哲学の科学

science of philosophy

人間は真実を知ることができるのか(10)

2013-08-31 | xxx5人間は真実を知ることができるのか

私たちの直感では、真実が多数決で決まるものだという考えは嘘だ、不正だ、と思えると同時に不快な感じもします。真実への冒涜である、と言いたくなります。その気分は、真実が真実以外のものではない、真実は決めるものではなくて、もともと真実であるものが真実である、としか思えませんね。

その通りでして、私たちが真実という言葉を使うときは、真実はそれが真実であると決めるべきものではなくて、それがもともと真実であると感じられるから真実だと言うべきものです。

しかし、私たちがそれをなぜもともと真実であると感じられるのか、を追うと、結局、拙稿の見解のように、仲間と一緒にそれが真実として行動できるから、つまりそのように身体が動いていくから、という直感に行きつく。

一目見て、それがもともと真実であるに違いない、と感じられる。あるいは、理論的に真実を積み重ねて成り立っているから結論として真実である、と分かる。あるいは計算してみると真実であると分かる。あるいは何度も実験してみていつでも同じ結果が出るからそれは真実である、と分かる。長い人生でいつでもそれが真実であったから、今度もそれが真実に違いないと確信できる。あるいは、だれに聞いてもそれが真実である、と皆が言っているからそれは真実だ。あるいは、信頼できる先生または書物、新聞、テレビがそれは真実であるというからそれは真実である。などなどのことから私たちは真実が真実であることを知ります。

最後は、自分でそれがたしかに真実だと感じられる、ということで納得できる。つまり、私の身体がそれを直感で真実として受け取っている、ということであり、そしてさらに重要なことは、仲間がほとんど皆、身体の直感でそれを真実として受け取っているということがはっきり感じられる、ということが重要です。

それは形の上で多数決をとることに近い。過半数の多数決というよりも、四分の三、あるいは五分の四の多数決、あるいは、ほとんど全員という場合はどうでしょうか?実際、百分の九十八の多数が真実だと思っていると感じられる場合、それが真実ではないと判断することは、だれにとってもなかなかむずかしいと思われます。

そうであるけれども、私たちは真実が多数決で決まると思うと不快を感じる。そういうことでしょう。

頭ではそれが真実だと思うが、身体はそれが真実だとは思えない。というような言い方があります。頭では、自民党が真実を言っていると思うが、身体では民主党が真実を言っている、と感じる。あるいは逆。というような言い方はよく聞きますね。

人間は頭と身体の感じるところが一致するとは限らない。むしろ、たいていは一致しない。認知科学で心的機能のモジュラー構造 といいます。左脳と右脳は違う真実を感じている、とか、「大丈夫」と言いながら涙が出ている、とか、口で言っていることと目の表情が違う、とかよくいわれます。

私たちは、頭では真実は多数決ではない、と思いながら、身体は多数決で認知される物事を真実だと感じてしまう。そういう身体になっているのでしょう。それで、たいていはうまく生きていかれます。過去の人類は、そうして生き残り、そう感じる身体を持つ子孫を増やしたのでしょう。

そうであれば、真実は多数決できまる、として、結果は間違うことはない。そう言い切るのは不愉快であるけれども、実際的である。皆が真実と思っていることは真実なのだろう。それを真実と思っておこう、として私たちは実生活を送ることができます。

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人間は真実を知ることができるのか(9)

2013-08-24 | xxx5人間は真実を知ることができるのか

Xを真実だと思う人がXの信者、あるいはX主義者、あるいはX派などと呼ばれ、差別化されます。これは良い面もあり悪い面もある人間社会の大きな特徴です。現実社会では、しばしば、これが深刻な問題とされています。

人間は仲間と行動するためにそれに必要な真実を知ることができる。一緒に行動する仲間にとって真実であるものが、一緒に行動しない他の集団においては真実ではない、ということが起こります。仲間との行動に必要な真実は、それと違う行動をするためには必要ではなくむしろ逆の真実が必要である場合があり得るからです。

ある集団にとっての真実が他の集団にとっての真実と違う場合、両方の集団の考えを聞いている人にとってはどちらが本当の真実と思えるのでしょうか?人数が大きい集団において真実である物事は、人数が少ない集団における真実よりも、より真実である、といえるでしょうか?そう単純にはいかないようです。

多数決で真実が決まるのはおかしい、と思えますね。だれもがそう思うでしょう。そうであるから、戦争が起きます。多数派に真実を否定された少数派は、場合によってはテロやレジスタンスに訴えるでしょう。それは当然のことです。自分たちの真実が本当の真実であるのに、彼らは偽の真実を主張して我々の権利を侵している。そうであれば当然、報復しなければならないでしょう。

