哲学の科学

science of philosophy

貨幣の力学(10)

2014-04-26 | xxx8貨幣の力学

個々人に働くお金の力はよく分からない。人により事情により違う。しかしマクロ的なお金の働きは、経済学によりよく分かっています。変動をならす効果のある為替取引や経済政策も作れる。だから通貨システムはある程度の不確定性の範囲内でよく安定しています。その価値に大きな変動はめったになく、ほぼ(物価、為替など変動量として)安定している。それゆえに、貨幣は貨幣として働く。

個人が生活のために毎日お金を必要とする。その事実を基盤としてお金は価値を維持しています。逆に言えば、各個人が生活のためにお金を必要としないとすれば、貨幣は成り立ちません。

社会に、いったんお金が普及してしまうと、その後、お金は使われ続ける。政権が変わったり、他国に支配されたり、極度なインフレになったりすると、貨幣の信用は失われて他国の通貨や、新発行の貨幣に置き換わったりするけれども、短い混乱期が過ぎると、依然としていずれかのお金が使われ続けることには変わりがありません。

このように近代以降の社会では、どんな状況でもお金は使われている。使われ続けている、という事実があります。この事実から考えると、近代以降の社会は、お金がその土台をなしているのではないか、と思われます。つまり現代に至る近代以降の社会は、通貨システムをその基本構成要素として成り立っている、といえるでしょう。

現代では、社会のだれもがお金という共通の価値観を共有している。そのことで社会は成り立っている、といえるようです。

現代、世界中のどの国の人であっても、お金の重要さを知っている。生きていくためにお金は必要であり、さらにたいていの場合お金さえあればなんとか生きていかれる、と思っています。お金の重要性の上に、すべての人の人生が成り立っている。社会全体がその上に成り立っている、と思っています。

現代ここまですべての場面において重要なものとなっているお金というものが、たかだか一万年ほど前の歴史時代に至って突然現れた現象であって、遠い過去の貨幣がない時代の人類にとってはまったく無関係の存在である、というのは無理があるでしょう。

これは結局、もともと人類の身体構造に、お金のありかた、通貨システムというものを支える機構が埋め込まれている、ということなのではないか?そしてそれは貨幣が存在していない時代にももちろんそうであったし、さらには人類発生のときからそうであったはずだ、ということを表しているのではないでしょうか? 

もしそうであれば、人類はもともと、遅くとも十数万年前から、現代の通貨システムのようなものに適合する身体機構を持っていた、ということになります。そして現代に至ってその身体機構が顕在化してしまった。あるいは現代社会が、人類のその特徴を顕著に浮き出させるような環境を提供することになった、ということでしょう。

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貨幣の力学(9)

2014-04-19 | xxx8貨幣の力学

会社や銀行や政府に集積された多額の金額を扱う少数のエリートたちだけで、貨幣システムは維持できません。このシステムは、生活に必要な貨幣を財布、あるいはクレジット口座から毎日出し入れしている無数の人々がいなければなりたたない社会的機構だといえます。

毎日の生活に必要な物を確保するために貨幣を数え、収入をはかり、支出を管理する多数の人々の真剣な努力の対象であることによって、貨幣はその社会的機能を維持する。

貨幣が社会的に価値を維持できる基盤は、中央銀行の発券制度でもなければ、金や他国貨幣あるいは国際通貨との交換レートでもありません。また仮想通貨のような交換相場でもなく、投資家の人気でもありません。あらゆる貨幣の機能を維持している基盤は、無数の無名の人々が日々の生活のために常に一定の価値の貨幣を必要とするところにある、といえます。

無数の無名の人々がお金を必要とする理由が、生活にとって切実なものであることが、貨幣システムの安定のために必要です。生活のため、生存のため、苦痛から逃れるため、食欲を満たすため、安全な住処のため、結婚のため、出産と育児のため、娯楽のため、それらの毎日の必要を満たすために貨幣がどうしても必要であれば、そのような貨幣は社会にしっかりと根付くことができます。逆にこういう毎日の必要に使われない貨幣は貨幣として成り立たないでしょう。

無名のある人が、一宿一飯のためにいくらの貨幣を思い浮かべるか、携帯電話代にいくらの貨幣を思い浮かべるか?靴を買い換えるためにいくらの貨幣を必要と思うか?その金額が、お金の価値を維持しています。

その金額は人により環境により時期により、毎日少しずつ変化するでしょう。個別の変化は予測できません。それでもその集積量はマクロ経済として表現され、予測できる法則に従って動いて行きます。

貨幣が個々の人間に働く力学をいくら詳しく観察しても、マクロな経済は予測できません。逆にマクロな経済がうまく予測できるからといって、個々の人間にとっての貨幣の働きは理解できません。

実務的な必要から経済学は、マクロな通貨量の予測理論として発展してきましたが、貨幣そのものの社会的な基盤については研究を控えています。それについて語ろうとする拙稿本章のような議論、いわば貨幣の形而上学、は現代経済学の範疇から除外されています。それは実は研究方法が見つからないので職業的学者の仕事にはならないからですが、いちおう、それは哲学(一九〇〇年 ゲオルグ・ジンメル「貨幣の哲学」)、人文科学あるいは人類学の課題である、とされています。これは現代的な学問の作られ方からして仕方のないところではありますが、一般教養の知的バランスという観点からは暗黒部分が大きくなってしまう。貨幣そのものの暗黒部分に気づかれにくくなる。という困った点もあります。

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貨幣の力学(8)

2014-04-12 | xxx8貨幣の力学

しかし、重力と金力は違うところもある。

このリンゴとこのグレープフルーツとどっちが重い?

