哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ言葉が分かるのか(12)

2008-08-30 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

ちなみに、数を操作する基本的な能力は人類だけでなく、霊長類に広く共有されているらしい(二〇〇七年 ジェシカ・カントロン、エリザベス・ブランノン『猿と大学生の基礎数学』、二〇〇七年 イルカ・ディースター、アンドレアス・ニーダー『前頭前野皮質における記号と数的カテゴリーの意味的連想』)。そうだとすれば、現代数学が空理空論であるとしても、その基礎をなす数的構造の認知機能は、猿の脳神経構造に作りこまれていることになる。つまり、猿と人類、そしてその共通の祖先は、数を使いこなすことによって生活環境にうまく適応してきたらしい。抽象的な数学は、現代人の生活にとって必要なばかりでなく、私たちの遠い祖先の生活にも、また猿としての生活にも、必要不可欠な実用的なものなのでしょう。その意味で、数学にもとづいた現代科学は、新聞などでよく唱えられるように、人間の身体感覚からまったく離れた異質で非人間的な発明品である、というほどではない。科学は、もともと私たち人類の身体感覚の延長として作られたが、かなり遠くのほうへ延長できてしまったゆえに、身体で直接感じられなくなってきている、ということでしょう。

数学で書かれた自然法則によって、物質の変化を予測する。現代科学の予測能力は、あらゆる場面で働く。強力な技術力です。人間の身体から遠く離れて、遠い惑星の表面でも、原子炉の中でも、スーパーコンピュータの中でも、現代科学は物質を操作する。まさにユニバーサルな原理です。これほど力がある現代科学は、それを生んだ人間の直感よりも、ずっと本物の現実を表しているように見える。

物質世界の現実は、私たちの感情と無関係に存在すると感じられる科学の法則に支配される。数学方程式に従って動く電子やイオンやプラズマの世界です。物質を構成しているこれらの粒子は小さすぎて目に見えない。言葉や図で説明されても、直感で分りにくい。正確に理解するには、数学で表現された物理学を使わなければなりません。それにもかかわらず、科学の現実は、現代人の私たちには、圧倒的な存在感を持っている。

私たちの日常生活に不可欠な、携帯電話やテレビや冷蔵庫や抗生物質は、科学によって与えられています。一方、その現代科学を正確に表現するには、日常の言葉ではきちんと語れず、抽象理論を使い、難解な数学を使わなければ語れない。このことから現代では、現実そのものであるはずの物質世界が、専門家以外の人々にとって、ますます身体で感じにくいものとなっていく(拙稿14章「それでも科学は存在するのか?」)。

このあたりの違和感が、現代科学が支配する現実世界に生きる私たち現代人が感じる自分自身の居心地の悪さ(次章で考察の予定)につながっているのではないでしょうか?

自然科学というものは、きちんとした理系の訓練を受けた人々だけができる特殊なスポーツです。正しいレッスンを受けないと正しいゴルフはできない。体感が優れている人ほど、自己流では、間違ったゴルフをする。正しいレッスンでは、自然の体感に反したパラドクシカルな運動神経の使い方を教え込まれる。それを身につけなければ、ゆがんだ空間でのスイングなどはできません。

自然科学では、私たちが自然に身につけた(拙稿の用語法で言うところの擬人化を使う)思考法をしてはいけない。つまり、パラドクシカルですが、自然科学では(自然発生した日本語や英語など)自然言語を使ってはいけない。直感に従って、擬人化を使って作られている自然言語を、素直に使ってはいけない。それをすると、昔々の(アリストテレスの自然哲学などの)古代科学や昨今流行の偽科学になってしまいます。現代科学では、擬人化にもとづいた自然言語の代わりに、素人の直感では分りにくい数学表現、たとえばベクトル空間、テンソル表現、微分方程式、統計理論、ゲーム理論などを使う。山や川や花や鳥を自然というならば、超巨大加速器でしか実現できない亜光速衝突を、スーパーコンピュータで超多次元微分方程式としてシミュレーションする自然科学は、あまり自然という感じはしませんね。

現代科学は、精緻に設計製造された高価な実験装置や観測装置を使いこなし、数学とコンピュータを駆使したデータ処理を行わなければできない。このように自然でない装置や操作に頼って行わなければならない仕事であるからには、(拙稿の見解では)自然科学という名称はあらためて、不自然科学と呼ぶべきです。では、人文社会科学は? それらの学問は、たしかに人間的で文化的ですが、まさに言語を使いこなし擬人化システムを使いこなして理論を分化させる仕事ですから、擬人分化学と呼ぶべきでしょう。

不自然科学vs.擬人分化学。哲学はどちらかに入るのか、どちらにも入らないのか。不自然で良いのか? 擬人で良いのか? 拙稿は、それが哲学の大問題だ、と言いたいわけです。

閑話休題、不自然科学の話はさておき、言語の作られ方について、ここまでの話を、もう一度、具体的に書き下して、整理してみましょう。

私たちが物事を感じると、それに反応して身体が変化します。身体が変化するということは、(脳や抹消の)神経細胞の活動のほかに、心臓血管系、内臓平滑筋、内分泌、外分泌など目に見えない変化、そして表情や動作や姿勢や発声など外側から見てわかる外形変化、が起こることです。人間の集団では、私たちはいつも、たがいに仲間の姿を注視していますから、お互いの身体の外形が変化すると、瞬時に感知する。人間から音声が出ると、すぐ聞き取れる。それで、お互いに、何をしているか分る。その人が、何を注視して、何を対象として動作しようとしているのかが分る。その人の気持ちに乗り移る憑依が起こる。気持ちが通じ合う共感が起こる。私たちは、表情や動作や発声などお互いの外形変化を見聞きすることで、共感を確かめ合うことができる。互いにつられて同じ動き(共鳴運動)をしてしまう。実際にしないまでも、同じ動きを(仮想運動として)しそうになる。そのとき、(拙稿の見解では)私たちの脳内に引き起こされる集団的共鳴運動の経験が、身体運動‐感覚受容シミュレーションとしてお互いの脳に記憶される。

