ストリップショーを見に行ってダンサーが美人であるとうれしい。宝塚でもそうでしょう。それらの場面で、あるいは図書館の司書さんの姿が美しいと感じる場合、衣服の下にある見えない裸の姿、あるいは相手と性交に至る場面を想像するばかりとは限りません。そういうよこしまな想像もしていないのに、美形と思う間もなく、ただうっかり0.3秒くらい見つめてしまうということがあります。
このような場合、相手の性的魅力を感じていない、というのは無理があるでしょう。あるいは、お医者さんがもしかしたら私の性的魅力に引かれてうっかり見つめてしまっているのかしら、という気がしていつの間にか彼の視線に性的魅力を感じてしまうという場面もあるかもしれません。目的意識は希薄な場合といえます。
性的魅力は目的意識とは独立に存在する、ということができそうです。何の目的も考えずに性的魅力を感じてしまう、という場面は多くあります。
性的魅力が存在する場面の大部分は、実際、そうでしょう。そうであるから美人女優さんがインスタント食品やお酒や鉄道会社やローン会社や住宅会社や化粧品や女性用整髪料の広告に必ず登場するのです。注意すべきことは、同じ女優さんが男性用の酒や女性用の化粧品の広告に同じような表情で起用されていることです。
身体外見における性的魅力の感受性に男女の性差異はない、そして男性的身体に比べて女性的身体は(女性の感受性によっても男性と同程度に)はるかに美しく感じられる、という拙稿の理論を裏付けています。■
(54 性的魅力の存在論 end)
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性的魅力の存在にとって、性交のコンテキストは重要ですが、必要ではないでしょう。性交の概念に関わりなく、性的魅力は存在します。
そもそも性交の概念を持たずに人は性交するのか?あるいは、性交の概念を持たずに人は性欲を持つことができるのか?自分が性交していることに気付かずに性交できるのか?はなはだ疑問です。成功の概念を持たずに成功するほうがまだありそうです。
人以外の動物はもともと概念という機構を持たないので、当然、交尾の概念なしに交尾します。人間の行動は、求愛、性交などの性行動であろうとも、概念と目的を伴うことが多いので複雑で分かりにくいところが困ったことです。
人は目的意識をもって行動する場合が多い。少なくとも私たち自身は、自分のほとんどすべての行動は、目的をもってそれをしている、と思っています。しかし、目的意識が希薄な行動は記憶できない。記憶している行動は目的的コンテキストに乗っているものだけです。実際、他人の行動を観察すれば、環境刺激に即応するだけ、あるいは習慣的であるだけ、とみられるものが大部分です。
拙稿のテーマである性的魅力の存在問題に関しても、性交、求愛あるいはその他の行動目的を持って性的魅力を感じ取る場合もあれば、そうでない場合もあります。そうでない場合に、感じる性的魅力が(客観的に観察すれば)大部分を占めることが分かるでしょう。
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拙稿の本理論で特徴的なことは、この、見る見られる、という一方通行の、一見、男女の心理的な差異に起因すると思われがちな行動の非対称性が、実は心理的な性差異から生ずるものではなく、女性の身体外見の特徴にだけ美しさを感じるという人間男女共通の(性的に無差異の)感受性から来ているということです。
繰り返せば、人類における性的魅力の存在は、おそらく、男女の心理的差異を必要条件とするものではありません。性的魅力に関する男女の行動上の非対称性の起源は、男女身体の外見の特徴差異に対する男女共通の感受性に由来するのであって、(マスコミ、ネットなどで語られている俗論心理学のいう)性ホルモンの量的差異、あるいはそれによる脳形状または脳機能の男女差異に起因するとされる心理的差異に由来するものではない、という結論が拙稿の見解です。