このリンゴとこのグレープフルーツとどっちが欲しい?

この百円玉とこの五十円玉とどっちが欲しい?

どっちが重い?と聞かれれば、手に乗せて重さを感じるイメージが思い浮かんで、すぐ重さの違いが分かります。

どっちが欲しいか?と聞かれると、ちょっと違う。直感で答えるというより、金額の数値を比較する。百は明らかに五十より大きいから瞬時に答えられますけれどね。

これが、百円玉と五十円玉を数個ずつ混ぜて入れた二つの紙袋を選べ、となると瞬時には答えられません。

二つの袋、どっちが重い?

二つの袋、どっちが欲しい?

百円玉と五十円玉、袋の中の合計額が多い方はどっちか分かれば答えられる。だから即答せずに、私たちは、二つの袋を開けてみて中身を数えるでしょう。

こうして答える場合、視覚や触覚で感じ取る感覚を使って直感で答えるというのとは違います。お金はその合計額に意味があるのであって、重さの問題ではありません。だから手で持ってもイメージが湧かない。合計金額を知らないとイメージが湧きません。逆に合計の数値さえ知れば、どちらが欲しいか、すぐに答えられます。

お金の場合、物質的な実体を視覚や触覚で感知するものではなくて、金額という抽象的な数値を感じ取ってそれに身体が反応する、といえます。そうであれば、ここは数値だけに反応するコンピュータのようです。しかし、人間の身体はコンピュータのように抽象的な数値に反応するようにできているのでしょうか?

デジタル時計はダメだ、という人は多い。文字盤の時計ならば針の角度で後どのくらい時間の余裕があるか分かりやすい。デジタルの数字を見せられても、頭の中で引き算などしないと時間の感覚がつかみにくい。お金の場合はそうではないのか?

一万千五百円と言った場合、私たちは一万円札一枚と千円札一枚と五百円玉一枚を思い浮かべませんか? 五百円玉二十三枚を思い浮かべる人はあまりいないでしょう。コンピュータであれば、こういう具体的な思い浮かべは必要ありません。どうも人間は、お金を感じ取る時も抽象的な数値ではなく、具体的な物体を思い浮かべてそれに反応する身体を感じ取ることでお金の価値を知るのではないでしょうか?

実際、私たちの多くは金額を提示されてその価値を理解しようとするとき、それと交換できる物を思い浮かべることで納得します。貨幣が使われ始めた時代から現代に至るまで、そのようにお金の価値を理解する多数の人々に支えられて貨幣システムは機能した、といえそうです。

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貨幣の力学(7)

2014-04-06 | xxx8貨幣の力学

古典経済学によれば、自由な市場で認められる価値が正しい価値である、といえます。これれは「正しい」という言葉の意味を学者がそう定義するからそれが正しいということになる、という形になっています。しかし興味深いことには、この正しい価値という言葉が、経済学者の定義とはかかわりなく、私たち一般の人間が直感で「正しい」と感じることとうまく一致していることです。経済学者の術語の作り方が非常に巧妙である、という言い方もできますが、それにしても、見事に人間の感性に合う。

理論的な市場価値が作られる前提として、私たち人間の身体が物やサービスの価値を直感で評価し、それが平衡状態に向かう力を感じ取るから、といえるのではないでしょうか?逆に、その直感による評価が経済市場の平衡機能を維持している、と見ることもできます。

人間はもちろん、経済理論その他種々の理論に深く影響されて行動しますが、それ以前に直感による自分の身体の動きを感じ取って、それが理論の受け皿を用意している、といえるでしょう。経済学で語られる理論もまた、価値というものを直感で感じ取る私たちの身体の動き方が先にあって、経済学者は上手にそれを理論化している、といえます。

たとえば価値の加算性。同じ価値のものが十個あれば、その集合全体の価値は一個の価値の十倍になる。逆に一個の物を十個に等分できれば、分割した一個の価値はもとの十分の一になる。この原理は、法律や法則で与えられるものではなくて、身体で直感することで理解するものです。この原理を使って、私たちは貨幣を銀行に預けたり、消費したりします。逆にそうでなければ、安心して貨幣を預けたり、消費したりすることはできません。

またたとえば価値の交換可能性。価値が同じものを交換しても価値は変わらない。その物を誰が持っていても、その物の価値は変わらない。この原理も私たちは身体で感じ取ります。貨幣はだれが渡してだれが受け取っても、交換できるその価値は変わらない。この原理によって貨幣はその価値を維持しています。

どんな物であっても、質量が同じものには同じ量の重力が働く。どんな物であっても、価値が同じものは同じ量の貨幣で買える。

似ています。逆に言えば、そのように働くものを重力、あるいは金力という。

力という言葉はもともとそういうように働くものを指していた。そのような力を私たちの身体は、言葉による定義ではなく、直感で感じ取れる。視覚で感じ取れる。その物の動き方を見ることで、私たちの身体が自然に反応して動く。私たちのその身体の動きが(拙稿の見解では)力を表現している、といえます。

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