こうして仲間の人間集団の中で繰り返して同じ共鳴運動が起こることで、(拙稿の見解では)その物事は客観的な現実として認識される。実際には、自分ひとりで物事を感じ取る場合も、まったく同じ仕組みが働いている。つまり私たちは、脳内で無意識のうちに、別の人間(仲間)の目でその物事を見ることで(仮想の)集団的共鳴運動を形成し、その体感から、その物事を意識的に、現実として感じ取る。逆に言えば、(実体あるいは仮想の)集団的共鳴運動の対象として共感できない物事は、私たちには客観的な現実とは感じられず、記憶もされない。

私たちが、感じるもののうちの一部分だけが(拙稿の見解では)仲間どうしで共感され、このような集団的共鳴を引きこして(意識的に)現実の物事として認知される。さらに、そのうちの、特に繰り返し共感される一部分だけが言語化される。このことが、言語で表現できる物事の限界を決めている。

一つの文化共同体の人々(民族など)は、(拙稿の見解では)集団的共鳴運動として共感できる一そろいの物事の集合、つまり身体運動‐感覚受容シミュレーションの体系、を集団的に記憶している。人々は、集団内で(頻繁に)共鳴運動を繰り返すことによって、その経験を安定的に共有する。皆一緒に笑ったり、歌ったり、踊ったりする。カラオケなどその典型です。それで、お互いに同じ物事を同じように感じられる、と感じる。その物事に対応する身体運動‐感覚受容シミュレーションが共有される。その共有シミュレーションを音声で表わして安定的に共有することが生活に便利な場合、それは言語になる。

その場合、注目する物事の共有シミュレーションを主語(XX)で表わす。つぎに、擬人化されたその物事の動きを駆動すると感じられる欲望、意欲、意志、意図、の共有シミュレーションを述語(○○)で表わす。これらをつなげて、「XXが○○をする」という言語形式で表現する。こうして、言語は、物事の変化を表現する。どの国のどの言葉も、そうなっています。

XXも○○も、それが表現する物事に関して人々が集団で共鳴運動を繰り返す場合に、言葉になる。原初的な言葉の作られ方は、たぶん、実際に仲間の動きに追従して自分の身体を動かす直接的な共鳴運動から始まったのでしょう。目の前の物質現象を指しながら、人々が互いに身体を動かして共鳴運動をすることで、物質現象に対応する身体運動‐感覚受容シミュレーションを共有することができる。それを発声に対応させて、言葉が作られる。

次の段階では、目の前に見えない遠くの物質現象、あるいは過去や未来の物質現象を表現する仮想の共鳴運動が作られるようになる。これは、仮想運動ができるようになるからです。この場合、ジェスチャーなどでもいくらかはできますが、言葉を使うと飛躍的に便利になる。こうなると、共鳴運動に対応する言葉を発声することで、実際に身体を動かさずに脳内で身体運動‐感覚受容シミュレーションの想起、連想、連鎖などの操作ができるようになる。こうして、言語は、目の前の物質現象から離れて、自由に想像の世界を表現できるようになった。

はじめは目の前の物質現象だけを表わしていた言語は、仮想運動を駆使することで遠くの物質現象を表現できるようになり、さらに発展して、人間どうしが共感できる想像や空想や錯覚や感情や抽象概念なども、表現するようになる。言語技術はさらに発展し、物質現象の比喩や生成的な構文音韻構成などを利用して、ますます自由に、複雑な共有シミュレーションを作り出し、新しい存在感を作り出して、仲間と共有することができるようになっていった。それらは、文化共同体の目に見えない共有財産となり世代間を引き継がれていく。結局、人間は、文化共同体の内部で、仲間とともに感じたり、想像したり、空想したりすることができる膨大な数の物事を、不自由なく言語で表現するようになる。そうなると、ついには、言語で表現できるものが世界のすべてだ、と思い込むようになる。

こういうものが(拙稿の見解では現状の)人類の言語(自然言語)です。

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私はなぜ言葉が分かるのか(11)

2008-08-23 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

リンゴが下に落ちようとするその仮想運動とそれに伴うリンゴの存在感、それが話し手と聞き手の間で共有されていることを確認するために、述語「そこにある(存在動詞と呼んで特別扱いをする文法理論もあるが、拙稿ではふつうの述語と考える)」を主語「リンゴが」につなげて「リンゴが、そこにある」と言う。

話し手は、聞き手に、この身体運動‐感覚受容シミュレーション(自分がそのリンゴになって下に落ちようとするが机の表面に支えられている運動とその体感)が共有されていることを確認するために音節列(「リンゴが、そこにある」)を発声する。この音節列が発音されるとき、話し手の表情、視線などの運動を見ると、聞き手は自分がそれ(自分がそのリンゴになって下に落ちようとするが机の表面に支えられている運動と体感)を感じているような気になる。二人の身体がいっしょに同じ仮想運動をしている。人体どうしが共鳴する。実際は、脳の運動形成過程の共鳴です。そのとき、音節列(「リンゴが、そこにある」)、つまり「XXが○○をする」という言語形式は、聞き手と話し手を共通の運動共鳴でつなぐ。つまり言葉として働く。

