哲学の科学

science of philosophy

私にはなぜ私の人生があるのか(5)

2010-04-24 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

芥川龍之介『或阿呆の一生一九二七年 )』を読んでみましょう。第三人称で書かれた小説の形式になっていますが、作家の主観のように読める。「彼は軽蔑した」というような文章表現は、第三人称を使って読者を作家に乗り移らせようという作家の小説的技巧でしょう。読者は作家の内面に引き込まれる。作家が書きながらそのとき感じていた感覚を、読者は読みながら今感じる、ように感じる。あるいは、作家が読者の内面に乗り移って来ている、ともいえる。

こういう小説のテクニックは、芥川龍之介が発明したものではないでしょう。小説、あるいは物語というものは、優れているものであればたいてい、このテクニックの上に作られている。紫式部も使っていた。この小説テクニックは、人間がもともと持っている乗り移り機構、拙稿の用語でいう憑依、という機構を利用している。

第三者の人生が、第三人称を使って語られているのに、聞き手はいつのまにか、自分のことのように感じとってしまう。まず、語り手が自分のことのように語っていると感じられる。語り手も聞き手もそこにいる皆が、そこで語られている第三者の物語を、自分の人生として感じとることができる。そうして物語は成り立ち、それが現代の小説になっている。

物語の聞き手は分かる。小説の読者も分かる。語られている人生が分かる。そこに描写されている人生を生きている人々の気持ちは、自分の気持ちだと感じられます。だれにも分かってもらえないはずの、自分の、秘密の、内面の深いところにあるそれが、ここに語られているのだ、と感じられます。ああ、自分にもこういう感情があったのだ、と読者は気づき、その気づきを楽しむ。そうして、優れた小説は読者を引き込んでいく。小説の愛読者というものは、こうして生まれる。

これは、私たちの脳の憑依機構(筆者の造語です。すみません)の働きです。拙稿のいう人生保持機構は、この憑依機構を利用して作られている。憑依機構の神経回路を(サブルーティンとして)働かすことによって人生保持機構は働く。(拙稿の見解では)、小説や物語やドラマは、読者の脳内にある人生保持機構の一部分を稼動させることで、それと連動する憑依機構を効果的に活動させ、小説(あるいは物語、ドラマ)の内容を読者に疑似体験させるような仕組みになっています。

優れた小説(あるいは物語、ドラマや映画やマンガ、あるいは詩歌や演歌)は、読者に乗り移って読者の人生保持機構を最大限利用するこのテクニックを使いこなしている。読者は小説の主人公になりきって楽しむことができる。主人公に憑依し、その内面に入り込んでその喜怒哀楽を自分の身体の反応として感じとる。主人公が悲しいとき、読者は涙を流す。読者は涙を流すときにつんとくる涙腺平滑筋の緊張と弛緩の感覚を身体で感じて楽しむ。鼻につんと来るわさびの味を楽しむときに似ています。熱心な読者は、手に汗を握り、眉をしかめ顔を赤くして楽しむ。

童話を読んでもらう幼児の場合、手足をばたばたさせたり、床を転げまわったりして、全身で主人公の気持ちを味わって楽しみます(二〇〇六年 ピーター・カルーサーズ『なぜ、ごっこするのか?』)。小説や物語やドラマは、読者、観客の身体を揺り動かして(自律神経に働いて身体感覚を引き起こすことで)快感をあたえるような作用を持っています。音楽やスポーツにも似ている。このことが、世の中に小説や物語やドラマというものが存在している本当の理由でしょう。

このことから推測すれば、逆に(拙稿の見解では)、私たちはもともと、他人の人生であろうとも自分の人生あろうとも、いずれもそれが第三人称を使って語られる一遍の小説やドラマであるかのように客観的にみなすことができることを示している。

