哲学の科学

science of philosophy

世界の構造と起源(20)

2011-02-26 | xx4世界の構造と起源

言葉を話す人間だけが「この私がこの身体を動かしている」と思っています。それは(言葉を話す)人間だけが[]の理論を身につけているからです。人間以外の動物や機械は、私というものを持っていないからといえます。人間以外の動物と人間の能力の違いは、この違いからきている、といえるでしょう。

[]の理論は、人間の自意識を作り出し、過去の行動の記憶を作り出すことができます。まず、この身体を動かしているはずの私という意図主体の存在感を作り出しそれを身体の内部に貼り付けることができます(拙稿12章「私はなぜあるのか?」)。自分の身体の内部に貼り付けられた私という意図主体が現実世界の内部を動いていった履歴を記憶しておくことで、自分の人生と周囲の社会の遷移という仮想的時空間を作ることができます(拙稿22章「私にはなぜ私の人生があるのか?」)。過去の行動を反省し評価し学習することができます。言語を使いこなして仲間と記憶を共有することで、行動評価の能力は増大していきます。そうすることによって目的を指向する将来の行動計画を立てて身体を操縦していくことができます。長期的な計画を立てて身体を制御していくこのような行動の仕組みを身につけることによって、人類は効率の高い栄養供給システムを獲得し、その結果、地球全域に拡大繁殖することに成功しました。

ちなみにこの成功には多少の副作用が伴いました。人類文明とともに[]の理論が徐々に発展肥大していった結果、ますます緊密になった人間集団の協力体制や会話技術や集団行動技術が発達すると同時に、副産物として、自我や人生にきわめて強くこだわる生き方を生み出してしまいました。

自我や人生にこだわる生き方は緊密な社会を発展させ文明の発達には役立ちましたが、現代人にとっては精神的な悩みの原因ともなっています(拙稿19章「私はここにいる―私と世界とのいかがわしい関係」)。強烈な存在感を持つようになった自我の取り扱いに困惑を感じとる人々は、自我の存在感と(これまた文明によって鮮明になった)客観的世界の存在感との断絶に強い違和感を感じとるようになります(拙稿23章「人類最大の謎」)。冷たい物質法則に支配された客観的世界の内部にあって自分だけが孤立した特異な存在だ、という孤独感におちいってしまいます。

科学者も、客観的世界の内部にあるとしか思えない自分の脳の中にある主観的な自我(意識あるいはクオリア)の探究が科学の課題だと思い込んでしまうという錯誤に陥ります(一九九三年 大森荘蔵『意識の虚構から「脳」の虚構へ―時間と存在(1994)』)。

文明の発達によって鮮明になった世界の客観性と[]の理論との違和感は、自我 (意識あるいはクオリア)の神秘性を生みだし、そこから自分の内面は自分しか知ることができないというプライバシーの不可侵性の信念を生みだします。それが極端に作用する場合は社会からの孤立感や虚無感を導き出す原因にもなっています。 []の理論の副作用によって生じるこのような(哲学的というべき)悩みは、拙稿の見解では、現代人を悩ませている哲学の間違いのうちでも最大のたぐいだと思われます(拙稿第1章「哲学はなぜ間違うのか?)。

さて、世界の構造に話をもどしましょう。拙稿の見解では、人間にとって世界はまず目的論的に意図的行動によって推移していくような構造を持っている。目的を持って意図的に推移している世界あるいは人々、社会に対して、私たちはおおいに感情を働かせて、願ったり祈ったり交渉したり闘ったり操ったりしながら、毎日を暮らしている。

原始生活においては、仲間の人間や敵や獲物や家畜や猛獣の動きに対してこういう対応行動をとることによって、うまく栄養供給システムにつながることができたからでしょう。原始的な宗教は、あらゆる物事に神性を感じとるアニミズムからはじまっています。人類は、自分たちが感じとれるすべての存在を、まずは目的と意図を持った人間的な存在として感じとり、自分たちがよく知っている性質を持って動いているに違いないと思い込む性向があるようです(一七五七年  デイヴィッド・ヒューム宗教の自然史』)。

ところが、人類の生活技術が発達してくると、食料を保存したり道具を作ったり戦争したり移住したり自然災害に対応したりしなければならない場面も多く出てきます。そういう場面では、人間や動物以外の物質、植物や非生物、自然現象などを自然の法則に従って操作する必要があります。相手が人間でもなく動物でもない場合(たとえば木石、土、空気や水の場合など)、その動きが目的論的に意図的行動によって推移していくと思うだけではうまく操作できません。むしろ、因果論あるいは場の理論、あるいは物質的知識や工作技術や科学を使って論理的に世界の推移を予測して行動するほうがうまく栄養供給システムにつながることに成功する。世界はこういう面も持っていることに私たちは気付くことになります。

