哲学の科学

science of philosophy

神仏を信じない人々(8)

2014-06-28 | xxx9神仏を信じない人々

キリスト教をはじめとする偉大な宗教の下に発展した近代文明は科学と経済を成功させて現代に至った結果、皮肉なことに、個人や社会に対する宗教の影響力を最小化しつつあります。人々は、豊かになり知識を増し幸せになるにつれて神仏を信じなくなる。現世を楽しみつくす方向に個人も社会も向かっていくようです。

現代人は、毎日の生活でやるべきことはだいたい決まっている。不確実なことは多いけれどもそれらがなぜ不確実なのか、どのように不確実なのかは、よく分かっています。科学も世の中の常識も、学校で習ったことや書物やマスコミの情報や、なによりも仲間と語り合うことで、現代人は現実の有様について自分の知識に自信を持っています。いくらかは不思議なこともある。しかしそれらの神秘は人間の叡知の限界であろうと言われているらしい。そうであれば、神秘に関心を持つ必要はない。毎日の生活には困らないだけの知識は持っているから、それ以外のむずかしい話は知る必要がない、と思っているようです。

昔から哲学者たちが語っているような人生と世界に関する深淵な難題。愛とか死とか、真実とか真の幸福とか真の正義とか、あの世とか人生の意義とか、宇宙とか時間とか、それはたしかに、まことに神秘ではある、とは思うもののそういうことは考えても答えが見つからないに違いない、と思っています。

そういう答えは分からないままだれもが人生を終えていく。人生がそういうものであれば自分もそうであるしかない。諦めといえば諦めですが、別にそれが残念という程の気もしません。そういうことはそうしておけばよい、と思っています。

こういう現代人は実は多い。自分は無宗教である、とあからさまに言うのは気が引けるけれども、実は神仏に頼って生きているわけではない、ということでしょう。このような人々は現代の科学と経済を下敷きにした現代の常識の上で安心して社会生活をいとなんでいます。周りの仲間、知り合いも皆そうです。その生活感覚から、このような考えを持っているのでしょう。

ちなみに、そのような現代の科学と経済を育んだ近代文明は、その源流に遡れば、中世の宗教的環境から生み出されたものです。そうであれば、宗教は中世におけるその大いなる発展の結果、はからずも、自らを必要としない現代文明を作り出してしまった、という歴史のパラドックスを見ることができます。

さて、現代社会においては、そういうことであるとすれば、神仏を信じない人々が多くなり、宗教を必要としない社会構造がすでに実現している、といえるようです。実際、現代社会は宗教がなくても維持されるのでしょうか?

そのような現代社会に住む個々の現代人も、神仏を信じないままで毎日を過ごし人生を終わっていく人が多くなっていくことになります。もしかすると大事なことが分からないまま死んでいくことになる個々の現代人は、残念な人生だとか、可愛そうだとか、精神的に不幸だ、ということになる。

しかし個々人に関してはそういえるかもしれないけれども、社会全体としてはうまく現状を維持していくことができる。それが現代社会である、といえるようです。

Banner_01

コメント

神仏を信じない人々(7)

2014-06-22 | xxx9神仏を信じない人々

いや、商売繁盛を祈って神社に奉納などする社長は大勢いますから、ビジネスマンが宗教を信じていないとはいえません。まあしかし、会社による奉納や祭事への寄付なども社交や社内行事の一環だったりもします。どこまで宗教的行為であるかは定かでありません。社運を祈って毎朝声明や賛美歌を唱えるとなれば本物でしょうが、日本ではそういう例はあまりないようです。ようするに、ビジネスに熱心な人々は特に宗教を必要としているようには見えない、といえるでしょう。

では次に、ビジネスなど経済活動にはほどほどの熱意しか持たずにのんびりと楽しく趣味や生活を楽しんでいる人々はどうか?最近の若い人には生活エンジョイ派が多いようです。こういう人たちの中には寺社巡りなど好きな人もいます。占いやおみくじや魔除けのペンダントなども買う。彼らは宗教を必要としているのでしょうか?