あるいはむしろ、逆が真ではないか?つまり、私たちが自分の人生を感じとる場合、私たちは、それをあたかも小説を読んだりドラマを観劇したりするときと同じように感じとっているのではないか? 私たちの身体が備えているこの働きが(拙稿の見解では)、人生という概念を作りだし、同時に人生保持機構を支えている、といえます。

それでは、拙稿がここで私たちの身体におけるその存在を提唱しているこの人生保持機構なる仕組みは、いかなる構造になっているのか? それを考えてみましょう。

人生保持機構はまず、自分も含めた個々の人間にそれぞれの人生があることを認める働きがある。

現代の脳神経科学は、人間の高度に複雑な精神的活動を、脳内の物質構造として詳細に解明する方法を持っていません。どの神経細胞がどう変化して人生を感じ取っているのか? それが分かるのは、たぶん早くても今から数十年先、分子レベルで活動する神経細胞のネットワークを観察する夢のような測定装置が発明されるのを待つしかないでしょう。しかし、脳神経系の物質構造として同定できていなくても、人生保持機構の機能は明らかです。それは次のような働きから成り立っている。

まず、個々の人間を識別してその過去の行動を記録していく働きが必要です。個々人の行動記録ですね。

たとえば、私たちは知っている人を見ると、「ああ、そこにいるのはあの人だ」と分かる。つまりA君をA君であると識別します。次に、その知人の人生について思い出すことができる。たとえばA君に関しては、一八九二年三月一日に東京都京橋区で生まれ、一九二七年七月二十四日に、多量の睡眠薬を飲んで自殺したが、その間、一九二〇年に長男を、一九二二年に次男を、一九二五年に三男を、その前後に多くの小説作品を、生んだ、という事実を対応させる。これが、最短の記述ではありますが、A君の人生である、と言えるでしょう。

A君という個人を識別した上で、こういう記録を対応させる。あるいはさらに、「A君は現代の芥川賞受賞作家に対するそれを上回るほどの社会的賞賛を得た」というような評価結果を付け加えることもできる。特に、社会的評価をしっかり付記すると、人生の記録らしくなります。A君という人は多くの尊敬を集めて、その意味で成功した人生を送った人だったのだな、と分かる。

この社会的評価という要素は人生において重要です。その個人が社会との関係でどうであるか、という問題を示している。これがあるからこそ、私たちは他人の人生に関心を持つ。自分とその人の人生を比べることができる。そういうことから、私たちは、自分自身の人生はこれからどうなるのか、ということに強い関心を持つようになる。

さて、私たちは他人の人生をこうして、特に社会との関係で、認めることができる。他人の人生を参考にして、私たちは自分の人生という概念を作る。いやむしろ、私たちは自分の人生を考える場合よりもずっと多くの場合、他人の人生を考えているのではないか? 友人や知人やセレブや芸能人の噂話に関心がある、というばかりでなく、テレビのドラマを見たり、小説やマンガやインターネットの怪しい記事を読んだりして架空の他人の人生の話を楽しむ。私たちが社交に使う世間話の内容は人の噂が一番受ける。人を紹介するときはその人の肩書きと略歴を聞く。私たちはその人の世間での評判、皆がその人をどう思っているか、を知りたいのです。

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私にはなぜ私の人生があるのか(4)

2010-04-17 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

それは、私たちの身体がそういう仕掛けになっていることによって仕事や社会生活をうまくこなすことができるからでしょう。この仕掛けを、拙稿では「人生保持機構」と呼ぶことにします。私たち人類は、「人生保持機構」を持っている。人類の脳はそう進化した。たしかにこの機構を持っていれば、人類の生活環境において生存繁殖に便利です。

あのとき、私はこうした、君はそうした、という記憶を共有できる。そのときのたがいの感情をも共有できる。社会生活でおたがいの人生を認め合うことで信頼が成り立つ。緊密な協力関係が成り立つ。法律制度が働き、契約社会が成り立つ。私たちは自分自身の人生を予測し設計し管理することができる。そうして、この人生保持機構を持つ人類は地球全体に繁殖し拡散した。

