哲学の科学

science of philosophy

日本という国民国家(4)

2025-02-01 | その他


学生運動が盛り上がった一九七〇年代、ボクシング漫画の最終場面で、真っ白く燃え尽きる主人公、明日のジョー(1970-1973 高森朝雄/ ちばてつや)の伝説的画像は現在のインターネットにもよく登場します。日本経済のピークが終わろうとしていました。闘争の果ての死のイメージは終わりの暗示として当時の漫画のシーンによく出ています。
地球侵略軍マゾーンの女性型の指揮官ヌレームは捕虜尋問に引き出されると即時に自爆します(一九七七年 松本零士「宇宙海賊キャプテンハーロック」)。二度目の敗戦といわれた日本経済のその後の凋落を予言するような漫画が当時すでに読まれていた、といえます。
日本は外国からどう思われているか?日本人は毎日コスプレをしている、と思われている、という答えもかなり正解です。
日本人は、毎日、刀を磨いている、とか、毎日寿司を食べている、というのも正解。アメリカ人は、みんな、弱いやつを殴り倒す、という答えが正解であるのと同じくらい、正解でしょう。
どうせそんなものですから、外国にどう見えるかなど、気にする必要はありませんが、日本人論は日本で特に熱心に語られます(拙稿78章「日本人論の理論の理論」)。
日本の社会福祉は世界一、という人もいる。日本人はそう言いませんが。平均寿命を見れば、そうも言えます。
日本はめずらしく大成功した社会主義国である、とも、いう人もいます。これも、多くの日本人はそう思っていませんが。そういえば、最近の記事では、社会民主主義的に成功したはずの北欧諸国が、移民問題で困っているという話も漏れてきます。日本としても無関心ではいられない。社会福祉は正義なのか?民主主義は正義なのか?
教育は正義であるべきなのか?右翼左翼問題が嫌いでよいのか?政治家やマスコミは良い人であれば良いのか?二十世紀は、勝てば官軍とか、弱者擁護とかモラルがあったらしいが、この世紀ではよく分からない、という人も多くなっています。
『星の王子さま』(Le Petit Prince 一九四三年)は、アントワーヌ・ド・サンテグジュペリの小説です。
人生の職を探している王子は、四番目の星でビジネスマンに会います。La quatrième planète celle du businessman. Cet homme était si occupé qu'il ne leva même pas la tête à l'arrivée du petit prince.ビジネスマンは忙しすぎて、王子が来ても頭を上げられませんでした。アメリカと同じで、日本でもビジネスマンが一番偉いことになっています。それでこそ先進国です。
日本という国民国家は、吉田松陰以来、日常を超えて、戦争を作り、生活を作っていった時代がありましたが、二百年を経て、また日常の中に薄れていくでしょう。それから世界はどうなっていくのでしょうか?戦争は歴史上の記述だけになってしまうのでしょうか?■










(103  日本という国民国家  end)





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日本という国民国家(3)