ちなみに、性的魅力(英語でsexual attraction)という語も誤解を呼ぶ原因になっていると思われます。性的というと、男性女性の(ジェンダーの)差異という概念と直結します。そこから、性的魅力の感じ方は男女間の引力である、という議論の出発点が持ちだされる。それは男女の心理の違いからくる、という安易な理論に導かれやすい。
だれもが不可解と思っている異性の心理の話をしたくなる。ここから間違いが始まっています。拙稿のいうような、男女の心理差異に無関係の性的魅力のあり方、という発想は、はじめから、なかなか出てきません。
異性の心が不可解という話題にはだれもが参加したくなるところに、男女の心理差異という人気のあるテーマがなりたっているようです。しかしこのテーマは問題のとらえ方が間違っています。人は実は、同性の心も異性の心と同じくらい分からない。(拙稿の見解によれば)自分の心さえも分かることは、実は、できません(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちがわかるのか?」)。むしろ、自分の心あるいは他人の心、が分かると思う錯覚の存在のほうが問題である、ともいえます(拙稿4章「世界という錯覚を共有する動物」)。
確かに性的差異のテーマはおもしろい。差異という語もおもしろそうだし、性的という語はもっとおもしろそうです。しかしどこがおもしろいのか?英語のsexをカタカナで書くセックスという日本語は、現代口語としては性差を指すよりもしばしば性交を指す。この用法を適用すれば、性的魅力は、性交に関する魅力、となりますが、拙稿の見解ではこのニュアンスにも注意が必要です。つまり性交という行動を想起できるコンテキストで他者を認知する場合、性的魅力を当然感じていることになりますが、逆は必ずしも成り立ちません。
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先に述べたように(拙稿の見解では)現生人類では、女性だけが性的魅力を備える美しい身体を持つので、見られる側が女性となることはすぐ納得できます。美しくない身体を持つ男性は、自身の身体を見せることではなく、美しい身体を見ることに熱心であるはずです。
一方、女性はなぜ美しい女性の身体を見ることに熱意がないのか、という事実の理由は直感では分かりにくい。ホモセクシュアルの女性はどうか、などの問題が絡んできます。
自分の身体が美しいと思う場合、鏡に映る自分を見れば満足してしまい、ほかに似たような同性の身体を見るには熱心でなくなる、とも考えられます。鏡の中の自分にもふつうすぐに飽きて、女性的身体は美しいと思うけれども、どうしてももう一つ欲しいというほどではない。
女性の身体にはあまり性的興味は持てなくなるでしょう。美しいものであっても、自分がすでに所有しているものはそれほど欲しくない、まったく所有していないものが欲しい、ということです。
女性は、自分が所有している身体と類似な他の女性の身体自体にも多少は興味があるけれども、自分自身の身体を美しいものにする物事に、より多く興味がある。自身の身体を美しく修飾する衣服、化粧品、装身具、宝石、美しい家具、インテリア、美しい音楽、美しいストーリー、などが女性の興味を引きます。これらのものは、男性も興味を持つけれども、女性ほどではない。男性が美しいものとして興味を持つものは、まず自分とは対極にある形状を持つ女性の身体でしょう。
ただし、ここでも忘れてはならないことは、男女ともに女性だけが美しい身体を持つ、と感じる事実です。
これらのことから、女性は女性的な身体の性的魅力を自覚しているが、それ自体を単純に自分ひとりで見ることには興味がなく、男性が女性的な身体に性的魅力を感じてそれを見るその実際の、あるいは想像上の、視線、に興味を持つ。つまり自分の身体が発揮する性的魅力に興味を持つ男性の視線に興味を持つ、という理論が作れます。
