哲学の科学

science of philosophy

現代を生きる人々(2)

2020-09-26 | yy75現代を生きる人々


まず、どうやってパンを手に入れるかですが、ベーシックインカムは実現しないとしても、昔に比べて糊口程度の収入を確保することは楽になりました。一方、有効求人倍率が高止まりしているわりには、なかなか満足できる仕事のポジションが見つかりません。この競争時代、みながよいと思う社会ポジションはいつも飽和状態のようです。
不満な職場でしかたなく働く。身体は飽食しているのに心は荒廃していく。
物質的豊かさがピークに向かう現代、精神的豊かさは、逆に、どこまでも奪い去られていくかのようです。
ここで問題は横並び願望(フクヤマのいうisothymia)ですね。特に日本では強い。同調圧力がかかり競争圧力がかかる。米国英国などに比べれば格差はずっと小さいにもかかわらず、同世代との競争から落ちこぼれる恐怖が強い。終わりのない競争のストレスにさらされ続けて人々はますます不幸になっていく、といわれます。

時代は変わっていくのに前時代のブランド崇拝が、時間遅れで、根強く残っているからでしょうか。
何を求めて苦しんでいるのか?前世代が信じていた古い終身雇用組織や年功序列で取得できる肩書ステータスの社会的価値が現代でも高止まりしています。たしかにこれら価値システムのプラットフォームである伝統的な大会社や公組織に所属することを人生の目的とする人々はいまだに減っていません。そこに所属するだけの経済的メリットは前世紀までは相当高かった事実がありますが、今や急速に下落しています。しかし問題は経済メリットではなさそうです。
ブランド組織への信仰とでもいうべきものでしょう。承認欲求であるとか所属欲求であるとかいわれる自尊心にかかわる(大きなものへの)指向性は宗教の基盤でもあります。組織的宗教が消滅しつつある現代のこの時代に、それ(大きなものへの指向性)が潜在的に大きな社会心理となっていることは皮肉なパラドックスです。特に無宗教といわれる日本社会で伝統的な終身雇用組織への就職希望が現代も増え続けていることは、単に経済問題と割り切るべきではないでしょう。






自然科学ランキング
コメント

現代を生きる人々(1)

2020-09-19 | yy75現代を生きる人々

(75 現代を生きる人々 begin)



75 現代を生きる人々


歴史の上で現代とは何か?一言でいえば、世界中が豊かになった時代でしょう。ソビエト連邦崩壊から三〇年、かつてなく平和で退屈な世界が続いています。
平和が続き、世界戦争はもう来ないようである。かつて先進国といわれた欧米や日本ばかりでなくアジア南米アフリカのいわゆる新興国、開発途上国においても、少数の例外を除いて、世界中すべての国で平均寿命は上極限に向かって延び続け、生活水準と生産性は急成長しています。
この永久平和と永久繁栄の中にあって問題は、退屈と貧富の格差でしょう。

ローマ帝国の繁栄が頂点を極めた頃のようです。この古代帝国の辺境は当時の交通手段で到達できる距離の限界に達して、生産システム(ラティフンディウム)は(奴隷制生産)効率の極限に達していました。経済格差は極端に二極化し、中間層であったローマ市民は没落していきました。
平和が続けば、資本が寡占状態にまで集中蓄積され、科学技術が発達し、生産性が技術の限界にまで上がる。それらが量的に臨界点を超えれば、当然、底辺が上昇すると同時に上方への富の集中は極大に達し、貧富の格差は歴史上最高になります。