世界は、いわばホットな目的論的な側面とクールな因果論的な側面との二面的な構造を持っている。そういう世界の二面性を知っている私たちは、自分たちも二面的に行動することで世界のこの構造に対応してうまく栄養供給システムにつながっていきます。

世界は二面的な構造を持つ。すなわち目的論的に意図的行動によって推移していくような側面と、因果論あるいは場の理論にしたがって(自然に、無目的に)推移していく側面とです。この二つの側面の間に調和はありません。互いに独立で無関係です。厳密に言えば、互いに他を否定しなければならないという意味で矛盾しています。

私たちが生活していく場面場面で、世界はそれぞれの側面を出してきます。人と交わる場面、獲物を追う場面、猛獣を防ぐ場面などは目的論を使うと便利です。一方、道具を使う場面、火や水を使う場面、あるいは石器や土器あるいは植物や動物の死体等の自然の物質を加工する場面などでは、因果論を使うと便利です。

それぞれの場面に対応して、私たちは目的論を使ったり因果論を使ったりする。私たちは、さらにきめ細かく、存在の理論や心の理論や[]の理論など実用的な理論を次々に使いこなしながら、現実世界の出方に対応してうまく動いていきます。そうして毎日うまく栄養供給システムにつながることが重要であって、世界の構造の二面性など、それぞれの実用的な理論の間に多少の哲学的矛盾があっても、それには目をつぶってうまく立ち回って生き抜いていけばよい、ということになります。

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世界の構造と起源(19)

2011-02-19 | xx4世界の構造と起源

いずれにせよ、人間は意志を持って自分の身体を動かしている、という目的論的な思い込みは、霊長類共通の認知機構を基礎とする人類の生得的機構であるようで(一九五七年 エリザベス・アンスコム『意図』既出、一九八七年  ダニエル・デネット意図的観点』既出)、拙稿の見解では、これが言語の基礎になっている(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)。また同時にこの機構が(次に述べるように)私という存在の基盤にもなっていると思われます。

目的論・意図的行動により世界を描写する理論(反自然主義)を採用するならば(実際私たちは日常この理論を使って会話していますが)、私の身体が動いているのは当然それをだれかが意図を持って動かしているはずだ、ということになります(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか?」)。そのだれかは私と呼ばれるものだ、と私たちは思います。実際、私たちの言葉がそうなっているからです。こう思うことによって、私が存在すると感じられることになります(拙稿12章「私はなぜあるのか?」)。

ところが一方、因果論(あるいは場の理論)による世界の描写(自然主義)を採用するならば、人間の身体といえども因果関係にしたがう物質現象によって自然に動いているわけだから、自分の思考を含めて身体の状態の現状は、そうなる直前の身体の状態とそれに影響を与える周辺環境の状態とを原因として物質の法則によって決まる結果が現れることで実現している、ということになります。そうだとすれば、この身体も風が吹くのと同じように、自然現象として動いていることになるから、それを操縦している私という主体が存在すると言わなければならない理由はありません。

そうであるならば、なぜ、私たちはわざわざ私という理論を作り出して使っているのか? それはやはり私たちが生きていくために、そうすることがとても便利だからでしょう。私が私を私と思うようなそういう理論を身体に埋め込んでいることによって、人類は集団として緊密に協力できるようになりその結果、地球環境の中でずぬけて効率のよい栄養供給システムを維持する私たち現代人を出現させたからでしょう。

世界の中心に置かれているらしいこの身体を動かしているだれかがいる。そのだれかを私とする(拙稿12章「私はなぜあるのか?」)。まあ、こういう考え方を、拙稿としては、私の理論(筆者が作った理論という意味ではなくて、この世に私というものが存在するという考え方、という意味です)、と名付けましょう。

人間は、幼稚園に入るころまでに、存在の理論(本章で既述)と、心の理論(一九八七年 アラン・レズリー『ふりと表現:心の理論の起源』既出)、に加えて、ただいまここで名付けた[]の理論(まぎらわしいので[]とカッコでくくります)という理論群を身につけて人々と交わることができる。これらは幼児が大人の人間になるための基礎理論群であるといえます。これらの理論群を使いこなせれば、人々と言語を使って会話するときにたいへん都合がよい。逆にそうしなければ、まず言語をきちんとは使えません。人々と深く通じ合って協力する緊密な社会に参加することはできないでしょう。

