つまり居眠りをしている猫の身体はケチに徹しています。身体をなるべく動かさずにエネルギーの消費を最小化します。何もすることがないときは何もしない。ただ眠る。身体のこの機構は自然の見事な傑作です。賞賛すべきです。しかし眠りをほめる人はあまりいません。
ケチに徹することが美しいならば、居眠りをしている猫は美しいはずです。居眠り猫の姿は美しいのか?日光東照宮の木彫眠り猫は左甚五郎の傑作といわれていますが、特に美的であるとの評価はないようです。
どうも、居眠りは、なまけものであるとか、軽蔑されることが多く、美しさにつながる捉え方はされません。民話「眠れる森の美女」では、眠り姿が美しいとされて、有名画家が描いています。しかし、この姫は眠り姿だけが美しいのか、それとも、もともと美しい人が眠っただけなのか?
後者とされているようです。
ケチを徹底すれば、何もしないことに行きつく。動けば消耗する。だから眠っている状態が消耗最低という点でケチの究極になるでしょう。
眠りという状態はエネルギーの基底状態ですから安定はしています。安定の美しさはある。不動の物質を見るときのようです。絵画彫刻など不動の物質を見て、美しいと感ずるところからすれば、眠りが美しくないとはいえません。しかし、感動するほどの美しさを感じるものであるのか?
直線の美しさに似ています。単純、エネルギー最小が極まっている。しかし、まあ、ありふれているということで、感動が大きいという場合はあまりなさそうです。

倹約することで物がだいじにされているように感じられます。倹約が、物の価値を高める、といえます。物の価値が高まれば、それを作り出す労働の価値が高められる。倹約によって生活の質が高まる、といえそうです。
ケチなのは人間だけでなく、動物もそうです。というより、ケチでなければ動物として生き残っていけないでしょう。できるだけ少ないエネルギー消費で餌を獲得する。できるだけ体力を使わずに、子孫を残す。そうできるような身体を持つ者だけが生き残って現在の動物になっているからです。
冷血動物は、筋肉を動かして体温をあげると栄養分を消費してしまうのでそれはせずに、日光に当たることで体温をあげる。カメの甲羅干しがそれです。寒い冬には冬眠します。
温血動物は、筋肉の収縮で体温を維持するので、生きているだけでどうしても栄養分を消耗してしまう。そこで自律神経系を発展させ、獲物を見ると瞬時に、敏速に活動して捕食できるような神経ホルモン機構を備えるようになりました。これで高い栄養分を簡単に補給できるようになる。獲物が少ない冬には冬眠します。
冷血動物はエネルギー的にケチ。温血動物も補給エネルギーを得るためにそれより少ない消耗エネルギーで賄うというケチ戦法で生活しています。
温血動物の活動を制御する自律神経系はまさにケチを実行するための身体機構です。
道端で、犬が猫に吠えかかる光景を見ることがあります。猫は毛を逆立てて犬をにらみ返します。ストレス対応モードに切り替わった猫の副腎からは副腎皮質ホルモン、アドレナリン、ノルアドレナリンが急速分泌され、体温と脈拍数と血圧を急上昇させ、肝臓から大量の糖分が血流に送り込まれているはずです。
犬がいなくなると、脳下垂体の副腎皮質刺激ホルモンの分泌が止まり、副腎皮質ホルモン、ノルアドレナリンなど交感神経系ホルモン分泌は減少し、免疫システムが活性化し、そのうち日向で居眠りしだします。副交感神経系が活性化することでインシュリンが分泌され、血中の糖分は回収され、血糖値が下がります。回収された糖分は徐々に脂肪に代わり皮下に貯蔵されます。

昔のおばあさんは、ご飯粒を残すと叱ったものです。お茶碗に一粒つけたままで、ごちそうさまをしてはいけない。ケチ、そのものですが、美しい作法でもある。洟は一枚でかみなさい、とか、短くなった鉛筆はキャップをつけて最後まで使え、とか子供はけっこう訓練されたものです。理論的には節約のためという理由付けがなされていましたが、そればかりではない。むしろ、作法の美、という追求が重要と思われていたのではないでしょうか?
