ひきつけられる魅力。そういう偉い人に敬礼すれば、認めてくれて家来として扱ってくれそうな気がします。そういう安心感が欲しい、逆ににらまれて処罰されると困る。だから私たちは偉い人には、敬礼したくなります。
これは、しかし、そもそもどうしてなのか?
権威に追従すると、たしかに得になることが多い。逆らうとしばしば損をします。しかしどうも損得ばかりではない。なにか気分的に権威に敬礼すると気持ちがよいところがあります。
宗教はまさにそこに基盤があります。ひたすら神をあがめ敬う。手を合わせたり、平伏したり。それは身体動作、形ですが、それが重要。敬礼動作そのものを神に捧げます。
人間の本性として敬礼がある、らしい。私たちは、ある状況では当然すなおに人に頭を下げたり、敬礼したりします。損得ではなく、自発的にそうしたくなるところがあります。そうしてその人がリーダーである場合、そのリーダーについていきます。
えらそうなリーダーに従って行動すると、自分が強くなれるような気がする。不安や恐れがなくなります。それは親や先生や年上の兄弟姉妹についていく子供のころから、だれもそうして行動してきたからでしょう。
それは身体がそう動く。動いてしまう。そうすると心が休まる。そうしないと不安。宗教を信仰する行為もそこに似ているところがあります。
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