(70 宇宙を俳句に閉じ込める begin)
70 宇宙を俳句に閉じ込める
十七シラブルの詩形に宇宙を閉じ込める。しかも季語があります。
熱燗や夫(つま)と宇宙の話など
(二〇一〇年 NHK俳句王国 中村 良子)
「科学の力はだんだん進歩して来ていますが、それは詩の世界とは関係が薄いのであります。人間を描く文学も結構でありますが、宇宙の諸現象を謡う詩もまた疎かにすべきものではありますまい。この山川雲霧、禽獣虫魚、草木花卉という横糸、春夏秋冬という縦糸、即ちこの経緯の織りなす天地を描き、その天地に情を寄する心が我が俳句への道であります。(一九五四年 高浜虚子「俳句への道」)
天地に情を寄する。情の中に天地があるのか?天地の中に情があるのか?
そもそも天地とは何か?私たちは天地を知っているのでしょうか?
高浜虚子は、山川雲霧禽獣虫魚草木花卉の十二文字で天地、つまり自然や宇宙を表していますが、具体的に、私たちが見ている宇宙の諸現象を言葉で書き尽くすとしたら何文字くらいで描けるのでしょうか?
松尾芭蕉の作として残された句の総数は、九八二句。
与謝蕪村のそれは三千以上。しかもたくさんの絵を残しています。宇宙を描きつくすという意図はなかったと思いますが。
カテゴリー分けしてもいくらでも細分できるようです。たとえば、俳句の季語というものは、二千六百くらいあります(一八〇三年 滝沢馬琴「俳諧歳時記」)。インターネット世界のタグのようです。
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権力者の行動の真の動機は何か?それは簡単にいって、隠された支配欲といえるでしょう。しかし一方、実際の行動は人民の幸福に奉仕する、ように見えるはずです。そう見えなければ現代のボスは務まりません。実際、ボスたちはたいてい自分でもそう思っています。
さらに言えば、おおかたのボスはどう見ても、モブに好かれるよきボスに見える。ということは よきボスであるということです。心底からモブに好かれたいと思い、モブの幸福を願っているはずです。逆に、そうでなければ現実の世界でボスはやっていられません。
ボスは、モブが自分たちが支配されてもよい、と認める人格である必要がある。モブの幸福を心底から願っているに違いない、と思える人格である必要があります。それは他意のない信頼できる顔をしていなければならない。出身はエリートであってもよいが、モブの要求を理解していなければなりません。モブの出身であればより信頼できる。モブのモブによるモブのための選挙で選ばれれば、さらに信頼できる。
出身がエリートであっても精神が下賤でないとはいえません。それよりも、モブであっても真摯な精神の貴族であるボスに支配されたい、と思う。
結局、むしろモブであって人々に認められてなったボスのほうが信頼できるような気がします。それがおおかたの民主国のボス、総理大臣や大統領でしょう。■
(69 モブのボスはモブなのか end)
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現代いわれているマスコミの支配なども、巨大な権威あるいは大義にモブが盲従するシステムの一種である、といえなくもありません。その下に自律する個人が存在できるのか、どこまで自由な可動範囲があるのか、注意が必要でしょう。
歴史、文化、環境、というようなもろもろのファクターが絡みあった複雑な相互作用が個々のモブの行動に影響しています。この複雑さはコンピュータに載せた人工知能で解明できるようなレベルではない、と思えます。それは結局、歴史全体を人工知能でシミュレートするSFの空想に近いでしょう。
現実のモブは、単純に自己利益最大化の目的を目指して動いていく自律的エージェントではありません。風向きが変われば、態度をガラッと変える。ときにはひどく感情的な動きをする。世間の気分に支配されている。あるいは、自分でも自分の行動の意味が分からない、ふつふつと底の方で不条理なマグマが煮え立っているのかもしれない。いつか暴動が起こることもないとはいえないのではないか?
予測ができない大衆は怖い。ボスたちも、その意味では毎日モブの顔色をうかがって怯えている、ともいえます。
ゲームのモブは、薄暗いところから急に無数に湧いてきて、突然凶暴になり、襲ってきます。子供が持つ本源的な恐怖感情を表現しているのでしょう。またこれは大衆の上に立つボスたち為政者、支配エリートの持つひそかな恐怖感情でもあります。
さて、ボス個人は結局、モブの一人なのでしょうか?自己の努力によって、あるいはたまたまの幸運によって、最高権力の地位に上ったボスは、もうモブとは違った人格になってしまうのでしょうか?
権力にしがみつくために保身と策謀に明け暮れているのか?自己利益最大化を求めて毎日の行動を決めているのか?ひそかな蓄財に汲々としているのか?虚栄と虚名を求めて実績を残そうとしているのか?広場に銅像を残したいのか?家族を出世させたいのか?
それともボスは、下賤のモブとは違い、世のため人のため社会貢献の意欲に燃える精神の貴族であるのでしょうか(一九二九年 ホセ・オルテガ・イ・ガセット「大衆の反逆」)?
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国内のパワーが一人の、あるいは統一された政権に集中していて、外国支配から独立していて、平和ならば、そのシステムには自律的個人が存在できる、と思えます。欧米や日本など現代の先進国は、だいたいそうなっています。逆にだめな失敗国家(failed state)の例はイエメンやソマリアなど現代でも多くあります。
たしかにある国の、ある(短い)時代には、向上心に満ちた自律的個人ばかりで構成されているように見えます。近代や現代では、しばしばそうでしょう。しかし近い歴史を見ても、個人が全く自律的に見えない場面は多々あります。戦争、内乱、紛争、大災害、大不況など、平和でない状態では、パニック、犯罪多発あるいは政治アパシーなどに伴って非行暴行が個人の自律を圧倒します。人は、強盗、強姦、詐欺、麻薬、売春、贈賄、買い占め、独占、その他どんな犯罪者にも簡単になれます。
無法状態の荒野に丸太小屋を建て、銃を持って家族を守る個人が自律的なのか?理想ではあるかもしれません。しかし、すぐ土人やギャングに襲われて死んでしまうでしょう。国家権力が登場しなければ個人も安心して生活できない、という現実があります。
平和時にしても個人がまもるべきルールやモラルや社会感情がしばしば個人的自律の妨げに働きます。たとえば強すぎる宗教、ナショナリズム、政治イデオロギー、社会不安、恐怖政治、あるいは村社会、会社社会、組合、派閥などの強すぎる集団モラル、などです。
そもそも、人の行動の動機は、金欲や物欲ばかりではない、承認欲求や帰属欲求のほうが強い、という見方もあります。宗教の教義や権威主義的イデオロギーが最大の規範を作る社会もかつて多く、今も多いようです。強大な権力者の指導に従う、という性向は人間の本性だ、という説もあります。
歴史的実例をみても、古代の奴隷制、中世の宗教支配、近代のイデオロギー支配、独裁政権、など、個人の自律がありえない場面は多々あります。人間は奴隷にも皇帝にもなれる。乞食にもなれる。守銭奴にもなれる。狂信者にもなれる。歴史の事実でしょう。
悲惨な無法状態からの脱却には強大な権力による抑圧が必要である。しかし同時に広い可動範囲内で競争する自由が認められなければ個人の自律はない。いつもバランスがとられていなければなりません。
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