ちなみに、リンゴが下に落ちていくのを見て、リンゴが下に落ちていく、と思わなかった人が天才ニュートンだ、ということになっています。私たちふつうの人間は、リンゴが落ちていくのを見て、リンゴが落ちていく、と思う。私たちは、(ちらっとですが)自分がリンゴになって下に落ちていく気持ちになりながら、リンゴの落下運動をながめる。私たちは、月が空に浮かんでいるのを見て、月が浮かんでいる、と思う。そのとき(ちらっとではあるが)、自分が月になって空に浮かんでいる気持ちになりながら、空に浮かんでいる月をながめる。

ニュートンは(たぶん、ちらっとも)そうは思わなかった。リンゴが落ちるのを見て、自分の身体でリンゴの落下運動をなぞらなかった。月が浮かんでいるのを見て、自分の身体で月の浮遊運動をなぞらなかった。だから、ニュートンは天才だった。

地球とリンゴの間には万有引力(重力)が働くことによって、リンゴは地球に向かって加速されていく。地球と月の間にもまったく同じ法則が働くことによって、月は地球に向かって加速される。その法則を運動方程式で書いて(境界条件を与えて)積分すれば、まったく同じ計算方法で、リンゴの運動も、月の運動も、正確に求められる。

ニュートンによれば、すべての物質はその運動方程式の積分計算で予測されるとおり動く(一六八七年 アイザック・ニュートン自然哲学の数学的原理』既出)。一般相対性理論ではこれを拡張して、重力を、アインシュタインの場の方程式が定義する空間のゆがみに埋め込んで表現する。これが科学の見方です。実際、リンゴや月は、科学の法則どおり、これら方程式で予測された軌道に沿って正確に動きます。

現代人はこのことに何の疑いも持たない。しかし実際、目の前にリンゴの落下を目撃するとき、私たちは、直感では、こう思わない。

リンゴは下に落ちるものだから下に落ちる、リンゴは自然に下に落ちようとする気持ち(のようなもの)を持っているから落ちていく、と私たちは素直に思う。つまり、私たちは、リンゴを含めて世の中のあらゆる物事はその内部に何か感情、意欲、意志、意図のような内的要因を持っていてそれに駆動されて動く、と思っている。そう思わなければ、「リンゴが落ちる」という言葉の形は、思い浮かびません。

リンゴが落ちるのを見て、リンゴは落ちようとするから落ちる、と私たちは思う。月が浮かんでいるのを見て、月は落ちようとしないで浮かんでいようとするから浮かんでいる、と思う。(科学者でないふつうの人は)宇宙ステーションの中にリンゴが浮かんでいるのを見て、宇宙では、リンゴは落ちようとしないで浮かんでいようとするものだから、浮かんでいる、と思う。

私たちは、(拙稿の見解では)物事を見るとき、それがそう動いてそうなっている事を見ると、無意識のうちに身体がそれに共鳴してその運動をなぞる。仲間集団の動きに追従する自分の身体のその仮想運動を、私たちは自分の体感で捉える。そうすることで、すべての物事は、それがそう動くためにその内部に内的な駆動力を持っていると感じられる。その内的な駆動力を、私たちは自分の身体が共鳴する体感で納得している。その体感から、それが現実だ、と直感で感じる。逆に言えば、こうして私たちは、目の前の現実を捉える。私たちの身体はそうできている。そういう身体の仕組みの上に、私たちの現実があり、その上に言語は作られています。

人類の言語は、「XXが○○をする」という形式を持っている。このことは、(拙稿の見解では)私たちが物事を見るとき「XXが○○をしようとして、する」と感じて見ていることを示している。私たちは、XXを擬人化してその内的な駆動力、あるいは感情、またはタマシイ、を感じ取り、(無意識のうちに)擬人化されたXXの感情(タマシイ)が導く運動○○を推測して、その行動を予想しようとする。

ニュートンは物事をそう見なかった。少なくとも、プリンキピア(一六八七年 アイザック・ニュートン自然哲学の数学的原理』既出)を書いているときは、そう見なかった。だから天才なのでしょう。天才でない私たちは、(拙稿の見解では)物事が動き変化するのを見るとき、それを擬人化して「XXが○○をしようとして、そうする」と見ることしかできない。

そうするように、私たちの身体は(無意識の脳は)働いてしまう。物事の意味を考えようとするとき、(拙稿の見解では)私たちは、それを、群棲動物が仲間の身体運動に追従するときに使う運動形成の神経機構を使っている。私たち人間は、そうしないで物事の意味を考えることはできない。逆に言えば、そうすることが、物事の意味を(人間として)考える、ということだといえる。

ニュートンは、物体の運動を予測するとき、それを見てそれに追従しようとする自分の身体の無意識な働きを無視した。自分の身体が答えてくれる直感の予測を受け取らずに、紙に数式を書いて計算した。計算で運動を予測するために、天才は、微分積分を考案し、さらに微分方程式を考案して、物体の運動を計算した。ニュートンの運動の法則と呼ばれる微分方程式(運動方程式)を境界条件に沿ってどんどん積分していくと、世界のすべての物体の変化が予測できる。このとき、初めて人類は、言葉による比喩を使わずに(数学を使って)世界を正確に語り合う方法を手に入れたといえる。現代物理学の相対性力学や量子力学の方程式でもまったく同じ数学構造を(拡張して)使う。こうして、現代科学は擬人化を使わずに、物事を予測できるようになった。

