哲学の科学

science of philosophy

私はここにいる(23)

2009-04-25 | x9私はここにいる

憑依機構をつかうことによる人類のこのような客観的世界の獲得は、さらに自分の身体の観察におよび、自己身体の外観の客観的観察と内観による体性感覚、運動感覚や感情を貼り合わせることで自我概念を生成する機構に進化した。不特定な他人の視点に憑依して外側からながめる自分の身体の感知から、自分がする運動の意図、意志、欲望、目的が推測できる。

そうして憑依機構をつかうことによる自分の行動の感知から推測する意図、意志、欲望、目的、に、自分の内部感覚から感知する体性感覚、運動感覚、感情、経験、言語文脈などを貼り付けることで自我が形成されていく(拙稿12章「私はなぜあるのか?」)。

つまり、自分というものは、私たちがふつう感じているように、自分の肉体の中にある神秘的ななにか、ということではない。私たちが自分というものを感じているときは、五感や体性感覚などの感知信号を合成することで、この肉体から離れた他人の視点に憑依して自己の肉体を外側から客観的に見てその運動を予測するための身体運動‐感覚受容シミュレーション仮想運動として作動している。その仮想運動を再感知することで、私たちは自分というものを感じる。

自分というこのシミュレーションは、(拙稿の見解では)霊長類にもある体性感覚と視覚による空間認知の統合機構(二〇〇四年 田中美智雄他『内部行為から外部空間を描出する頭頂葉内双感覚神経細胞群』既出)を土台としている。さらにその上につくられる自他感知世界(現実3)というシミュレーション機構は、類人猿の中でも(オランウータンやゴリラやチンパンジーやボノボにはなくて)人類に特有のものでしょう。この自他感知シミュレーション機構の獲得は、精緻な社会生活と共進化して言語を生み出し、人類の生存繁殖能力を飛躍的に高めました。

自分というものは、物質のように直接視覚や触覚などの感覚で感じられるものではない。視覚聴覚触覚 体性感覚、感情の動き、イメージなどから身体運動‐感覚受容シミュレーションとして間接的に、また総合的に、捉えられる錯覚に過ぎない。自分の人体は客観的物質として感じられるが、その場合、それは客観的物質として他人の人体を感じることと変わりないから、自分自身を感じていることではない(拙稿12章「私はなぜあるのか?」)。私たちは、自分の人体を物質として感じると同時に、その物質感知の感覚を体性感覚や感情や自他感知シミュレーションの結果で裏打ちして、自分というものを感じとっている。

このような自我の捉え方は、近代哲学の初期(一七三九年 デイヴィッド・ヒューム人性論既出)から提起されている。特に現代の心理学、哲学において顕著になってきている(たとえば一九一三年 ジョージ・ハーバート・ミード社会的自我』既出 あるいは、一九八六年、一九九二年 ダニエル・デネット語りの重心としての自我』)。このような見方によれば、人間の人格あるいは自我と思われているものは、その人の身体の客観的な行動を理論化し、これからの動きを予測する便宜のためにつくられたフィクションであり、私たちが思っている自分という人格も、他人の人格をつくるために使ったフィクションを応用して自分の身体の行動を理論化し予測する便宜のためにつくられたもうひとつのフィクションである、とされる。

マンガにありそうな場面。宇宙から来て地球人に変装した異星人が、「私は山田太郎です」と言っている。異星人は、山田太郎というフィクションを演じています。しかも、異星人は、本気で自分が山田太郎だと思っている。異星人はそう思い込むことによって、地球でうまく生きていかれる。一人の人間を演じることでうまく生きていく。それ以外に、異星人が地球でうまく生きていく方法がありますか? 異星人ではない私たち人間も、自分が「○田×郎」あるいは「凸山凹子」として生きていくしかない。

私たちは、だれもが、自分を自分と思って生きています。自分が自分と思っている人物だと思い込むことで、うまく生きている。その自分をペットのようにかわいがり、あるいはひいきのサッカーチームのように応援し、外側からの自分の視線に映る自分のシミュレーションを感情とともに感じとって、それを主人公としたゲームを懸命にプレイする。

主人公がゲームで高い点数を取れるように毎日努力する。ペットが快適であるように世話をする。あるいは、ひいきのチームの勝敗が気になってしかたがない。

自我をどこに見るか?