もちろん現実は理論のように単純ではなく、女性が男性の視線に違和感を持つ場合も多々あります。ホモセクシュアルになったり、視線に過敏すぎたり、あるいは逆に鈍感すぎたりして、ふつうには反応しなかったりする事例も現実には多くあり得ます。しかし通常、大多数の女性は身体を見られることに性的なコンテキストを感じ取って視線を送る相手を意識します。その場合、その視線を嫌う場合もあり、嫌わない場合もある。嫌う場合セクハラになりますが、嫌わない場合、女性がその視線を送る男性に性的魅力を感じることがあります。
女性が感じるとされるその性的魅力は女性の性的魅力を見つめる男性の視線に運動共鳴を起こしているのであって、男性の身体特徴の美しさに対して魅力を感じていることとは違う、といえます。むしろ女性の性的魅力を反射する鏡の用をなす男性の視線を魅力と感じ取るといえるでしょう。男性が女性に感じる性的魅力が女性の身体特徴の美しさに対してであることとかなり違います。
ここまでの結論として、女性行動の性的特徴は魅力的な身体を見られる側であるところにあり、男性行動の性的特徴は女性の性的魅力を見る側であるところにある、ということができそうです。両性に関して非対称であり、一方通行的です。この非対称性の理由は単純であり、女性的身体だけが美しいから、といえます。
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前世紀の中ごろ、プレイボーイという月刊雑誌が時代の先端といわれていました。アメリカの白人男性層を想定した編集戦略をとり、センターフォールドのヌード写真が世界中に販売配布されて現代にいたる性的魅力のスタンダードを作ったといわれます(グローバル化の悪例ともいえますが)。最高販売実績の号は一九七二年十一月号で、センターフォールドはスウェーデン人モデル(Lena Söderberg)が後ろを振り返ったヌード写真となっています。
このモデルと同じ姿勢をとる見返り美人図(菱川師宣)は、プレイボーイ誌とは逆に顔以外は着物でおおわれている図柄ですが、人気最高の記念切手になり、浮世絵の代表といわれています。作者は浮世絵の創始者といわれる菱川師宣で、この絵師は挿絵入り好色本の開祖でもありますから、この浮世絵が、性的魅力の表現を目的として描かれたことは違いありません。
性的魅力は、振り返るところにある、といえそうです。そうであれば、プレイボーイのモデルが、裸を隠しながらカメラを見返す目が魅力的だとして、センターフォールドにして売り出されることも納得できます。裸体を見せながら隠す、というプレイボーイ的スタイルは、紀元前四世紀ギリシアの彫刻家プラクシテレスの傑作、クニドスのアフロディーテ像以来、西洋美術のメインテーマの一つになっています。
自分を見られることを意識して見返すところに性的魅力がある、となるのでしょうか?見返り美人的な性的魅力の存在は、まず自他ともに身体が美しいと自覚する側が被観察者になっている、とする前提から来ています。その魅力的な身体を見る視線を意識した動作や表情が強い性的魅力を作り出しています。
ここで重要なことは、画像のモデルが生身の人間である場合、見る見られるというコンテキストに観察者だけでなく被観察者もまた自然に憑依することで、両者ともに被観察者の性的魅力を強く感じるという運動共鳴の正のフィードバックが起こり、極大共振的なダイナミクスが起こることです。このダイナミクスを想起させることができる場合、画像であってもそこに性的魅力を存在させることができます。
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性的魅力を発揮するためにはどのような動作が必要か?若い人向けの雑誌、ウェブ記事などの重要なテーマになっています。識者がいろいろ書いていますが、どれが本当か?端的に言えば、成功者の例を見れば分かります。
セレブといわれる人々の所作はどうなっているか?テレビ、インターネットでよく見られます。しかし偶発的な動作より計算されたもののほうが正しく性的魅力を表現しているのは当然でしょう。俳優さんが演じる映画の名場面などが一番です。
