(52 私はなぜ新聞を読むのか? begin)
52 私はなぜ新聞を読むのか?
トーストが焼ける間に新聞を取りに行く。毎朝、こうして目が覚めていくようです。
コーヒーを飲みながら読む。優雅なひととき。と自分でも思う。しかし、私はなぜ新聞を読むのか?
新聞を広げてみるまで中身は分からない。分からないものをなぜ読むのか?改めて考えてみると、分かりません。
新聞を読むことで、私は何をしているのでしょうか?
まず一面を見る。世の中太平だなあ、こんなつまらないことがトップニュースか、と思います。しかたがないから下のコラムを読む。二、三行読むと、全文が分かったような気になって、隣のコラムへ移ってしまいます。短くて数行くらいなら一目で見られます。
この一面の下のほうにあるコラムというのは、大学入試によく出るというので、そのために新聞を購読する受験生の親もいるそうです。新聞社一番の文筆家が書いているらしく教科書に使いたいような現代の名文です。毎日ではテーマ選びに苦労するでしょう。時の話題に沿わなければおかしいし、あまり違和感を与える意見を書いてもいけません。ユーモアも必要です。バランス感覚というか。毎日たいへんでしょう。
食いつきがよい文章になっているので、数行はさっと読みます。しかしなぜか最後まで一気に読む気にはなりません。これはむしろ、新聞を読む行為のよいところで、テレビのように途中で目を離せない行為とはちがいます。目を離して他の記事を読んで戻ってもよいし、戻らなくてもよい。そのまま新聞を置きっぱなしにして別のことをしてもよいわけです。
一面の底辺に並ぶ四角い広告を眺める。本の広告です。児童書が並ぶとか、文芸書が並ぶとか、日によって広告欄全体を通じてのテーマがあるようです。本の題名は面白いものが多い。それで売れ行きがきまるわけだから、よく考えられています。
題名のわきに惹句というのですか、たまに面白い文句が書いてあります。コピーライターと呼ばれる優秀な人々が作った語句らしい。この本を買いたい、と思わせます。
新刊の広告を見ると、今、こういう本を書きたい人がいて、それを売りたい出版社があって、それを買う人々がいる、という現代の世相のようなものが分かって面白い。少なくとも、分かったような気にはなれます。
実際には本を買う人はとても少なくて、出版社は懸命にがんばっているらしい。営利目的だけではこれほどがんばれないでしょう。プライドかな。特に大新聞の一面に広告を出すということはそれ自体が目的のようなところがありそうです。
広告を見るのは新聞の大きな楽しみです。広告料は新聞収益の大きな部分を占めているので、新聞側も広告が効果を最大に発揮できるようにレイアウトを配慮するでしょう。そのためでしょうが、大きな広告も小さな広告も、新聞広告は実に見やすい。目に入りやすい。目で見て気持ちがよく作られています。たいへんなコストをかけて広告を出している人々の、なんとしてもこの商品を買ってもらいたいという気持ちがよく表れています。それを読者としては(買うと決めるまでは)ただで見ることができる。楽しいわけです。
第二面にはよく一面記事の解説が載っています。そのニュースがなぜ重大なのか、教えてくれます。結果的な出来事だけを知っても、その背景を知らないと、それはなぜ起こって今後どのように展開していくのか、そのどこを注目すべきなのか分からない。新聞の一面は簡潔に結論だけを書いてありますが、スペースがないので、その背景や経緯は解説しません。それを二面がする。