現代科学は、(古代科学や偽科学と違って)物質の中に感情や神秘的な要素を見ることはない。アニミズムは完全に否定される。この思想を敷衍すれば、動物の中にも、さらには人間の中にも(宇宙のどこにも)神秘的あるいは精神的なものはないことになる(拙稿7章「命はなぜあるのか?」拙稿8章「心はなぜあるのか?」)。

人類の言語の骨格を作っている擬人化とその副産物であるアニミズムから決別した科学。それは、最初に数学を使って世界を描写したニュートン力学から始まったといえる。

現代科学は、自然言語の土台になっている擬人化と比喩に頼る表現は使わない。代わりに数学構造を下敷きに使っている。ところが、私たちが、ふつうに言葉を使って物事の動きを考えるときは、逆に数学理論は使わない。物事の動きを考えるとき私たちは、言葉を媒介として、無意識のうちに自分の身体に問いかけて答えをもらう。

言葉による問いかけに、私たちの身体は、仲間の身体運動に追従するときに使う(無意識の)神経機構を使って答える。私たちの身体のこの無意識の反応は、(拙稿の見解では)擬人化の働きを作り出し、憑依を作り出し、またアニミズムを作り出す根源になっている。

言葉を使うことで、(拙稿の見解では)私たちは仲間との集団仮想運動を作り、仮想運動にそって、無意識に身体が反応することで自分の身体が発生する感覚を知り、その感覚を擬人化した物事に貼り付けることによって、言語による問いかけに答える。言葉の意味が、直感で分かる、とはこういうことです。私たちは、自分たちの身体の仮想運動を媒介とする言語を使ってこの仕組みで世界を語り合い、現実を理解しあっている。私たちが日常生活で物事の動きを予測するときは、その物事に対する自分の身体の無意識な反応(直感)を使う。それが、物事に関する言語表現になっていく。

現代科学の方法はこれと違う。私たちの直感から離れた数学構造に埋め込まれた物質世界のモデル(自然法則)を計算した結果で語り合う。幾何学や微分方程式や確率統計論が物質現象を表す。微分方程式の境界条件が、物事の存在を表現する。この語り方は、ニュートンが始めた。ニュートン力学とそれを手本として発展した現代科学は、数学にならって言葉の定義と使い方を人工的に形式化することで、数学的表現形式の中に物質世界のモデル(自然法則)を埋め込むことに成功した。この成功によって、現代科学は人間の生身の身体から遠く離れた抽象的空間に存在できることになった。

数学的構造は、自然言語と違って、私たちの感情に響かない。すくなくとも、感情に響くことによって意味を作り出すようにはできていない。(数学者以外の人は)数学的表現を聞いたり読んだりしても、身体がそれにつられて動かされるようなことはありませんね。数学的構造は、機械的な手続きの繰り返しで作られている。コンピュータの演算操作と同じです。原理的に人間の身体を使わない形式的操作です。人間の身体にとっては意味がない。(数学者以外の人にとっては)空理空論です。ところが、逆説的ですが、数学は空理空論であるがゆえに、現実をよく表現できる。人間の感情が入らないから、物質世界の自然法則をそのまま表現できる。

現代科学の理論は、膨大な量の実験と観察によって得られるデータに合わせ込んで作られている。このことから、科学は、空理空論である数学を使って表現されているにもかかわらず、むしろそうであるからして、逆に、現実の物質世界の変化を正確に予測できる。自然を描写し予測する数学のこの驚異的な性能には、物理学者自身も神秘を感じているくらいです(一九六〇年 ユージン・ウィグナー自然科学における数学の理由なき有効性』)。

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私はなぜ言葉が分かるのか(10)

2008-08-16 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

たとえば、机の上にリンゴがある。リンゴを見ながら、擬人化の働き方について考えてみましょう。まず、リンゴのような大きさの物は、手で簡単に動かすことができる。片手で持って移動できる。その物が簡単に人に動かされる、と見なされる場合は、ふつう、その物自体は擬人化されず、むしろそれに触れている人の運動が注目される。リンゴは、その場合、それを持つ人の、持つという運動の目的物とされ、持つという述語の目的語として言語化される。こういう場合のリンゴは、目的語にはなるが主語としては言語化されない(受動態の主語になる場合は特殊な擬人化が起こるが、詳細は省略する)。私たち観察者の脳内では、外力で動かされる物は擬人化されずに、その物を動かす人が(もともと人であるが)擬人化されることで憑依が起こり、その人の運動に共鳴した仮想運動が起こる。観察者は、物を動かす人の内的意図を読み取って、動かされる物の次の動きを予測する。

リンゴのように、手で動かせる手ごろな物体、あるいは道具、のようなものは、それを見たときに、脳内の視覚情報処理の過程で、操作運動の形成回路と連動することが、神経科学の実験で観察されている(二〇〇七年 ブラッドフォード・マホン他『腹側経路においては物体の行為関連特性が物体表現を形成する』)。

