哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ息をするのか(5)

2009-06-27 | xx0私はなぜ息をするのか

では、次に、意識と無意識の区別がつかないような呼吸の実験をしてみましょう。大きなバースデーケーキを用意します。誕生日ではなくても、もちろんかまいません。キャンドルに火をつける。十歳ごとに大きなキャンドルを使うとしても、筆者などは相当な数になる。まあ、今日が誕生日と仮定する実験です。

さて、多数のキャンドルが丸いケーキの上で燃えている。これを一息で吹き消す。大きく息を吸って、フゥーと吹き付けなくてはなりません。まあ、うまく全部消せた、としましょう。そのとき、「いま、意識して息を吹きましたか?」と聞かれたら、「意識しました」と答えるでしょう。ところが、続けて次のような質問をされたらどうでしょうか?

「いま、息を吹く前に息を吸ったとき、意識して吸いましたか?」

こういう場合、「うーん、覚えていません」という答えがふつうでしょう。

実際、息を吸うときは、キャンドルをうまく吹き消すことだけを考えている。それを考えていたことは覚えている。そして、強く息を吹きかけたことも覚えている。だから、その直前に、大きく息を吸ったはずです。その吸気運動を記憶しているか? 吸わないで吐けるはずがない。間違いなく息を吸ったはずだ、と考えれば、覚えているような気になってしまいます。ぼんやりと、覚えているような気がする。しかし、それは、覚えていると錯覚しただけかもしれない。

予測があるかないか、という観点から観察すると、この場合の吸気運動は、その結果を調べるためにシミュレーションがなされて評価されてから実行されたとは思えません。呼気の前の吸気は、まったく躊躇なく実行される。こういう場合は、無意識の運動というべきでしょう。

つまり、このような場合、キャンドルを吹き消すという複雑な呼気運動全体は予測されたけれども、その前段階の準備運動である吸気運動については、予測されずに無意識でなされている。この無意識の吸気は、通常の呼吸における無意識の吸気とちがって、キャンドルを吹き消すという意識的な呼気運動を実行する場合に、運動開始の身体状況をつくるためになされる無意識の準備運動だといえる。実際、ふつうのときよりずっと大きく息を吸い込んでいるはずです。

このような無意識の準備運動は、無意識運動ではあるけれども、意識的運動に連携している。無意識と意識との境界にある、と(拙稿の見解では)いえそうです。はじめは意識的運動であったものが、学習によって慣れてくると無意識運動となる場合もある。歯磨き洗面など日常的な運動やスポーツなど、どれもそうです。私たちの身体は、こういうような無意識運動を、意識的運動以上に、すばやく正確に実行できるようになっている。

息に関して最後の実験は、レストランに行って紅茶を飲む実験です。なるべく、高級そうなレストランに行きましょう。なるべく気取って、マナーよくお食事を済ます。最後に、紅茶が出たら、ズズーと、なるべく大きな音を立ててすすってください。

横隔膜がすごく緊張しませんか? 

これは、意識して息を吸う場合の典型例といえる。この例でも、自分の運動の予測がしっかりなされています。この場合、周りの人が自分をどう見ているか、自分自身が自分自身の身体運動を懸命に観察している。自意識といわれるこの感覚は、ときに過剰に働いて困ったことになったりもしますが、社会生活を営む上で、ふつうはとても役に立っている。これが鈍すぎると、社会生活はうまくいきません。

さて、ここできわめて大胆に議論を一般化すれば、次のようなことが言えそうです。

哺乳動物は、身体運動をする場合、しばしば運動の準備として、運動の結果起こる事態を身体運動シミュレーションによって予測し、その結果を仮想的に体感することによって評価する。その予測結果に導かれて実際の運動を実行する。実行後、予測と実際の誤差を記憶して、運動予測の改良に使う。こうして、身体周辺状況と身体運動の(確率的な)関係法則を学習する。

