哲学の科学

science of philosophy

現実に徹する人々(3)

2013-01-26 | xxx3現実に徹する人々

さて、社会学的には、このような現実に徹する人間は社会に何パーセントくらいいるのか、あるいは、どういう職業、階層、集団に多いのか、などを問題とすべきでしょう。実は、こういうことは学問的には研究されていないようです。その理由は、まずこの人々の定義がしにくいこと、したがって問題を定式化しにくいことでしょう。だいたい、拙稿本章で興味の対象としているこの、現実に徹する人、という人をどうやって見分ければよいのか? 簡単ではありません。

「あなたは現実に徹する生き方をしていますか?」と質問してもその回答で見分けることは不可能でしょう。たいていの人は、現実が分かっていないと思われるのは嫌ですから、「はい、もちろん現実に徹して生きています」と答えるでしょう。しかし、その人たちの行動は、明らかに現実に徹していません。皆に喜ばれるから試合で頑張る。まじめに質問されると、言わないほうがよいことでもつい気が引けるから本当のことを教えてしまう。というような行動をいつもしています。そういう行動は結果的に得する場合もありうるでしょうが、たいていは得しません。

結局、その人の行動を詳しく長期にわたって観察し分析すれば、その人がどの程度、現実に徹する人かを定量的に評価することは可能でしょうが、大変な調査コストがかかります。それ以外に簡単に識別する方法はなさそうです。

そうであるとすれば、学問的興味で研究するには調査にコストがかかりすぎて無理です。したがって残念ながら、今までもこれからも、当分はこのテーマに関しての社会学的研究はなされそうにありません。実際、現時点ではきちんとした社会学的調査データはないようです。したがって拙稿としても、アカデミックでない世間常識的な方法で憶測するしかありません。

さて、現実に徹する人間は社会に何パーセントくらいいるのか?

まず本章で例示する現実に徹する人は、極端な人物像の例を挙げて描写していますから、これは人口分布の端にしかあたりません。つまり無視できるほど少ない。数パーセント以下という感じでしょう。本当に徹底的に現実だけに徹する人を探せば、ゼロパーセントかもしれない。逆に極端な典型ではないけれど、こういう傾向がある程度強い人ということになると、ぐっと増えて人口の10~20%ともいえることになります。

結局、人間はだれもが、大なり小なり、いくらかは現実に徹する傾向があるのでしょう。その傾向の程度を「徹する」という語で表現しているだけということです。つまりこの質問(現実に徹する人間は社会に何パーセントくらいいるのか?)は実はあまり意味がない、トリビアルな質問です。

さてそれでは、人種、民族との関連はどうか? これも残念ながら、信頼できる調査結果はないようです。ただし理論的にはある程度相関がありそうです。というのは、この現実に徹するという傾向は、文明化、都市化が進むほど強く表れるからです。つまり欧米、日本、あるいは都市化の進んだ国などに多い、と思われます。

次に職業、階層との関連はどうか? 冒頭の例に挙げた遠洋漁船の船長など、独裁的な権力を持つ経営者管理者には現実に徹する人が多いと思われます。現実に徹しないとやっていられない人生を送っているからでしょうね。

具体的には、医者、法律家、官僚、軍隊指揮官などいわゆる知的管理的職業、社会的に重要な専門的行為をする人、多くの人の運命を預かる操作行為をする人、社会の支配層を形成する人、などの中でも有能な人は、現実に徹する人でしょう。いわゆるエリート階層ですね。

その中で有能といわれる人たちは、現実に徹する人、という表現があてはまるでしょう。ラーセン船長なども野蛮な船乗りでもありますが、主人公のインテリ青年ハンフリーと対等な教養知識を備えているように描かれているので、当時二十世紀初頭の欧米におけるエリート階層出身の人なのでしょう。

このように、エリート階層には現実に徹する人の割合が多い、といえそうです。

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現実に徹する人々(2)