一方、リンゴよりずっと大きいもの、人間のような大きさか、それより大きい物は、手で簡単に動かすことができない。そういうものが動くときは、自力で動くように見える。リンゴの場合については、人が手をかければリンゴはその外力で動くと見えるし、人や装置が接触していないのに動くときは、自力で動くと見える。大きさは小さい物でも、それが外力で動くことを考えずに、自力で動くとみなすときは、擬人化が起こる。

ここでは、リンゴに外力が働かない場合を考える。擬人化を説明する例としては、もっと人間に近い大きさのもの、たとえば等身大のロボットとか、案山子とか、鎧兜とか、雪だるまとかが適当だが、筆者は後でニュートン力学の話を持ち出したいので、リンゴにしておきます。まあ、存在感のある大きな立派なリンゴが、目の前一メートルくらいのところにある、と思ってください。

その場合私たちが、自分の手でそれをつかもうとするのではなくて、じっとながめて、そのリンゴがこれからどう動くのか、とか、このリンゴはこれからどう変化していくのか、と考えた瞬間に、リンゴは擬人化される。つまり、リンゴは、私たちの仲間である人間のようなものとみなされ、仲間の行動を追従する集団運動共鳴機構によって脳内で表現される。この場合、リンゴは主語として言語化される。

擬人化されたリンゴの身体には、上下左右前後の三軸があることになる。正面があるはずですが、リンゴは丸すぎて分りません。リンゴに顔が描いてあれば、それが正面になる。私たちの視線は、顔のような視覚イメージに自然に引き付けられる。ロボットとか、案山子とか、鎧兜とか、雪だるまとかでは、どこが顔なのか、見ればすぐ分かる。私たちの脳には、視覚情報から、顔を顔と認める神経回路がある(一九九七年 ナンシー・カンウィッシャー、ジョシュ・マクダーモット、マーヴィン・チュン『紡錘顔領域:顔感知に特化したヒト高次視覚皮質のモジュール』、二〇〇七年 カレン・テイラー、リチャード・ヘンソン、キム・グラハム『記憶喪失における顔および情景の認識記憶』)。しかし、ふつうリンゴの表面に顔は描いてない。ラベルが貼ってあればそれが正面です。果物屋さんで並べられているとき、こちらを向いている面が正面でしょう。

まあ、正面は分からない場合でも、私たちは、机においてあるリンゴを見れば一瞬にして、リンゴが逆立ちしているか、傾いているか、分かる。逆立ちしているリンゴを見ると、何か不安な感じがする。ちゃんと正立に戻してやりたくなる。

リンゴは机の上でなぜ静止しているのか? なぜ動こうとしないのか? リンゴを擬人化して見ている私たちは、無意識のうちに、その理由が分っている。リンゴは地球の中心を目指して落ちようとしているのですが、水平な机の面が下から支えているので落ちられずに机にくっついている。もし机の面が傾いていれば、リンゴは低いほうに転がる。机が水平な場合、リンゴは低いほうに転がりたいけれども、どの方向が低いのか分らないから、しかたなく、そこに止まっている。

擬人化したリンゴに憑依している私たちは、無意識のうちにそう感じている。実際、誰かが机の端を手で持ち上げて机を傾けようとすると、私たちは、リンゴが動かないうちから、まもなくリンゴは低いほうへ転げるだろうと感じる。私たちは、低いほうへ転げそうになっているリンゴの気持ちが分かる。

リンゴは、かつて誰かの手の中にあったはずだが、少しでも低いところに行こうとしてその手を下に押しているうちに、ここに置かれてしまった。その結果、この机の表面に落ち着いた、といえる。つまり、リンゴはそこに、落ち、着く。

擬人化されたリンゴは、下に落ちるという自発的な運動を加速しよう、という欲望(落ちたいという、あるいは、落ちてしまうという、リンゴの感情、と観察者である人間は感じる)を持つ。そのリンゴに注目する観察者は、リンゴのその落ちていく運動に共鳴して自分の脳に引き起こされる運動形成信号に誘発される感情機構の活動(たとえば、屈筋を緊張させる、あるいはその仮想運動の体感、平衡感覚、皮膚の圧感)を感知して、その感覚を記憶する。そういう神経活動の作られ方からして、そのリンゴは机の上に重量感を持って落ち着く。つまり、リンゴは、この世界に落ち着く。

別の言い方では、「リンゴはそこに存在する」ようになる。リンゴは落ちようとする重量感をもって存在する。その重さだけ存在する。リンゴの存在感というものは、私たち観察者の、こうした神経活動として、私たちの脳内に作られている。この存在感は、私だけでなく、どの人間も同じように感じるはずだ、と感じられる。拙稿の見解では、話し手と聞き手の脳にあるその共通の存在感覚、その神経活動、を共感するとき、(聞き手が自分自身である内語の場合も含めて)私たちは「そのリンゴが、そこにある」と思う。

これが存在の意味です。ここまでは言語がなくてもできます。人類の脳にある擬人化の仕組みは、こうして、リンゴをはじめ、ありとあらゆる物事の変化を、客観的に予測することができる。こうして人間どうし、だれもが共有するこの世界ができあがっている。これは擬人化という仕組みのすばらしい効力であります。しかし、擬人化のすばらしさはこればかりではない。擬人化が最高の効力を発揮するのは、それが「XXが○○をする」という形で言語形式に表現され、仲間と経験を共有するための仕掛けとなるときでしょう、

言葉を話すとき、話し手と聞き手がいる。話し手が、聞き手に向かって言う。

「リンゴが、そこにある」と言うとします。

リンゴが、そこにあるとき、「リンゴが、そこにある」と、話し手が聞き手に言う。

話し手は、なぜ「リンゴが」と言うのか?