人類以外の動物は人生保持機構を持っていそうにありません。人類に近い類人猿も、それは持っていないと推測できます。人生保持機構を持っていれば、勉強したり貯蓄や投資をしたりして将来に備えるはずです。しかしチンパンジーもゴリラも、自発的に勉強したり、健康に留意したり、資産形成をしたりしているようには見えませんね。人間以外の動物には、人生(動物生?)がない。過去もなければ未来もない。人間でも、赤ちゃんのときはそうです。老人性認知症になった場合もそうでしょう。ひたすら現在を生きる。邪心がない、聖なる精神ともいえます。

人間は人生保持機構を持っているから、自分の人生を豊かにしたい。自分の評判をよくしようとして人と交わる。人を教育したり人を助けたりして善行もする。一方では、人をだましたり人のものを奪って自己利益を増やそうとしたりして悪事も働く。自分の人生というものを重要と思うからこそ、そういうことをするわけです。

人生保持機構は、自分の身体が世界という客観的な環境の中で動いていくという認知機構を獲得することを土台にしている。世界と自分の身体の変化の相互関係を予測し、その予測に対応して身体が動いていく。それを客観的世界として認知する。そのような客観的世界の認知機構は、たしかに人類特有の能力であるように見えます。

人類がこの客観的世界の認知機構を獲得した時期は、いつのころか?

考古学、人類学では、数万年くらい前の時代に、人類史上の大きな異変が起こったとされている。その証拠は、発掘された遺跡から得られた。その時期の遺跡からは、鋭利な石器の槍、骨の釣り針、装身具、壁画、埋葬などが、比較的突然に、出現している。それ以前の時代の人類は、そういう遺物を残していない。これらの証拠から類推すると、この時期、人類は、[突然]、現代人に通じる世界観を身につけるようになったらしい。こういう考え方から、現生人類(ホモサピエンス)は、客観的世界の認知機構を一気に獲得した、という仮説が提唱されている。

この仮説によれば、人類の能力のこの急発展は、「大躍進」(一九九二年 ジェレッド・ダイアモンド第三のチンパンジー』既出)、あるいは「行動現代性Behavioral modernity」と名づけられている。この時期から、クロマニヨン人に代表される現生人類が、ネアンデルタール人など古い人類を駆逐して、急速に世界中に拡散し繁栄するようになったとされる。

この人類大躍進の原因については、人類学にも諸説があり定まっていません。大躍進というよりも徐々に文化が蓄積されたという説も有力です(二〇〇四年 スティーヴン・オッペンハイマー『エデンから:人類の世界移住』)。

分からない謎が多いロマンチックな仮説であるので、アマチュアも面白そうな説を唱えることができる。この時期に言語ができあがった、という仮説が多い。

筆者が思い付いた仮説では、この時期に人類が、燻製や干物や容器など食料の貯蔵法を発明したから、というものです。つまり、今日の食べ物以外に考えなければならない対象がでてきた。明日からの将来を予測して蓄財するという知恵がついた。そうすると、自分の財産を主張することで他人の立場も分かるようになる。その結果、自分と他人を含む客観的世界の存在感を認知する必要が出てきたから適応進化が起こって、自分を他人の視点で見ることができるようになる。そのような機能が脳神経系に備わるようになり、ついには客観的世界というものを認知できるようになった、と考えられます(拙稿6章「この世はなぜあるのか?」)。

閑話休題、人間は、自分が置かれている世界を自分の外側にある客観的な存在物であると見ることができる。それは(拙稿の見解によれば)、仲間との運動共鳴によって集団的視座から世界の見え方を仲間と共有するからです。世界は仲間に共有されることで客観的なものとなる。