今日のトップニュースに興味がある人はここを詳しく読んでください、という記事です。
自分がよく知らない世界のことはふだん見過ごしています。事件が起こると、急にその世界のことを知りたくなる。ざっとでよいから解説してほしい。ちょっとだけ知っておきたい、というような気分です。
言語まで置換する深い侵略では、しばしば虐殺を伴う被侵略者の人口激減が起こっています。ヨーロッパ人による新大陸の侵略には天然痘、梅毒などの伝染病が免疫のない現地人に蔓延したため人口が激減し、それにともなって現地人が維持していた栄養補給システムが遺棄され、侵略者のそれに置換されていったため、言語、文化とともに遺伝子も置換されてしまいました。
侵略に関する歴史を観察するうえで、王朝など支配階級の交代などは文書に残り従来の歴史書の中心テーマとなっていましたが、より重要な歴史的変化は現地の言語、文化、遺伝子の交代であると考えれば、侵略の深さに注目すべきでしょう。その観点からは、武器、軍隊など表面に表れる武力ばかりでなく、科学技術力、栄養補給システムの効率、集団的免疫力などの総合的な格差が、侵略の深さを決定し、その後の歴史を変えていくといえます。
侵略は人々の身体を物理的に威嚇する悪の行為です。しかし、武力、科学技術力、栄養補給システムの効率、集団的免疫力などに明確な格差がある場合、効率に優れた栄養補給システムが拡散する過程として、侵略は、歴史を見る限り、必然的に起こり得る現象である、といえます。■
(51 侵略する人々 end)
近世ヨーロッパ文明による新大陸(およびオセアニア)の植民地化は、このローマ帝国式侵略の最大規模でしょう。
十九世紀以降、イギリス、フランスなど近代のヨーロッパ列強は旧大陸でも植民地化を進めましたが、新大陸と違い、現地人の文化との格差が小さかったので、現地の宗教、言語まで駆逐することはできませんでした。
例えばインド、パキスタン、ミャンマー、マレーシアなどを征服したイギリスは現地エリート層の共通語として英語をかなり普及させることができたものの現地語に置換することはできませんでした。インドネシアを征服したオランダは現地にオランダ語を普及させることには全く成功していません。インドシナを征服したフランスも同様の結果になっています。
結局、歴史の経験から見ると、武力による侵略の影響力は、最低限には、支配民族を置き換えることだけです。そこから先、その国の経済構造、社会構造が根本から変わるのか、あるいは文化、言語が支配民族のそれに置換されるのか、さらには(交配により)遺伝子まで置き換えられるのか、それらいわば支配の深さ、は他の条件で決まる。これらは、侵略する側の文化と侵略される側の文化との力関係、つまり格差に依存する、といえそうです。
異民族支配の深さを決定するこの文化の格差とは、主として生産力、科学技術力など栄養補給システムの効率に寄与する格差であって、文化のその他の側面、たとえば美的洗練、宗教、ヒューマニズム、寛容性、文学性などの格差は副次的である場合がほとんどです。
侵略後の異民族支配が特に深く、言語(母語)まで置換した歴史上の例としては、古代ではローマによるガリア侵略、中世ではアングロサクソンによるイギリス侵略、近世近代ではロシアによるシベリア侵略、スペイン、ポルトガルによる中南米侵略、イギリスによる北米、オセアニア侵略などがあげられます。現代に近くなると深い侵略は少なくなってきますが、十九世紀のアメリカによるハワイ侵略などの例では現地言語が滅亡しています。