最も分かりやすい動きを見るには、ダンス、バレー、日本舞踊、歌舞伎などいわゆる振り付けられた踊りがよいでしょう。これはしかし極端に誇張されていますので、日常シーンではふつう見られません。
実際、性的魅力はむき出しにするのではなく、隠すほうが魅力が高まるというパラドックスを持っています。秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず(一四〇〇年頃 世阿弥「風姿花伝」)と能の奥義書にあります。賢い女性はよく心得ているようです。
動作、運動が伴う動的な性的魅力はまた観察者の側に運動共鳴(拙稿のキーワード)を引き起こし、観察者が被観察者の動的な性的魅力の表出にコミットすることになります。このことが性的魅力を完成するといえます。つまり完成された性的魅力の存在にとって必要な要素は、観察者と被観察者の相互運動共鳴にあります。
観察者が性的魅力を備える被観察者の身体を認知する場合、通常、被観察者が観察者の視線を認知することで被観察者の表情、動作が影響をうけます。被観察者は観察者へ視線を返す。あるいは視線を返さずに表情、動作で視線を認知したことによる反応を示す。この視線の反射作用は被観察者が観察者の視線に憑依(拙稿のキーワード)して観察者による被観察者の持つ性的魅力の認知を認知することによる反応です。この認知の反射現象は性的魅力を極大化する働きを持っています。
性的魅力を認知する視線の反射作用は(拙稿の見解によれば)観察者と被観察者の間に双方向の憑依を引き起こし、性的魅力の相互認知における正のフィードバックにより運動共鳴を加速します。
視線反射による相互憑依は、特に被観察者だけが性的魅力を持ち観察者がそれを持たないとき、引力としての性的魅力を一方向の正のフィードバックにより加速させるダイナミクスが起こることとなり、被観察者の性的魅力は極大化に至ることとなります。したがって性的魅力に関する拙稿の存在論によれば、男が女を見るときに限り視線の反射作用によって女の持つ性的魅力は極大化することになります。
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軽快、柔和、曲線的、非力、円滑、繊細、というような形容が使われる女性的な身体特徴に、男も女も、性的魅力を感じます。そして男の身体は外見の上で性的魅力が少ない。身体の男性的な特徴は性的魅力を減殺する。重厚、長大、直線的、堅固、強力、粗雑、鈍重、という男の身体的特徴に近いものが外見にあると、生物学的に男であろうと女であろうと、いずれの場合も性的魅力は急激に減少します。
つまり男女ともに、性的魅力は女性的な身体特徴にある、と感じる。
逆に言えば、高身長など男性的な身体特徴は女性的身体の対極にあって女性の魅力を引き立てるからこそ女性に好まれ、それをもって男性の性的魅力と表現されることがよくあります。男の身体はむしろ、性的魅力よりも食料獲得やシェルター維持、セキュリティ保全など栄養補給能力と生活防衛に優れていそうなエネルギッシュな頑強性を持つことで認められます。栄養補給やセキュリティ保全は生活に必要な機能ではあるが、美しさを誘因とする性的魅力ではありません。
人体外観の魅力をこのように女性的特徴の上に感じ取る認知構造が、私たち現代人が感知する性的魅力の存在根拠です。これは人類普遍のように観察されるので、科学としてミクロスコピックに解明できてはいませんが、人類のゲノムに書き込まれた生得的機構によるものでしょう。原始時代の環境の中でこの認知機構を持った人類だけが競争に勝って地球上に蔓延したという仮説は納得できます。
このように(拙稿の見解では)現生人類においての性的魅力は身体形状の女性的な特徴の上に存在しますが、静止した身体形状をもってそれが完成することはなく、身体形状の動的な運動変化が性的魅力をリアルに感じさせ完全な魅力として感じ取られるために必要であることに注意する必要があります。
実際、性的魅力を完全に発揮するためには生き生きとした現実の人体のような動きが必要です。したがって画像や人形やヒューマノイドロボットが強い性的魅力を持つことは無理でしょう。