私たちはまた、[]の理論を持つことで、自分の行動を記憶し反省し自分自身と会話することができる。自分の行動を基軸にして過去の出来事を記憶することでそれを思い出して利用できる。学習できる。これからの行動をうまく計画することが可能となる。便利な方法です。そうして人類は[]という理論を獲得し、自分たちが住む現実世界の内部を動いていく自我という存在を獲得したのです(拙稿20章「私はなぜ息をするのか?」)。

いまここで名付けた[]の理論は、昔から哲学者や心理学者が述べてきた自我とかエゴ、自意識等といわれるものに関連する概念ですが、それらと少しずつ違うところもあるので、やや脇道になるのを覚悟で少し詳しく解説してみます。

拙稿の見解では、目的論・意図的行動表現による世界の描写から派生したこの[]の理論は、人類の発達史上、言語と並行して急速に発展したと推測されます。

私たちは[]の理論を持つことで、仲間に私のことを私といって話をすることができます。まずこれがとても便利なことです。もうひとつ[]の理論を持つことのメリットとして、生活をしっかりと見通すことができるようになるという点が重要です。

私という概念がないと日記が書けませんね。日記も書けないような状況では、生活を反省することもできず、記録もできず、学習もできません。明日からの計画も立てにくいでしょう。現実世界の内部を動いているこの身体の動きを私という主体が意図的にこの身体を動かしているのだ、と感じとることで、それを記憶し、評価し、学習することができます。

私という主体が自分の身体の内部に存在していてそれがこの身体を動かしているのだ、という感じ方は物心ついたときから、無意識のうちに、ごく自然に私たちの身についています。むしろ自分の身体が動いていることに関してこれ以外の感じ方は考えられませんね。しかし自分の身体が動くときにこう思っているのは、大人の人間だけです。言葉を話せない赤ちゃんや猫や犬は、こう思っていません。赤ちゃんや猫や犬は何も思わないうちに身体が動いていきます。

赤ちゃんや猫や犬は、おいしそうな食べ物があれば「私としてはこれを食べよう」などと思わずにいつの間にかそれを食べている。受けた刺激に応じて決まった法則に従って自動的に運動が起こる。物が動くということは、こういうプロセスで起こることが、実は当たり前なのです。人間以外の動物は皆そうです。人間だけが例外だといえるでしょう。赤ちゃんも動物もロボットもコンピュータも自動洗濯機もエアコンも、(言葉を話す)人間以外の動くものはすべて「この私がこの身体を動かしている」などと思わずにいつの間にか身体が動いている。

言葉を話す人間だけが「この私がこの身体を動かしている」と思っています。それは(言葉を話す)人間だけが[私]の理論を身につけているからです。人間以外の動物や機械は、私というものを持っていないからといえます。人間以外の動物と人間の能力の違いは、この違いからきている、といえるでしょう。

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世界の構造と起源(18)

2011-02-12 | xx4世界の構造と起源

ちなみに意図を持つ主体が目的を追求して行動することで世界の物事が推移するという世界観は目的論と呼ばれ、アリストテレスから近代哲学に至る西欧哲学の系譜のひとつになっています(BC三三〇年頃 アリストテレス形而上学』既出、一七八一年 イマニュエル・カント純粋理性批判』既出)。私たちが人間や動物の動き(あるいは心理現象や社会現象)を見るときは、ふつうこういう見方をしています。

これに対して因果論と呼ばれる、物事はすべて原因から結果が引き起こされることが連鎖して推移していくのみであってどこにも目的を追求する主体などはない、という考え方も、古くから東洋にも西洋にもあります。西洋哲学ではこちらもアリストテレスから始まって近代哲学(一七三九年 デイヴィッド・ヒューム人性論既出)において発展し、現代科学の根底を支える思想になっています(自然主義という)。

因果論は、世界の中である変化が起こるのはその前の状態に原因があって、その状態から決まった法則に従って結果が起こるからその変化が起こる、という考え方です。世界には物事の推移を決める法則がまずあって、その法則に従って原因が結果を決めている。すべてはその法則と初期の状態だけで決まってくる、という理論です。

現代科学は典型的な因果論として作られています。現代物理学では、宇宙全体の時空間の上に定義される状態量伝搬方程式(時空間関数方程式)の展開によってすべての物事が推移するとする場の理論によって世界を描写しています。