会社でも、電気はこまめに消せ、だらだら残業しないでエアコンを消して早く帰れ、とか、コピーは裏も使え、とか、節約が大好きな人は多い。経費を浮かす、という目的意識はあるにしても、どうもそればかりではない。感情的に、情熱的に節約する人が多いようです。これは美意識のようなものではないか?
倹約することが気持ちいい。楽しい。趣味のようなものになってきます。
エコ運動も、マクロな地球環境理論は別として、ミクロなコツコツ倹約が楽しいという面に支えられているようです。
ケチを徹底するという規範で日常の動作を律する。これを洗練させれば、作法のようになり、儀礼のようにもなります。儀礼は、こうすべきであるという形式が決まっているところに、美しさがあります。
点と点を結ぶ最短経路は直線になります。線を引くとき、鉛筆の減り方が最も少ない。歩いても靴底の減りが最小です。ケチに徹することで生み出される直線は美しい。
よけいな寄り道をしない。自由がない。自由がない代わりに、たったひとつの可能性をはっきりと示しています。点と点の組み合わせが作るたった一つの可能性は、二点を結ぶ直線です。それ以外の自由がないことが直線の美しさでしょう。
世界でも最短表現の俳句。たしかに短詩は、言葉を最大限強調することができます。短いと、言葉を長く連ねていろいろな表現を寄せ集めることができません。自由がない。作者に自由がない代わりに読者には連想を発展させる自由があります。空白の自由。空白の美しさでしょう。

鳥獣は衣服をまとわずとも生まれたままの姿で美しい、と古来いわれています。鳥が服を着て飛べるはずがない。飛行機も翼に装飾をつけて飛べるはずがありません。必要なものだけを身に着けている。機能美というか、必要最小限なフォルムの美しさでしょう。
ダーウィンが唱えた最適者存続の原理からすれば、生き残りという機能に限定して身体を設計できた動物だけが現存しているはずですから、すべての動物が分かりやすい無駄のない外観の身体をしている理由は理解できます。高性能を追及する飛行機のような人工物も、目的に徹して無駄のない形を実現しています。このように目的のために無駄を省いた必要な形はそれだけで美しく見えます。
鳥も飛行機も流線型で美しい。これもケチの美しさ、といえます。飛ぶために身体を軽くする。空気抵抗を最小化するために余計な出っ張りをすべてなくす。余計なものを身に着ける負担を負わない。重量的に空気抵抗的に、ケチに徹している、といえます。
新しいものをなるべく買わない、というケチはどうでしょうか?美しくないのではないでしょうか?着古したワイシャツを寝巻に使う、とか、破けたセーターをマフラーに使うとか。
ティーバッグを乾かして何度も使う、という話がありますが、色がつくだけで香りがない苦い紅茶を飲むのは節約になっているのでしょうか?パラノイア的で美しくないのではないか、という気がします。しかしこれも、鴨長明的感覚からすれば、美的風景なのかもしれません。

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ケチの美しさについて
49 ケチの美しさについて
新聞を読んでいると、ミニマリストと称する人が増えているとの記事があったので、何のことかと思い、検索で調べてみると、パソコンの他には何もない部屋で暮らす人達を指すらしく、家具のないフローリングの部屋の壁に寄りかかってノートパソコンかスマートフォンを触っている人の写真が添えられています。
おしゃれな流行という面でマスコミでも面白がられて紹介されていますが、簡単にいえば、スマートにケチな生活を楽しもう、ということなのでしょう。
無駄なお金を使わないで、美しく感じられる形を作れれば、立派なことです。ケチの美しさ、というような言葉は語感が悪いらしく、あまり使われませんが、そういうことでしょう。余計な装飾や無駄な材料を使わずに(つまりケチをして)きれいにまとめられればさっぱりとすがすがしく、スマートで美しく見えるのは当然、とも思えます。