性的魅力に必要な動きは、軽快、曲線的、柔和、非力、円滑、繊細、というような形容が使われる動作です。逆に女性的な形状の身体であろうともその動作に、重厚、長大、直線的、堅固、強力、粗野、鈍重、というような要素が表れていると性的魅力は減退します。
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巷で語られる性的魅力論は、陰陽学、精神分析学その他素朴心理学あるいは俗説などからの援用であって、学者も反対もせず黙認しているようですが、実際どれも説得力に欠けます。
これらの理論はすべて男と女の心理は違う、あるいは性的魅力の感受性は生得的二次性徴として男女別々に備わっている、というところから出発します。そこから生殖を目的としての男女の戦略の違いが男女の行動の違いに現れる、とします。その科学的根拠として性ホルモンの影響による脳の解剖学的差異あるいは脳活動画像の差異などを論拠としていますが、これらは科学的論理としては、はなはだ弱い。たしかに性ホルモンの差異によって脳の構造と機能にいくらかの性差異は存在しますが、これらの性差が性的魅力とどう関わるのか、あるいは関わらないのか、の問題は科学的には全く未解明であって、現在の知識から論理的帰結を導くことはできません。拙稿の予想では、おそらく脳の男女差異は性的魅力の形成に決定的な影響は与えていないでしょう。
生物は生存競争に必要な最小限の進化しかしません。生存環境に対して過剰な進化変容は生存繁殖に不利なので淘汰されて消えていきます。前述の理論によれば性的魅力の感受性に男女の差異をつける必要はありません。そうであれば必要のない男女心理差異は、進化上定着しないはずです。
したがって拙稿の見解を繰り返せば、男女ともすべての人が女だけを美しいと信じるような性的魅力だけが存在することができる、となります。
ここで逆に、すべての人が男だけが美しい、と信じる場合も性的魅力は存在するのではないか、という質問が出るでしょう。しかしこれは次のような考察で否定できます。
仮に、男性だけが美しい、と信じる社会があったとして、そこでは男も女も栄養補給能力を競って男の獲得を争うでしょう。そこではすべての男は男を追い求めることになりますから、出産授乳育児に時間を割く女に協力する男はほとんどいなくなり、女も男を獲得できない出産授乳育児に時間を割くのを避けるでしょう。そうなれば長期にわたっては社会を持続できません。したがって、男性だけが美しいとする社会は淘汰されて人類の歴史から消えていきます。
現存人類では(拙稿の見解では)男も女も、男と違う女の身体の外見を美しいと感じ、性的魅力があると感じる。男も女も、男の外見には、一義的には性的魅力を感じない、という結論になります。
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つまり、青目男は、大金を使って自分と同じような青目を持つ女を追い求めるよりも、大金を使って自分を求めてくれる青くない目の男あるいは女に買われることに喜びを感じるからです。
そういう仕組みになりますから、青い目の男あるいは女は、たいていは、青くない目の男あるいは女に買われてその家に住むことになり、青目が映える美しいドレスを着て化粧し、青い目をさらに目立たせるようなアイシャドウをしたり、逆にわざと美しい目を隠すためにサングラスをかけたりして、性的魅力に磨きをかけることに熱心になります。
さて、それでこの社会は持続可能なのか?
ダメでしょう。なぜならば出生率が小さすぎて急激に人口が減るからです。男女の区別は魅力と関係がないため、確率的に女の半分は女を選び女どうしのカップルになるので男と一緒になる女はまず半減する。その上、外で忙しく働く非青目の女が、家にいてドレスを着て化粧するだけの青目男のために、仕事をしながら何人もの子供を産んで授乳育児できるのか?もし男女とも仕事をしないで育児するとすれば、子どもの生活費教育費は誰が稼ぐのか?
