(40 逃げない人々 begin)
40 逃げない人々
二〇一一年三月十一日東北地方東海岸を大津波が襲いました。死者は一万五千人に及びました。午後三時少し前でした。
テレビや防災無線あるいは広報スピーカーから大津波の到来と避難勧告が繰り返し聞こえていたにもかかわらず、自宅あるいは職場にとどまり、あるいは家族を引き取りに海岸近くに降りていったために、波に呑まれた人々が多数いました。半年後に行われた生存者からの聞き取り調査 では死者の二割は避難しなかったか避難できなかった状況だったようです。死者の六割は、家族を助けるため、あるいは職業的任務を遂行するために避難先から再び危険な場所に向かったために死亡したと推定されています。
死んだ人の状況は生き残った人々の証言 から推測するしかありませんが、多くの人々がなぜ逃げなかったのか、結局は、いまだに疑問として問われ続けているようです。
この歴史的大災害に関して、直接的体験がなく伝聞のデータによる知識しか持たない拙稿としては一般的な論評をなす立場にありませんが、一点、死者の六割が六十歳以上であったことに強い印象を受けました。多数の老人たちはなぜ逃げなかったのか、逃げられなかったのか、という思いは、三年を過ぎた今でもあるようです。
逃げないと死ぬかもしれない、たいていは大丈夫だとしても、もしかしたら死ぬかもしれない、という場合、逃げる人と逃げない人に分かれる。このような場合、逃げる理由はよく分かる。しかし逃げない人はなぜ逃げないのでしょうか?
人それぞれの状況で逃げない理由は違うでしょう。それらの理由の強さも違うと思われます。しかし共通する部分があります。それは逃げる気がしなかった、せっぱつまって何もかも投げ捨ててこの場所から走り出したいというような気持ちにはならなかった、ということでしょう。
古来、逃げなかった人の逸話は多く残っています。旧約聖書にある大洪水では方舟を作ったノアの一族だけが逃げのびた。他の人々は逃げなかった、あるいは逃げられなかった。神のお告げを聞いていなかったからです。
旧約聖書ではソドムの爆滅のときもロトの一族だけが逃げた。他の人々は逃げなかったがために絶滅した、となっています。
戦記物などでは逃げない人々が賞賛されています。多くは仲間を守って逃げなかった英雄譚になっている。ペルシア帝国の大群と対峙したスパルタの決死隊(テルモピレーの戦い )は、西洋近代の知識人の閒では、東洋の専制帝国に対して降伏を拒否した西洋自由人の勇気を象徴するものとされています。
古代ギリシア哲学の祖といわれるソクラテスもまた逃げないことで有名になった人です。この老人が、死刑囚としてアテネの牢獄に監禁されていたとき、同情した看守たちはむしろ少額の賄賂で逃亡してくれることを望んでいたし、弟子たちはそれを懇願していたそうです。しかしソクラテス(当時七十歳)は従容として毒杯を仰いだ(プラトン著「クリトン 」)と伝えられています。この老人はなぜ逃げなかったのでしょうか?
ソクラテスが脱獄しなかった理由については古来数え切れない数の研究書、論文、あるいは教科書が書かれていますので、いまさら拙稿の見解を述べる必要はありません。ただ、「クリトン」の記述が事実だとすれば、この老人は死刑が明日あさってに迫っていることを知りながら、ぐっすり朝寝をしていたということです。その後、弟子のクリトンとの対話でソクラテスはいろいろ立派なことを熱心にしゃべるわけですが、要するに自分の生死の問題だから熱心に語ったというよりも、弟子の教育のために語り、加えて会話を楽しんでいた、というように読めます。