自分であたりまえと思って住み着いている世界に満足して、他の見方があることに気づかないまま一生を過せれば問題はないのですが、うっかり他の世界を覗いてしまうと、場合によっては、かなりの混乱と悩みが始まる。 自分が死んだらどうなるのか、とか、自分は何のために生きているのか、とか、自分の内面の本当の自分は外面に見える自分とは違うのではないか、などという疑問を持ってしまうといけません。それは不幸の始まりです。あぶない哲学に迷い込んでしまうのです。 まじめに哲学をしたい人は、難しい哲学書の字面を読むだけでは満足できない。自分の身体が今触れている生々しい世界について、その本当の意味を知りたくなる。自分が感じる大事なものたち、心の中の不安、恐れ、苦痛、不幸、愛、そしてこのバラの美しさについて考えたい。それを正しく言葉で語れば人に通じるのではないか? 感覚経験から心に突き刺さる現実のこの神秘的な存在感(クオリアという)を語れば人は分かってくれるのではないか? 人々とそれを共感することでこの現実世界の真実をさらにしっかり捕まえてみたい。言葉を洗練させて曖昧さをそぎ落として真実だけを抽出して語ってみたい。そう思って言葉を詰めていく。 しかし残念ながら、その試みは、かならず失敗に終わります。人間の言葉は、人間どうしが同時に身体で触れて共感できる物質世界を基盤として伝わるものでしかない。他人の運動神経との共鳴で存在感が感じられる客観的物質世界を利用して、人間の言葉は作られ、使われている。哲学者だろうとだれだろうと、言葉を正確に語るということは、他人と共有できる現実の物質世界の中だけを動き回りながら、話し手と聞き手が物質を介して運動神経を共鳴させることでするしかない。 「そこにほら、あるじゃないか」とか、「見ればすぐ分かるだろ。何なら触ってみたら」とか、「これとこれは同じに見えるだろ」ということを基盤にして人間の言葉は成り立っている。物質、そして他人や自分の人体(しつこく言えば他人や自分の人体も物質ですが)の動きを指し示すところに言葉ができてくる。これがもともとの言語の作られ方です。 しかし人間が何人もいて、規則や習慣に従って同じことを言って、それに対応した行動をしていると、目に見えない、物質を指していない言葉でも錯覚を作り出していく。まあ、裸の王様の寓話に似ていますね。周りの人がだれも、王様の服は存在します、と言うから、その完全透明な服は存在するのです。それが分からずに、「王様は裸だ!」と叫ぶ子供は、空気が読めていない。まだ錯覚の存在感を人間仲間と共有する作法をきちんと身につけていない、未熟な幼児なのですね。 物質に対応しないものからこうして作られる錯覚の共有は、それはそれで便利な面がある。物質で示せないけれども共感できる感情、状況、フィーリング、感じというようなものを表現できるので人間どうしの相互理解に役立つ。存在感を伴って人間の感情に訴える錯覚は、うまく言葉で表せるようになり、それは互いに共感され定着して、頻繁に使われるようになる。逆に、うまく言葉で言い表せて人間どうしが共有できるようになった錯覚は、物質ではなくても物質であるかのごとく存在感を伴って感じられるようになる。それは、もともとは言葉から作られたものであっても、言葉から独立して脳内に、しっかりと存在するようになる。 たとえば「算数」は物質ではありませんが、存在感がある。小学生も、友達どうしで算数が嫌いだとか、好きだとか言い合っている。もともとは、小学校一年生のときに耳から入った音声でしかない「サンスー」が、教科書やその授業という物質的な存在に対応するようになり、さらに三年生くらいになると「算数」になり、五年生くらいでは、はっきりと、好きとか嫌いの対象になってくる。このような場合に、言葉が信念の形成を導くという理論を述べる言語哲学者もいます(二〇〇二年 ピーター・カルーサーズ『言語の認知機能』)。 人類社会が発展し、人間関係の複雑な農耕社会になってからは、物質を指す言葉よりも物質に対応しない錯覚を指す言葉が多くなってきた。「命、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義、罪悪、屈辱、プライド、お金、財産、成功、失敗、ブランド、ステータス・・・」、と言う言葉に人間の感情は揺すぶられる。 けれどもそれらの言葉が何を意味しているのか、まじめに考えれば考えるほど混乱してくる。物質として指し示すことができないものを、どうやって決め付ければよいのでしょうか? 