言葉を話す人間だけが「この私がこの身体を動かしている」と思っています。それは(言葉を話す)人間だけが[私]の理論を身につけているからです。人間以外の動物や機械は、私というものを持っていないからといえます。人間以外の動物と人間の能力の違いは、この違いからきている、といえるでしょう。
[私]の理論は、人間の自意識を作り出し、過去の行動の記憶を作り出すことができます。まず、この身体を動かしているはずの私という意図主体の存在感を作り出しそれを身体の内部に貼り付けることができます(拙稿12章「私はなぜあるのか?」)。自分の身体の内部に貼り付けられた私という意図主体が現実世界の内部を動いていった履歴を記憶しておくことで、自分の人生と周囲の社会の遷移という仮想的時空間を作ることができます(拙稿22章「私にはなぜ私の人生があるのか?」)。過去の行動を反省し評価し学習することができます。言語を使いこなして仲間と記憶を共有することで、行動評価の能力は増大していきます。そうすることによって目的を指向する将来の行動計画を立てて身体を操縦していくことができます。長期的な計画を立てて身体を制御していくこのような行動の仕組みを身につけることによって、人類は効率の高い栄養供給システムを獲得し、その結果、地球全域に拡大繁殖することに成功しました。
ちなみにこの成功には多少の副作用が伴いました。人類文明とともに[私]の理論が徐々に発展肥大していった結果、ますます緊密になった人間集団の協力体制や会話技術や集団行動技術が発達すると同時に、副産物として、自我や人生にきわめて強くこだわる生き方を生み出してしまいました。
自我や人生にこだわる生き方は緊密な社会を発展させ文明の発達には役立ちましたが、現代人にとっては精神的な悩みの原因ともなっています(拙稿19章「私はここにいる―私と世界とのいかがわしい関係」)。強烈な存在感を持つようになった自我の取り扱いに困惑を感じとる人々は、自我の存在感と(これまた文明によって鮮明になった)客観的世界の存在感との断絶に強い違和感を感じとるようになります(拙稿23章「人類最大の謎」)。冷たい物質法則に支配された客観的世界の内部にあって自分だけが孤立した特異な存在だ、という孤独感におちいってしまいます。
科学者も、客観的世界の内部にあるとしか思えない自分の脳の中にある主観的な自我(意識あるいはクオリア)の探究が科学の課題だと思い込んでしまうという錯誤に陥ります(一九九三年 大森荘蔵『意識の虚構から「脳」の虚構へ―時間と存在(1994)』)。
文明の発達によって鮮明になった世界の客観性と[私]の理論との違和感は、自我 (意識あるいはクオリア)の神秘性を生みだし、そこから自分の内面は自分しか知ることができないというプライバシーの不可侵性の信念を生みだします。それが極端に作用する場合は社会からの孤立感や虚無感を導き出す原因にもなっています。 [私]の理論の副作用によって生じるこのような(哲学的というべき)悩みは、拙稿の見解では、現代人を悩ませている哲学の間違いのうちでも最大のたぐいだと思われます(拙稿第1章「哲学はなぜ間違うのか?」)。
さて、世界の構造に話をもどしましょう。拙稿の見解では、人間にとって世界はまず目的論的に意図的行動によって推移していくような構造を持っている。目的を持って意図的に推移している世界あるいは人々、社会に対して、私たちはおおいに感情を働かせて、願ったり祈ったり交渉したり闘ったり操ったりしながら、毎日を暮らしている。
原始生活においては、仲間の人間や敵や獲物や家畜や猛獣の動きに対してこういう対応行動をとることによって、うまく栄養供給システムにつながることができたからでしょう。原始的な宗教は、あらゆる物事に神性を感じとるアニミズムからはじまっています。人類は、自分たちが感じとれるすべての存在を、まずは目的と意図を持った人間的な存在として感じとり、自分たちがよく知っている性質を持って動いているに違いないと思い込む性向があるようです(一七五七年 デイヴィッド・ヒューム『宗教の自然史』)。
ところが、人類の生活技術が発達してくると、食料を保存したり道具を作ったり戦争したり移住したり自然災害に対応したりしなければならない場面も多く出てきます。そういう場面では、人間や動物以外の物質、植物や非生物、自然現象などを自然の法則に従って操作する必要があります。相手が人間でもなく動物でもない場合(たとえば木石、土、空気や水の場合など)、その動きが目的論的に意図的行動によって推移していくと思うだけではうまく操作できません。むしろ、因果論あるいは場の理論、あるいは物質的知識や工作技術や科学を使って論理的に世界の推移を予測して行動するほうがうまく栄養供給システムにつながることに成功する。世界はこういう面も持っていることに私たちは気付くことになります。
世界は、いわばホットな目的論的な側面とクールな因果論的な側面との二面的な構造を持っている。そういう世界の二面性を知っている私たちは、自分たちも二面的に行動することで世界のこの構造に対応してうまく栄養供給システムにつながっていきます。
世界は二面的な構造を持つ。すなわち目的論的に意図的行動によって推移していくような側面と、因果論あるいは場の理論にしたがって(自然に、無目的に)推移していく側面とです。この二つの側面の間に調和はありません。互いに独立で無関係です。厳密に言えば、互いに他を否定しなければならないという意味で矛盾しています。
私たちが生活していく場面場面で、世界はそれぞれの側面を出してきます。人と交わる場面、獲物を追う場面、猛獣を防ぐ場面などは目的論を使うと便利です。一方、道具を使う場面、火や水を使う場面、あるいは石器や土器あるいは植物や動物の死体等の自然の物質を加工する場面などでは、因果論を使うと便利です。
それぞれの場面に対応して、私たちは目的論を使ったり因果論を使ったりする。私たちは、さらにきめ細かく、存在の理論や心の理論や[私]の理論など実用的な理論を次々に使いこなしながら、現実世界の出方に対応してうまく動いていきます。そうして毎日うまく栄養供給システムにつながることが重要であって、世界の構造の二面性など、それぞれの実用的な理論の間に多少の哲学的矛盾があっても、それには目をつぶってうまく立ち回って生き抜いていけばよい、ということになります。