真実は数で決まるのではなく事実で決まるはずだ、という正論はもっともです。そうでなければ、地動説は多数決で否定されたままになったはずです。しかし実際は、地動説は徐々に多くの人に認められてきて、現代では圧倒的に多数の人々にとっての真実となっています。

ガリレオ が、それでも地球は回っている、と言ったから地動説が真実になったのではなくて、ガリレオ以外の人々がそう思うことによって地球は回る、という真実が解明されてきます。地球は回っていると仲間が思っていると思う人々の間で、地動説は真実になっていったのです。仲間と行動するために地動説を使うことが生活に有利であればそれは真実になっていきます。逆に言えば、そういうものが仲間にとって真実である場合、それはまさに真実なのです。結果として、だれにとっても生活に便利である物事が真実とされ、多数決をとってもそれが真実と認められるようになります。

真実が多数決で決まるものではない、という考えは直感で分ります。多数決は集団の意思を決めるもので、ある集団がそれを真実と決めたからといってそれが真実であるというのはおかしい。多数派の傲慢というか、それ以前にその集団にとって自己欺瞞でもあります。

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人間は真実を知ることができるのか(8)

2013-08-17 | xxx5人間は真実を知ることができるのか

対極的に、自分だけ知ればよいという観点からはもっとも遠い地点にある真実は、科学でしょう。科学の世界では、人間であればだれもが納得せざるを得ない自然法則の真実を、はっきりと知ることができます。

たとえば、地球は丸い。船や飛行機でアメリカやヨーロッパへ渡るためには、旅行会社の人、飛行機のパイロット、あるいは旅行仲間など、関係者全員が、地球は丸いことを知っていて行動しなければ実行できないでしょう。地球は丸い、という真実をだれもが知っていなければなりません。それは現代人ならば、だれもが船や飛行機で大陸間を移動する方法があることを知っているということです。そうであれば、地球は丸い、という真実はだれもが知ることができるはずです。

科学の法則は、このように人間であればだれもが、それが真実であることを知ることができます。逆に言えば、そういう真実が科学です。

科学でないものの中には、仲間のだれにでも知ることができるというものではないものも多くあります。

たとえば、個人の内面。個人の感情とか感覚、苦痛や嗜好などは他人には理解できない場合が多い。嫌いなある歌手の演歌を聞かせられるのが苦痛である、あるいは好きな作曲家のオペラを聞くと恍惚となる。そういう個人的な感覚を真実である、というには問題があるでしょう。

個人の微妙な感情などを、仮にそれが真実である、と強弁したところで、人々の共感を得ることはできません。真実であると主張しても、その主張は意味があいまいになってしまいます。それを訴える本人にとっては切実な感覚であると思えますが、そういうものに、真実という言葉があてはまるとはいえないでしょう。

自分個人の内面と万人に通じる科学との間に位置するものが、いろいろな宗教、信条、イデオロギー、政治思想、民俗伝承、迷信、マスコミ、世論、などです。これらに関しては、かなり大きな仲間集団〈団体、国家、宗派など〉で真実である物事が、他の大きな集団では否定される、ということが起こる。あるいは一部の学者は真実と認めるけれども、多数の学者は否定する、などの事態が頻繁に起こります。

地球は丸くない、平らな円盤である、と主張する団体があります。地球平面協会 と呼ばれる。その集団の中では、地球は丸くない。それが真実です。

地球は丸くないということが真実である、ということはどういうことでしょうか?

地球は、本当は丸いのにこの集団の中では丸くない、ということではなくて、地球は真実として本当に丸くないのです。真実とはそういうものです。

Xであるということが真実であって同時にXではないということが真実であるということはあり得ない。これはアリストテレス以来、論理学の初歩で教えられるいわゆる無矛盾律 ですね。しかし、拙稿本章でいう真実という言葉の使い方によれば、この論理学は正確ではありません。

Xであることを真実だと思う人々の中ではXであるということが真実であるが、しかし同時に、Xではないということが真実であると思う人々の中ではXではないということが真実である。これが拙稿本章でいうところの真実の法則でしょう。

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人間は真実を知ることができるのか(7)

2013-08-10 | xxx5人間は真実を知ることができるのか

さて、この見解に従うとすれば、拙稿本章のテーマである「人間は真実を知ることができるのか?」という質問に関しては、「その物事を真実として受け入れて仲間と行動することが生存に有利である場合、人間はその真実を知ることができる」と答えることができます。逆に言えば、そうでない場合は、人間は真実を知ることができない、ということになります。