こういう人たちに、神仏を信じているか、と問えば、信じているという答は出ません。しかし、まったく信じていない、という答にもならない。この世に神仏というようなはっきりしたものがあるとは感じられないけれども、現実とは違うなにか神秘的なものが人生の裏にはあるような気がする、と答える人は多い。運不運など神秘的に決まってくるような気がする。運命には逆らうことができないという気がする。時の運とか巡り合わせというようなものがある、と思う。そういう感覚のようです。

ビジネスに熱心な人々、あるいは生活に熱心な人々、あるいは淡々と日々を送っている人々、それぞれの中に神仏を信じているとはいえない、つまり無宗教に分類される人々がいます。そういう人たちに共通の特徴は、宗教に関心が薄いというばかりでなく、心から神仏を信じている人に対する違和感を強く持っているということです。いわば、自分は宗教よりも現実の現世を信じていたい、という考えを持っているようです。

宗教的であれば現世的ではなくなる。だから宗教には違和感がある、というところでしょうか?現世を肯定したい。天国や彼岸を語って現世を幻と観るような宗教的世界観はきらいだ、と思っているところがある。現世の他には何もない、ということでよい、と思っているのでしょう。現世の他になにか神秘的なところ不可知なところは残るにせよ、知ることができないものは知りたくもない、それよりも今のこの世界だけを相手に生きていきたい、ということでしょう。

我が世誰ぞ常ならむ、とは言われても、だからといってこの世に生きる自分以外に存在感のあるものがあるとは感じられない、という感覚は分かりやすい。現代人のすなおな、主観的感覚でしょう。

このように現世に執着する衆生を宗教の世界に誘い込むために、各宗教は古代から苦心を重ねてきました。古来の聖書経典は、現世だけではだめなのだ、という説得に満ちています。宗教家は哲学を語り、メメントモリ(死を想え)と唱えます( 拙稿15章「私はなぜ死ぬのか?」)。しかしなかなか現世的な大衆を説得するのはむずかしい。若い男女は今日を楽しみ明日の風を顧みない

Banner_01

コメント

神仏を信じない人々(6)

2014-06-14 | xxx9神仏を信じない人々

神仏を信じてはいないけれども、けっこうきちんと毎日の生活を送っている現代人たち。そういう人たちは、宗教を必要としないのでしょうか?たとえば、宗教が問題としているような魂の救済、あるいは生老病死からの解脱などの必要を感じないのでしょうか?私はどこから来てどこへ行くのか、私は何者なのか、というような、タヒチでゴーギャンが悩んだような、人生の疑問はないのでしょうか?

いろいろなアンケートなどでこういう質問をする調査が、いくつもなされているようです。神仏を信じていない人々がするそれらへの回答は、様々な表現でなされています。

宗教で問題とされるような疑問は持ったことがない、あるいは、そういうことを考えたことがない。考える暇がない。考えても納得のいく答えが得られないことを知っているから無視している。毎日なすべきことをする。したいことをする。というような答えが帰ってきます。

表現はいろいろですが、この人たちはようするに、答えが得られないことを考えてもしかたがないからしない、と思っているようです。もっと先にすべきことがあるので、そちらをする。先にすべきことはいくらでもあるので、結局、永久に宗教に関係する問題は考えることはない。ということでしょう。

この人たちは、宗教に関係するむずかしい問題には簡単な答がないことをよく知っています。なぜよく知っているのか?新聞やテレビや書物で見聞きしているからでしょう。またそういう話題について家族や仲間と話していてだいたいの見当がつくのでしょう。現代の世の中では情報通信が十分発達していて宗教に関係するむずかしい問題についても学者やマスコミのあいだでの評価がすぐ手に入ります。科学者も含めた最高の知識人たちが語っていることを知ればもう十分でしょう。つまり宗教に関係するむずかしい問題には簡単な答がないことが分かるのです。

ところで、分からない問題を後回しにすることは良いとして、先にすべき人生の優先課題とはなんでしょうか?生活を維持すること。お金を稼ぐこと。社会地位を維持すること?ライバルたちとの競争に負けて落ちこぼれにならないこと。仲間から嫌われないこと。軽蔑を買わないこと。なるべくなら尊敬されること。経済的、社会的に落ちこぼれないこと。人生を楽しむこと。享楽奢侈、あるいは勉学あるいは社交に励むこと。ようするに現世的な活動を徹底することです。

ちなみに現世的という語を英語ではセキュラーという。語源のラテン語サエクラリス(saecularis)の原義 は、「時代的」であるが、キリスト教の時代になり転じて「俗世的」となった。俗世的、世俗的、現世的の対語は聖的、宗教的でしょう。現代人は過去の人々に比べてより現世的になっている、といえますが、宗教の衰退との因果関係はどうでしょうか。人々が現世的になったから宗教が衰えたのか?宗教が衰えたから人々が現世的になったのか?