2025-01-26 | その他


一九六二年五月一二日、堀江謙一(一九三八年― )は単身で全長5.83mの小型ヨット(マーメイド号)を操船して兵庫県西宮を出港し、太平洋を横断航行して、同年八月一二日、アメリカのサンフランシスコに入港しました。航海日数は九四日でした(一九六二年 堀江健一「太平洋ひとりぼっち」、拙稿93章「ギャップダイナミクス」)。
当初、大阪入管事務所による「小型ヨットは当然ビザが必要になる」との違法性嫌疑が主なマスコミ報道でした。その後、サンフランシスコ市長が名誉市民として受け入れたとのニュースが報じられると、マスコミは一転して快挙を称えました。
一九七〇年二月一一日、鹿児島県之浦町の東京大学宇宙空間観測所からラムダ4S型ロケットが打ち上げられました。失敗を乗り越えて五度目の打ち上げは成功し、無事人工衛星を軌道に乗せました。日本はソ連、米国、フランスにつぎ、世界で四番目に人工衛星を誕生させた国となりました(拙稿93章「ギャップダイナミクス」)。
大隅半島内之浦の発射場には人工衛星「おおすみ」の記念碑が立っていますが、その隣にプロジェクトの推進者糸川英夫(一九一二年ー一九九九年)の像があります。
糸川教授は当時世間的に全く少数派の宇宙愛好家とマスコミを相手に「ロケットニュース(一九六二―)」を発行していました。筆者がその編集係をさせられていたころは、低調な月刊誌で新聞の宇宙関連記事をスクラップして一枚紙の裏表に印刷してリストに郵送するだけの細く長いミニコミでした。
小惑星表土を世界初で回収した探査機「はやぶさ」が着陸した小惑星の名は「ITOKAWAイトカワ」と命名されました(2003年)。
一九七〇年二月、内之浦から打ち上げられた日本最初の人工衛星が長楕円形の初軌道を回っているころ、筆者は通信衛星用大型ロケットを開発する宇宙開発事業団(NASDAのちJAXA)の初代社員として開発計画を作らされていました。麻布台にあった本社企画課の隣室は役員室で、理事長の留守にソファーで居眠りをしていて叱られました。理事長は、新幹線を開発した島英雄氏でした。大柄の老人で、日本最高の技術者として貫禄のある人でした。新幹線は美しさでも姫路城と並ぶ日本の技術遺産でしょう。
占領軍改革の成功と朝鮮戦争特需に支えられて急成長した戦後日本経済は一九七〇年代には世界最高(一九七九年 エズラ・ボーゲル「Japan as Number One: Lessons for America」)と称賛されますが、この時期、国内でも日本人論は最高潮に盛り上がります。
この時代、若輩だった筆者はNASAやヨーロッパ宇宙機関での会議で、生意気にも世界戦略などを語ったりしていましたが、欧米人たちが殊勝に聞いてくれているのでかえって心配になった覚えがあります(その当時、パリやヒューストンで集まった非公式国際委員会「International Lunar Exploration Working Group:筆者やNASA有志などが提唱」が半世紀を経て、アルテミス計画の種火になりました)。
日本人は忍耐強い、計画的である、用意周到に実行する、不言実行である、などなどと褒めながら、彼らも半分は本気でそう信じていたようです(拙稿78章「日本人論の理論の理論」)。
日本国家論で語り始めた本章は、結局、現代に近づくほど、日本人論になってしまいそうです。吉田松陰からはじめて、深く掘っていこうとすると、明治維新以降の話だけではとても見極められない。この国民の根っこがどこまで続いているのか。GHQが教育委員会を利用して切った、とかいう人もいますが、全然切れていません。
たとえば、小学校の校庭にある二宮金次郎を捨てる。捨てても、小田原駅構内に移設されています。小学生の夢は金次郎であるべきなのか?この人(二宮 尊徳 一七八七年―一八五六年)は勤勉努力の結果、江戸時代の農村に組合(の原型)を作り銀行(の原型)を作り会社(の原型)を作って江戸時代農村の経済を活性化しました。日本資本主義の祖父(父は渋沢栄一)と呼ばれています(拙稿89章「資本主義の夢」)。この人の根っこがまた、この国民なのではないでしょうか?





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日本という国民国家(2)

2025-01-18 | その他


一九四九年八月、米国、ロサンゼルスで全米水泳選手権が開催されました。古橋、橋爪、浜口ら、日本選手が表彰台を独占しました。古橋広之進は自由形三種目で優勝し、新聞に the flying fish of Fujuyamaと書かれました。
古橋らは、渡航ビザをもらうために、占領軍GHQへ行ったところ、マッカーサーに会ったそうです。「GHQに行ったら、突然、マッカーサーに呼ばれたんだ。何事かと思って部屋に行くと、にこにこ笑って『米国をやっつけてこい。負けたら、帰りのビザは知らんよ』っていうんだ。連合軍総司令官に背中を押されたんで、こりゃ負けられないと思ったよ(古橋回顧録)」。
当時は旧敵国としてジャップと言われる、唾を吐きかけられる、ホテルへの宿泊を拒否されるなどした選手達を日系事業家フレッド・イサム・ワダが自宅に宿泊させ、食事を提供した。選手たちは白い飯を喜んだという。そして古橋広之進が世界記録で一位、橋爪四郎が二位の成績を収めると、ジャパニーズ イズ グレートとアメリカ人に評価され、日系人の入店拒否が無くなる等の地位向上にも貢献した(2013年 NHK「オリンピック招致にかけた男たち」)。
一九四九年、物理学者湯川秀樹がノーベル賞を受賞しました。日本人初、アジア人としては三番目(インド人の詩人タゴール、ラマン効果の発見者ラマンに次ぐ)でした。湯川の原子核理論は、アインシュタインの相対性理論とともに現代物理学の基盤を開拓しました。日本人にとっては、敗戦からの再起を促す動機となりました。科学アカデミズムの発展、政府の科学技術振興策、産業界の研究開発志向など、現代日本の科学技術は、このノーベル賞受賞を発端として展開した、といえます。
ちなみに、湯川の回想記によると、生地は、筆者が今住んでいる東京六本木市兵衛町とあり、一歳時に父親が京都大学教授になって京都市に転居した後、ずっと京都人として生きた、とあります(一九六〇年 湯川秀樹 「旅人 ある物理学者の回想」)。古都京都のプライドを作っています。