たとえば、火星人がいるかどうか、という真実を、人間は知ることができるか? 火星人がいるならば、テレビに映して視聴率を稼ぐことができる。映すだけではなく、火星人にインタビューする画像が欲しいところです。キャスターを含めたテレビ撮影班が火星に行こうと計画するでしょう。

こうなると、テレビ業界(の一部の人々)の本格的な仕事になる。仕事というのは生計のためにする行動です。つまり本人および家族の生活がかかってくる。仲間と一緒に生活のために行動する、といえる。こういう場合、火星人に関しては拙稿で設定した真実であるための条件は満たされていますから、拙稿の見解では、火星人はいるかいないか、という真実を私たちは知ることができる、といえます。今すぐ知ることはできないにしても、人類は、いつか遠くない将来に、その真実を知ることができるはずです。

またたとえば、原子炉は安全なのか危険なのか、癌は征圧できるのかできないのか、中国経済は世界一になれるのかなれないのか、民主主義は最終の政治形態なのか?これらの真実を人間は知ることができるのか? もし、私たちが仲間と行動するためにその真実を知りたいのならば、その真実は知ることができる。逆に、ただ目的もなく自分が知るためだけで行動が伴わないのならば、その真実は知ることができないでしょう。

自分が知るためだけに知りたい真実の例を挙げてみましょう。来月、私は第一志望校に合格するのか?来週、私の買った宝くじは当たるのか?明日、バーゲン会場に行けば格安で気に入ったドレスが買えるのか?これらの真実を私は今日中に知ることができるのか?たぶん、だめでしょう。結果が出るまでは知ることはできないと思われます。なぜならば、ただ自分が知るためだけで仲間と一緒の行動が伴わないことであるからです。 

もし、私が仲間と行動するためにその真実を知りたいのならば、その真実は知ることができるかもしれません。逆に、ただ自分が知るためだけで仲間と一緒の行動が伴わないのならば、その真実は知ることができないでしょう。

私たちは自分自身に関して、なかなか真実を知ることができない。それは自分だけに関係するそういう物事を知ることが、仲間と一緒に行動することにつながらないからです。自分の内面のこと、むしろ自分ひとりだけで知りたくて他人には知ってほしくないこと、そういうことはまず真実を知ることはできません。

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人間は真実を知ることができるのか(6)

2013-08-03 | xxx5人間は真実を知ることができるのか

科学者がある癌の遺伝子を発見したと学会誌に発表したとき、その科学者はその遺伝子の機能を真実だと思っている、ということです。

逆に、その情報を知っても、何もしないとか、だれにも言わないし伝えない、という場合は、その人はそれを真実と思ってはいない、ということになります。別に嘘だと思ってはいないにしても、真実として知っている、ということにならないということです。

拙稿のこの仮説にしたがって真実というものを再定義することができます。つまりある物事を人が真実だと思うということは、その物事を真実として受け入れて行動することが生存に有利であるということである。

この定義を使うとすれば、私たちがある物事を、単に知識として知っている、あるいは教養として知っている、あるいは本に書いている事として知っている、あるいはある人たちがそう言っているということを知っている、というような知り方では、真実として知っている、とはいえない。

たとえば小学校の理科で「地球は丸い」と習いますが、小学生は(たとえば地球を一周するとかの)行動の上でその知識を使うことができません。小学生にとっては、テストで点を取るとか、大人との会話で言ってみて、「おりこうね」と言われることがその知識の利用法でしょう。それでは科学として真実を知っているとはいえないでしょうね。

やはり真実というものは、自分だけで個人的に利用するものではなくて、仲間と組んで行動を起こすときに使える知識でなくてはならないようです。仲間のだれにも通じる真実が、まさに真実である、といえるでしょう。

先の仮説をカッコにくくってみましょう。

仮説「ある物事を人が真実だと思うときは、その物事を真実として受け入れて、仲間とともに行動することが生存に有利である場合であり、その場合に限る」

この仮説が、だれにでも当てはまるとすれば、人間にとって真実とは、そのようなものだ、ということです。

もしそうであるならば、人間は仲間と行動する場合に生存に有利になるような物事を真実と思い込むものである、といえます。

あらためてQ&Aの形式に書いてみましょう。

Q なぜ私たちは真実を知ろうとするのか?

A それは、(意識しないとしても)仲間とともに生存に有利な行動を実行するためである。

私たち人間は、仲間と通じ合い、語り合って、一緒に行動する。そのために、私たちは真実を知りたいのです。そうであれば、ある物事を人が真実だと思うときは、その物事を真実として受け入れて仲間と行動することが生存に有利である場合である、といえます。拙稿としては、まずは、この見解を採用して、先へ進むこととしましょう。

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