人間の場合、それに加えて、社会での人間関係において自分という人物のモデルが運動の結果起こす社会的な事態をシミュレーションによって予測し、結果を評価して、他の人々(社会)と自分との(確率的な)関係性を学習する。たとえば、うそをついてばれるとたぶん仲間はずれにされるだろう、とかです。

こういう場合、予測してから動いている(動物あるいは)人の動きを観察すると、意識を持って行動しているように見える。特に、自分自身を観察する場合、私たちは、自分の運動の予測と実際の結果とそのとき感知する体性感覚や感情とを総合して学習し記憶して、自分は意識をもってそれをしたのだと思う。

さて、ここでまた息の議論に戻る。意識して息を吸ったことを覚えている、とはどういうことか? 先に書いた四つの要素をもう一度、書き下してみましょう。

意識して息を吸ったことを覚えている、という神経活動は、次のように四つの要素に分解できる。

(1)無意識と有意識とで共通な、息を吸う筋肉運動を引き起こす神経活動A

(2)Aを実行しようと意識して思う神経活動B

(3)Bを記憶する神経活動C

(4)記憶したBを想起する神経活動D

この(2)、つまり「Aを実行しようと意識して思う神経活動B」とは何なのか? 

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私はなぜ息をするのか(4)

2009-06-20 | xx0私はなぜ息をするのか

似たような話では、もっとも人間に近い動物であるチンパンジーが、シロアリを釣るための小枝の端を噛んでブラシを作っている例があります。この例はカラスの話よりもずっと前から、霊長類学者によって、よく観察され研究されています。おいしいシロアリがたくさん取り付くように釣り道具の先をブラシ状に加工している(二〇〇九年 クリケッテ・サンツル、ジョゼプ・カルル、デイヴィッド・モーガン『チンパンジーにおけるシロアリ釣り道具のデザイン的複雑性』)。

このチンパンジーもまた道具を加工している時点で、食べ物を捕獲する運動のイメージをシミュレーションで予測している。こういう場合、(拙稿の言い方をつかえば)これらの動物は意識がある、というべきでしょう。

私たち人間は、子供時代から老年に至るまで、何年何十年にもわたって、意識的行動の記録を人生の記憶として保っている。人間はそのために、記憶容量の大きい分だけ成長に時間がかかる大きな頭脳を持っています。大きな頭脳をつくるために生存のリスクとコストが増大したとしても、人類にとっては、膨大な記憶量にもとづく精密な予測能力を持つことが子孫繁殖の効率を大幅に高めることで、進化のうえで、実用的に割が合うからではないでしょうか? 

人類は、その高性能の予測能力を利用して緻密な社会を作っている。数ヶ月、あるいは数年、あるいは数十年以上の長期間にわたる他人の行動や自分の行動を記憶し、予測し、その予測の当たり外れをまた記憶して学習する。そうして人間どうし、おたがいの行動を予測しあい、期待しあい、信頼しあえるようになることで社会が成り立つ。いったん、このような社会ができてしまうと、その中でしか人間は生きていかれない。そのため、自分や他人の行動の予測とその記憶を伴う意識的行動をうまく行うことが、個人にとっても集団全体にとっても、その生存あるいは存続にとって、不可欠な機能になっている。

あえて議論を単純化すれば、(拙稿の見解では)私たちの意識というものは、身体運動シミュレーションの予測精度を上げる学習装置として進化した、といえる。これからする運動行為の結果を予測しその予測を記憶しておいて、その運動を実行した直後にその予測と実行の誤差を感知することで、予測精度に対応して起こる快不快の感情とともに記憶していく。快の結果を得るような予測方法に改善していく。この繰り返しによって、予測精度を向上させていくことができる。人間というシステムのその学習活動を私たちは意識と言っている、といえる。

