キリスト教をはじめとする偉大な宗教の下に発展した近代文明は科学と経済を成功させて現代に至った結果、皮肉なことに、個人や社会に対する宗教の影響力を最小化しつつあります。人々は、豊かになり知識を増し幸せになるにつれて神仏を信じなくなる。現世を楽しみつくす方向に個人も社会も向かっていくようです。 現代人は、毎日の生活でやるべきことはだいたい決まっている。不確実なことは多いけれどもそれらがなぜ不確実なのか、どのように不確実なのかは、よく分かっています。科学も世の中の常識も、学校で習ったことや書物やマスコミの情報や、なによりも仲間と語り合うことで、現代人は現実の有様について自分の知識に自信を持っています。いくらかは不思議なこともある。しかしそれらの神秘は人間の叡知の限界であろうと言われているらしい。そうであれば、神秘に関心を持つ必要はない。毎日の生活には困らないだけの知識は持っているから、それ以外のむずかしい話は知る必要がない、と思っているようです。 昔から哲学者たちが語っているような人生と世界に関する深淵な難題。愛とか死とか、真実とか真の幸福とか真の正義とか、あの世とか人生の意義とか、宇宙とか時間とか、それはたしかに、まことに神秘ではある、とは思うもののそういうことは考えても答えが見つからないに違いない、と思っています。 そういう答えは分からないままだれもが人生を終えていく。人生がそういうものであれば自分もそうであるしかない。諦めといえば諦めですが、別にそれが残念という程の気もしません。そういうことはそうしておけばよい、と思っています。 こういう現代人は実は多い。自分は無宗教である、とあからさまに言うのは気が引けるけれども、実は神仏に頼って生きているわけではない、ということでしょう。このような人々は現代の科学と経済を下敷きにした現代の常識の上で安心して社会生活をいとなんでいます。周りの仲間、知り合いも皆そうです。その生活感覚から、このような考えを持っているのでしょう。 ちなみに、そのような現代の科学と経済を育んだ近代文明は、その源流に遡れば、中世の宗教的環境から生み出されたものです。そうであれば、宗教は中世におけるその大いなる発展の結果、はからずも、自らを必要としない現代文明を作り出してしまった、という歴史のパラドックスを見ることができます。 さて、現代社会においては、そういうことであるとすれば、神仏を信じない人々が多くなり、宗教を必要としない社会構造がすでに実現している、といえるようです。実際、現代社会は宗教がなくても維持されるのでしょうか? そのような現代社会に住む個々の現代人も、神仏を信じないままで毎日を過ごし人生を終わっていく人が多くなっていくことになります。もしかすると大事なことが分からないまま死んでいくことになる個々の現代人は、残念な人生だとか、可愛そうだとか、精神的に不幸だ、ということになる。 しかし個々人に関してはそういえるかもしれないけれども、社会全体としてはうまく現状を維持していくことができる。それが現代社会である、といえるようです。