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日本という国民国家(1)

2025-01-11 | その他


(103  日本という国民国家  begin)








103  日本という国民国家

明日の夜は家族でテレビを見るでしょう。
紅白歌合戦は、日本の国民イベントです。日本といえば世界に冠たる国民国家、と(日本人には)思われています。
この国民と国民国家は、十九世紀の中ごろ、明治維新によって生まれました。
吉田松陰が、松下村塾で講義した過激な国家論が、日本国家の起源、といえます。
国は発展しなければ衰退する。幕府の鎖国主義は誤りである。成長なければ縮小あるのみである。蝦夷からカムチャッカに侵攻し朝鮮と満州を取り、台湾、フィリピンに進んで内外に進取の勢いを示し、ともに栄え、その住民をいつくしみ社会人を育成してこそ善く国を保つことができる。(一八五四年 吉田松陰「幽囚録」)

松陰門下の伊藤博文と山形有朋はこの道を忠実に進んで、明治維新を達成し、五十年後、ついに日本を世界列強(一九一九年ベルサイユ条約五列強:英仏伊米日)に押し上げました。松陰の夢は、その後も実現に向けてまい進し、昭和の帝国主義日本は、大東亜共栄圏と称する西太平洋全域から朝鮮、満州、東南アジア、シンガポール、ミャンマーに広がる赤く塗られた最大版図を達成し、ヨーロッパとは反対側に、東京を中心とする大球冠を削り取りました。
一転、一九四五年、大日本帝国は崩壊し、連合国軍占領下の復興、非武装独立をはたした戦後日本は、米ソ冷戦下の経済成長に成功し、進取の勢いを示して、再び先進国の仲間入りを実現しました。敗戦でいったんは否定された明治体制ですが、その土台である松陰の国際展開主義は戦後経済の原動力となって復活を果たし、明治以来の政府の業界指導、国民の勤勉、教育制度の充実などと相まって、昭和日本の経済大繁栄を招来しました。
ソ連崩壊後の国際緊張緩和の中、日本社会はまた一転して平和享受にまい進し、安定守勢を非とする松陰の戒めに逆らい、縮小鎖国を是とする江戸期の保守思想に回帰して三十年、少子高齢化に苦しみ経済不振に落ち込んでいます。
赤い靴 はいてた 女の子、異人さんにつれられて 行っちゃった、とうたわれる大正期の童謡 赤い靴(一九二二年 野口雨情 作詞)。青い目の異人さんは、アメリカ人の宣教師、とされています。古今の童謡で人気三位(一位は、赤とんぼ)。大正期の作品ですが、一九七〇年代以降、各地に銅像が作られています。紳士的な欧米人に保護される幼い日本人のイメージが鮮烈です。
筆者が持っているガラクタ骨董品の皿の裏面に、メイドインOJ(made in occupied Japan)の銘があるものがあります。 進駐軍時代、輸出品にはこの刻印が必要でした。第二次世界大戦敗戦後、日本を占領した進駐軍は、巨大な足跡をこの国に残しました。一九五二年、占領体制が解散し、進駐軍が去ってから七十年、原爆、大空襲の記憶は消えていません。しかし不思議なことに、目に見えるものは、かなり早い時期に消えています。
現在の代々木公園の前身、ワシントンハイツは 進駐軍の将校用宿舎でした。進駐軍撤収後は、日米安保条約に基づく無期限使用施設として治外法権を保ちました。ハイツが解体撤収されたのは一九六一年で、東京オリンピックの選手村になりました。オリンピック後、現在の代々木公園となっています。
進駐軍の足跡のうちで、現代にまでこの国に巨大な形で残っているものには、憲法があります。一九四六年二月一三日、進駐軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの承認を経て、「マッカーサー草案」(GHQ草案)が日本政府に提示されました。 
    (英語原文constitution of japan前文)
we, the japanese people, acting through our duly elected representatives in the national diet, determined that we shall secure for ourselves and our posterity the fruits of peaceful cooperation with all nations and the blessings of liberty throughout this land, and resolved that never again shall we be visited with the horrors of war through the action of government, do proclaim the sovereignty of the people's will and do ordain and establish this constitution, founded upon the universal principle that government is a sacred trust the authority for which is derived from the people, the powers of which are exercised by the representatives of the people, and the benefits of which are enjoyed by the people; and we reject and revoke all constitutions, ordinances, laws and rescripts in conflict herewith.