物質と離れて言葉を使うことに一番成功したように見えるのは数学ですが、数学でも「点」とか「三角形」とか一個一個の言葉の意味を決め付けることはできない。理論全体の論理性で明瞭な言葉遣いにしている。論理性だけで組み上げられる数学、論理学など、特殊な人工的言語を除けば、物質を離れて、言葉の意味をはっきりさせることはむずかしいのです。 意味などということをあまりまじめに考えてはいけないのでしょう。言葉にはもともと意味などはありません。 「べろべろばあ」といいながら口を大きく開けると、赤ちゃんは笑いだす。意味などありません。赤ちゃんは、生まれつき人の表情の変化を見分けられると笑う運動が起こるような神経回路になっているから笑う。そうしているうちに「べろべろばあ」という発音に特有な神経回路が、赤ちゃんの脳にできてくる。それで、それに特有な感情回路が作られて、赤ちゃんは、「べろべろばあ」と言われると、ますますはっきり笑えるようになる。言葉はそういうものです。 このような仕組みによって、幼児の遊び歌のように、いつの間にか楽しく遊べる音節列が世代を超えて伝わってきている。実生活では、その意味などはあいまいなままでよい。仲間とそれを言い合いながら談笑できれば、それでよいところがあります。科学や数学と違って、ふつうの言葉というものは、まずあいまいなところが便利なのでしょう。あいまいであるからこそ、人間どうしの共感を伝えることができる。言葉のそのあいまいさを許さないということになると、どんどんおかしなことになってきます。 命、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義、罪悪、屈辱、プライド、お金、財産、成功、失敗、ブランド、ステータス・・・ 物質としての実体のない、錯覚を表わす言葉の根拠を探して世界中を歩き回っても、そこに答えはない。竜を訪ね歩く伝説の騎士のようになってしまう。物質を指さない言葉というものは、あいまいな、多義的な、影のような錯覚の頼りない共感が得られるだけのものです。それ以上にはっきりしたものは見つからない。命や心や人生の大事な物事たちに関して、人々の感情に訴える、神秘的な、深遠な、哲学的な響きを持つ言葉たちの正体は、物質世界の中をいくら探しても、人間の身体の中を探しても、自分の脳の分子構造を全部調べても、どこにも見つからない。 「ほら、二人でいると最高に幸福を感じるだろ?」とか、「このバラはすごく美しい。ぼくはそう思う。君もそう思うだろ?」とか恋人に言うとき、少し不安になりませんか? 人間の幸福は、私の寂しさは、そしてこのバラの美しさは、確かに私が感じることはできても、その感情の正体をこの物質世界の中に見つけられるものではないからです。そしてこの物質世界にないものはしっかり指差すことができず、あいまいにしか伝えられない。つきつめるほど、他人と共有しにくいところがある。したがって言葉で完全に言い表せるものではない。 逆に言葉で正確に言い表せるものは、物質現象として捉えられるものしかない。それ以外の言い表せないものを、どこまでも言い表せるはずだと決めてかかるから不可能な探求が続く。そして神秘感に陥ってしまう。 そういうものは、ある、ということではない。ない、ということでもない。ただ感じられるだけです。どんなに強く感じられても、そんなものを物質のように捕まえることはできない。目に見えない、物質現象でないものは正確に語ったりすることさえできない。気楽に語るときは良く通じるように思えるのに、本気で理論として語れば語るほど共感はむずかしくなり、相互理解は遠のいていく。言葉を尽くせば語り尽くせるはずだ、理解し合えるはずだ、という思い込みがかえって人間の相互理解を妨げる。 例外がすこしあります。脳内の錯覚であって物質を指さないにもかかわらず、人間どうしがかなり正確に相互理解できるものはごくまれにあります。数学はその一例です。また、貨幣もその例外の一例でしょう。人間の脳内の選好が定量的に現れるものが貨幣、お金です。お金の価額を通じて人間どうしは互いの脳内の状態を相互理解できる。言葉では理解できなかった相手の本心、欲しい物、避けたいことなどが購買に消費したお金の量、入場料、手数料、会費、保険料、予算、掛け金、投資額、遺産相続などで分かることがありますね。人間どうしが共感できるからその金額が決まってくる。 お金は言葉以上に人間の感情に直結し行動に影響する。貨幣という人類の発明は、もともと人類の脳に備わっている価値判断機構の重要な働きをだれの目にも見えるように表わす優れた仕組みです。