ちなみに、最近の認知科学では、意識は常に学習を伴い、逆に学習は常に意識を伴う、という仮説の実証的論考が述べられています(一九九七年 バーナード・バーズ「意識の劇場にて、全域的作業空間理論、意識の厳密科学理論」)。

息の話に戻る。先の拙稿の見解によれば、意識して息を吸う場合、私たちは、息を吸う結果として起こる事態を予測している。たとえば、栓を抜いたばかりの赤ワインをグラスに注いで、鼻先に持っていく場合。ワインの芳醇な香りを期待している。あるいは、このワインは保存が悪かったからおかしな香りになっているかな、と心配する。

この場合、息を吸うという意識運動の結果、ある種の香りが嗅げるのではないか、という予測がなされて、そのことが記憶されている。息を吸うという意識運動を実行した結果、ある香りが感じられると、その香りの予測と実際の結果が比較されて、「あ、やっぱり」とか「え、なんだ、これは?」とかの感情が起こる。行為の結果の予測、実際の結果、その感想としての感情、それによる評価、反省、学習。それらが一体となって記憶される。こういう場合、私たちは、自分が何をしたのか、よく分かっている。つまり、自分は意識を伴ってその行為をした、と思う。

これに対して無意識で息を吸う場合、これはふつうに呼吸する場合ですが、何も予測されない。いつの間にか息を吸ってしまっているが、そのことも記憶されない。こういうことから考えると、意識するということと予測するということは必要十分条件の関係のように見えます。意識があるときは予測がある。予測があるときは意識がある。

本当にそうだろうか? 実験してみましょう。

自分の呼吸に意識を集中する。吸って吐いて。吸って吐いて。どうですか? 呼吸したことを記憶していますか? 呼吸しながらなにか予測していませんか? 自分の呼吸運動を予測していますね。空気を吸うと、空気が肺に入ってくると予測している。空気を吐くと、空気が肺から出ていくと予測している。当たり前すぎると思われることですが、このように自分の運動の結果を予測して運動することが意識的運動の必要条件です。

次の実験は、実験をしていることを忘れる実験です。意識して、意識していることを忘れるように努めることはむずかしい。しかし、いつのまにか自然に忘れてしまうのは簡単です。

意識して息をする実験をしているうちに、いつのまにか実験していることを忘れてしまう。筆者など、しょっちゅうです。つまらない実験なので、私たちはたいてい飽きてしまう。午後の予定を考えてしまったり、電話がかかってきたり、トイレに行ったりして意識が中断される。そうなると、もう、自分の呼吸を意識していない。呼吸をしたかどうか覚えていません。覚えていなくても、トイレに行ったとき、ずっと呼吸が停止していたはずはないから無意識で呼吸していたはずです。それは覚えていない。もちろん、なにかを予測して呼吸したという記憶もない。つまり、無意識の運動は実行の記憶も予測の記憶も伴わない。

無意識で運動をした場合、その運動を実行したかどうかは、身体に証拠が残っていたり、周りの物質が変化していたりして、後からでも推量できる。寝ぼけて布団を蹴飛ばしてしまっても、寒くて目が覚めれば、自分の身体が何をしたのか分かる。しかし、自分がその運動の結果を予測したかどうかは、覚えていないと思い出せません。記憶していないような予測は、あったとしてもはっきりしないあいまいな予測でしょう。

こういうあいまいな予測行為を無視することにすれば、無意識の運動では予測の記憶を伴わない、といってよい。逆に、意識的運動の場合は予測したことを覚えている。そういうことならば、意識=予測と記憶、という図式は間違いなさそうです。

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私はなぜ息をするのか(3)

2009-06-13 | xx0私はなぜ息をするのか

さて、Bは、実際にAを実行するのではなくて、Aの実行を意識するだけの神経活動です。無意識に息を吸う場合は、息を吸う運動を意識することはない。意識せずにいつの間にか息を吸うだけです。つまり無意識な呼吸運動の場合、Aだけが起こってBのような神経活動は起こりません。Bが起こらなければ、CもDも起こらない。