話し手がリンゴに注目しているからです。そして、聞き手もまた、リンゴに注目してくれることを、話し手は知っている。期待している。つまり、このとき、話し手と聞き手の両方が、同時に、リンゴに注目することになる。こういうときに、話し手は「リンゴが」と言い出す。このとき、リンゴに注目する眼球の運動(あるいはその仮想運動)が、話し手と聞き手の両方の脳内で同時に起こっている。これが共鳴運動です。

リンゴの存在感を引き起こすこの運動共鳴は、人間が物事を注意する場合にいつも現れる共鳴です。リンゴの存在感があり、リンゴを見つめる仲間の人間の存在感があり、リンゴを見つめる仲間を見つめる自分の視線の存在感がある。これらの(相互依存する複数の)存在感を発生させる眼球の運動の共鳴が、(拙稿の見解では)リンゴの存在感の客観性を作っている。この神経活動の共鳴が、物事の客観的存在感を作り出す。つまり、物事を客観的に存在させる脳の仕掛けになっている。リンゴの存在を作り出すこの運動共鳴に「リンゴが」という語が対応する。この語によって、(拙稿の見解では)話し手と聞き手は、そのリンゴの存在を共有する。

このとき話し手は、なぜ、言葉によって、リンゴの存在を聞き手と共有しようとするのか? それは、これから、リンゴについて、いっしょに何かをしたいからですね。つまり、話し手は、そのリンゴがどうなのか、どうなるのか、についての予測を、聞き手と共有したい。そして聞き手と同じその見通しの上で行動していきたい。そのために、話し手は、これから、擬人化されたリンゴに憑依して、そこで聞き手と共鳴する仮想運動を形成することによって、リンゴの運動と感情を感じ取るつもりだということです。

こういう場合、話し手は「リンゴが」と言い出す。こういう場合の「リンゴが」という語を主語という。

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私はなぜ言葉が分かるのか(9)

2008-08-09 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

擬人化(と拙稿が呼ぶ、私たちの脳神経系の)プロセスは、観察対象の動きを仲間の動きに共鳴する運動形成回路の活動として捉え、(そこで擬人化された)対象の動きに共鳴して自分の運動形成機構が自動的になぞる仮想運動を引き起こし、さらにその仮想運動に連動して引き起こされる自分の感情発生プロセスからフィードバックされる体性感覚を観察対象の内的意図として認知し、(擬人化された)それが何をしようとしているかを読み取ることで、物事の次の変化を予測する。

たとえば、P君が山道を歩いているとします。夏なのでセミが鳴いている。すぐ近くで聞こえるので、よく見ると、そばの幹にミンミンゼミが止まって懸命に鳴いている。立ち止まってじっと見る。逃げないのかな、と思う。セミは急に鳴きやみました。P君は自分がセミの仲間になったように、歌をやめて敵の気配に耳を澄ましている気持ちになる。息を止め、足の筋肉を緊張させます。P君がセミならば、これで、すぐジャンプして飛行体勢に入れる。セミの敵であるP君はセミに気づかれないようにそっと手を伸ばす。一方、セミの気持ちになっているP君は、「わ、やっぱり敵だ!俺を捕まえに来た。やだ!逃げちゃおう。ついでにおしっこをひっかけちゃおう」と思い自律神経系が興奮して自分の心臓がどきどきし始めます。自分の身体のその緊張感で、P君はセミの緊張と逃亡の意欲を感じ取り、セミがいまにも飛んで逃げるだろうと予測する。このとき、P君は、飛んで逃げよう、というセミの気持ちになっている。次の瞬間、案のじょう、セミはおしっこをしながら飛んで逃げます。

擬人化の仕組みは、(拙稿の見解では)仲間との集団的な運動共鳴の神経システムが拾い上げる観察対象の動きに対応して自分の体内に発生する感情プロセスを感知することで観察対象の変化(行動)を予測する。

この擬人化プロセス全体を図式化すれば、次のようになる。

視覚聴覚による観察対象の感知→集団的運動共鳴の神経機構による観察対象の(実際の、あるいは想像上の)動きの表現→運動共鳴による仮想運動の形成→仮想運動による感情の発生→感情による体内反応の発生→体内反応により発生する体内感覚の知覚→上記体内感覚を観察対象の動きに対応する内的原因として表現→(言語表現に変換:観察対象の動きの原因を、意欲、欲望、意志、意図などに対応する語で表現する)

こうしてプロセス全体を書き出すと、脳内と体内を二重三重に循環するかなり複雑な無意識の神経活動になるが、神経回路網の連携によるこのプロセス全体の計算処理は、ふつう、瞬間的に実行される。

この場合、私たちは、自分の体内に発生する感情プロセス(自律神経系、筋肉緊張、体性感覚の変化など)を、自分の感情とは感じないで、観察対象の内部にある内的な駆動力、運動の要因、意欲、意志、意図などとして感じ取る。この擬人化のシステムは、複雑な環境に生きる人類が物事を予測する能力を、実用的な効率にまで高める効果をもたらしている。

擬人化は、観察対象が、人間の場合も人間以外の動物の場合も、それを見たり聞いたり思い出したり想像したりする場合、すぐに起こる。植物や無生物の場合も、それが外力によらずに動くと感じる場合は擬人化される。さらに、言語で表現される抽象概念なども比喩によって擬人化される。特に、観察対象が人間の場合、擬人化は、その人に乗り移ってその内心を感じ取る、拙稿で憑依システム(拙稿の造語。4章)と呼ぶ、神経機構に発展している。この憑依機構は、人間どうしがお互いに心を持つことを認め合って、社会行動を作り出す基盤になっている。