建築の世界でも、ミニマリズムという考え方は前世紀ころから基本的な思想になっていて、現代建築は機能を満たす最小限の部材で設計されることは当然とされています。外観は装飾を排しコンクリート、ガラスなど機能材をそのまま見せる。内装もコンクリート打ち放しの表面などを美しく見せる、窓など同じ部材を繰り返し使ってコストを低くすると同時にパターンの美しさを出す。などの手法はいまや現代建築の常道です。
建築物や製造物の場合、機能を満たす最小限のコストを目指して設計されたものは資源とエネルギーの消費が最小限になり、エコの精神を実現できます。地球環境の保全に役立ち、将来世代にも胸が張れる。気持ちよく物つくりができる。そういう製造物は美しいはずだ、という気分がします。
原始時代、サバイバルのために人は知恵と力を振り絞って、シェルターをつくり、炉を作り、獲物を焼いて食べていました。無駄なものはなかった。サバイバルぎりぎりのものしか人は持たなかったはずです。私たち現代人も、その原始生活に適応して進化した身体になっているはずです。
現代人は、その身体が適応するシンプルな生活にあこがれて、エコを唱えているという面もあります。人間の身体は、実はサバイバルぎりぎりの生き方をしている場合に、最も充実感に満たされるようにできているのではないだろうか?徹底的に倹約して少しでも生存の可能性を上げようとする生活に身体がなじんでいるのではないか?無駄が嫌い、質素が好きであるとか、登山やワイルドライフを好む人が案外多い、あるいは多くがエコに好感を持つ、という傾向は、人類の身体がそうなっているからではないでしょうか?
もしそうであるならば、現代人が到達した物質文明、物があふれる豊かな生活、は美しいのか?人間の身体は、これを美しいと感じるのか?あるいは、そうでなく、最小限のものしかない最小限の消費しかしないシンプルな生活が美しいと感じるほうが自然なのでしょうか?
千馬力のスポーツカーで高速道路を飛ばす人間が美しいのか?いやミニカーで街角を走るイメージのほうが美しいと感じる?いやいや自転車乗りのほうがもっと美しい?あるいは、パンツ一枚のランナーが一番美しい、と感じるか?テレビにどれが多く映っているでしょうか?意外と、パンツ一枚が視聴者に受けることをテレビマンは知っているようです。
鴨長明という鎌倉時代の世捨て人は、京都郊外の山林に、方丈つまり3メートル四方の部屋を作って住み、質素を好み、シンプルライフの快適さを自慢しています(一二一二年 鴨長明「方丈記」)。
当時民家もない、伏見山中の自然を楽しむ。人もめったに訪れず寂しいくらいなのがまたよい、などと書いています。家具など何もいらんと言いながら琵琶は弾いていたようで優雅なものです。
世の人々は大豪邸をうらやましがるがそれはよろしくない、自分も大きな家を持っていたがこの小屋のほうが素晴らしく快適だ、と批判しているところから推測すれば、その頃の人も現代人と同じで、豪壮、豪華絢爛好きが多数派であった一方で、文筆家や僧侶など少数のインテリがミニマリストであった、ということでしょう。
鎌倉時代、禅宗の僧の居室はたいてい方丈だったということですから、インテリは最小限の部屋に居住するのが知的だと思っていたのでしょう。中世日本のミニマリズムは禅宗、茶室、書院造、枯山水、水墨画、箱庭、盆栽などに展開されて、中世文化の一つの軸を作っていたようです。この文化は近代にも引き継がれ、さらに今日では世界的に日本文化のコアと受け取られています。
必要最小限の機能に限定した設計に美を感得するセンスは日本文化の影響もあって、二十世紀には、欧米の建築、美術、演劇など新時代を代表する芸術改革を引き起こしました。もちろん明治以降の近代日本においても、衣食住生活全般にわたって簡素を尊び、華美を戒めるモラルを作り出してきました。
ケチという言葉はネガティブに受け取られているのであまり使われませんが、謹厳実直、質実剛健、という表現は、日本人自身が好む自画像です。これも贅沢、虚飾を嫌い、質素、実質を好む生活態度を美しい、とする感性でしょう。
