ちなみに、数を操作する基本的な能力は人類だけでなく、霊長類に広く共有されているらしい(二〇〇七年 ジェシカ・カントロン、エリザベス・ブランノン『猿と大学生の基礎数学』、二〇〇七年 イルカ・ディースター、アンドレアス・ニーダー『前頭前野皮質における記号と数的カテゴリーの意味的連想』)。そうだとすれば、現代数学が空理空論であるとしても、その基礎をなす数的構造の認知機能は、猿の脳神経構造に作りこまれていることになる。つまり、猿と人類、そしてその共通の祖先は、数を使いこなすことによって生活環境にうまく適応してきたらしい。抽象的な数学は、現代人の生活にとって必要なばかりでなく、私たちの遠い祖先の生活にも、また猿としての生活にも、必要不可欠な実用的なものなのでしょう。その意味で、数学にもとづいた現代科学は、新聞などでよく唱えられるように、人間の身体感覚からまったく離れた異質で非人間的な発明品である、というほどではない。科学は、もともと私たち人類の身体感覚の延長として作られたが、かなり遠くのほうへ延長できてしまったゆえに、身体で直接感じられなくなってきている、ということでしょう。
数学で書かれた自然法則によって、物質の変化を予測する。現代科学の予測能力は、あらゆる場面で働く。強力な技術力です。人間の身体から遠く離れて、遠い惑星の表面でも、原子炉の中でも、スーパーコンピュータの中でも、現代科学は物質を操作する。まさにユニバーサルな原理です。これほど力がある現代科学は、それを生んだ人間の直感よりも、ずっと本物の現実を表しているように見える。
物質世界の現実は、私たちの感情と無関係に存在すると感じられる科学の法則に支配される。数学方程式に従って動く電子やイオンやプラズマの世界です。物質を構成しているこれらの粒子は小さすぎて目に見えない。言葉や図で説明されても、直感で分りにくい。正確に理解するには、数学で表現された物理学を使わなければなりません。それにもかかわらず、科学の現実は、現代人の私たちには、圧倒的な存在感を持っている。
私たちの日常生活に不可欠な、携帯電話やテレビや冷蔵庫や抗生物質は、科学によって与えられています。一方、その現代科学を正確に表現するには、日常の言葉ではきちんと語れず、抽象理論を使い、難解な数学を使わなければ語れない。このことから現代では、現実そのものであるはずの物質世界が、専門家以外の人々にとって、ますます身体で感じにくいものとなっていく(拙稿14章「それでも科学は存在するのか?」)。
このあたりの違和感が、現代科学が支配する現実世界に生きる私たち現代人が感じる自分自身の居心地の悪さ(次章で考察の予定)につながっているのではないでしょうか?
自然科学というものは、きちんとした理系の訓練を受けた人々だけができる特殊なスポーツです。正しいレッスンを受けないと正しいゴルフはできない。体感が優れている人ほど、自己流では、間違ったゴルフをする。正しいレッスンでは、自然の体感に反したパラドクシカルな運動神経の使い方を教え込まれる。それを身につけなければ、ゆがんだ空間でのスイングなどはできません。
自然科学では、私たちが自然に身につけた(拙稿の用語法で言うところの擬人化を使う)思考法をしてはいけない。つまり、パラドクシカルですが、自然科学では(自然発生した日本語や英語など)自然言語を使ってはいけない。直感に従って、擬人化を使って作られている自然言語を、素直に使ってはいけない。それをすると、昔々の(アリストテレスの自然哲学などの)古代科学や昨今流行の偽科学になってしまいます。現代科学では、擬人化にもとづいた自然言語の代わりに、素人の直感では分りにくい数学表現、たとえばベクトル空間、テンソル表現、微分方程式、統計理論、ゲーム理論などを使う。山や川や花や鳥を自然というならば、超巨大加速器でしか実現できない亜光速衝突を、スーパーコンピュータで超多次元微分方程式としてシミュレーションする自然科学は、あまり自然という感じはしませんね。
現代科学は、精緻に設計製造された高価な実験装置や観測装置を使いこなし、数学とコンピュータを駆使したデータ処理を行わなければできない。このように自然でない装置や操作に頼って行わなければならない仕事であるからには、(拙稿の見解では)自然科学という名称はあらためて、不自然科学と呼ぶべきです。では、人文社会科学は? それらの学問は、たしかに人間的で文化的ですが、まさに言語を使いこなし擬人化システムを使いこなして理論を分化させる仕事ですから、擬人分化学と呼ぶべきでしょう。
不自然科学vs.擬人分化学。哲学はどちらかに入るのか、どちらにも入らないのか。不自然で良いのか? 擬人で良いのか? 拙稿は、それが哲学の大問題だ、と言いたいわけです。
閑話休題、不自然科学の話はさておき、言語の作られ方について、ここまでの話を、もう一度、具体的に書き下して、整理してみましょう。