だれにとっても、この世界は同じものである。ここに唯一の客観的世界があって、それを私たちだれもが同じように感じとっている、という認識を私たちは持っている。その客観的な世界の中に、目的を持って動く動物と人間の存在を認知する。自分の身体もまた、その客観的な世界の中に含まれる人間の一つである、という認識になる。

世界を仲間の視座から見て、それがだれにでも同じに見える客観的な存在だと感じとると同時に、その中に自分という一個の人間の身体を認める。世界の中を、目的を持って動く存在としての自分の身体を、他人の目で客観的に見ることができる。その(他人の目で客観的に見た)自分の身体が動いていく過去と未来のできごとを記憶し予測する。それが人生保持機構の働きです。こうして人類は、人生保持機構を持つようになったのでしょう。

私たちは、成長の過程で何歳くらいから人生というものを理解するのでしょうか? つまり個体発生において人生保持機構はいつ発現するか? どうも、幼児の発育段階において、この機構は、三歳くらいから十歳くらいまでに発現するようです。多くは、小学校低学年くらいで、児童は、自分には自分の人生があることに気付きます。この段階まで発達した児童は、もう大人と同じ世界観を共有していますから、大人の話すことが分かるようになっています。

拙稿の見解では、人生保持機構は、人類に特有な生得的神経機構に支えられる学習過程によって獲得される。私たち大人から見て、小学生は、その精神状態が動物のようなところから始まって、数年のうちに完全な人間になっていくように見えるわけです。

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私にはなぜ私の人生があるのか(3)

2010-04-10 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

そしてこれは私だけの問題ではない。どの人間もそれぞれ自分の人生を自分の人生だと確信している。それはあまりにも当たり前のことと感じられるから、これが問題だとは思われていない。しかし、このことは経験や知識で分かることではない。身体で自然に感じられる、というだけです。私たちは、自分の身体を自分の身体だと思うのと同じくらい、はっきりと、自分の人生を自分の人生だと思っている。

私たちは自分の人生の過去を知っている。未来は、もちろんはっきりとは分からない。しかし、今日や明日のことくらいは、かなりよく予想できる。私が私である限り、私がこうすればこうなるだろう、という予測に確信がある。私は私のサインで私のクレジットカードを使って買い物ができる。銀行カードと暗証を使ってお札を引き出せる。限度額までしかできないことも知っている。このビルのガードマンは私の顔を見ればドアを開けてくれる。それは私が私だからだ、ということを私は知っている。

それは考えてできるというよりも、自然に身体で感じられる。身体が、自分の人生の過去の経験や将来の予想に対応して動いていく、と思える。逆に言えば、身体がそう動くから、私たちは自分の人生を自分の人生だと感じとっている、ともいえる。

私たちの人生の過去や未来の予測は、私たちの身体に刻み込まれていて、それにしたがって身体が動いていくから、私たちはそれを自分の人生だと思うことができる。そうすることで(拙稿の見解では)、私は私の人生を持つ。

芥川龍之介は、たぶん、一九二〇年代のある日に、先輩と一緒に、牧神の額と赤い鉢に植えたゴムの樹があるカフェにいた、という経験の記憶があるのでしょう。芥川龍之介が書いた『或阿呆の一生』に、主人公がそういうカフェにいたという記述がある。そして或阿呆の一生』は自伝的著作だと思われるところから、この記述は龍之介の記憶にあった経験を再構成したものだろうという推測ができます。

しかし問題は、それが事実かどうかということではなく、読者である私が、この文章を読むことによって、自分がそのカフェにいた記憶があるような気になってしまう、ということです。一九二〇年代に、たぶん、銀座にあったそのカフェのコーヒーは、当時最先端のシューレアリズムの匂いがしたのではないか? もし今も銀座にその店が再現されたといううわさがあれば、龍之介のフアンが喜んで訪れるのではないか? 読者である私も、もちろん行ってみたい、と思う。

そうすると、芥川龍之介の読者である私は、芥川龍之介が経験したことの記憶を持っているということにおいて、部分的にではあるが、芥川龍之介である、と言えるのではないか?

