タレント政治家の青島幸男(一九三二―二〇〇六)が参議院議員時代に執筆した直木賞処女作のタイトルは「人間万事塞翁が丙午(一九八一年)」とされていて、昭和の庶民人生を描いた名作でした。「塞翁が馬」は徴兵を免れて生き残る話ですが、「塞翁が丙午」のほうは町の商人が徴兵されたものの戦死せずに復員したという話です。
どちらの話も戦争は嫌だ、国がどうなろうと自分の家族だけは災難を乗り越えて生き残ってやる、というたくましい庶民的サバイバル感覚のもとで書かれています。逆に見れば、この故事には、国家や政治を大事とする儒教的エリート思想に反発する、いわゆる老荘思想が下敷きにあるようです。この雰囲気が後鳥羽上皇のような超エリートが挫折したときに心底で共感したところなのでしょう。
ノーベル生理学・医学賞の山中伸弥が「人間万事塞翁が馬」と題して高校生に向けて行った講演録「京都賞高校フォーラム二〇一〇年一一月一六日京都大学」がユーチュブにありますが、山中教授は医師、研究者としての職業人生で遭遇した幾度かの深刻な挫折がのちの成功の要因であった、と述べています。この故事が不屈の精神を支え、科学の躍進と国民の栄誉につながったとすれば、故事伝承の社会的効用もまた偉大である、と思えます。山中先生は筆者より十数年若いのに塞翁が好きなのか、と感心しましたが、今の若い人たちも教養としてしっかり身に着けているようです。
さりながら自分がこの翁より上くらいの歳になって、故事の原文をもう一度読んでみると、ちょっと腑に落ちないところもある。
主人公として冒頭に登場するこの老人は善術者、つまり占い上手の人だったとのことです。ここはふつう読み飛ばしますがちょっと引っかかってみましょう。当時の占い師というのは現代のコメンテーターなどより尊敬されていたのでしょう。その占い能力をほめる、という形の故事になっています。
人々がお見舞いを言っているのに楽観的なことを言ったり、お祝いを言っているのに逆に不安がったりしている。偉い先生と思われていなければ、ひねくれものと無視されて、その逸話が記載されることもないでしょう。
株価が高騰すると暴落の予想を出したり暴落するとチャンスと叫んでみたりするエコノミストのようでもあります。
そもそも国境の要塞の近くに住んでいる、とあることからリスクをよく承知していたはずでしょう。そのうえ、安全地帯に引っ越せばよいのに、そうしない。この老人はリスクが好きというか、リスクで利益を得る立場にあったのではないでしょうか。
自然科学ランキング
(59 塞翁が馬について begin)
59 塞翁が馬について
高校生の頃、筆者は次の漢文に返り点を打って読んだ記憶があります。
近塞上之人有善術者馬無故亡而入胡人皆弔之其父曰此何遽不為福乎居數月其馬將胡駿馬而帰人皆賀之其父曰此何遽不為禍乎家富良馬其子好騎墜而折其髀人皆弔之其父曰此何遽不為福乎居一年胡人大入塞丁壮者引弦而戦近塞之人死者十九此獨以跛之故父子相保故福之為禍禍之為福化不可極深不可測也(紀元前一三九年以前 淮南子巻一八人間訓)
あるいはうまく読めなかったのかもしれませんが、記憶では読めたことになっています。後で中身を知ったので楽に読めたと記憶しているのでしょう。外国語の文章は、中身を知っていれば簡単、知らないと難解です。
高校生に読ませるにはちょうど良い長さなので、教科書に使っていたのでしょう。
人生訓としてたいへん意味深いと言う人が多いようですが、まあ、中身は簡単なことを言っているようです。挫折にあっても落ち込まずに前向きに生きたらどうか、ということですね。
昔から日本人に好まれた故事であったらしく、十三世紀、北条義時に敗れた後鳥羽上皇が隠岐へ追放されたとき(承久の乱)人生を振り返って詠んだとされる和歌、
―いつとなく北の翁がごとくせばこのことわりや思ひ入れなん―
にある北の翁とは塞翁を指しています。
自然科学ランキング
現代のスマートフォン世代は、三十年前の携帯電話が肩に担ぐ型だったことを想像できないでしょう。もちろんカメラもインターネットもついていない雑音まみれの音声通信です。
競争市場では進化した機種が古い型を跡形もなく消しつくしてしまうのです。進化した結果だけを見ると、古い型が存在していた過去を想像できません。今の生物のうち最も単純な細菌などがスマートフォンだとすれば、原初の生物は、肩掛けフォンかあるいは壁掛けダイヤル電話くらいのものでしょう。スマートフォンの先祖とは思えないほど見かけも性能も違います。
何よりも、部品や材料が違う。クリック型生物の基本部品である核酸ベースやアミノ酸やリン脂質は、たぶん原初生物の部品とは違うのでしょう。それら部品の連結方式も、もちろん違います。