2013-01-19 | xxx3現実に徹する人々

ところで拙稿の見解では、現実というのは目や耳で感じ取れる身の回りの事物の現実感から世界を感じ取り、周りの仲間の動作や表情を見取ってその世界が現実であることに間違いないと確信する人類共通の神経機構が集団的に共鳴を起こすことで現れてくるはずです(拙稿32章「私はなぜ現実に生きているのか?」 )。

そうであるとすれば、仲間の動作や表情に素直に共鳴できない場合は現実感がなくなる、あるいは薄れる、ということが起こり得る。深い孤独に陥ったとき、人となじめないとき、自分だけの個人的事情たとえばひどい不運あるいは自分の身体の障害、病気あるいは自分自身の死、に直面するとき、人は現実に徹することがむずかしくなるでしょう。そういう場合、現実に徹するはずの人は、どう感じ、どう考えるのでしょうか?

現実とは何か、をめぐっていろいろ議論してきた拙稿としては、興味がある話題です。

まず現実に徹する悪人たち。こういう人たちは、人間の誠意など信じていませんから、まず本心を語ることはありません。しかし、その本心では何を考えているのでしょうか?何を信じているのでしょうか?

こういう人は、自分の感覚だけを信じているのでしょう。

まずは物理的力を信じる。鉄砲で撃てば人は死ぬ、富や社会的地位を与える者に人はなびく。このような武力や権力は感覚的に感知できるから信じる。そういうものを現実と思う。人を操作するために自分も嘘をいうから人の言葉は信じない。人はだれも自分がかわいいだけで、口では何ときれいなことを言っていても、実は自己利益や自己顕示を求めている、と思う。

神様なんていない。信仰や道徳や法律や自由平等はまやかしである。愛とか誠とか心の安らぎとかは嘘。そんなものがこの世にあると思っている人は錯覚しているか、だまされている。天国も地獄もない。死んだらナッシングだ。毎日は食うか食われるか、弱肉強食。負けて食われるか、事故か病気で身体が壊れておしまい。それまでは、勝って勝って勝ちまくればよいのだ。

こう信じている自分は悪人と言えばその通りだが、やましいことはない。なぜならば、自分は悪人でないと思っている人たちも自分が実は悪人であることを知らないだけなのだ。そういう人たちに遠慮する必要はない。現実はそういうものだ。

こういう考え方の人は、現実に徹する。ひたすら金や権力、自己顕示を求める。金と権力を限りなく求めて大成功すれば、昔ならば王様、現代では独裁政治家か大富豪になれるでしょう。成り上がった王様や独裁者、大富豪が必ずしも現実に徹する人とは限りませんが、むしろ二代目以降の王様や大富豪などには、いかにも現実に徹する人がかなりいそうです。

王様として権力を維持するには、君主論に書かれているように冷徹なリアリスト、あるいはマキアヴェリスト(英語では正しくはマキアヴェリアン という)になることが正しそうです。敵は容赦なく殲滅する。ライバルは陥れる。あるいは謀殺する。忠実な側近で身の回りを固める。強力な宣伝機構を確保する。秘密警察を強化する。

現代の国家でもこういう独裁者に率いられている政府はいくつもあります。ほかの国からは独裁国家とか、悪の帝国とか呼ばれますが、けっこう独裁元首はしっかり継承されて何世代もの長期にわたって体制が維持されていますね。いくつもの会社を持つ大富豪なども似たようなやり方で周りを支配しているケースがあるようです。

国など大きな単位ばかりでなく、小さな規模でこういう支配を続けている人たちはずっと多くいます。小さな会社や団体、あるいはもっと小さな党派、派閥などの内部も、しばしば、こういうマキアヴェリ的統治で成功した人が牛耳っていたりします。先に挙げたラーセン船長もこの類でしょう。

現実に徹する人の典型は、このように、政治的、経済的、あるいは社会的な成功を求めてどこまでも支配を拡大し、あるいは維持継続し、それが成功しても成功しなくても、いずれにしろ頑張り続ける、という人生を送ることになるでしょう。