私たちは、ペットやひいきのチームが自分のように思えるから、それに情が移り目をかける、と思っているがそれは逆です。私たちは、いつも身近にいるのが自分だから、それに目をかけてしまい、ペットやひいきのチームに対するのと同じように、それに情が移る。だから、私たちは自分をペットやひいきのチームのように手助けし応援する。

それは、たいていとてもうまくいく。逆にそうしないと、何もうまくいかない。私たちは、それ以外に、この社会でうまく生きていく方法を知らないからです。逆にいえば、そうするような脳の仕組みを持った私たちの集合として社会はつくられている。そうして生きていかれるように社会はつくられた、といえる。

こうして、自分というものはつくられています。人間は、だれもが、そうしている。人類は一万年以上も前から、そうしてきた。そうして人口を増やし世界中に住み着いた。つまり自分をつくり、それで社会を構成するというこの行動様式を身に着けることによって、人類は動物種として繁殖に大成功した。逆に言えば、祖先がそうして繁殖に成功したから現在生きている私たちはこうして自分をつくっている、といえる。

過去はその通りです。ただし、過去がそうだからといって、これからどうすべきかは、もちろん、まったく別の問題でしょう。近代哲学の開祖といわれる大哲学者が述べたように、物事がどうであるかによってそれをどうすべきかは決まらない(一七八八年 イマニュエル・カント実践理性批判』)。

さて、こうして他人がつくられ自分がつくられることで、私たちがいつも感じている自他感知世界(現実3)は完成する。発育上では、赤ちゃんが幼児になると、それはつくられてきます。これ(現実3)を現実と感じとってその上で他人と自分の行動を予測することで、私たちは集団行動をつくりだす。そこに、あらゆる人間関係をつくりだす。愛、憎しみ、尊敬、あるいは嫉妬、などの感情を生み出し、そうすることで社会を形成する。こうして、私たちはじょうずに生存し繁殖することができる。逆にいえば、そうして繁殖に成功した人類の子孫だから、私たちは、愛、憎しみ、尊敬、あるいは嫉妬、などの感情を持っている。

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私はここにいる(22)

2009-04-18 | x9私はここにいる

このとき、人の動作を感知することで惹き起こされる運動共鳴により自分の脳内に起こる仮想運動、それに対応する自分の身体の無意識的な自動的な反射による体性感覚の変化信号、たとえば平滑筋や自律神経系の活動による内臓や血管のかすかな変動信号を感知して、それによって私たちは観察対象人物の内面の動きや感情を知覚する。

この自分の身体の無意識な反応を感知して、私たちはそれを観察対象人物の心と思う。これが、いわば、(拙稿の見解によれば)他人の心の存在感だといえます。

他人の心は、それを感じとる私の脳の感情機構の働きによって、私の身体を変化させる身体運動‐感覚受容の仮想運動シミュレーションとして表現される。この場合、感情機構は進化によって環境に適応しているから、感覚情報に対応して生存に適切な運動、筋肉、分泌腺、自律神経系の変化を引き起こし、それら(のフィードバック)を感知することで感情を引き起こす。たとえば、人間の笑い顔は、ふつう、安心の感情を引き起こします。

現生人類において、この人物感知機構は、自分の運動形成回路を利用して、感知した他人の運動を取り込み、その運動の、直後あるいは今後の行動を予測する巧緻な機能を持つ。

脳におけるこのシステムを、拙稿では憑依機構と呼ぶ。これは、身体運動‐感覚受容の仮想運動シミュレーションを使って、仲間の人間の動作、表情を見取り、音声を聞き取ることで、いわばその人に乗り移って、その身体を動かす意図、意志、欲望、目的を身体感覚として感じとり、その人の視点から世界を見直す脳の機能です。

たぶんこれは、大脳前頭葉をつかう人類に特有な機能であって、他の動物にはないと思われます。チンパンジーなど類人猿には、この機能の原型があるようですが、人類の能力には程遠い。

人間は、(拙稿の見解では)身体運動‐感覚受容の仮想運動シミュレーションを使って、仲間の内面に憑依することで、この世界を他人の視点から客観的にながめる拙稿第4章「世界という錯覚を共有する動物」)。逆にいえば、このような憑依機構が働くことで、この現実世界は、私たちがそう感じるというばかりでなく、実際に客観的に存在する、といえる。

私たちが感じる、物事の客観性という感覚は、ここから来ている。この仕組みで(拙稿の見解では)、私たちは、憑依を使って仲間と共感する身体感覚で感じることだけから、世界が客観的に存在することを直観で感じとっている。