これは言語の発明と同じくらいに貴重な人類の財産でしょう。数詞の発明が、もともと人類に備わっている数認知機構を顕在化したように、貨幣の発明は、脳の価値判断機構を顕在化した。 貨幣経済は流通価値の蓄積によって旧来の社会階層の秩序を崩していった。流通しかつ蓄積できる貨幣が、人間の脳の持つ選好機構にぴったり合うのでしょう。人間が貨幣を取得、支払い、交換など操作する行動はその人の脳内の状態を定量的に表わす。それを観察する人は目に見えない相手の脳内の状態を理解して協力することができる。互いの共通の利益が分かるから協力が進む。それが経済です。 かつて貨幣経済は、既存の社会階級間の流動性をもたらし、特権階級をおびやかす存在として、知識人から忌み嫌われ蔑まれたが、現代の国民国家体制の基盤、あるいはグローバリゼーションの原動力として、人間の生活全体に決定的な影響を持っている。インターネットマーケットを使えば、言葉の分からない外国人でも不自由なく経済生活ができる。もしかしたら貨幣のようなもの、あるいはマーケットのようなものが言語を超えて、まず全人類の脳に共鳴し共有されて、共通の相互理解を導くのかもしれません。 グローバリゼーションと呼ばれている現象も、そこから来ているのでしょうか? 「きれい事を言っても結局、この世は金だ」というメッセージは、なかなか説得力がある。物質、そしてお金。科学と経済、テクノロジーとビジネス。現代はこれらが、哲学や思想に勝ってしまう。 そういうお金ですが、これはこの世の中に実在している物質のようなものなのですか? それとも錯覚ですか? ちょっと、首をひねってしまうでしょう? お金とは、考えれば、不思議な存在です。「この間貸した一万円を返してくれ」と迫る友達に、「ああ、あれね。あれは、使っちゃったからもうない」と言ってみましょう。「君の財布に入っているじゃないか」としつこく迫ってくる相手には、「これは君に借りたあの一万円じゃない。別の人から受け取った違う一万円だ」と言ってみましょう。間違いなくぶん殴られるか、絶交状態になるでしょうね。 お金とは物質ではないようです。いわばバーチャルなものなのでしょう。まさにインターネットゲームの中でアイテムを売買するのに必要なバーチャルマネーというものがあります。それを実際のお金で売る商売が繁盛していて、問題になっていますね。ふつう、人間はするどい現実感覚を持っていますから、バーチャルな存在感に感情を動かされるはずがないのですが、それが壊されていくのを見るのは不気味ですね。しかし、これも現実。お金というものは、日本銀行が発行するから存在するというものではない、ということを、このサブカルチャーの社会現象はよく表わしています。 さて、科学と経済、これらは現代の魔術です。科学を使いこなすことで物質世界を間違いなく人間の好きなように操作できる。貨幣をやり取りすることによって、どの人間をも、好きなように操作できる。あるいは逆に、科学や経済によって、自分の身体も心も動かされてしまう。現代の科学、技術、経済、貨幣というものは、まさに昔の人が感じていた魔法の力、神の能力、を実現したものに見える。科学と経済さえ進歩させれば、神秘的な全知全能、あるいは病魔退散、不老不死の力に近づいていける、という感じがする。昔から宗教や哲学が求めていた神秘で偉大な力というものの大部分が、現代の科学と経済によって実現されていくように見える。 こういう時代になったから、いままでの哲学が権威をもって教えてきた崇高な思想が、人々の素朴な直感によって、役に立たないものとして見捨てられ始めた、ということではないでしょうか? 十九世紀から現代に続く哲学の苦闘は、伝統的な精神文化を否定する試行錯誤(たとえば、二十世紀に最も大きくふれた振り子、一八六七年 カール・マルクス『資本論』など)に揺れましたが、いまだに混迷から抜け出ることはできていない。世相の表面を見る限り、二十一世紀になって、ますます、まっしぐらに、物質とお金の時代になっていくように見えますね。 現代世相を憂える年寄りは、「昔は良かった。物質ばかりでなく精神が重んじられていた。心を大事にする世の中に、また戻れないのか?」と言って嘆くわけですが、それは無理でしょう。 科学と経済がここまで発展し、その(不気味なくらい)力強い存在感が人々の脳に直接強烈に働きかけるようになった現代生活では、精神や心や哲学といった大昔に作られた錯覚はしだいに頼りなく影が薄くなり、かえって怪しくいかがわしいもののようにさえ感じられるようになってしまった。