憑依機構をつかうことによる人類のこのような客観的世界の獲得は、さらに自分の身体の観察におよび、自己身体の外観の客観的観察と内観による体性感覚、運動感覚や感情を貼り合わせることで自我概念を生成する機構に進化した。不特定な他人の視点に憑依して外側からながめる自分の身体の感知から、自分がする運動の意図、意志、欲望、目的が推測できる。
そうして憑依機構をつかうことによる自分の行動の感知から推測する意図、意志、欲望、目的、に、自分の内部感覚から感知する体性感覚、運動感覚、感情、経験、言語文脈などを貼り付けることで自我が形成されていく(拙稿12章「私はなぜあるのか?」)。
つまり、自分というものは、私たちがふつう感じているように、自分の肉体の中にある神秘的ななにか、ということではない。私たちが自分というものを感じているときは、五感や体性感覚などの感知信号を合成することで、この肉体から離れた他人の視点に憑依して自己の肉体を外側から客観的に見てその運動を予測するための身体運動‐感覚受容シミュレーションが仮想運動として作動している。その仮想運動を再感知することで、私たちは自分というものを感じる。
自分というこのシミュレーションは、(拙稿の見解では)霊長類にもある体性感覚と視覚による空間認知の統合機構(二〇〇四年 田中美智雄他『内部行為から外部空間を描出する頭頂葉内双感覚神経細胞群』既出)を土台としている。さらにその上につくられる自他感知世界(現実3)というシミュレーション機構は、類人猿の中でも(オランウータンやゴリラやチンパンジーやボノボにはなくて)人類に特有のものでしょう。この自他感知シミュレーション機構の獲得は、精緻な社会生活と共進化して言語を生み出し、人類の生存繁殖能力を飛躍的に高めました。
自分というものは、物質のように直接視覚や触覚などの感覚で感じられるものではない。視覚聴覚触覚 体性感覚、感情の動き、イメージなどから身体運動‐感覚受容シミュレーションとして間接的に、また総合的に、捉えられる錯覚に過ぎない。自分の人体は客観的物質として感じられるが、その場合、それは客観的物質として他人の人体を感じることと変わりないから、自分自身を感じていることではない(拙稿12章「私はなぜあるのか?」)。私たちは、自分の人体を物質として感じると同時に、その物質感知の感覚を体性感覚や感情や自他感知シミュレーションの結果で裏打ちして、自分というものを感じとっている。
このような自我の捉え方は、近代哲学の初期(一七三九年 デイヴィッド・ヒューム『人性論』既出)から提起されている。特に現代の心理学、哲学において顕著になってきている(たとえば一九一三年 ジョージ・ハーバート・ミード『社会的自我』既出 あるいは、一九八六年、一九九二年 ダニエル・デネット『語りの重心としての自我』)。このような見方によれば、人間の人格あるいは自我と思われているものは、その人の身体の客観的な行動を理論化し、これからの動きを予測する便宜のためにつくられたフィクションであり、私たちが思っている自分という人格も、他人の人格をつくるために使ったフィクションを応用して自分の身体の行動を理論化し予測する便宜のためにつくられたもうひとつのフィクションである、とされる。
マンガにありそうな場面。宇宙から来て地球人に変装した異星人が、「私は山田太郎です」と言っている。異星人は、山田太郎というフィクションを演じています。しかも、異星人は、本気で自分が山田太郎だと思っている。異星人はそう思い込むことによって、地球でうまく生きていかれる。一人の人間を演じることでうまく生きていく。それ以外に、異星人が地球でうまく生きていく方法がありますか? 異星人ではない私たち人間も、自分が「○田×郎」あるいは「凸山凹子」として生きていくしかない。
私たちは、だれもが、自分を自分と思って生きています。自分が自分と思っている人物だと思い込むことで、うまく生きている。その自分をペットのようにかわいがり、あるいはひいきのサッカーチームのように応援し、外側からの自分の視線に映る自分のシミュレーションを感情とともに感じとって、それを主人公としたゲームを懸命にプレイする。
主人公がゲームで高い点数を取れるように毎日努力する。ペットが快適であるように世話をする。あるいは、ひいきのチームの勝敗が気になってしかたがない。
自我をどこに見るか?
私たちは、ペットやひいきのチームが自分のように思えるから、それに情が移り目をかける、と思っているがそれは逆です。私たちは、いつも身近にいるのが自分だから、それに目をかけてしまい、ペットやひいきのチームに対するのと同じように、それに情が移る。だから、私たちは自分をペットやひいきのチームのように手助けし応援する。
それは、たいていとてもうまくいく。逆にそうしないと、何もうまくいかない。私たちは、それ以外に、この社会でうまく生きていく方法を知らないからです。逆にいえば、そうするような脳の仕組みを持った私たちの集合として社会はつくられている。そうして生きていかれるように社会はつくられた、といえる。
こうして、自分というものはつくられています。人間は、だれもが、そうしている。人類は一万年以上も前から、そうしてきた。そうして人口を増やし世界中に住み着いた。つまり自分をつくり、それで社会を構成するというこの行動様式を身に着けることによって、人類は動物種として繁殖に大成功した。逆に言えば、祖先がそうして繁殖に成功したから現在生きている私たちはこうして自分をつくっている、といえる。
過去はその通りです。ただし、過去がそうだからといって、これからどうすべきかは、もちろん、まったく別の問題でしょう。近代哲学の開祖といわれる大哲学者が述べたように、物事がどうであるかによってそれをどうすべきかは決まらない(一七八八年 イマニュエル・カント『実践理性批判』)。
さて、こうして他人がつくられ自分がつくられることで、私たちがいつも感じている自他感知世界(現実3)は完成する。発育上では、赤ちゃんが幼児になると、それはつくられてきます。これ(現実3)を現実と感じとってその上で他人と自分の行動を予測することで、私たちは集団行動をつくりだす。そこに、あらゆる人間関係をつくりだす。愛、憎しみ、尊敬、あるいは嫉妬、などの感情を生み出し、そうすることで社会を形成する。こうして、私たちはじょうずに生存し繁殖することができる。逆にいえば、そうして繁殖に成功した人類の子孫だから、私たちは、愛、憎しみ、尊敬、あるいは嫉妬、などの感情を持っている。