私たちの脳内に作られているこの擬人化システムは、人類に限らず、たぶん、広く群棲霊長類に共通する(擬猿化というべき)認知システムでしょう。人類の場合、擬人化の仕組みによる身体反応は、実際に身体を動かさずに運動信号が脳内を循環する仮想運動‐仮想感覚を使う認知機構となる。これで、認知のたびにいちいち身体を動かさないですむので、ますます判断の効率はよくなった。

擬人化を使うこのシステムは、さらに発展して、(拙稿の見解では)概念を形成し、さらに(ジェスチャーや音声など)記号による表現に結びついて、集団的な認知システムとなり、ついには言語として展開していく。私たちの言語の使い方は、スポーツや職人芸のように習熟していく。幼稚園から小学校にかけて、言語に習熟していく子供たちは、(脳のシミュレーション機能の発達により)身体を動かさずに仮想運動し、口を動かさずに内語で思考し、体内反応をせずに感情を感知できるようになる。

人類において、擬人化システムは言語システムを内包し、憑依システムを内包する高機能の集団的認知システムに発展した。人類の社会も、政治経済体制も、宗教も、テレビも、新聞雑誌も、インターネットゲームも、この集団的な認知システムの上に築かれています。

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私はなぜ言葉が分かるのか(8)

2008-08-02 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

拙稿でいう擬人化とは、私たちの脳が無意識のうちにする働きの一つです。脳は感覚器からくる信号を処理して物事の動きを感知するとき(拙稿の見解では)、無意識のうちに、その動きが、その物事の内面にある意志、意図、あるいは感情を駆動力として起こされる、という図式のシミュレーションを作る。そのシミュレーションを仲間との運動の共鳴を認知する場合と同じ神経回路で処理することで、仲間とその物事の認知を共有し、記憶し、(場合によっては)言語化する。逆に、言語化される物事は擬人化されている物事に限る。その意味で、物事の擬人化が(拙稿の見解では)言語化の前段階として起こる。

物体の運動を認知するこのような脳の活動は、たぶん、霊長類を含む広範な哺乳類に共通な神経機構を土台とする働きと思われる。目の前で動く動物の動作に敏感に反応することは、哺乳類の生活に重要な能力です。群行動をする哺乳類は、特に群れ仲間の動物の動きには敏感でなくてはならない。それには、動物の動きを目で見て、一瞬のうちに次の行動を予測する能力が必要です。

目の前にいる動物の次の動きを、瞬時に予測するには、どうしたらよいか? 視覚、聴覚などで得られる感覚信号だけから動物の外面的な動きを把握し、そのデータから推算して次の運動を予測する仕事は簡単ではない。多数の筋肉の伸縮による動物の運動は、複雑な脳神経活動によって制御されている。この筋肉運動を、たとえば高速コンピュータを使って、ロケットの軌道予測に使うシミュレーションプログラムの計算のように実行しても、かなり時間をとる上に、たいていは観測データが少ないのであまり正確な予測はできない。まして、コンピュータよりずっと計算速度が遅い脳神経系を使う情報処理として実行しようとしても、とても実用の速度には間に合いません。

そこで、(拙稿の見解では)哺乳動物の進化の過程で別の方法による、動物の動きの高速予測法が開発され、実用化された。それが、動物を駆動する内的要因として、意志、意図および欲望というものを想定して、それを推測することで次の行動を予測する方法です。

原始人が、轟音を発するロケットの打ち上げを見るとき、彼または彼女は、ロケットが怒り狂って一気に地面を離れて天に昇ろうとしている、と思うでしょう。そういう見方をしても、加速されていくロケットの軌道をかなり正確に予測できる。ロケットの内部に意志、意図、あるいは欲望というようなものが、本当にあろうとなかろうと、実用上はどちらでもよい。脳に負担が大きい計算負荷が少なくて、しかも精度よく、その行動を予測できれば実用に使える。ロケットなど複雑な内部機構が働いて運動する物事を予測するために、その内部に欲望のようなものを想定してその行動法則を単純化して捉える方法は簡単で便利で実用的です。実際、人類は、物事の変化を予測する場合に、(拙稿の見解では)この方法を採用した。これが擬人化という予測手法です。

実際、ロケットの内部で軌道を決めているものは半導体部品で構成された電子制御回路やバルブやエンジン操舵機構です。その内部に意志、意図、あるいは欲望のようなものは見つからない。ロケットは、天に昇りたくて上昇する、というよりも、物質法則に従った物質現象の連鎖によって結果的に天に昇ってしまう、というべきでしょう。

ちなみに、私たち人間の行動も(拙稿の見解では)、ロケットの軌道制御システムと原理はあまり違わない脳の身体運動制御システムの働きによる物質現象です。ところが、外面から人体の運動を目で見たり耳で聞いたりする私たちは、その人体の内面に、人体を駆動する精神的な意志、意図、あるいは欲望というものがあるように感じる。人間の意志、意図、欲望というものは(拙稿の見解では)、物質としての実体がなく、そういうものがあるように感じられるというところにしか根拠がない。そうであるとすれば、人間の欲望と、ロケットが天に昇りたいと思う欲望とは、本質的な違いがない。つまり、どちらも、実体がない錯覚による仮想の駆動力です。