科学が描く世界像によれば、物質現象を表現する微視的な(正確にいえば量子的確率分布の)状態は隣接直近過去の状態(物理学では境界条件という)によって必然的に決まることになります。そのような物質変化が連鎖し蓄積することですべての物事は推移していく。私たちの目に見える日常的な現象について例をあげれば、カエルの子は必ずカエルになる、つまりDNA分子が物理化学的法則にしたがって生物体を組織するから生物ができあがるのだ、という現代生物学の原理がその典型です。別の例をあげれば、犯人の頭蓋骨の内部にある一群の脳神経細胞に電位変化が起こったから指収縮筋の運動神経が活性化した結果、ピストルの引き金が引かれて殺人が起こったのだ、という見方を導く考え方です。その神経細胞の電位変化はその数ミリ秒前の周辺の連結神経細胞の電位変化を原因とする結果であり、そのまた原因はそのまた数ミリ秒前の神経細胞ネットワークの連結状態からの必然的な結果である、等々となる。犯人の犯意などいうものが表現される必要はない、となります(拙稿10章「欲望はなぜあるのか?」)。

因果論場の理論による世界の描写(自然主義ともいう)が正しいのか それとも目的論・意図的行動表現による世界の描写(反自然主義ともいう)が正しいのか? どちらでしょうか?

私たちの直感では、どちらもそれなりに正しいと思えるところがある。直感がそうなっているということは、人類が、互いに矛盾するこの二種類の世界認知機構を生得的に備えているということでしょう。実際、現代の認知心理学では、人間の幼児は機械的存在として非生物の概念を作り、目的論的存在として生物の概念を作り、その中間的なものとして人工物の概念を作るような生まれつきの認知機構を備えている、という実験にもとづく理論があります(一九九二年 フランク・ケイル『概念、種類と認知発達』)。

私たちの脳神経系に、他の動物の意図的行動を予測する機構が生まれつき備わっているとすれば、目的論あるいは意図的行動を読み取ることによる世界の捉え方(反自然主義)はそこから来ていると考えてよいでしょう。どうも私たちは直感を使う限り、単純な物事の動きは因果関係から予測する一方、(動物でないものも含めて)複雑な物事の動きは目的を持つ主体が意図的に動いて引き起こされている、と見たくなるようです。私たちは、雨乞いをしたり、転がるゴルフボールに向かって「入れ」と命令してみたり、株価チャートに向かって「そろそろ上がれよ」とか、つぶやきます。

人類の言語が意図を持つ主体の行動を仲間と一緒に集団的に予測するという(反自然主義的な)図式のもとに構成されている表現システムであるとする拙稿の見解(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)が正しいとするならば、言語を使って物事を記述する限り、私たちは目的論・意図的行動により世界を描写する理論(反自然主義)の枠内でしか物事を考えられないはずです。

一方、人間や社会の動きを含めて世のすべては自然の法則で移ろい行くだけであって、目的などどこにもない、というような因果論あるいは場の理論による世界の描写(自然主義)は、仏教やインド哲学などにみられるように歴史的に古くから無名の賢者たちによって唱えられてきたようです。この思想が現代科学の真髄になっていることはおもしろい現象でもあります。

しかしながらこの思想(因果論・自然主義)は歴史的に古いといっても(拙稿の見解では)たかだか一万数千年くらいの(農耕牧畜から始まる)人類文明の歴史の中で本格化した考え方でしかないと思われます。言語の発生は(拙稿の見解では)少なくともその十数万年も前に起こっています。したがって、人類の認知する世界像は、もともと目的論・意図的行動による世界の描写(反自然主義)が土台になっていて、後から因果論あるいは場の理論による世界の描写(自然主義)が、自然の物質現象を観察する実務家(ハンター・航海者・農業手工業生産者・軍人・医者など)あるいは理論家(哲学者・宗教家・天文学者・科学者)によって普及されたのではないか、と(拙稿の見解では)推測できます。

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世界の構造と起源(17)

2011-02-05 | xx4世界の構造と起源

この現実世界の中にA君がいる。A君はA君の意志によってA君の身体を動かしている。言い換えれば、A君はA君の意志によって動いている。A君の身体の動きを見て私たちはそう思います。しかしなぜ、私たちはそう思うのでしょうか? そう思うのは人間だけではないでしょうか? それともチンパンジーもそう思うのか? チンパンジーも仲間のチンパンジーが自分の意志によってその身体を動かしていると思うのでしょうか?

それでは猫もそう思うのか? カラスもそう思うのでしょうか?

