芥川龍之介『或阿呆の一生(一九二七年 )』を読んでみましょう。第三人称で書かれた小説の形式になっていますが、作家の主観のように読める。「彼は軽蔑した」というような文章表現は、第三人称を使って読者を作家に乗り移らせようという作家の小説的技巧でしょう。読者は作家の内面に引き込まれる。作家が書きながらそのとき感じていた感覚を、読者は読みながら今感じる、ように感じる。あるいは、作家が読者の内面に乗り移って来ている、ともいえる。
こういう小説のテクニックは、芥川龍之介が発明したものではないでしょう。小説、あるいは物語というものは、優れているものであればたいてい、このテクニックの上に作られている。紫式部も使っていた。この小説テクニックは、人間がもともと持っている乗り移り機構、拙稿の用語でいう憑依、という機構を利用している。
第三者の人生が、第三人称を使って語られているのに、聞き手はいつのまにか、自分のことのように感じとってしまう。まず、語り手が自分のことのように語っていると感じられる。語り手も聞き手もそこにいる皆が、そこで語られている第三者の物語を、自分の人生として感じとることができる。そうして物語は成り立ち、それが現代の小説になっている。
物語の聞き手は分かる。小説の読者も分かる。語られている人生が分かる。そこに描写されている人生を生きている人々の気持ちは、自分の気持ちだと感じられます。だれにも分かってもらえないはずの、自分の、秘密の、内面の深いところにあるそれが、ここに語られているのだ、と感じられます。ああ、自分にもこういう感情があったのだ、と読者は気づき、その気づきを楽しむ。そうして、優れた小説は読者を引き込んでいく。小説の愛読者というものは、こうして生まれる。
これは、私たちの脳の憑依機構(筆者の造語です。すみません)の働きです。拙稿のいう人生保持機構は、この憑依機構を利用して作られている。憑依機構の神経回路を(サブルーティンとして)働かすことによって人生保持機構は働く。(拙稿の見解では)、小説や物語やドラマは、読者の脳内にある人生保持機構の一部分を稼動させることで、それと連動する憑依機構を効果的に活動させ、小説(あるいは物語、ドラマ)の内容を読者に疑似体験させるような仕組みになっています。
優れた小説(あるいは物語、ドラマや映画やマンガ、あるいは詩歌や演歌)は、読者に乗り移って読者の人生保持機構を最大限利用するこのテクニックを使いこなしている。読者は小説の主人公になりきって楽しむことができる。主人公に憑依し、その内面に入り込んでその喜怒哀楽を自分の身体の反応として感じとる。主人公が悲しいとき、読者は涙を流す。読者は涙を流すときにつんとくる涙腺平滑筋の緊張と弛緩の感覚を身体で感じて楽しむ。鼻につんと来るわさびの味を楽しむときに似ています。熱心な読者は、手に汗を握り、眉をしかめ顔を赤くして楽しむ。
童話を読んでもらう幼児の場合、手足をばたばたさせたり、床を転げまわったりして、全身で主人公の気持ちを味わって楽しみます(二〇〇六年 ピーター・カルーサーズ『なぜ、ごっこするのか?』)。小説や物語やドラマは、読者、観客の身体を揺り動かして(自律神経に働いて身体感覚を引き起こすことで)快感をあたえるような作用を持っています。音楽やスポーツにも似ている。このことが、世の中に小説や物語やドラマというものが存在している本当の理由でしょう。
このことから推測すれば、逆に(拙稿の見解では)、私たちはもともと、他人の人生であろうとも自分の人生あろうとも、いずれもそれが第三人称を使って語られる一遍の小説やドラマであるかのように客観的にみなすことができることを示している。
あるいはむしろ、逆が真ではないか?つまり、私たちが自分の人生を感じとる場合、私たちは、それをあたかも小説を読んだりドラマを観劇したりするときと同じように感じとっているのではないか? 私たちの身体が備えているこの働きが(拙稿の見解では)、人生という概念を作りだし、同時に人生保持機構を支えている、といえます。
それでは、拙稿がここで私たちの身体におけるその存在を提唱しているこの人生保持機構なる仕組みは、いかなる構造になっているのか? それを考えてみましょう。
人生保持機構はまず、自分も含めた個々の人間にそれぞれの人生があることを認める働きがある。
現代の脳神経科学は、人間の高度に複雑な精神的活動を、脳内の物質構造として詳細に解明する方法を持っていません。どの神経細胞がどう変化して人生を感じ取っているのか? それが分かるのは、たぶん早くても今から数十年先、分子レベルで活動する神経細胞のネットワークを観察する夢のような測定装置が発明されるのを待つしかないでしょう。しかし、脳神経系の物質構造として同定できていなくても、人生保持機構の機能は明らかです。それは次のような働きから成り立っている。
まず、個々の人間を識別してその過去の行動を記録していく働きが必要です。個々人の行動記録ですね。
たとえば、私たちは知っている人を見ると、「ああ、そこにいるのはあの人だ」と分かる。つまりA君をA君であると識別します。次に、その知人の人生について思い出すことができる。たとえばA君に関しては、一八九二年三月一日に東京都京橋区で生まれ、一九二七年七月二十四日に、多量の睡眠薬を飲んで自殺したが、その間、一九二〇年に長男を、一九二二年に次男を、一九二五年に三男を、その前後に多くの小説作品を、生んだ、という事実を対応させる。これが、最短の記述ではありますが、A君の人生である、と言えるでしょう。
A君という個人を識別した上で、こういう記録を対応させる。あるいはさらに、「A君は現代の芥川賞受賞作家に対するそれを上回るほどの社会的賞賛を得た」というような評価結果を付け加えることもできる。特に、社会的評価をしっかり付記すると、人生の記録らしくなります。A君という人は多くの尊敬を集めて、その意味で成功した人生を送った人だったのだな、と分かる。
この社会的評価という要素は人生において重要です。その個人が社会との関係でどうであるか、という問題を示している。これがあるからこそ、私たちは他人の人生に関心を持つ。自分とその人の人生を比べることができる。そういうことから、私たちは、自分自身の人生はこれからどうなるのか、ということに強い関心を持つようになる。
さて、私たちは他人の人生をこうして、特に社会との関係で、認めることができる。他人の人生を参考にして、私たちは自分の人生という概念を作る。いやむしろ、私たちは自分の人生を考える場合よりもずっと多くの場合、他人の人生を考えているのではないか? 友人や知人やセレブや芸能人の噂話に関心がある、というばかりでなく、テレビのドラマを見たり、小説やマンガやインターネットの怪しい記事を読んだりして架空の他人の人生の話を楽しむ。私たちが社交に使う世間話の内容は人の噂が一番受ける。人を紹介するときはその人の肩書きと略歴を聞く。私たちはその人の世間での評判、皆がその人をどう思っているか、を知りたいのです。