desiring peace for all time and fully conscious of the high ideals controlling human relationship now stirring mankind, we have determined to rely for our security and survival upon the justice and good faith of the peace-loving peoples of the world. we desire to occupy an honored place in an international society designed and dedicated to the preservation of peace, and the banishment of tyranny and slavery, oppression and intolerance, for all time from the earth. we recognize and acknowledge that all peoples have the right to live in peace, free from fear and want.
we hold that no people is responsible to itself alone, but that laws of political morality are universal; and that obedience to such laws is incumbent upon all peoples who would sustain their own sovereignty and justify their sovereign relationship with other peoples.
to these high principles and purposes we, the japanese people, pledge our national honor, determined will and full resources.
(外務省仮訳 [一九四六年二月二六日臨時閣議で配布])
我等日本国人民ハ、国民議会ニ於ケル正当ニ選挙セラレタル我等ノ代表者ヲ通シテ行動シ、我等自身及我等ノ子孫ノ為ニ諸国民トノ平和的協力及此ノ国全土ニ及ブ自由ノ祝福ノ成果ヲ確保スヘク決心シ、且政府ノ行為ニ依リ再ヒ戦争ノ恐威ニ訪レラレサルヘク決意シ、茲ニ人民ノ意思ノ主権ヲ宣言シ、国政ハ其ノ権能ハ人民ヨリ承ケ其ノ権力ハ人民ノ代表者ニ依リ行使セラレ而シテ其ノ利益ハ人民ニ依リ享有セラルル神聖ナル信託ナリトノ普遍的原則ノ上ニ立ツ所ノ此ノ憲法ヲ制定確立ス、而シテ我等ハ此ノ憲法ト抵触スル一切ノ憲法、命令、法律及詔勅ヲ排斥及廃止ス
我等ハ永世ニ亘リ平和ヲ希求シ且今ヤ人類ヲ揺リ動カシツツアル人間関係支配ノ高貴ナル理念ヲ満全ニ自覚シテ、我等ノ安全及生存ヲ維持スル為世界ノ平和愛好諸国民ノ正義ト信義トニ信倚センコトニ意ヲ固メタリ、我等ハ平和ノ維持並ニ横暴、奴隷、圧制及無慈悲ヲ永遠ニ地上ヨリ追放スルコトヲ主義方針トスル国際社会内ニ名誉ノ地位ヲ占メンコトヲ欲求ス、我等ハ万国民等シク恐怖ト欠乏ニ虐ケラルル憂ナク平和ノ裏ニ生存スル権利ヲ有スルコトヲ承認シ且之ヲ表白ス
我等ハ如何ナル国民モ単ニ自己ニ対シテノミ責任ヲ有スルニアラスシテ政治道徳ノ法則ハ普遍的ナリト信ス、而シテ斯ノ如キ法則ヲ遵奉スルコトハ自己ノ主権ヲ維持シ他国民トノ主権ニ基ク関係ヲ正義付ケントスル諸国民ノ義務ナリト信ス
我等日本国人民ハ此等ノ尊貴ナル主義及目的ヲ我等ノ国民的名誉、決意及総力ニ懸ケテ誓フモノナリ

   

いつも弁当を買いに行くファミリーマートがある六本木麻布台ビルの玄関わきに、「日本国憲法草案審議の地」という石碑があります。当時、外務大臣官邸だったこの地で、外務大臣吉田茂は、進駐軍民政局長ホイットニー准将から、マッカーサー草案を手渡されました。突然の文面だったそうです。上空には米軍機が飛んでいたという記録があります。マッカーサーのいた米国大使館は歩いて五分くらいの距離です。
この時代、一般国民は食うや食わずで、憲法議論などに関心はなかったようです。しかも占領軍のジープは走り回り、大型ヘリコプターが飛び交っている。戦犯処刑を恐れている議員、政府高官や、戦時中嘘を書いていた新聞は、今何を考えているのか怪しい。おおかたの人々は占領軍のいうことを聞くしかない、と思っていたでしょう。
その後、不思議なことに、今日まで七十数年間、日本人はこの憲法を改正せず、守り続けています。地下のマッカーサーもびっくりでしょう。利用されたのは、日本国人民か、マッカーサーか?