ここで注意しなければならないのは、現実の社会では現実に徹する人だけが成功するわけではない、という点です。成功者の実例を調べると、むしろ理想が高くて人々の幸せを願う人がそれを目標にして努力を続ける結果、成功することが多い、といえます。誠意を持って仲間と連携できる人が、社会の中で力を集め、結局は政治的、経済的、あるいは社会的な成功を達成しています。

本章が対象としているような、現実に徹する人は、誠意を持って仲間と連携できません。自分が誠意を持つ気になれないから人の誠意を信じることができません。この辺に現実に徹する人の限界がありそうです。

小説などでは、悪人が「ろくな死にざまはできないよ」と言われたりします。どうも、現実に徹する人は、幸福な死に方はできないようです。この辺にも現実に徹する人の限界がありそうです。

こういう現実は、現実に徹する人もよく知っていることでしょう。彼または彼女は、人の共感を得るために、人に親切で同情的なキャラクターを演じようとしますが、そううまくはいかない。長い付き合いでは演技はばれる。したがってこういうような(現実に徹する)人が社会的に大成功する実例は実はあまり多くありません。

いずれにしろ、こういう性格というか、生き方というか、いわゆるこの世はこういうものであるという無意識の認識、つまり世界観、は人格に付随していますから、簡単には変わりません。一生変わらないと言ってよいでしょう。現実に徹する人は、どこまでも現実に徹する。現実の成功を求めているが故に成功できないというジレンマに陥ることもありますが、抜け出せません。

何度失敗しても、年老いても、懲りずに現実に徹した行動を繰り返す。ある意味で、対極にある理想主義者、死ぬまで見果てぬ理想を追い求めて活動する人と同じワンパターン人生といえます。

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現実に徹する人々(1)

2013-01-06 | xxx3現実に徹する人々

(33 現実に徹する人々 begin

33 現実に徹する人々

拙稿19章(拙稿19章「私はここにいる」)の冒頭でご紹介した『シー・ウルフ』(一九〇四年 ジャック・ロンドンシー・ウルフ海の狼)』 )の実質的主人公であるノルウェー人船長ウルフ・ラーセンはニヒリストというか、徹底したリアリストとして描かれています。作品発表当時の同時代という設定ですから20世紀初頭の物語ということでしょうか。北太平洋でアザラシを狩る孤独な猟船の話です。サンフランシスコあたりから出港して、最果ての日本近海にまで航海する。

ウルフ・ラーセンはやたら頑強な身体を持っている独裁者的な船長で、乗組員に君臨するサディストでニヒリストの暴君です。部下をいたぶりながら、魂などあるものか、死んだらナッシングだ、などとつぶやいている。百年前の作家が描いた人物像ですが、現代人に広がるニヒリズム、あるいは冷徹なリアリズムの原型を見るようです。

モラルとか罪悪感とか良心とかいうものと無縁の極悪人。自分が得するためにはどんなに卑劣あるいは残忍な行為でも平然と実行する。現代の小説にはこういう冷血漢がよく出てきますね。現代人は、何となく、こういう人物像にも感情移入できるところがあるのでしょう。しかしまた、こういう絵にかいたような極悪人は現実の人間としてはいないとか、小説にしか出てこないとかいう評論もよくあります。どうなのでしょうか?

金のためには手段をえらばない。自分だけしこたまもうける強欲社長、など、小説ばかりでなく実在の人物としてよく新聞やテレビで報道されます。実際によくいるから小説の人物にもなるのでしょう。こういう人たちが現代のニヒリスト、あるいはリアリストなのでしょうか? いわゆる悪人ですが、現代人の私たちは、こういう冷血人間にもなぜか、魅かれるところがあります。

興味本位で悪人を研究するのはちょっと不謹慎な気もしますが、本章ではこういう現実に徹する悪人の実例などを分析して、その生き方を調べてみたいと思います。また一方、全然悪人ではない人の中にも現実に徹する生き方をしている人は多くいます。こういう人のこともあわせて調べていくことにしましょう。

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