結局、極端な少子化になる。そういうことで人口維持は難しいでしょう。そうであれば、このような社会が一瞬存在したとしてもすぐに消えていきます。
背理法ですが、こうして、現存人類が今のような性的魅力の感受性を持つことが納得できます。逆にいえば、人間の持つ他の特徴の差異に対してよりも男女の差異に対して敏感であって、女性側に美しさという属性を貼り付けるような感受性を持つように感覚が進化した人類だけが繁栄して地球上に広がった、ということができます。こうして性的魅力の存在は、男女差異の上にあってしかも女性側になければならない、という結論が得られます。
拙稿のこの理論によれば、性的魅力が存在するための条件は、次の通りとなります。
まず人口の半分くらいが魅力的となる差異を与える属性が大部分の人間に(男女にかかわらず)認められること。そしてこの魅力が他の魅力よりも強く安定的に人間と人間の結合を作ること。この結合から妊娠出産授乳育児の実現が担保されること。
これらの条件から、この差異は男女の違いによる差異でなくてはならないことが分かります。
妊娠出産授乳育児は人類の存続に不可欠であり、それらは女性と男性の安定的結合によって可能となる。この男女の結合を作る機能を持つ魅力は男女の違いによる差異であるはずです。
ここで重要なことは、この魅力は男だけ、あるいは女だけが認知する魅力ではなく、男女が同じように認める魅力である、というところです。
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ちなみにこの社会では、不美人が汗水たらして得たお金で買われた美人はそのお金で着飾ったり、美容院に行ったり、美人仲間と高級レストランでおいしいものを食べたりできるわけで、不公平ではないか、という指摘が出そうですが、実は公平な社会です。
なぜならば、不美人は不美人どうし猥談をしたり楽しく仕事に精出したり金儲けや出世競争をしたりして楽しい。そのうえ、めんどうな化粧や服選びをしなくてすむので外出も気が楽です。美人を買うために、高収入になれるスキルアップを目指し、勉強して高い学歴を獲得し、仕事も懸命にするので結果として社会の役にたち、社会的地位も高くなり、えらそうにすることができます。
結局、実態としては、美人不美人ともにこの社会構造にあまり不満は持っていません。不美人が美人になりたいとも思っていないようだし、美人が不美人になりたいとも思わないようです。
この仮想社会において、美人の魅力は、不美人との差異が大きいほど大きい。たとえば美人がみな肩まで髪が長く、不美人はみな短髪であり、美人も不美人も長髪が見とれるほど美しいと感じる感覚を持っているとすれば、この社会では髪の長いことが美人の魅力となります。これをこの社会での性的魅力ということができます。こうしてこの社会では性的魅力が存在することになります。
この社会構造では、生まれた時から子供の半分ずつが美人あるいは不美人に認定されていけば後はうまくいきます。人間社会として実際に成り立つでしょう。
問題は、生まれたときにどういう仕組みで美人不美人が決定されるか、です。生物学的な男女身体構造の違いは無視するわけですから、どうしたらうまくいくでしょうか?くじで決めるというのも不条理です。男女の違いなど問題にならないくらい衝撃的な差異が必要ですから。
まあ仮に、そのような人口を二分化できるような分りやすい適当な差異が見つかったとすれば、この社会はうまく実現されます。
例として、人口の半分が青い目の国があるとしましょう。ヨーロッパの東北あたりにありそうです。生物学的差異ではありますが男女の違いとは無関係ですからこの思考実験に適しています。さて、この国の人々は男女ともに青い目の男女にだけ性的魅力を感じる体質である、と仮定します。男とか女とかは関係ありません。そして男女とも青い目でない人間にはまったく性的魅力を感じません。
であるから、青い目でない男は青い目の男あるいは女を買うために努力する。青い目でない女も青い目の男あるいは女を買うためにがんばります。
青い目の男は青い目の女あるいは青い目の男に性的魅力を感じはするが、それほどではない。なぜならば、青い目の女あるいは男は、自分に対して魅力を感じている青くない目の男あるいは青くない目の女に選ばれることを好む。自分に関心を持つ人間を誘導し操作して自分を追わせることに楽しみを感じる。追うよりも追われるほうが楽しい。鬼ごっこと同じです。
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