要約すれば、古代末期から中世初期にかけてのヨーロッパ民族大移動に現われる侵略遠征は、栄養補給シテムとして放牧・素朴農業から(地方分散型の)高度農耕牧畜システムに移行する過程で頻繁に起こり得る現象である、といえます。ヨーロッパにおける古代から中世への歴史区分は、帝国の崩壊と封建制の成立と定義されていますが、このこともそのインフラストラクチュアである栄養補給システムの変遷過程(放牧・素朴農業から【地方分散型の】高度農耕牧畜への変遷)がもたらした現象とみることができます。
ローマ帝国は(中央拡散型の)高度農耕牧畜システムをインフラストラクチュアとする拡大侵略システムとして大成功し中央から辺境まで広大な領域を支配できたがゆえに時間経過によって崩壊の時期を迎えました。崩壊する帝国の文明が周辺遊牧民族に略奪侵略で利得を得る機会を与えたがゆえに、フン族やゲルマン諸族の大遠征を引き起こしました。
ローマ帝国の文明を表現するラテン語は、部族連合を作れない(フランス・スペインの)ガリア人のケルト語に置き換わることはできても、高度な部族連合として組織化されていた(ドイツ・オランダ・イギリス・北欧の)ゲルマン人のゲルマン語に置き換わることはできず、また堅牢に組織化されていた東ローマ帝国でも文明の高いギリシア語に置き換わることはできませんでした。
フン族やゲルマン諸族の大侵略は、騎馬軍団の高い機動性と敵の身体を暴力的に侵害する威嚇力に依存していたので、武力に優れた少数の軍団で多数の異民族を一時的に撃破できましたが、その物質的な効果は、歴史に名を遺した割には小さい、というパラドックスになっています。
侵略者たちは、征服した土地に自分たちの文化を植え付けることはできず、その言語は死語となり、遺伝子を残すこともできませんでした。少数の侵略者は武力で多数の異民族を威嚇し王族貴族として君臨し歴史に名を残しましたが、そのインフラストラクチュアである栄養補給システムは多数派の被征服者が以前から構築していた高度農耕牧畜システムに上乗りしただけでした。
この現象は、侵略者の武力による威嚇力が格段に優れていて、かつ少数であるという条件で成立します。
フン族、ゲルマン諸族、フランク族、イベリアアラブ、ノルマンバイキング、などの中世の侵略はこれに当たります。侵略後の支配の持続性は、被征服者の旧来の栄養補給システムにうまく乗り込めるかどうかによります。たとえば、被征服者の農耕牧畜システムの維持に協力する、彼らの言語、宗教に乗り換える、あるいは共存する、などです。
一方、初期のローマ帝国の拡大のように、自分たちが開発した栄養補給システムに被征服者を取り込み、宗教も言語も自分たちのものを埋め込むような侵略が成功するためには、よほど文明の格差が大きくないと無理です。世界最高の高度文明であるローマ文明、イスラム文明あるいは中華文明による蛮族の文明化、あるいは植民地化がこれにあたります。
アラブも高度な文明を持つ頼もしい勢力ではありますが、当時のフランク王国も、ローマ帝国の遺産を受け継ぎカトリックキリスト教の中核である文明国でしたので、強大に見えたのでしょう。フランス現地に足場を持てないアラブ軍団は、地中海を経由する北アフリカからの援軍とスペインの本拠地からの遠距離兵站に依存するしかない、という限界があったはずです。
フランスでフランクに負けたアラブ勢力はスペインに戻り、そこを八百年近く(七一一年~一四九二年)支配します。フランスを支配できなかったのに、なぜスペインは支配できたのか?
