哲学の科学

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逃げない人々(1)

2014-07-26 | xxxx逃げない人々

40 逃げない人々 begin

40 逃げない人々

二〇一一年三月十一日東北地方東海岸を大津波が襲いました。死者は一万五千人に及びました。午後三時少し前でした。

テレビや防災無線あるいは広報スピーカーから大津波の到来と避難勧告が繰り返し聞こえていたにもかかわらず、自宅あるいは職場にとどまり、あるいは家族を引き取りに海岸近くに降りていったために、波に呑まれた人々が多数いました。半年後に行われた生存者からの聞き取り調査 では死者の二割は避難しなかったか避難できなかった状況だったようです。死者の六割は、家族を助けるため、あるいは職業的任務を遂行するために避難先から再び危険な場所に向かったために死亡したと推定されています。

死んだ人の状況は生き残った人々の証言 から推測するしかありませんが、多くの人々がなぜ逃げなかったのか、結局は、いまだに疑問として問われ続けているようです。

この歴史的大災害に関して、直接的体験がなく伝聞のデータによる知識しか持たない拙稿としては一般的な論評をなす立場にありませんが、一点、死者の六割が六十歳以上であったことに強い印象を受けました。多数の老人たちはなぜ逃げなかったのか、逃げられなかったのか、という思いは、三年を過ぎた今でもあるようです。

逃げないと死ぬかもしれない、たいていは大丈夫だとしても、もしかしたら死ぬかもしれない、という場合、逃げる人と逃げない人に分かれる。このような場合、逃げる理由はよく分かる。しかし逃げない人はなぜ逃げないのでしょうか?

人それぞれの状況で逃げない理由は違うでしょう。それらの理由の強さも違うと思われます。しかし共通する部分があります。それは逃げる気がしなかった、せっぱつまって何もかも投げ捨ててこの場所から走り出したいというような気持ちにはならなかった、ということでしょう。

古来、逃げなかった人の逸話は多く残っています。旧約聖書にある大洪水では方舟を作ったノアの一族だけが逃げのびた。他の人々は逃げなかった、あるいは逃げられなかった。神のお告げを聞いていなかったからです。

旧約聖書ではソドムの爆滅のときもロトの一族だけが逃げた。他の人々は逃げなかったがために絶滅した、となっています。

戦記物などでは逃げない人々が賞賛されています。多くは仲間を守って逃げなかった英雄譚になっている。ペルシア帝国の大群と対峙したスパルタの決死隊(テルモピレーの戦い )は、西洋近代の知識人の閒では、東洋の専制帝国に対して降伏を拒否した西洋自由人の勇気を象徴するものとされています。

古代ギリシア哲学の祖といわれるソクラテスもまた逃げないことで有名になった人です。この老人が、死刑囚としてアテネの牢獄に監禁されていたとき、同情した看守たちはむしろ少額の賄賂で逃亡してくれることを望んでいたし、弟子たちはそれを懇願していたそうです。しかしソクラテス(当時七十歳)は従容として毒杯を仰いだ(プラトン著「クリトン 」)と伝えられています。この老人はなぜ逃げなかったのでしょうか?

ソクラテスが脱獄しなかった理由については古来数え切れない数の研究書、論文、あるいは教科書が書かれていますので、いまさら拙稿の見解を述べる必要はありません。ただ、「クリトン」の記述が事実だとすれば、この老人は死刑が明日あさってに迫っていることを知りながら、ぐっすり朝寝をしていたということです。その後、弟子のクリトンとの対話でソクラテスはいろいろ立派なことを熱心にしゃべるわけですが、要するに自分の生死の問題だから熱心に語ったというよりも、弟子の教育のために語り、加えて会話を楽しんでいた、というように読めます。

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神仏を信じない人々(11)

2014-07-19 | xxx9神仏を信じない人々

ここで問題は、先に挙げた疑問、「現世的な関心が強くなれば宗教は不要になるのかどうか」に戻ってきます。現世ですることに忙しく、また楽しくて人生に疑問など持つ気になれなければ宗教は必要ないでしょう。そうでない場合に人は孤独になり、不安になる。そのとき宗教があれば、神仏に祈りたくなる。問題を単純化すればそういうことになります。