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車輪の世界制覇(5)

2025-01-04 | その他


今、私たちが見ている現代文明は、未来の歴史家の記述では、スマートフォン、あるいはコロナワクチンによって支えられている、と書かれるでしょう。過去三千年の古代、中世と呼ばれている文明は、車輪あるいは農業牧畜によって支えられていた、と書くこともできます。
過去の歴史は、それが記述される頃には、現在状況ではなくなっているので、日常的な退屈なインフラストラクチュアになっています。忙しい現代人の目には映らなくなります。それが現在的存在を作っていて未来がそこから芽生えていくことを、今現在言ってみても、理論でしかなく、空想でしかありません。■








(102  車輪の世界制覇  end)





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車輪の世界制覇(4)

2024-12-28 | その他

車輪は天体の運行を表現する、という見方からは、科学の起源、といえます。同時に機械技術の原点ともいえます。現代文明が科学と機械の実用化を基礎としているとみれば、車輪はその物理的な実体、と言えます。
家の洗濯機が故障しました。数年以上、毎日使っていたので回転部分が摩耗したようです。ベアリングの摩耗は回転機械の寿命です。部品を交換するか、全体を買い替えるかしないと、使用を続けられません。劣化の概念は車輪の利用から発生した、と思われます。
電動モーターの概念からは電磁誘電の科学が生まれ、電波通信の発明によって、今日の通信機械が大発展します。電波技術を発展させて、前世紀に発明された光通信技術は今世紀に入って完全に社会インフラになっています。
これらの基盤技術の基本概念は、車輪の回転運動の数学的表現(微積分)を基礎としています。
回転運動の概念は、スピンと波動の概念を生み出し、物理学の基礎を作りました。
車輪は、実用価値が他の道具に比べて飛躍的に高いがゆえに、短期間で世界に普及しました。近代には産業革命を導き、エネルギー変換技術と融合して、さらにその実用価値を高め現代文明必須のインフラを構成しています。
過去の文明になかった現代文明の特徴は、基礎科学の研究と応用が各国の競争と協力によって新産業を生み出し、経済と生活を向上させるという図式が、世界にいきわたっていることです。







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車輪の世界制覇(3)

2024-12-21 | その他

蒸気機関車と蒸気船の出現は、輸送と交通の大革命でした。19世紀の世界は、これらのエンジンの普及によって景色がまったく変わりました。車輪の世界制覇は新しい段階に達しました。


蒸気機関の実用化が普及するとすぐ続いて、石油を使う内燃エンジンが実用化され、自動車が出現しました。試作機の段階まで達したものは一九世紀から出現しましたが、数十年の開発競争の結果、ダイムラーなどが実用の自動車のシステムを確立し大量生産の時代がはじまりました。二〇世紀は、鉄道と自動車が現代文明の基盤を作っていきます。車輪の要素としての鉄道のレールと自動車のゴムタイヤが進化の極限に達したことは、これらの基本形が二一世紀になっても変わらないことからも、見てとれます。

エンジンの普及とほぼ並行して、発電機と電動モーターの実用化が産業と生活に波及し、二十世紀の電化時代が到来します。地下鉄から新幹線に至る電動車輪の全盛期の最後には、今世紀に至り、電気自動車の普及が車輪による世界制覇の最終形態となりそうな勢いです。

人間の活動というものが自身の身体あるいは貨物を移動させることであれば、荷重を移動させる機能は結局、車輪によって行われます。陸上ばかりでなく、船舶による海上の移動、あるいは航空機による空中の移動もまた、プロペラやタービンの回転を使う。肉体の両足では実用にかないません。生物は回転できない。車輪は人類文明の必然であった、と言えます。