では、意識して息を吸う活動(B)は、無意識の場合とどう違うのか? 意識する場合は、息を吸う自分の運動(A)を想像する。身体運動(A)のシミュレーションを対象として想像する。つまり、Bという神経活動は、息を吸う筋肉運動を引き起こす神経活動(A)を実行する自分の運動シミュレーションを想像して、それを実行した結果を予想する神経活動です。

そしてCは、Bで作成したその予想を記憶する。そしてAが実行された場合は、Dが実行されてCで記憶した内容を想起する。そこで「いま、意識して息を吸いましたね?」と質問されると、「はい、意識して息を吸いました」と答える。

このことから、意識した運動の特徴は運動結果の予想がなされる、という点にあることが分かります。意識して息を吸う場合、いまここで息を吸うとその後どうなるのか、息を吸わなかったらどうなるのか、シミュレーションによる結果を予想している。

X線撮影をする場合、技師さんが「大きく息を吸って」と指示する。私たちは、世話をしてくれる技師さんの指示に従えばスムーズに検査が済むだろうと予想する。技師さんの言うことを聞かずにぐずぐずして大きく息を吸わないでいると、撮影されるX線写真が使い物にならなくて後日撮りなおしになってしまうかもしれない。あるいは、向こうの部屋から覗いている技師さんにすぐ分かってしまって「ちゃんと、大きく息を吸ってください!」と大声で叱られてしまうかもしれない。などと予想する。そういうことで、私たちは、意識的に大きく息を吸うことを想像し、その結果を予測してそれを記憶する。

私たちが意識的行為といっている神経活動は、いつも、予想や予測という機能と、関係がある。意識して運動することは、その運動の結果をシミュレーションによって予測して、その予想される結果のよしあしを判断して運動することだ、といって間違いではなさそうです。

経営学の教科書に、「計画、実行、評価、改良のサイクルを繰り返せ」と書いてある。これは、ビジネスの進め方を教えているわけです。一般に、「計画、実行、評価、改良のサイクル」を繰り返す活動は、学習と呼ばれる。行為の結果を予測し、行為を実行し、実際の結果を予測した結果と比較し、行為の仕方と予測の仕方の両方を修正して目標に近づく仕方に改める。次の機会には目標により近づいた行為ができるように学習が進む。

こういう経営の仕方を実行している経営者は、たしかに意識が高い、といえる。

学習するものは人間とは限らない。最近のパソコンは実によくできている。私たちユーザー一人一人の好みを学習しています。パソコン画面にあるボタンの(プルダウン)リストを展開させると、ユーザーが次に使うであろうボタンをリストのトップに移動してくる。しばらくして、それがあまり使われないと、実際によく使われたボタンを代わりにトップに持ってくる。

そのパソコンのユーザーの次回の要求を予想するシミュレーションとしてユーザーの過去の選択の最頻例をもってくる。(携帯メールなどの)ワープロソフトの漢字変換もそうなっていますね。直近の使用頻度をカウントするという、きわめて単純なアルゴリズムですが、予測学習の基本的形態といえます。ユーザーに気に入られるという目標に近づくように予測を立てて実行し、実際の結果から学習して行為の仕方を改良している。こういうパソコンや携帯電話は、拙稿としては、意識がある、と言いたい。

無意識の運動と比べて、意識して運動したときの特徴は、したことをよく覚えている、ということです。記憶があるときは、意識があった、といえる。逆に、記憶がないときは、無意識でそれをした、ということになる。

予測という行為には、必ず記憶が伴います。なぜならば、予測するということは行動をうまく実行するためだからです。そのためには、実行したときに予測と結果との誤差を感知して記憶しなければならない。そして感知した誤差を評価して記憶する。たとえば、その誤差が大きければ不快と感じ、誤差が少なければ快と感じる。その快不快の感情も記憶する。そうすることで予測精度をあげていく。意識的行為には、その運動行為の予測と結果とそれが引き起こした感情の記憶がいつも伴っているのは、このためと思われます。逆にいえば、意識的行為を行い感情とともに記憶するという神経機構は、学習により予測精度を向上させるために必要な機能だから進化の過程で動物の脳に備わった装置である、といえます。

