私たちの直感では、真実が多数決で決まるものだという考えは嘘だ、不正だ、と思えると同時に不快な感じもします。真実への冒涜である、と言いたくなります。その気分は、真実が真実以外のものではない、真実は決めるものではなくて、もともと真実であるものが真実である、としか思えませんね。
その通りでして、私たちが真実という言葉を使うときは、真実はそれが真実であると決めるべきものではなくて、それがもともと真実であると感じられるから真実だと言うべきものです。
しかし、私たちがそれをなぜもともと真実であると感じられるのか、を追うと、結局、拙稿の見解のように、仲間と一緒にそれが真実として行動できるから、つまりそのように身体が動いていくから、という直感に行きつく。
一目見て、それがもともと真実であるに違いない、と感じられる。あるいは、理論的に真実を積み重ねて成り立っているから結論として真実である、と分かる。あるいは計算してみると真実であると分かる。あるいは何度も実験してみていつでも同じ結果が出るからそれは真実である、と分かる。長い人生でいつでもそれが真実であったから、今度もそれが真実に違いないと確信できる。あるいは、だれに聞いてもそれが真実である、と皆が言っているからそれは真実だ。あるいは、信頼できる先生または書物、新聞、テレビがそれは真実であるというからそれは真実である。などなどのことから私たちは真実が真実であることを知ります。
最後は、自分でそれがたしかに真実だと感じられる、ということで納得できる。つまり、私の身体がそれを直感で真実として受け取っている、ということであり、そしてさらに重要なことは、仲間がほとんど皆、身体の直感でそれを真実として受け取っているということがはっきり感じられる、ということが重要です。
それは形の上で多数決をとることに近い。過半数の多数決というよりも、四分の三、あるいは五分の四の多数決、あるいは、ほとんど全員という場合はどうでしょうか?実際、百分の九十八の多数が真実だと思っていると感じられる場合、それが真実ではないと判断することは、だれにとってもなかなかむずかしいと思われます。
そうであるけれども、私たちは真実が多数決で決まると思うと不快を感じる。そういうことでしょう。
頭ではそれが真実だと思うが、身体はそれが真実だとは思えない。というような言い方があります。頭では、自民党が真実を言っていると思うが、身体では民主党が真実を言っている、と感じる。あるいは逆。というような言い方はよく聞きますね。
人間は頭と身体の感じるところが一致するとは限らない。むしろ、たいていは一致しない。認知科学で心的機能のモジュラー構造 といいます。左脳と右脳は違う真実を感じている、とか、「大丈夫」と言いながら涙が出ている、とか、口で言っていることと目の表情が違う、とかよくいわれます。
私たちは、頭では真実は多数決ではない、と思いながら、身体は多数決で認知される物事を真実だと感じてしまう。そういう身体になっているのでしょう。それで、たいていはうまく生きていかれます。過去の人類は、そうして生き残り、そう感じる身体を持つ子孫を増やしたのでしょう。
そうであれば、真実は多数決できまる、として、結果は間違うことはない。そう言い切るのは不愉快であるけれども、実際的である。皆が真実と思っていることは真実なのだろう。それを真実と思っておこう、として私たちは実生活を送ることができます。