車輪は両足歩行と同じように、前方へ進行する機構です。交互に左右の足を出して進行、という機構原理を車輪へのアナロジーと見立てることができます。丸い車輪の上部と下部が百八十度回転によって交代することと、右足が左足の前に来ることとを、位相の交代とみることができます。この機構原理を、現代では、コンピューターのビット記憶素子に使い、計算の進行ステップとして利用しています。

左右両足の交互運動をフリップフロップの回転とみなす見方は車輪の回転として現実化しました。さらに回転という構造概念は、古代の人々の思想の基礎的な要素となり、昼夜、夏至と冬至、天体の回転を観察することにより、歴史の変遷や輪廻の概念を生んだと思われます。

車輪は天体の運行を表現する、という見方からは、科学の起源、といえます。同時に機械技術の原点ともいえます。現代文明が科学と機械の実用化を基礎としているとみれば、車輪はその物理的な実体、と言えます。






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車輪の世界制覇(2)

2024-12-15 | その他

ロバ、牛、馬など輓曳動物の利用も、徐々に普及したと思われます。動物の飼育と馴致には、また専門的な技術集団の維持を必要としますから、需要が大きくないところには発展しません。

馬にひかせる車輪が飛躍的に大きな需要を持つようになる時代が三千三百年前の小アジアに出現します。この地で大勢力となるヒッタイト文明は、鉄の品質の高度化と量産化の技術を開発し、馬にひかせる二輪の戦車、チャリオットの車軸軸受けに適用し、これを高性能兵器として開発しました。
ヒッタイト帝国は、製鉄製鋼技術を国家機密として秘匿しましたが、徐々に漏洩して周辺諸国に伝搬しました。槍や弓矢と同時に、チャリオットの軸受けなど鋼鉄製の機械部品が各地で製造できるようになるまでに百年単位の時間がかかりました。数百年後にはインドや中国にも鋼鉄製武器とチャリオットが出現しています。
当初、高価な兵器であった車輪は、数百年を経て、材料と工程が低コスト化し、荷車など日常的実用品として普及します。ユーラシア大陸の東西端に達した後、日本列島にも上陸したようですが、鉄器時代以前の考古学遺物としては顕著ではありません。
車輪と武具の発展に伴って、鍛治、金属加工の技術が発展、普及すると、次の時代には馬具が発達します。轡、鐙の発明普及と乗馬技術が騎兵戦術を発展させ、戦争の形態を変えていきます。甲冑を装備する重装歩兵の時代に続いて、騎兵の時代が到来します。これらの武器の製造技術は、またユーラシア大陸の東西に波及し、車輪製造は戦略的技術の地位を失っていきます。
車輪の構造概念は、人や貨物の運搬の基盤技術として、世界的に軍事、民事、生活一般を支えていました。運搬のほかに、碾き臼、轆轤、水車、風車、滑車として、生産技術の基盤となり、中世から近代の文明の底流を作っていきます。
一方、構造としては、車軸、軸受け、ベアリング、スポーク、接地材料などは、用途別にそれぞれ完成形に達し、数百年にわたり機能はあまり進化してきません。
重力荷重を支え、回転して前進する機構としての車輪は、発明されると同時に材料と構造に種々の改良がなされ、かなり早く実用に達しました。おそらく初期の文明の黎明期に発明され、実用化されたといえます。その後、急速に、ユーラシア大陸の東西に普及します。
古代初期、つまり文明の黎明期に生まれた重要技術;車輪、鉄製武器、陶器、高温加熱炉、機織り、大規模建築、などは数百年で世界に拡散し、その後、世界各地で各種の改良はなされつつも、飛躍的な進化はなく、中世にわたって同様技術が使用され続けます。これら基礎技術が革新的な進化を遂げるのは、産業革命期以降です。