生活が安全で便利になり、多くの人がスマホを所有しています。物資は豊かになり、生活の上で不条理な危険に合う確率は極小にまで下がり、そこそこにサバイバルしていくことはそれほどつらくありません。平和が退屈なのは当然ですが、大きな物語が消えてしまっている現代(一九七九年 ジャン・フランソワ・リオタール「ポストモダンの条件 La condition postmoderne: rapport sur le savoir」)の退屈は根が深く脱出がむずかしそうです。
優秀なエリートと諸国民が成功と覇権を求めて戦った歴史時代が終わり、自由と平等が最後に勝ち残って全世界に広がる時代が到来した(一九九二年 フランシス・フクヤマ「歴史の終わり The End of History and the Last Man 」)ように見えます。もしそうであれば、戦いに勝った満足感と戦い続ける必要を失った寂しさが現代人の退屈に表れていることになります。

その現代をどう生きるか?
ローマ皇帝は市民にパンとサーカス(panem et circenses)を与えましたが、帝国の崩壊は止まりませんでした。どうも平和と経済の繁栄だけではダメなようです。
では私たち現代人は、何を求めるべきか?





自然科学ランキング
コメント

子供にはなぜ人生がないのか(11)

2020-09-13 | yy74子供にはなぜ人生がないのか


もしそうであれば近い将来、人は人生を持つ必要がなくなるのか?子供は大人になって人生を持つ必要がなくなるのでしょうか?
少子高齢化にその傾向が見えるような気がしませんか?

そうはいえるかもしれませんが、人がほしいものは経済性や安全や便利さばかりではない。大人の人間にとって、実際、自分の人生がどうであるかより重要なものはありませんね。
どこの国の大人でもそれぞれの人生を持ち、そのスタンダードを期待されて生きています。国は違っても社会の持続するシステムを支えるというスタンダードの条件は変わりません。
なぜ人生はこうであるのか?なぜそれはスタンダードに従うのか?
それは、そうでない人生が世代を超えては継承されないからでしょう。その社会で育てられる子供がそれをゴールとして目指し、大人になってそのスタンダードを継承するからでしょう。それでしか、社会を安定的に維持することはできない。そのことを、だれもが、実は、知っているのでしょう。

そうであるから、子供は生まれながらにして人生を持たない。それを持つことを期待され、それを持つ大人に育てられ、長い時間をかけてそれを獲得する。そのときが大人になるときです。■









(子供にはなぜ人生がないのか?  end)



自然科学ランキング
コメント

子供にはなぜ人生がないのか(10)

2020-09-06 | yy74子供にはなぜ人生がないのか

子供が死ぬ、あるいは子供が生まれない、大災害で多数が死ぬ、経済が崩壊する、社会が壊滅する、というようなことは異常事態であり、それが起こることを想像すると私たちは恐怖を伴う不条理を感じます。なぜか?
それは、未来がない。存続するはずの人生が存続できないからです。
ふつう世代交代が一定の速度で進み社会が安定することで未来が期待できる。そうなってこそ、自分の人生を考えることができます。子供が大人になって自分の人生を持つようになってくれなければ、大人の人生の存在も怪しくなってしまいます。
人生が見えることでそれが織り込まれた社会が作られる。人と人とが約束できる。それを守れる。それを守らせる社会的な仕組みを作るためには互いに人生を持つことが必要です。

ふつう人間がいると、その顔が見えると同時に、その性別、年齢層、そして人生がだいたいは見えています。それで社会は動いている。しかし最近急速に発展しているデジタルコミュニケーションの世界はちょっと違う方向に向かっている、とみることができます。
顔が見える人との関係でものごとが動いているはずのところが、顔がないデジタルデータとのやり取りで動いてしまうようになってきたようです。
たとえばインターネット商取引。相手はカタカナ名の会社で顔がない。それでも困りません。安全に売買ができます。行政が監督する第三者決済などユーザー保護システムが完備されてきているので人間の顔を見なくても、デジタルなプラットフォームにつながるだけで売買、決済、宣伝その他経済活動ができてしまいます。相手の顔も人生も見る必要がない。
これでは毎日の生活で人間の顔を見る必要もなくなり人生を見る必要もなくなるかもしれません。








自然科学ランキング
コメント

文献