これは裏返せば、どのような条件で宗教が盛んになるのか、という設問にもなりますが、いずれにせよ、拙稿本章としてまず興味深い問題は、現世的な関心が強くなれば宗教は不要になるのかどうかです。たとえば、ビジネスなどの成功を奪い合う戦いにしのぎを削っている人は、宗教にまったく関心を持たないのでしょうか?

Banner_01

コメント

神仏を信じない人々(5)

2014-06-07 | xxx9神仏を信じない人々

日本や欧米でも、ほんの数十年前、一九六〇年代くらいまでは、宗教もある程度はしっかりしていたし、伝統的なカルチャー、慣習などが人々を律する規範として働いていました。男は学校を出たら社会に出て働き、三十くらいまでに結婚して妻子を養う。女は家事を見習ってから二十代で結婚し子を産み育てる。そうすることに理由などなく、そうすべきでした。

その頃は今日から振り返ってみれば、就職、結婚、育児に関して伝統的なカルチャーからくる社会規範がしっかりと社会に根付いていた、といえます。それら人生に関する規範も現代は変化してきています。実際、親たちが疑問もなくそうしてきたことを子の世代はしません。

しかし一方、興味深いことには、昔の規範を守らなくなってきた若い人達が、自堕落になっているとか、享楽的あるいは退廃的になっているかというと、そうではありません。朝はきちんと起きる。きちんと顔を洗い、歯を磨きます。清潔な服装を身につけて、遅刻せずに職場に出勤し、さぼったりせずに遅くまで仕事をする。旅行やスポーツを大いに楽しみますが、貯金もします。筆者などが観察するに、今の年寄りが若かったころよりも今どきの若い人たちのほうがまじめな生活を送っています。

昔の人たちが重要だと思っていたモラルや規範は、現代、薄れてきているけれども、人間のさらに根本的な生活の態度、姿勢というものは崩れていない。むしろ、しっかりしてきている、といえるようです。

人生で何が重要であるのか?昔の人と今の人は感覚が違う、とよくいわれるとおりなのでしょう。

伝統的宗教や聖人君子の教えが語ってきたところと違う感覚で、真摯に誠実に、現代人は生きている、ともいえます。神をも仏をも信じているわけではないけれども、また論語や人生訓を暗唱しているわけではないけれども、毎日なすべきことはよく知っている。人生の目指すべきところをしっかり語れるというわけではないけれども、今日することはよく分かっている。それが現代人の特徴なのでしょう。それでよいのか?それは間違いだと叱るべきなのか?意見の分かれるところです。

若い現代人の生活感覚に関して、特に興味を惹かれるところは、そういうことで困ったことになっているとか、かわいそうだ哀れだ、という論評が、知識人や老人からは発せられることがあるにしろ、若い人たちの間ではそういうことは問題にされていないように見えることです。

伝統的宗教や聖人君子の教えや家訓や人生訓などは知らない、知りたくもない、興味ない。ということでしょう。当然、神仏を信じることもありません。それがなにかいけませんか?とはあえて言いませんが、そんな感覚でしょう。

朝はきちんと起きる。きちんと顔を洗い、歯を磨く。清潔な服装を身につけて、遅刻せずに職場に出勤する。それは聖書経典や論語や人生訓を実行するからそうするのではなくて、そうするほうがしないよりずっと気持ちがよいからです。

あえて言えば、そういう理由でしている。熱心に仕事をし、もらった給料は大切にして、倹約し貯金もする。そうするほうが気持ちがよいのです。行列に割り込んだりしないし、財布を拾ったらすぐ届ける。そうするほうが安心で心が休まるからです。少しくらいお金や地位を入手する機会が少なくなっても、不快な気持ちになることを避けようとすると、そういう動きになります。

そういうことであるとすれば、こういう人たちの行動傾向は、マナーがよいといえばマナーがよい、モラルを守っているといえばモラルを守っているとも言える。しかし神仏の教えとは関係がないでしょう

Banner_01

コメント

文献