 
一七六九年、イングランド北部の町の床屋であったリチャード・アークライトは、水力紡績機を発明して特許を取得。工場を設立し拡大して、事業化に成功しました。
アークライトの発明は時計職人ジョン・ケイと組んで成功したとのことですので、歯車やプーリーを組み合わせたからくり仕掛けを試作していたのでしょう。デウス・エクス・マキナ (deus ex machina)機械仕掛けの神、という存在が信じられる時代背景があった、と思われます。
水力紡績機により衣料の大量生産が可能となった繊維産業は、英国の主力な輸出産業となりました。現代世界中に展開するアパレル産業の原型です。水力を動力源としていましたが、蒸気機関の発明を取り入れると、立地や労働力供給の制約から離れて、大産業化しました。
一七一二年、鉱山技術者トーマス・ニューコメンはピストン・シリンダー式の蒸気機関を開発し炭鉱の揚水機を実用化しました。その後数十年間、炭鉱以外の実用用途には使われていませんでした。一七七五年ころからニューコメンの機関の改良を進めていた機械技師ジェームス・ワットは、一七九〇年ころ、高効率の蒸気機関の開発に成功し実用の蒸気機関を量産化しました。
ワットの蒸気機関は小型軽量で大出力が可能でしたので、炭鉱の揚水ばかりでなく紡績機や機織機の動力に採用され、英国を中心に各国の工場で動力源として応用されました。特に蒸気機関車と蒸気船の発明を引き起こしました。これらの発明の普及による産業の大発展が、のちに産業革命と呼ばれるようになります。







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車輪の世界制覇(1)

2024-12-07 | その他


(102  車輪の世界制覇  begin)




102  車輪の世界制覇

電動キックボードというものが街角の未来風景になっています。渋滞の脇をすっと抜いていく。なんだ、あれは?
あのキックボードというおもちゃは、筆者が子供のころ、つまり七十年前ですが、みんな乗っていました。スケートとか、言っていました。歩道もない悪舗装の道を子供が突っ走ていて、よほど危険でしたね。
車輪がついたものを、子どもや、幼稚な人が、運転すれば危険に見えるものです。
車輪がついた乗り物に、子どもは乗りたがる。三輪車、キックボード。
車輪は、人類文明初期の大発明といえます。六千年前にイラクのあたりで都市を作り始めたシュメール人が使い始めたらしい、とされています。
車輪を発明する前段階があったはずですが、それらしいものの考古学サンプルは発掘されていないようです。四輪車や二輪車の発掘物あるいは描画などの形でしか発掘されないでしょう。コロから車輪に移る前段階は、車軸がない運搬方法が使われたはずですが、それがどのようなものだったかのエビデンスは得られていません。
コロから車輪への進化の中間段階は、ミッシングリンクです。突然、飛躍的に、車輪が発明された、と思うしかありません。
中間段階は、なぜ、発掘品になっていないのか?なぜ、描画やおもちゃとして、残っていないのか?
その制作物は、まず数が僅少であった、と推測できます。それは実用性がなかったからでしょう。
実用性がないから模倣する人も少ない。素材も、たぶん木製や粘土製で崩壊腐敗消滅する。
印象も弱いので、描画も遺跡に残らないでしょう。
考古学的遺物としての車輪のエビデンスは、たぶん上述の理由で、古いものは発見されていませんが、憶測すれば、六千年くらい前から存在していたようです。遺跡や遺物として数千年残るためには、金属製あるいは骨製、石造である必要がありますが、初期の車輪は製作が容易で軽い木製で用を足した時代が長く続いたと考えられます。
木製の車輪は、木工製品としては最も高度な技術を必要とします。高速で回転する機構は、現代でも高精度の工作技術を要するタービンやベアリングですが、同様に木工でも高度な計測、切削、研磨の技術を必要とします。木製の車輪は、木工製品としては最も高度な技術を必要とします。高速で回転する機構は、現代でも高精度の工作技術を要するタービンやベアリングがそうですが、これらの製品は、木工でも同様に、高度な計測、切削、研磨の技術を必要とします。この技術を持った職人は、専門職として、大規模の都市国家に基盤を持つマニュファクチュア組織に組み込まれていたはずです。古代には、シュメール文化など最先端の文明の中にのみ、このような技術は存在したでしょう。
当時、最先端の技術を要求する需要は、宗教上の権威の象徴、あるいは王権の示威をもたらすものだったかもしれません。僅少であるが故の貴重性です。華麗な装飾の類です。それが徐々に貴族層に所有され、街路を練り歩く。祭事の山車、あるいは牛車、あるいは戦場の指揮車。
実物の遺物は残りませんが、描画、文献にその存在の叙述が残るでしょう。






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二足歩行術(5)

2024-11-30 | その他



スフィンクスによれば、人間は昼、二本足で歩く。逆に言えば、二本足で歩く間が昼間である。沈む太陽を、少しでも呼び戻せられれば、幸せと感じられるでしょう。■








(101  二足歩行術  end)





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