それら過去の原初生物の姿は部品や構造とともに完全に消滅しています。現在の地球を見渡しても、手掛かりは見つかりません。
失われた証拠の痕跡を収集し、理論と実験によって生命の起源を追求する試みは、近い将来、科学の最大の課題の一つになるでしょう。
私たちの身体は、クリックが述べた中心教義に従って作られたシステムです。このシステムは、約四十億年前、若い地球の表面で偶然できあがった自己合成機能を持つ有機分子群が大発展したものでしょう。たしかに奇跡と言いたい気にもなります。しかし、この世に起こったことは、起こるべくして起こった、とも言えます。
結果はクリック型(DNA,RNAの配列で身体の構造が決まる生物の型。これ以外の型の生物は見つかっていない)の大勝利であった。
クリック型以外の自己複製システムがあり得るのか?実際、過去の地球であり得たのか?地球以外の天体でそれはあり得るのか?それらの問いに関して、現代科学の知識では、私たちはそれを考える手掛かりさえ持っていません。
「この手紙はライフレターと言います。これと一字一句まったく同じ手紙を五通書いて知り合いの方に送信してください。そうすれば地球の生命は存続でき、あなたにも幸運が訪れるでしょう」■
(58 生物学の中心教義について end)

なぜクリックの中心教義に従う生物はそれ以外の生物を食べつくすことができたのか?
クリック型の生物がやたらに強かったということでしょう。なにしろ細胞質膜に囲まれた安全な空間の中でDNAを正確に複製していく。細胞が分裂すれば同一の生物がどんどん増えていきます。
そのような生物は試行錯誤で偶然獲得した優秀な身体を子孫に伝えていきます。優秀な子孫が急速に増えて環境を占領します。DNAの進化が始まったということです。
ダーウィンがいう適者生存、逆に言えば不適者排除が始まります。つまり生存性能がよい新しいものが出てくると、その環境空間の中で、すぐ古い型のものをほとんど入れ替えてしまいます。現代のパソコンや携帯電話みたいです。
クリック型生物は互いに競争し、時間の経過とともに進化して、どんどん生存性能が良くなっていきます。それ以外の原初生物に比べて、やたらに強く、他を食べつくすでしょう。
古い型のパソコンなど世の中から消えてしまいます。絶滅生物は骨以外残さずに消えていきます。単細胞生物しかいなかった原初の地球では、絶滅した単細胞は跡形もなく消えました。クリック型以外の原初生物は、捕食から逃れた少数が生き残っていたとしても、生存環境での栄養を奪われて消滅したはずです。
他の細胞を取り込んで溶かして消化する性能も、進化したものとしないものとでは、相当な格差ができるでしょう。結局、すばやく進化できて大量増殖できるクリック型生物が、それ以外の生物を採食しつくしただろう、と思われます。
自然科学ランキング
こんなプロセスを何億回となく繰り返しているうちに、RNAポリメラーゼやDNAポリメラーゼをなんとか複製できるDNAが偶然配列されることもある。そういうDNAを備えた細胞は同じDNAをどんどん複製して大きくなります。
さて、ここまできて、この原始細胞が分裂する機能を持てば、もう一種の単細胞生物といえそうです。
細胞が分裂するためには、まず細胞質膜が二倍くらいの面積に増える必要がある。
そうなったうえで、複製されたDNAのコピーどうしは反発しあって互いを排除した細胞質膜で囲われるようになる必要があります。そこまでの機構ができ上がれば、細胞は分裂し増殖が始まります。ここまで、まあ、試行錯誤の偶然に頼るしかないでしょう。ポリメラーゼの類ができて部分的な複製が始まってから、数千万年くらいかかるでしょうかね。
ここまでうまくできあがった細胞は、クリックの中心教義を満たしていると言えるでしょうか?まずDNAの配列に従ったタンパク質は生産されます。それらのタンパク質の働きでDNAは複製されます。複製されたDNAごとに細胞分裂によって新しい細胞ができます。このサイクルは繰り返されます。
もちろんDNA,RNA,タンパク質、細胞質膜その他の生体構造の材料、部品としての栄養素は細胞周辺に常に供給されるという前提が必要です。そうであればこの原始細胞は、クリックの中心教義に従う生物である、と言えます。
さて、現在の地球では、基本的にすべての生物がクリックの中心教義(DNA,RNAの配列で生物の身体が決まるという原理)に従って生存しています。つまり、この結果からみれば、原始の生物のうちこの中心教義通りのシステムを獲得した生物だけが子孫を残したということになります。逆に言えば、そのほかの繁殖のやり方で生存していた生物はすべて、あとかたもなく絶滅してしまった。おそらく食べられてしまった。ということでしょう。
自然科学ランキング