仲間とともに忙しく楽しい人生をおくっている人々が多数となれば宗教は必要ではなくなる、と言えるようです。そのためには社会が安定し経済が盛んになり科学が普及し、多くの人が不条理のない人生を享受できるような現世が実現することが必要です。先進国ばかりでなく多くの国でこのような社会になっていけるならば、宗教の必要はほとんどなくなるでしょう。

現代でも多くの国では宗教が多数の人々の日常生活に浸透しています。もし仮にこれらの国で宗教を必要としない社会システムが実現したとしても文化として浸透した既存宗教は形骸化しながらも二世代か三世代、つまり百年の単位で存続するでしょう。したがって今世紀中は先に述べた世界の宗教分布はあまり変わらないと予測できます。その後は(拙稿の見解によれば)、世界全体の社会の変化が宗教の状況を変えていくことになるでしょう。

もし仮にそうなるとしても、そのように宗教を必要としなくなった社会に住む人々が全員、宗教とまったく無関係になるわけではありません。現代の日本のように、習俗や習慣として冠婚葬祭、年中行事、しぐさ、あるいは、ことわざ、慣用句などに伝統的な宗教の名残は残るでしょう。また、入学式、卒業式、歓送迎会、年始挨拶、病気見舞いなど、挨拶、儀式の形をとって、幸運祈願、厄除けなど伝統的な神仏の加護を祈る集団的行為も、形態は変化するとしても、衰退することはないかもしれません。これらは人間が仲間との行動を共有し共鳴させるための仕組みとして必要であり続けるからです。

いずれにしろ、神仏を信じない人々が多数を占める社会であっても、それが安定して生産性の高い社会であり続けるためには、過去の時代からある現世的な社会機構だけではなく、伝統的宗教が担ってきた社会的機能のいくつかの部分を代替する新しい社会機構が出現しなければなりません。

それはたとえば、集団の結束を維持するための儀式、挨拶、冠婚葬祭、墓地、過去帳を管理する専門家集団、福利厚生を管理する専門家集団などです。神仏を信じない人々といえども、あるいは神仏を信じない人々であればこそ、これらの機能を保持する堅固な所属集団に守護されることを必要とします。

逆にそのような集団に属すことができないまったくの孤独な環境にある人は、神仏を信じないまま生活することはできないでしょう。

(39 神仏を信じない人々 end)

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神仏を信じない人々(10)

2014-07-12 | xxx9神仏を信じない人々

問題は、ともに生きる仲間がいない場合、たとえば仕事を失った場合、家族と離れてしまった場合、あるいは病気や障害で皆と同じ行動ができなくなった場合、人は孤独になり、元気を失い、誠実さも失いがちです。そのとき神様あるいは仏様に救いを求めることができれば希望を持てるでしょう。

人はいま自分が孤独でない場合でも、孤独な人生を知らないわけではありません。だれにも顧みられない生活を想像すると不安です。エリートのように理想や野心、あるいは金銭欲、出世欲に駆られ、毎日現実の中で戦い抜いているか、あるいは社交や趣味に忙しいか、あるいは家族の生活を支えて忙しい人々はそういう不安は感じることがありません。戦う戦場もなく、強い欲望も野心もなく、社交や趣味の仲間もなく、守らなければならない人もいないような無目的で孤独な人だけがこの不安を持つ。そういう人の割合が人口の中でごく小さければ社会としては無視しておけばよい。しかしこれが二割とか三割以上になったら社会は不安定になります。

そうであるとすれば未来社会の大きな問題は、戦うエリートや社交や家族で忙しい人々以外の、だれにも顧みられない孤独な人々の割合がどこまで大きくなるか、です。いつの時代でも、出世したりお金持ちになったりする人々は少数でしかありません。地位や富を求めて無我夢中で生涯戦い続けられる人々は、多くはないでしょう。あるいは趣味や社交、子や孫の教育、蓄財、社会奉仕などに夢中になれる人々がどの程度いるかという問題です。

現代社会では、大家族が少なくなり、核家族や単身者が多数を占めるようになっています。一緒に住む家族がいない人は孤独になりやすいでしょう。電話や電子メールで別居している家族兄弟や親しい友人といつも話せる人は、単身生活であっても孤独は感じない場合があります。しかしいずれにせよ、過去の大家族や親戚付き合い、村落共同体の時代に生きていた人々に比べれば現代の都市生活者は孤独です。

