XがYをする。(X、Y)と書ける。このとき、Xはだれでもよくて、他人でもよいし自分でもよい。ただしこのときYはどんな行為でもよい、ということではない。Xとは、Yという行為をするようなものであってXと分かるような特徴を持っているものである。
XとYとは互いに制限しあう。「A君が息をする」とは言えても、「コップが息をする」とは言えない。「息をする」という行為をするものとしないものとがある。「Xが息をする」と言えるようなXは、私たちがそれに憑依して、運動共鳴によって息をするという行為のシミュレーションができるようなものでなくてはなりません。
こういうことは言葉をしゃべる前から、無意識に分かっている。身体で分かっている。言葉を理解し始めた幼児は、言葉の使い方と同時にこのことが分かってきます。何が息をしていて、何が息をしていないか? 幼児はしつこく親に聞く。
「ママ、ママ、コップは息しているの? コップは、息してるの? ねえ、ねえ、ママ?」と質問を繰り返しながら、「息をする」というシミュレーションを学習しているのです。息をしているものは体内に空気を出し入れしている。だから、そのものを水中に沈めてしまえば、息ができなくなる。息苦しいだろう。息ができないと生きていけない。幼児はそういうことが分かってきます。
いろいろな(X、Y)を覚えていくと、世界が分節化してくる。たとえば、世界のものは、息をするものと息をしないものに分けられる。つまり、私たちが憑依して「息をする」というシミュレーションをできるものとできないものとに分けていく。こういう知識を蓄えていくことで、私たちは世界を探索し、物事を実用的に仕分けることができる。そしてこれらの知識が言語を支えている。
私たちは、私たちの知っているシミュレーションを使って物事の予測ができる。今から世界がどう変わっていくのかを予測できる。世界の分節化は、運動共鳴と言語の使用によって仲間と共有できていきますから、私たちは物事に対応して協力しながら集団的な予測をして将来のために計画を立てることができる。こうして私たちは、分節化された世界の中で、仲間と協力しながら、変化する物事を予測し、危険を避け、有益なものを拾い集めることで生活に必要な計画をつねに更新しながら暮らしています。
たとえば、
「えーと。A君はどこ?」
「A君は、向こうのほうへ歩いていきました」
「何しにいったのかな?」
「さあ、トイレじゃないですか」
「ああそう。じゃあ戻るまで待とう」
こういう場合、この場にいる私たちは、(A君、トイレに行く)というシミュレーションを全員が共有している。それによって私たちは、A君がトイレに行ってしまった、という新しい事態に対応する計画更新を行って大過なく集団生活を続けることができる。
ここで重要なことは、私たち全員が、A君がこれからどのような行動をするかについて予測ができている、ということです。(A君、トイレに行く)という事態を把握すれば、この後、A君は何をするか予測できる。つまり、A君は、(大か小か、という多少の違いはあっても)いずれにしろ十分くらいでトイレを済ませてここへ戻ってくるだろう、という予測ができる。こういうことを予測できることが(A君、トイレに行く)という事態を認知することの本質です。
もちろん、予測はコンテキストに依存する。特殊なコンテキストでは、事態は違ってきます。たとえば、食中毒が疑われている場合、(A君、トイレに行く)という事態は深刻な予測につながります。まあ、ここでは、そういう特殊なコンテキストではなく、ふつうの場面を想像してください。
(A君、トイレに行く)という事態に際して、ふつう私たち全員が、A君は十分くらいでトイレを済ませてここへ戻ってくるだろう、という予測をする。私たちはなぜそういう予測をするのでしょうか?
(A君、トイレに行く)という場合、A君は人間です。ロボットではありません。仮にロボットの場合、(ロボットのA君、トイレに行く)となりますが、こうなるとこの後どういうことになるのか、予測はむずかしい。特殊なロボットなら別ですが、ふつうロボットはトイレには用がない。ロボットが何をしにトイレに行ったのか? だれもが首をひねってしまうでしょう。つまりこの場合、予測を共有することができない。
では話を元に戻して、やはりA君は人間であるとする。そうすると、(A君、トイレに行く)という事態のその後の予測は簡単になる。私たちのだれもが、A君は何をしにトイレに行くのか、よく分かる。そしてA君は十分くらいでトイレを済ませてここへ戻ってくるだろう、となりますね。しかし、A君がロボットなのか人間なのかで、なぜ予測が違ってくるのでしょうか?
それは私たちがロボットの身体を持っていなくて、人間の身体を持っているからです。
人間に関しては、(人間のA君、トイレに行く) という行為一般について私たちだれもが共通の知識を持っている。つまり、「人間はトイレに行きたくなるとトイレに行って十分くらいですまして、すっきりしてもとの活動に戻るものである」という知識です。
ロボットに関しては、私たちにこういう共通の知識はない。私たちはロボットではないから、ロボットがトイレに行くとするとどういう気持ちなのか、何をしたくてトイレへ行く気になるのか、さっぱり分からない。それは私たちがロボットの身体を持っていないからです。だから、(X,トイレに行く)という表現はXがロボットの場合には使えない。意味がある表現になっていない。
(ロボットのA君、トイレに行く)。
この表現は、私たちだれもが共通に分かるような意味を持っていないからです。