私たちの脳神経系にあるこの憑依機構は、人類の社会生活において便利なため頻繁に使われた。頻繁に使われる生体器官は速く進化します。現生人類が旧人類から分岐する過程で、(拙稿の推測では)この機構が優れた現生人類は生存競争に勝って、世界中に繁殖したのでしょう。

その結果、この憑依機構はさらに進化して、不特定の人間の視点からの鳥瞰的な客観的世界観をつくるように発展する。ここまでくると、物質世界の客観性は、現生人類である私たちが感じているものと同様になる。

私たちにとってこの客観的物質世界は、仲間のだれでもが、同じ運動を加えて同じ感覚を受け取ることができる対象である、と感じられる。だれかに憑依して、そのだれかの身体を使ってこれらの物質を操作するシミュレーションをする。そのときその身体がどう感じるか、そのシミュレーションが私たちの体性感覚にもたらす仮想的な経験を感知することで(拙稿の見解では)その物質の客観的存在感がつくられる。

こうして私たちは、客観的物質世界を感知する。換言すれば、物質世界は、憑依機構をつかう運動共鳴シミュレーションによって、こうして客観的に存在する。物質を見る私たちの視点のこの客観性は、数千年前から始まった歴史時代から現代に至って、自然科学をつくりだしている。

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私はここにいる(21)

2009-04-11 | x9私はここにいる

まず、五感(ふつう視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚のことですが拙稿ではすべての感覚のこと)が受ける情報から自己中心世界を構成する。これはパターン抽出による受信データの分節化です。たとえば、赤ちゃんが、言葉を聞き取るとき、連続して聞こえてくるママの声を音素として切り分ける。音素の順列から音節を切り分ける。さらに音節の順列から単語を切り分けていきます。

さらに赤ちゃんは、音素、音節、単語、それぞれの生成法則を推定して同定し、脳の音声解析回路にインストールします。この回路は人間が発する音声を分節化して、文章に変換する働きを持っています。それで、(日本人の赤ちゃんの場合)日本語の生成法則が分かるようになる。ただし、ここまでで分かるのは言語の形式的な生成法則(シンタックスという)だけです。言語の意味(セマンティクスという)が分かるようになるには、次の段階で自他感知世界を獲得する必要があります。

単語の切り分けまでならば、現代の音声解析ソフトウェアを使えば、コンピュータでできる。同じようにカメラで撮った視覚情報から、犬と猫を見分ける、あるいは人の顔を見分ける、画像解析ソフトを作って、コンピュータにその仕事をさせることもできる。こうして、現代情報科学の最先端の水準では、なんとか、コンピュータでも、赤ちゃんがするような自己中心的世界認知ができるようになる。そうなれば、それは、自己中心世界の生成構造が構成的に示されたことになる。

ただ、こうして現代情報科学でコンピュータの中に作った自己中心世界は、(拙稿の見解では)受信情報を既存カテゴリーに分類する、いわば静的な辞書であって、実際の人間の脳にあるものとは違う。人間の脳の世界認知システムは、拙稿の見解では、辞書ではなくて、自分の身体運動と連結した動的な構成になっている。言葉にしろ、物事にしろ、人の顔にしろ、赤ちゃんがそれを認知するときは、脳の身体運動形成回路がそれらを表現している。その表現は、コンピュータソフトのする辞書的カテゴリー分類とはかなり違う。

たとえば、赤ちゃんが持っている犬のイメージは、(拙稿の見解では)コンピュータメモリーに格納されたような画像カテゴリーによる表現ではない。自分がそれになってワンワンとほえながら駆け回る身体運動と感情を伴う体性感覚と五感のダイナミックな身体運動‐感覚受容の仮想運動シミュレーションとして、犬のイメージは、赤ちゃんの脳内で表現されている。また、赤ちゃんが感じる身の回りの空間そのものの存在感は、コンピュータメモリーに格納されたような幾何学的三次元ベクトルによる表現ではなく、手を伸ばしたり、身体を移動させてそこに近づいたり、という身体運動‐感覚受容のシミュレーションによって、赤ちゃんの脳内では表現されていると思われます。

このような脳内機構の物質的エビデンスとしては、たとえば、猿の脳において、視覚認知空間と腕の回旋運動感覚との両方の刺激に反応する頭頂葉神経細胞群が同定されている、という実験報告がある(二〇〇四年 田中美智雄他『内部行為から外部空間を描出する頭頂葉内双感覚神経細胞群』既出)。