私たちが物事を感じると、それに反応して身体が変化します。身体が変化するということは、(脳や抹消の)神経細胞の活動のほかに、心臓血管系、内臓平滑筋、内分泌、外分泌など目に見えない変化、そして表情や動作や姿勢や発声など外側から見てわかる外形変化、が起こることです。人間の集団では、私たちはいつも、たがいに仲間の姿を注視していますから、お互いの身体の外形が変化すると、瞬時に感知する。人間から音声が出ると、すぐ聞き取れる。それで、お互いに、何をしているか分る。その人が、何を注視して、何を対象として動作しようとしているのかが分る。その人の気持ちに乗り移る憑依が起こる。気持ちが通じ合う共感が起こる。私たちは、表情や動作や発声などお互いの外形変化を見聞きすることで、共感を確かめ合うことができる。互いにつられて同じ動き(共鳴運動)をしてしまう。実際にしないまでも、同じ動きを(仮想運動として)しそうになる。そのとき、(拙稿の見解では)私たちの脳内に引き起こされる集団的共鳴運動の経験が、身体運動‐感覚受容シミュレーションとしてお互いの脳に記憶される。
こうして仲間の人間集団の中で繰り返して同じ共鳴運動が起こることで、(拙稿の見解では)その物事は客観的な現実として認識される。実際には、自分ひとりで物事を感じ取る場合も、まったく同じ仕組みが働いている。つまり私たちは、脳内で無意識のうちに、別の人間(仲間)の目でその物事を見ることで(仮想の)集団的共鳴運動を形成し、その体感から、その物事を意識的に、現実として感じ取る。逆に言えば、(実体あるいは仮想の)集団的共鳴運動の対象として共感できない物事は、私たちには客観的な現実とは感じられず、記憶もされない。
私たちが、感じるもののうちの一部分だけが(拙稿の見解では)仲間どうしで共感され、このような集団的共鳴を引きこして(意識的に)現実の物事として認知される。さらに、そのうちの、特に繰り返し共感される一部分だけが言語化される。このことが、言語で表現できる物事の限界を決めている。
一つの文化共同体の人々(民族など)は、(拙稿の見解では)集団的共鳴運動として共感できる一そろいの物事の集合、つまり身体運動‐感覚受容シミュレーションの体系、を集団的に記憶している。人々は、集団内で(頻繁に)共鳴運動を繰り返すことによって、その経験を安定的に共有する。皆一緒に笑ったり、歌ったり、踊ったりする。カラオケなどその典型です。それで、お互いに同じ物事を同じように感じられる、と感じる。その物事に対応する身体運動‐感覚受容シミュレーションが共有される。その共有シミュレーションを音声で表わして安定的に共有することが生活に便利な場合、それは言語になる。
その場合、注目する物事の共有シミュレーションを主語(XX)で表わす。つぎに、擬人化されたその物事の動きを駆動すると感じられる欲望、意欲、意志、意図、の共有シミュレーションを述語(○○)で表わす。これらをつなげて、「XXが○○をする」という言語形式で表現する。こうして、言語は、物事の変化を表現する。どの国のどの言葉も、そうなっています。
XXも○○も、それが表現する物事に関して人々が集団で共鳴運動を繰り返す場合に、言葉になる。原初的な言葉の作られ方は、たぶん、実際に仲間の動きに追従して自分の身体を動かす直接的な共鳴運動から始まったのでしょう。目の前の物質現象を指しながら、人々が互いに身体を動かして共鳴運動をすることで、物質現象に対応する身体運動‐感覚受容シミュレーションを共有することができる。それを発声に対応させて、言葉が作られる。
次の段階では、目の前に見えない遠くの物質現象、あるいは過去や未来の物質現象を表現する仮想の共鳴運動が作られるようになる。これは、仮想運動ができるようになるからです。この場合、ジェスチャーなどでもいくらかはできますが、言葉を使うと飛躍的に便利になる。こうなると、共鳴運動に対応する言葉を発声することで、実際に身体を動かさずに脳内で身体運動‐感覚受容シミュレーションの想起、連想、連鎖などの操作ができるようになる。こうして、言語は、目の前の物質現象から離れて、自由に想像の世界を表現できるようになった。
はじめは目の前の物質現象だけを表わしていた言語は、仮想運動を駆使することで遠くの物質現象を表現できるようになり、さらに発展して、人間どうしが共感できる想像や空想や錯覚や感情や抽象概念なども、表現するようになる。言語技術はさらに発展し、物質現象の比喩や生成的な構文や音韻構成などを利用して、ますます自由に、複雑な共有シミュレーションを作り出し、新しい存在感を作り出して、仲間と共有することができるようになっていった。それらは、文化共同体の目に見えない共有財産となり世代間を引き継がれていく。結局、人間は、文化共同体の内部で、仲間とともに感じたり、想像したり、空想したりすることができる膨大な数の物事を、不自由なく言語で表現するようになる。そうなると、ついには、言語で表現できるものが世界のすべてだ、と思い込むようになる。
こういうものが(拙稿の見解では現状の)人類の言語(自然言語)です。