肉食系の哺乳類や鳥類は、覚醒時には体温が高くなっていて、いつでもすばやく運動できます。その分、体温を維持するための餌食をいつも探しだして獲得しなければなりません。このような生態をとる動物は、その結果、身の回りの物事の変化を瞬間瞬間に察知してそれに対応して身体の神経・筋肉・内分泌系をすばやく変化させる機構を備えるようになりました。

これらの動物は、獲物や外敵など身体の周りに出現する変化に対応して、すばやく体勢を変化させることが必要です。これらのうち、高度な情報処理機能を持つ脳神経系を特に発達させた動物種は(霊長類が典型的ですが)、他の動物が動くときにその動きを予測して先回りする機能を持っています(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか?」)。

特に社会性の高い狭鼻猿類(ニホンザルや類人猿など)などでは、仲間や他の動物(運動物体)の動きを目と耳で見聞きして、それ(運動物体)が次の瞬間に目玉や顔や手足の筋肉をどう動かしてどのような姿勢を取ってどのような運動を行い、またどの位置に移動していくかを正確に予測できるようです(二〇〇八年 ジャスティン・ウッドル、マーク・ハウザー『人類以外の霊長類における行為把握:運動シミュレーションか推測法か』既出)。脳神経系のこの機構がさらに発展して、他の動物の意図を推測するシステムを作り出し、それが(拙稿の見解では)人類では言語の基礎になっている(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)、と思われます。

「お客が少ないレストランに私が入ってあげると、なぜか客が集まってくるんだ」と妻に言ったところ、「食事の時間が人より早いからじゃない?」と笑われてしまいました。人間は人間の動きをみると、その動きの意図を同時に感じとっています。逆に言えば、人間の意図を感じとれるからその人が動いたことが感じとれる、といえる。その人の意図を感じとれるからその人の存在が感じられる、ともいえる。その人が動くことと私自身とはどう関係するのか?私たちは無意識に予測してしまいます。私たちの脳神経系は、人間の意図を感じとりその動きを予想するときに最も活発に働くようです。

人類の言語(自然言語)は(拙稿の見解では)、意図を持つ主体の行動を仲間と一緒に同時に予測しそれを共有する、という図式のもとに構成されている記述システムです(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)。言葉(自然言語)を使って物事を語る限り、主体―意図的運動、というこの図式から抜け出せない(一九二一年 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』既出)。

これは(拙稿の見解では)言語以前に人類の認知機構が、目的あるいは意図を持つ主体の行動を仲間と一緒に同時に予測しその予測を共有するシステムとして構成されているからです。人間の認知機構は、物体(たいていは動物)が動くことを(目や耳で)感知すると、その動きの結果として実現する状況を予測し、その状況を実現するという目的や意図を持ってその物体(たいていは動物)が動いている、という図式を作り出す。

私たちは、たとえばライオンがシマウマの後ろから走っていくのを目撃すると、ライオンはシマウマを捕食するだろうと予測して、その捕食がライオンの走行の目的だ、ライオンはシマウマの捕食という意図を持って走行しているのだ、という図式を構成する(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか?」)。私たちは、リンゴが枝から離れて地面に落ちるのを見ると、「あ、リンゴは地面に向かうという目的を持って地面に向かって動いているな」と一瞬思います(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?【11】」)。

ところが現代科学は、アイザック・ニュートン(一六八七年 アイザック・ニュートン自然哲学の数学的原理』既出)に始まる因果関係を基礎とする力学、さらにジェームス・マックスウェルに始まる場の理論など、(偏微分方程式やテンソル方程式などの)時空間関数方程式を使って状態量の伝搬を表現することに成功し、これにより物質世界を記述することで主体―意図的運動という認知図式から抜け出しました(拙稿第14章「それでも科学は存在するのか?」)。

つまり、ニュートンによれば、リンゴは地面に落ちるという目的を持って地面に向かっているのではなくて、何か(この場合は地球重力)を原因として加速された結果(因果関係により)そのように動いているだけであって目的など持たない、ということです。この考えにもとづいて作られてきた科学は大成功しました。

一方、私たちの日常言語(自然言語)は(拙稿の見解では)、意図を持つ主体の行動を予測しその意図を描写する、という図式のもとに構成されている記述システムですから、科学の記述システムと日常言語のそれとの間には乖離が起こる。その乖離が現代に至り、(拙稿の見解では)先に述べた世界のチキン―エッグ問題(あるいはデカルトスピノザ問題、あるいは心身二元論問題、あるいは心脳問題クオリア問題あるいは現象学、あるいはハードプロブレムと呼ばれる形而上学の問題)を深刻化しています。

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