当時のフランスとスペインの原住民はガリア人あるいはイベリア人でローマ文化に感化されたガロ・ラテン文化を持っていました。しかし八世紀以降、フランスの住民はフランク人に支配され、スペインの住民はアラブ人に支配され続けました。フランスのフランク人もスペインのアラブ人も少数の支配階級でした。多数派の農民、商工民は両国ともラテン系のキリスト教徒でした。フランク支配下のフランスとアラブ支配下のスペインとの境界線は、多少の変動はあるものの、だいたい、現在の国境線に近いところに落ち着いていました。つまり、たがいに大きく侵略することはなかった、ということです。
この形態を観察すると、フランク支配とアラブ支配は同じように侵略的ではなかった。守りが得意で攻めは不得意だった、と読み取れます。この時代、ローマ帝国とイスラム帝国で発展した高度な農業(農耕牧畜)技術が地中海沿岸全体に普及した結果、農地をインフラストラクチュアとする高度な栄養補給システムが定着しました。
フランクフランスもアラブスペインも支配権力の基礎は、農地(荘園)からの年貢、農民からの税でなりたつ封建領地ごとの武装勢力、つまり貴族軍人、騎士団、僧兵団、城郭守備兵、国王(キング、カリフ)近衛兵団など、となっていました。フランク支配階級は、フランク王の下に封建貴族、騎士階級の連合体を形成することで支配権を維持し、アラブ支配階級は地元のキリスト教徒の貴族軍人、騎士団など武装勢力を金銭により懐柔し、支配権を保っていました。
このような封建制武力システムは守りが得意で攻めは不得意です。自然に、各封建勢力の境界は安定します。
キリスト教徒とイスラム教徒の対峙という図式で見れば、当時のフランクフランス・アラブスペイン国境線は不可思議なエキゾチックな境界とみえますが、栄養補給システムとしては似たような構造を持つ二つのシステムが隣接共存していた、といえます。
西ヨーロッパの中世は暗黒時代といわれていましたが、国境線の変動は緩やかで、大規模な武力侵略は多くなく、農業生産は安定し、都市経済は発展しました。武力を握っていたのは封建領主に従う騎士軍団で領地を守ることに優れて遠方を侵略する機能はあまりありませんでした。
エルサレムへの巡礼保護を名目とする十字軍は、地中海東岸域への遠征を繰り返しましたが、散発的な略奪に終わり、(ビザンチン帝国の支配権簒奪以外は)大規模侵略システムとしては成功していません。封建システムは侵略の基盤としてはあまり機能しなかったといえるでしょう。西洋中世は、それなりに安定した時代だった、といってよいでしょう。
中世期での有名な侵略システムはバイキングです。北ヨーロッパから南東、南西の方向に頻繁に侵略を繰り返し、九世紀にはロシアに進出してノヴゴロド公国を樹立(八六二年)しました。バイキングはロングシップと呼ばれる当時の先端兵器である小型艦船を持っていました。海や川の騎兵隊のような機動力に富んだ強襲上陸部隊は百戦百勝の武力でした。当時の封建諸侯の軍隊は地方に分散していたので海軍や水軍を持たず、海や川からの奇襲には弱かったのでしょう。
セーヌ川河口域を侵略したバイキングは、フランスにノルマンディ公国を樹立(九一二年)しました。侵略された地方は、当時フランス王の武力が及ばず、無防備な土地が多かったようです。結局、バイキング船による略奪襲撃のリーダーであったバイキングの貴族が、ノルマンディ地方の都市を乗っ取って領主を名乗るようになり、ノルマンディ公と称して名目上、フランス国王の部下になりました。このノルマンバイキングの王侯貴族は、フランスの文化に取り込まれ、数世代もするとフランス語の方言(ノルマン語と呼ばれる)を話すようになりました。
ノルマンバイキング軍団は、続いてイギリスに上陸(一〇六六年)し、分裂割拠していたアングロサクソン人の支配地をつぎつぎに侵略征服し、現代に続くイギリス王家になっています。この人々は征服後、自分たちの言語であるラテン系のフランス語方言ノルマン語の使用を臣下に強制しましたが、上層階級以下には普及できず、口語としては衰退していきました。
官僚、僧侶、教師など知識階級だけが公式の場の演説、説教、講義などにノルマン語を使用していましたが、徐々に会話には使われなくなり文書を書くときに使う文語に限定されていきました。
その文語としてのノルマン語でさえも、時代が下るとすたれていきます。中世のイギリスで僧侶、教師などインテリは、文語としてはラテン語を読み書きするほうが、ノルマン語というフランス語方言で文を作るよりも国際的に通用し、外国人からも尊敬されることに気づいて、第二第三外国語としてラテン語と(フランス本国の)標準フランス語だけを習得するようになったためです。
結局、ラテン語系のノルマン語は死語となり、現地民が使うゲルマン語系(アングロサクソン系)の中世英語が生き残り、公式の場でも使われ文語にもなっていきました。