自分が毎日懸命に生き続けなければならないよりどころはどこにあるのか?神様あるいは仏様が教えてくれないとすれば、だれに教えてもらえばよいのか?分かりません。

そういう感覚を持つ孤独な人たちは、ちょっとしたストレスに耐えられないおそれがあります。学業、就職の失敗や失職、職場や家族の人間関係の軋轢、経済的破綻、慢性的な病気、うつ病、さらにはテレビ、新聞が報じる犯罪や戦争や疫病の心配などにも強いストレスを感じてしまいます。

神仏を信じている人々は、これらのストレスに弱くありません。神仏に見守られている人は、辛いことがあっても嫌なことがあっても、うつ病になったり自殺したりせずに、しっかりと安定した精神状態を保って生き抜いていくことができます。かつて宗教の盛んな時代には、このように神仏のおかげで孤独な人々も救われたでしょう。大多数の人々は神仏に祈ることを通じて種々のストレスから逃れることができた結果、社会の生産性は維持されていたと思われます。

そういう観点からは、現代人が神仏を信じられないということは困ったことだ、といえるでしょう。しかしこれまで述べてきたように、宗教の衰退は、(皮肉なことですが)かつて大宗教を持ちそれを基盤として安定した社会の形成と経済の発展に成功した先進国に共通の現象ですから、グローバリゼーションとともにますます世界的に広く進んでいくと思われます。

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神仏を信じない人々(9)

2014-07-05 | xxx9神仏を信じない人々

一応そうであるとして、次の問題は、この先、将来、人々がますます無宗教となっていくとすれば、それで現代社会は長期的に発展できるのか、いや発展しないまでも持続可能であるのか、という疑問がでてくるということでしょう。神仏を信じないという傾向がこの先も強くなるばかりであるとすれば、次の世代、さらに次の次の世代では、人々の心持ちがどうなっていくのか、という問題です。

まず、現実に徹して人生のゲームを勝ち抜いていこうとする少数のエリートたちは、無宗教のままで問題なさそうです。この人たちは毎日仕事あるいは社会的地位の維持向上のために戦略を練り作戦を実行して、成功したり失敗したりしながら力いっぱい人生を戦い抜いていきます。毎日の競争、戦いが生きがいであり自己肯定の拠り所となっています。

その人生の最後には失敗、敗退、あるいはせっかく手にいれた富や社会的地位が陳腐化してしまう失望を味わうこととなったり、落ちこぼれて社会から消えていったり、高齢化や病気や事故で死んだり廃人になったりして無宗教であるための苦しみを味わうのかもしれませんが、そういう場合は社会へ及ぼす影響が消えるので社会にとっては障害になりません。したがってエリートたちが神仏を信じないとしても、社会がおかしくなる心配はいりません。

一方、戦いを生きがいとするエリートではなくふつうの人として毎日ふつうに勤めを果たしている人口の大多数は、神仏を信じられないとなると、価値観がよく分からない長い人生を生きるのが不安、退屈、あるいは元気が出ない、という気分におちいる恐れがあります。誠実に生きている自分の姿を神様や仏様がお見通しだ、と思えばこそ、誠実に生きるはげみになるというものです。だれも自分の行動を見てくれない、覚えていてくれない、となると、明日の不安を抑えて淡々と誠実に毎日を生きる気がしなくなってくるでしょう。

生産人口の多くが、毎日元気よく働けないとなると社会は甚大な機能低下に苦しむこととなります。もし無宗教が原因でそのような社会的悪影響が生じるとすれば、国境を越えて政治経済がグローバルに連結している現代世界では、宗教が衰退していく先進国ばかりではなく、地球上すべての人々にとって大問題となるおそれがあります。

毎日元気よく働き誠実に生きている私の姿を、神様あるいは仏様が見ていてくれなくては困る。神様たちでなくても、少なくとも仲間が皆認めてくれなくては困ります。毎日協力して働いている仲間たちが私が一緒に働いていることを必要としているに違いない、と思えるとき私たちは誠実になり、元気よく働ける。昔の人達が生きていたころ、それは間違いありませんでした。皆が神仏を信じていたし、互いに仲間の働きを必要としていました。現代でも一緒に働いている仲間たちは互いに互いを必要としています。

一緒に働く、一緒に遊ぶ、一緒に学ぶ、一緒に食事をする、という仲間がいつもいる場合、宗教はあってもよし、なくてもよしというものになるでしょう。

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