逆にもし、A君が私と同じ記憶を持っているとしたら、A君は、その部分において私である、と言えるのかもしれない。もしそうであれば、この論理を敷衍することで、私の人生の経験記憶が、たまたま、すべてA君の記憶と同じものであるという理論的仮定のもとでは、私の人生はA君のそれと同一である、となる。ただしこの場合でも、私は私の人生が私のものだと思っているし、A君もまた、A君の人生はA君のものだと確信していることになる。

つまり、つきつめれば、その人生がその人のものである、という根拠は、その人がその人生の記憶を持っていて、同時にその人がそれを自分の人生であると思っている、ということだと言ってよい。

人間の身体は、物心ついてから現在までの自身の過去を、かなりはっきりと記憶している。日記などつけていなくても、だれもが、かなり鮮明に遠い過去の自分のエピソードやイベントとそのときの想いを思い出すことができる。

それは文章に書き下したエピソードやイベントというよりも、身体で記憶している。そのとき身体がどう動いてどういう感覚を感じとっていたか、という記憶です。筋肉の負荷、触感、匂い、血管平滑筋の緊張、動悸、発汗、というような身体感覚で記憶している。かなり過去の事件でも、その感触を覚えています。

これは、考えてみれば、驚くべき記憶力ですね。なぜ、私たちの身体は、ここまでしっかりと過去を覚えておく必要があるのでしょうか? 昔は、デジカメもパソコンもなかった。もっと昔は日記帳も文字もなかった。そういう昔こそ、記憶力が頼りだったのかもしれません。この人類特有の高性能記憶能力が、私たちの人生を支えている、といえます。

さらに驚くべきことには、私たちは自分の人生を一編の物語のように理解している(二〇〇三年 ピーター・ゴルディー『人の記憶された過去:説話的思考、感情、および外的視座』)。芥川龍之介は芥川龍之介の一生という物語を持っている。太郎は太郎物語という人生を持っている。次郎は次郎物語という人生を持っているわけです。このように人生を理解する仕掛けが、私たちの身体に備わっているのは、なぜなのでしょうか?

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私にはなぜ私の人生があるのか(2)

2010-04-03 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

芥川龍之介。けつかう現代的な文章ですね。昭和のはじめころ、書き言葉としての現代日本語がかういふふうに完成してゐたのか、と読むこともできる。またこれは、なにか、現代のトヰツタアのやうでもある。しかしこの文章は、よく見ると周到に推敲されている。その文学的技巧はすばらしい。作家が私たちの感性に乗り移ってくる。読者としては、まさに自分自身が今体験していることのように感じられる。

一人の人間があるときに経験したエピソードを言葉で書き連ねる。それを読むと、それはそのときのその人が感じ取った経験のすべてのように感じられる。優れた小説家が書くと、それが可能なのでしょう。しかし、言葉によるこういう記述が人生そのものだ、といえるのか? 

或阿呆の一生』という文章が或阿呆の一生であるのか? あるいは、このような記述の羅列がA君の人生であるといえるのか?

ものごころついてから、今日の今までに私が経験したすべて。イベントやエピソードのすべて。あるいは意識できる記憶のすべて。文章に書き下せるものもあるだろうし、言葉では言い表せないものもある。そういうもの全体が私の人生である、という気がする。

しかし結局のところ、私の人生の過去といい未来といい、それは一人の人間の行為とその結果を私が感じ取るということであって、感じ取る対象の人間がたまたま私自身である、というだけでしょう。それは他人の人生であっても、人の人生を対象として感じ取るという形としては同じではないのか? 芥川龍之介『或阿呆の一生』の表現のように、三人称で「彼」と書かれた人物は、私であってもよいが、私でなくてもよい。どちらとしても、同じ表現で書ける。

私が感じとる私の人生というものも、 私がそれを自分の人生だから大事に思っているというだけであって、客観的に見れば見るほど、それは、ある一人の人間の人生である、という以外に特異な特徴があるわけではありません。

芥川龍之介『或阿呆の一生』は「彼」の経験として書かれている。その「彼」は、芥川龍之介なのか、あるいは芥川龍之介が観察している別の男なのか、あるいはさらに、この文章を読んでいる読者なのか? そのどれでもよいのか?