ロケットや人間の運動を見るとき、その内部に欲望のような駆動力があるかのように感じ取るように、人類の認知機構は進化してきた。私たちが自分や他人の内部に認める意志、意図、あるいは欲望というものは、進化によって設計された、錯覚であるにもかかわらず便利で実用的な仮想の装置である、といえる(拙稿第10章「欲望はなぜあるのか?」)。

私たちが物事の動きに注目するとき、脳において、その動きの擬人化シミュレーションを実行する神経機構は、(拙稿の見解では)自分の運動形成機構から感情機構へ循環的に伝わる信号をモニターする上位の認知機構から進化したものと考えられます。

群棲哺乳類では、(拙稿の見解では)仲間の動作を感知すると、自分が運動する場合に使う運動形成機構が共鳴して追従運動が起こる。人類では、実際に身体を動かさない場合が多いが、その場合は、脳内だけで信号が循環する仮想運動が起こる。この運動形成の信号は感情機構に送られて、脳幹、自律神経系の興奮や筋肉の微弱な緊張など感情運動(心拍や血管壁、内臓平滑筋や骨格筋の緊張など)を起こし、それが(内臓感覚、筋肉感覚、皮膚感覚など)体性感覚にフィードバックされて、仲間の動作の存在感を発生する。

人類の脳の場合、(拙稿の見解では)体性感覚で感じるこの仲間の運動の存在感を、目に見えるその人体の外面的イメージと統合して、その人体が内面に内蔵する駆動力としての欲望、意志、意図として捉える上位の認知機構が作られている。たとえば、テレビでシュートを見るとき、自分の筋肉が緊張してしまう体内感覚から選手がゴールを狙う気持ちが分る。このように、私たちの脳内では、仲間の動作の内面的要因が、自分の体内の体性感覚フィードバックとして表現されている。

私たちは、視覚聴覚で感知した仲間(たとえば、テレビに映る選手の映像など)の行動を、仮想運動シミュレーションによって捉え、その仮想運動が自分の体性感覚にフィードバックしてくる信号(たとえば、筋肉の緊張感)をその仲間の体内にある意志、欲望と捉えて、それをその行動(たとえば、シュート)の原因として感じ取る。因果関係を認知するそのシミュレーションの表現形式は、「仲間のXX(たとえば、テレビに映る選手の名前)の内部にある意志、欲望を原因として○○という行動(たとえば、シュートなど)が起こった」という図式になる。脳神経機構における因果関係のこの表現が、XXを主語、○○を述語とするセンテンス「XXが○○をする」という言語表現の基盤になっている。

目の前で動くものが、仲間の人間の場合も、動物の場合も、無生物の場合も、私たちがその動きを認知する場合、(拙稿の見解では)擬人化によって、同じ仕組みが使われる。つまり、私たちが物事の動きを認知する場合、注目する物事XXの内部に○○をしようという欲望、意志、意図が湧き起こり、それが原因となって身体が動いて○○という行動が起こる、と感じる。○○という動きの存在感は、そのときの自分の(感情運動など)身体反応で表現される。逆に言えば、物事の変化を見て、それがこの体内プロセスで捉えられるとき、私たちはその物事を意識的に認知する。

ロケットが、怒り狂って、天に昇る。打ち上げを目撃してそう感じる原始人は、そのとき(拙稿の見解では)ロケットに乗り移って、ロケットになった自分の身体を駆動して空中を駆け上がる。そういう仮想運動を脳内で形成する。その仮想運動の信号は、アドレナリンを分泌して、彼または彼女の心拍数を上げ、両脚の伸筋を緊張させる。その(内臓感覚、筋肉感覚など)体性感覚が脳にフィードバックして、怒りの感情を引き起こす。その感情をロケットの行動の原因と捉える(擬人化)神経機構の働きで、原始人は「ロケットが、その内面で怒りの感情を発生させ、それが原因となって天に昇るという行動を起こしている」と思い、「XXが○○をする」という言語表現を使って「ロケットが天に昇る」と言う。

原始人ばかりではなく私たち現代人も、日常生活では、いつも無意識のうちに、この擬人化を使っている。この仕組みが脳内で働いていることに、私たちは気づかない。この擬人化の仕組みは、無意識の脳の働きで、(拙稿の見解では)物事の動きを感知すると同時に作動する。動きの認知に伴う自分の感情機構からのフィードバック信号をその物事が内蔵する変化の内因と感じとることで物事の変化を予測する。

物事を判断するのに、この仕組みのように、進化によって洗練された身体の無意識の感情反応を利用するのは、なかなか巧妙な戦略です。これは、私たちの身体がうまく物事に対応するように進化している限り、うまく成功するはずです。さらに、この仕組みは、感情を土台として(その上位構造として構築されて)いるので、情報処理速度が速いことに加えて、その情報の価値判断をも高速に実行できる利点を持つ。物事の変化の予測は、それを自分の感情変化(たとえば、そうなったら怖いと感じて心臓がどきどきする、とか)として感知できるから、その予測の重要性が瞬時に分る。また、感情で重要なものと感じられる物事に関しては、感覚神経の感度が高まり、その情報はしっかり記憶できる(二〇〇二年 レイモンド・ドラン感情、認知、行動』、二〇〇七年 ヴィルジニ・ステルペニック他『感情的記憶想起時の睡眠関連海馬皮質相関)という利点もある

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