ちなみに、(拙稿の見解では)たとえば身体を移動することが距離の認知になっているなど、身体運動‐感覚受容の脳内シミュレーション機構が、私たちの空間知覚のもとになっている。ここから、この身体的空間知覚が科学の認知する空間と時間からなる物理的世界に関する脳内表現の基本的な構成要素になっている、といえる。

以下、拙稿では、私たちが感知する世界の存在は、このような身体運動‐感覚受容の仮想運動シミュレーションによる表現のネットワークとして脳内に格納されている、とします。このようなシミュレーション記憶は、身体運動に伴う体性感覚や感情活動および視覚聴覚など五感変化の記憶と連結して想起される。こうして私たちが感じとるこの世界のありさまは、(拙稿の見解では)これが現実にこうだから、というよりも、私たちの身体が世界をこう感じることでじょうずに運動を実行するようにできているから、こうなっている。

私たちに感覚と感情を感じさせる脳の機構は、人類の進化に伴って生存環境に適応していったので、私たちが感じる世界のありさまは、人類がその生存環境を生き抜くために身体を動かしていく装置として便利なように構成されている。

たとえば、転げ落ちそうな谷底を見おろすと、私たちは、身体が引き込まれる身体運動‐感覚受容の仮想運動シミュレーションを感じる。また、手がとどくところに生っている鮮やかな色の木の実を見ると、もぎ取る身体運動‐感覚受容シミュレーションを感じる。人のどなり声を聞くと、首をすくめたくなるような身体運動‐感覚受容シミュレーションを感じる。

こうして物事は感じとられ記憶され学習されて、私たちは成長してきた。このような学習によって成熟した私たちは、いつでもやすやすと、今しようとしている自分の運動の結果によって物事がどう変化するのかを予測することができる。逆に、予測できないと私たちは意識的には運動できない。

次に、このように構成された自己中心世界(現実2)の中に、自他感知世界(現実3)が生成できる。赤ちゃんは自分の感覚器に加わるママの動作による作用を感知する。そのパターンを読み取り、その法則性を自分の身体運動で表現する。たとえば、ママの視線を、自分の動眼神経の身体運動‐感覚受容の仮想運動シミュレーションとして、表現し記憶する。このような身体運動‐感覚受容シミュレーションが組み合わされてママのイメージがつくられる。経験が繰り返されることで、法則性が確定していく。経験からある程度に法則性が確定すると、身体反応としての人間という概念ができてくる。

人間の身体は、石や木と違って、私たちの感覚に鋭く響く。特に、私たちは、人間の顔の表情に敏感です。人の顔、特にこちらに向けられた視線を見ると、無意識のうちに感情が湧き起こる。人の身体運動を見ると、その人が何をしようとしているかが、すぐ分かる。こういう私たち自身の感覚、感情の動きを感じて、私たちは、それを人の心の動き、と思う。脳のこの機構は、社会生活に必要不可欠です。人類が社会生活を発展させるにつれて、他人、あるいは自分という人間の内面を推測する神経回路が適応進化してきたのでしょう。

人間を見て、その身体の中に心の存在を感知するこの神経機構は、育ちや経験に関係しない人類共通性を持つ生得的な仕組みであるようです。私たちの脳は、生れつき、人間の動作を感じると、他人の場合も、自分の場合も、その動きを引き起こしている心や意志のようなものを感じるようにできている、らしい(拙稿8章「心はなぜあるのか?」)。ここでは仮に、それを人物感知機構と呼ぶことにしましょう。

人物感知機構の働きにより、私たちは自分の近くにいる人間の動きを予想できる。視覚あるいは聴覚で人の動作を感知することから、その人間の意図、意志、欲望のようなものを、私たちは簡単に感知できます。

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私はここにいる(20)

2009-04-04 | x9私はここにいる

そうはいってみても、いろいろな種類の現実がある、という考えはどうもすっきりこない。やはり本当の現実は一つでしょう。という気がしてしまいますね。

たとえば、私たちの目の前にあるこの客観的な物質世界は本物でしょう? と聞いてみたい。

ここにリンゴがある。これがリンゴだと思うのは私が日本人だからです。中国人なら苹果だと思う。イギリス人ならアップルとか、フランス人ならポムとか思うでしょう。食べるとおいしい。だからこれは食べ物です。

しかし科学者はこれを植物だと思う。生物体です。細胞の集合体です。細胞はたんぱく質でできている。炭素、酸素、窒素、水素の化合物です。原子の集合体です。原子は電子と陽子と中性子の集合体です。しかし、そういうものは小さすぎて目にみえない。