どれでもよいという気もします。もし、そうならば、「彼」の人生は、今この短編を読んでいる読者である私の人生でもある。少なくとも、これを読んでいるときの私は、「彼」の人生を生きている。逆に、私の人生が或阿呆の一生』のようにリアルに描写されれば、それはそれを読む読者の人生になる。

そもそも、私の人生とは、他の人の人生と区別できるものなのか?

たとえば私の人生と芥川龍之介の人生とはどうやって見分けがつくのか? それは名前が違うとか、有名だとか有名じゃないとか、で見分けられる。生年月日も生誕地も違う。しかし、そんなことは細かいことであって、どちらも人間だということでは、おおざっぱに言えば、同じですね。

顔が違うとか、身体が違うとか、DNAが違うとかで見分けがつくではないか? 芥川龍之介は双子の兄弟はいないはずだから、芥川龍之介以外の人が芥川龍之介のDNAを持っているはずはないでしょう。クローンはいないのか? まあ、芥川龍之介の遺髪か何かが現存していてそれからクローン人間が作られたとすれば、それは芥川龍之介と同じDNA,同じ顔、同じ身体を持っているでしょうね。近い将来のバイオ技術を使えば、それは百人でも千人でも同時に作ることもできそうです。

では仮に、この私が芥川龍之介のクローン人間の一人だとしましょう。そうすると、私は芥川龍之介と同じDNA,同じ顔、同じ身体を持っている。それで私は、自分の人生が芥川龍之介の人生と同じだ、と思うだろうか?

それはありえないでしょう。私は私でしかないからです。

なぜ、私が私であって、芥川龍之介ではないのか?

それは、私が、私が私であって芥川龍之介ではない、と思っているからでしょう? ではなぜ、私は私が私であって芥川龍之介ではない、と思っているのか? それは、私の身分証明書を見せて皆さんに説明できる。

しかし、私が、私が私であって芥川龍之介ではない、と思っている理由は、本当に私がこの身分証明書を持っているからなのか? この身分証明者に印刷されている名前が芥川龍之介という字になっていなくて、私が私の名前だと思っている字になっているからなのか?

どうも、そうではなさそうですね。仮に私が身分証明書をなくしてしまって、それを皆さんにお見せできなくても、私が私であって芥川龍之介ではない、という事実に変わりはない。どうしてって? 私がそうだと思っているからです。

それは私の記憶違いではないのか? 私は実は芥川龍之介であるのに、そのことを忘れてしまっただけなのではないか? いや、そんなことはありえない。そんなことはありえない、ということを私は確信している。この私の確信を皆さんにお見せできないとしても、私の確信に間違いはありません。

問題はこうです。

私はなぜか、物的証拠がなくても、私が私であって芥川龍之介などではない、ということを確信している。私は私であって、他のだれでもない。それに関して物的証拠はなく、それについてどの文書にも記述がなく、だれの証言もなく、冤罪で裁判になって私が別人だとは証明できないとしても、私自身は確信できる。この確信はどこから来るのか?

これは経験から来るものではない。経験や知識から帰納できることではない。推論で演繹できることでもない。身体がそう感じる、としかいいようがない。

私は私が私の人生だと思っているものと不可分に結びついている。私の人生は、私とともにここにある。私を私の人生から切り離すことはできない。私は私の人生の付属物である。私は私の人生のパイロットとして私の人生航路を導くことを任務としている。そう思えるのです。

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