いのちは、なぜいのちがあるように見えるのか?
生物はなぜ生きようという目的をもっているかのごとく見えるのでしょうか?大哲学者がいうように、生物は巧妙な機械仕掛けである(ルネ・デカルト 一五九六年 ― 一六五〇年 動物機械論Bête machine)、とするならば、なぜここまで巧妙に作られているのでしょうか?
DNA情報が、ダーウィンの理論にしたがって、百万年、千万年の単位で競争にさらされ絶え間なく磨き上げられてきたから、といえばその通りなのでしょう。百年足らずの人生経験しかない私たちの直感では、生命の神秘、驚異としか見えない、ということでしょう。
人の命は何のためにあるのか?人は人に何かをするために生きているのではないか?カントは、人は人を目的として存在すべきである(一七八八年 イマニュエル・カント「実践理性批判」)と言っています。
いずれにせよ、人は何か目的をもって毎日を生きている。少なくとも本人はそう思っているでしょう。そう思えないときは、心身の不具合になったりします。
目的があると思えるとき、ものごとはあるべきようにある、と思える。そうでないときは不快、不調和、不具合、醜悪、を感じる。つまり美しく思えません。逆に言えばこれが、いのちの美しさ、のことではないのでしょうか?
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目的を持っているものの美しさ。あるいは目的をもっているかの如く見えるものの美しさ。それが、たぶん、いのちの美しさなのでしょう。
花は動物を魅了するために美しく咲く。竹は天に近づくために伸びる。馬は逃げるために走る。オオカミはそれを食べるために走る。鳥は地上から離れるために飛ぶ。オスはメスを魅了するために美しく装う。親は子を大人にするために育てる。生物はすべて目的をもって動いているように見えます。
そういうものが、いのちの美しさを見せている、といえるのではないでしょうか?
逆はどうか?人間が作る機械類、たとえばロボットは、目的をもって行動しているように見えるか?つまり、いのちの美しさを持っているか?
いや、現状の技術ではとても無理そうです。コンピュータもロボットも目的をもっていそうには見えません。設計者の意図、設計目的に沿って作動しているとしか見えません。そうであれば、いのちを持つものは、実質上、生物しかいない、ということになる。
昔の人は、目的を果たそうとするいのちは美しいそして悲しい、と書き残しています。「交尾の後の動物というものは悲しいtriste est omne animal post coitum(Aelius Galenus 一二九年―二一〇年)」「君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな 藤原義孝(九五四年―九七四年)」
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さて、命の美しさ、というとき、それはどこにあるのでしょうか?命がないものにはない美しさが、命があるものにはある、ということでしょうか?
毎日の生活で、私たちはしばしば美しさを感じることがあります。それは美術であったり美人であったり美味であったり多岐にわたるでしょう。その中で、命は美しい、と感じることがある。それは命でないものの美しさとどう違うのでしょうか?
富士山は美しい。華厳の滝は美しい。法隆寺は美しい。スターバックスのロゴは美しい。ベントレーは美しい。ダイヤモンドは美しい。けれどもこれらに命はない。
ある美人が美しい、という場合、抽象的な命の美しさと、たぶん深い関係がある。
命があるということが生物であることの美しさであるというならば、つまりは、DNA情報を複製し伝達していくシステムが美しい、ということなのでしょうか?
つまり、命の美しさは、効率よくDNA情報を複製する美しさ、換言すれば、生物進化の美しさなのでしょうか?
それはダーウィンの理論からくる美しさだといえるのでしょうか?生き残り子孫を残すという目的をもって動くもの、そのように見えるものの美しさなのか?
私たちは、目的をもって動くように見えるものを感知すると、なにか、感情が動きます。目的意識、意志、意図を感じます。
それはそれが無生物であってもそう感じる場合がある。地震は神の怒りではないのか?雷は親父くらい怖い。人を威嚇しようとする意図を感じます。
逆に考えれば、そういうものが、命を持つものといえるのではないのだろうか?そしてそういうものが、いのち、の正体なのではないでしょうか?
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生物という現象は、たぶん、原初の地球上に発生した無数の原始的な細胞群の一つが、当時の環境事情に一番うまく適合したために、効率的な自己増殖システムの開発に成功して地球全体に広がってしまった、ということでしょう。グローバリゼーションですね。ダーウィンの理論 (一八五九年 チャールズ・ダーウィン「生存競争における適者保存あるいは自然淘汰の作用による種の起源について」 On the Origin of Species by Means of Natural Selection, or the Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life,1859)で完全に推測できます。
その拡散過程でDNA情報が少しずつ改変されて無数の多様な生物種に分岐して進化した。そうであれば、私たちが今、目の前に見ている多様な生命現象は、数十億年にわたる微視的なDNA情報の分岐進化が巨視的に投影されたものである、といえます。
さてところで、わたしたちが、いのち、と思っているものは、はたしてこの生物現象、つまりDNA情報の巨視的な展開構造(フェノタイプ)のことなのでしょうか(拙稿58章「生物学の中心教義について」)?もしそうであれば、いのちについては生物学者あるいは医学者に聞けばよろしい。しかし彼らが答えられない何かが、いのちについてあるような気もします。
命、ライフとは、生物システムのことなのか?その個体の発生から終焉までのシークエンスのことなのか?あるいはその生殖サイクルのことなのか?あるいは進化放散の結果である地球上の、人類を含めた、多種多彩な生命相を指すのか?
主観的な言い方をすれば、生きている物を見るとき自分の中で何かある感情が動くと感じる。これは脊椎動物に共通な神経系の反射でしょう。これが命の存在感、生命の神秘の正体です。こうして人間は、この世の中には命がある、という感覚、というか理論、つまりいわば、命の理論、を身につける。(拙稿7章「命はなぜあるのか」)
(ちなみに、命の理論、という語は現在、学術語として使われていません。筆者がいま思いついた造語です。便利でしょう。心理学、哲学用語の「心の理論」の応用で使えそうです。なぜこの語が世の中で使われていないのか?たぶん、いのち、ライフという語が当たり前すぎてその存在を疑う人があまりいないからでしょう。自分に命がない、などと思っているらしい人に会ったことがありません。おそらく筆者くらいのものでしょう。その筆者もそう思っているような態度は出しません。そんな気違いじみたことは自分でもいつもは思っていないからです。)
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