先の例のパソコンの場合、どのボタンをリストのトップに持ってくるか、という行為が実行できるようにプログラムが作りこまれている。つまり、パソコンは次に使われるボタンを予測している。これがパソコンの意識だ、といえます。

パソコンは、自分が実行した予測と行為の記憶を保存している。それは、リストのトップに持っていったボタンの時系列です。たとえば、このパソコンは過去一ヶ月間のボタン使用頻度の時間変化を記憶している。しかも、使われた各時点でのボタン使用予測と実現結果の誤差の実績をも記憶している。その上で、いまこのパソコンのマウスをいじっているユーザーによって次に押される確率が最も高いボタンは何か、を予測してそれをリストのトップに表示する。そういうパソコンのリスト表示行為は、非常にシンプルな例ではあるけれども、人間の意識的行為と同じ仕組みである、といってよい。

パソコンほど単純な例ではありませんが、人間の他にも、種々の動物が予測と学習という行動をする。そのような動物には、拙稿の言い方によれば、意識がある、ということになります。道具を使って食べ物を入手する動物などは、道具を保持する動作と食べ物を食べる動作との間に、予測と学習という関係を作っています。

ニューカレドニアのカラスは小枝を釣竿にして昆虫を吊り上げて食べる。釣り道具をクチバシにくわえた時点で、カラスは、この行為によって昆虫を捕食できるという予測をしているらしい。カラスの脳は、釣り道具を選んでいる時点で、昆虫を捕捉するイメージのシミュレーションをしているはずです。

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私はなぜ息をするのか(2)

2009-06-06 | xx0私はなぜ息をするのか

 では、本人に気づかれないように、脳波を計ってみましょう。同時に、いろいろな方式での脳画像も撮像して、脳の各部位の活動レベルを画像化する。それで分かるでしょうか? 最近の脳神経科学では、意識している神経活動の場合と、そうでない場合、脳の異なる場所が異なる様態で活性化されるという実験観察がされている(二〇〇九年 ラファエル・ガイヤール、スタニスラス・ドゥヘアネル、クロード・アダム、ステファン・クレマンソー、ドミニク・アスブーン、ミッシェル・ボーラック、ローラン・コーエン、リオネル・ナッカシュ『意識的アクセスの収束的頭蓋内マーカー群。確かにそういう実験結果は、それなりに意味があります。

しかしその場合、科学者はどうやって、意識と無意識の場合分けをしたのか? 

それは、結局は、実験しながら被験者に口頭で質問して聞いたわけです。「いま、意識して身体を動かしましたか?」「はい、意識して身体を動かしました」あるいは、「いま、それが見えたことを意識していましたか?」「はい、見えたことを意識していました」という会話で意識の有無を認知している。つまり、被験者が、自分は意識してそれをしたはずだ、と思い出すときだけ、意識はあったことになる。先の質問に対して、「えーと、意識してしたかどうか、覚えていません」と答えたら、意識はなかったことになる。「本当ですか? 本当に意識しなかったのですか? 実は意識したのでしょう?」などと、科学者が被験者を脅したりしてはいけません。あくまで、被験者の主観に頼るしかない。科学者は結局こうして、意識と無意識の場合分けをして、それぞれの場合の脳画像を分類する。

かように、意識というものは、本人が意識して意識を意識と意識するときだけ、自分は意識がある、と感じるものです(二〇〇九年  ピーター・カルーサーズ意識的心を消去する』)。あるいは、その人を見る観察者が、その人は意識がある、と信じるとき、その人は意識がある、ということになる(拙稿9章「意識はなぜあるのか?」)。

さて、意識して息をする場合、息を吸おうとすると、自然と肋骨が上がり、横隔膜が下がって、肺に空気が流れ込む。肩や腹の力を緩めると空気がでていきます。病院で胸部のX線撮影をする場合、技師さんが「大きく息を吸って」と指示しますね。私たちは、素直に大きく息を吸う。この場合、意識して息を吸った、とされますね。これは、無意識で息を吸った場合と、どう違うのか? 