物理学者は、このリンゴを電子と陽子と中性子の集合体と思う。化学者は、それを炭素、酸素、窒素、水素の化合物と思う。生物学者は、それをある種のゲノムが発現した表現型だと思う。分子生物学者は、酵素の立体構造が変換するエネルギーを計算する。生態学者は、森の中でリンゴが他の生物と競合共存するプロセスを定量化する。

研究が進むほど、生物学による生物の概念も変わっていく(二〇〇七年 ジェームス・エルサー、アンドリュー・ハミルトン『化学量論と新しい生物学』)。生物現象は、いまや従来の生物学の対象というばかりでなく、化学、物理学、工学、数学などが攻め込んでくる境界領域となっている(二〇〇九年 グレゴリー・リーヴス、スコット・フレイザー『工学的観点からの生物システム』)。

科学者が現実の物質の基本と思っている細胞、分子、原子、電子などから構成されている構造は小さすぎて目にみえない。私たちは、科学的知識に頼って、目にみえないそれら微細構造があると思っているだけです。知識が現実をつくっている、といえる。正しい知識ならば正しい現実を感じとれる。しかし正しくない知識ならば、それにもとづいて感じとられる現実も正しくないでしょう。それでは科学者が持っている科学的知識は正しいのか? それは、つきつめれば、だれも証明できない。それは一種の理論にすぎない、といえば、そのとおりです。しかし科学の理論は、経験上、圧倒的なたしからしさで正しい。実際上、正しい、と言い切ってしまって困ることはありません。

そういうことで、科学が描くような物質世界はいかにも現実らしい、といってよい。しかし、現実はこれ以外にない、というとおかしくなる。

たしかに現実は一つしかない、という感覚が私たちの身体には備わっている。私の身体は一つしかないから、現実が一つしかないと感じるのは当然です。

私の身体が動くときに運動の予測に使われる周辺世界が現実ですから、それはそれ一つしかない。そうでないと困る。目の前の床は硬いように見えるが、実は、ぼろぼろになっていて踏み抜いてしまうかもしれない、ということになったら、家の中をうっかり歩き回ることもできません。硬いのも現実、ぼろぼろも現実、と感じられる場合、とても困る。現実はどちらか一つにしてくれないと、一歩も踏み出せない。

うまいことに、私たちの身体は、現実を一つしかないと感じる。それで、私たちは身体を動かせる。逆にいえば(拙稿の見解では)、私たちが身体を動かすときにつかう現実だけが現実と感じられる。

この身体感覚としての現実感、これだけが、現実は一つしかないということの根拠です。現実は一つしかない、と私たちが感じるということは事実です。けれどもそれだけを根拠に、この現実だけが本物だ、ということはできない。

たとえば、現実1と2と3は、場合によって、どれも現実と感じられる。ある瞬間に感じられる現実は一つだが、数秒後には、べつの現実が本物だ、と感じたりします(たとえばネッカーキューブ、既出)。直観ではそのときそのとき、現実がその一つしかない。しかし論理的にはいくつもの現実があるというのはおかしい。そのうちの一つだけが現実だ、という根拠はない。どれがニセモノだということもできない。ここに、私たちの直感と論理との矛盾がある。

先に述べたように、この問題に関して拙稿の見解では、現実2(自己中心的世界)の中に現実3(自他感知世界)現実1(客観的物質世界)を埋め込むことができる。逆にいえば、この埋め込みができるから、私たちはいわゆる五感をつかうだけで自己中心的世界はもちろん、客観的物質世界も、自他感知世界における社会関係も人の心も感知することができる。拙稿のこの仮説によれば、人間の現実感は、現実2の上に現実3が発展し、さらにその上に現実1が発展するという階層構造になっている。

ここでは、現実のこの階層構造を人類の進化過程にそった順序で下から構成してみましょう。動物の行動や脳の機能は化石として残らないので、数百万年にわたる人類の現実感の進化を実証的に調べることは、残念ながら不可能です。しかたがないので、ここでは赤ちゃんが成長する過程を観察することで、人類進化を類推する方法を使ってみたいと思います。「個体発生は系統発生をくりかえす」という言葉がありますが、大体そうであることが多い。そうでない場合も(確率は低いが)たまにはありますが、ここでの話題に関しては、(そうでない場合は、まずどうしようもありませんので)そうであるとして進めてみましょう。

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