息を吸ったばかりの人に聞いてみましょう。

「意識して息を吸いましたね?」

「はい、意識して息を吸いました」

「なぜ、意識したと思うのですか?」

「息を吸おうと思って息を吸ったからです」

「なぜ、息を吸おうと思ったと思うのですか?」

「息を吸おうと思ったことを覚えているからです」

「覚えていると、意識してしたことになるのですか?」

「はい、そうです。意識したことは覚えているからです」

「覚えていなければ、意識しないでしたことになるのですか?」

「はい、そうです。覚えていないと、無意識でしたということです」

この会話から、息を吸おうと思ったことを覚えているかどうかが、意識と無意識の分かれ目だということが分かります。そうだとすると、問題は、息を吸おうと思ったことを覚えているとは、どういうことなのか、です。息を吸おうと思ったことを覚えている、ということは、身体現象としては何なのか?

この身体現象は、自分がある運動をしようとしたことを記憶してその後それを想起した、という神経活動です。この神経活動は、四個の構成要素から成り立っている。

(1)無意識と有意識とで共通な、息を吸う筋肉運動を引き起こす神経活動A

(2)Aを実行しようと意識して思う神経活動B

(3)Bを記憶する神経活動C

(4)記憶したBを想起する神経活動D

では、これら四つの構成要素は、それぞれどのような仕組みになっているのでしょうか? まずざっと、調べてみましょう。

「(1)無意識と有意識とで共通な、息を吸う筋肉運動を引き起こす神経活動A」

これは、ふつうの運動形成神経回路の働きです。現代の神経科学では、運動形成に関して脳の各部における部分的な機構の解明がかなり進んでいますが、まだ全貌は分からない。それでも、他の三つの要素に比べれば、分かっているほうです(二〇〇八年 ルウド・ミュウレンブレク『動きに関する認知神経科学』)。

(2)Aを実行しようと意識して思う神経活動B

これの内容は、現代の科学では、まったく分かっていません。

(3)Bを記憶する神経活動C

これはBよりは分かっています。Bの神経活動に使われる神経回路がその実行の痕跡を物質変化(神経細胞連結部の構造変化など)としてそれぞれの回路内に保存することで記憶が成り立っている、らしい(二〇〇九年 エドウィン・ロバートソン『創作から定着へ:記憶処理のための新しい枠組み』)。

(4)記憶したBを想起する神経活動D

これも、Bよりは分かっています。Bの痕跡が保存されたそれぞれの神経回路内の物質変化に連結する引き金部分の神経活動を活性化することで、それぞれの神経回路が活性化されて、それらの総合活動として、Bに極めて似た神経活動が再生される、らしい。

ようするに、どれも科学的には、その機構はよく分かっていない。特に、「(2)Aを実行しようと意識して思う神経活動B」は、科学としては、どう捉えてよいのかさえ、まったく見当もつかない。Bの存在自体が疑わしい、ともいえます。科学の対象になるところまで問題が定式化できない。

定式化できない問題には、科学者は、ふつう関心を持たない。実際、科学者たちは、そこに問題が存在すると思っていないことが多い。ここに、よくわからない問題がある、と思っている科学者もいますが、こういうことは、とりあえず哲学にがんばってもらうしかない超ハードな問題だろう、と思っています。

まあ、そうはいっても、ここでは、この科学で定式化できない、あやしげな神経活動Bについて考えることにしましょう。

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