では、次に、意識と無意識の区別がつかないような呼吸の実験をしてみましょう。大きなバースデーケーキを用意します。誕生日ではなくても、もちろんかまいません。キャンドルに火をつける。十歳ごとに大きなキャンドルを使うとしても、筆者などは相当な数になる。まあ、今日が誕生日と仮定する実験です。
さて、多数のキャンドルが丸いケーキの上で燃えている。これを一息で吹き消す。大きく息を吸って、フゥーと吹き付けなくてはなりません。まあ、うまく全部消せた、としましょう。そのとき、「いま、意識して息を吹きましたか?」と聞かれたら、「意識しました」と答えるでしょう。ところが、続けて次のような質問をされたらどうでしょうか?
「いま、息を吹く前に息を吸ったとき、意識して吸いましたか?」
こういう場合、「うーん、覚えていません」という答えがふつうでしょう。
実際、息を吸うときは、キャンドルをうまく吹き消すことだけを考えている。それを考えていたことは覚えている。そして、強く息を吹きかけたことも覚えている。だから、その直前に、大きく息を吸ったはずです。その吸気運動を記憶しているか? 吸わないで吐けるはずがない。間違いなく息を吸ったはずだ、と考えれば、覚えているような気になってしまいます。ぼんやりと、覚えているような気がする。しかし、それは、覚えていると錯覚しただけかもしれない。
予測があるかないか、という観点から観察すると、この場合の吸気運動は、その結果を調べるためにシミュレーションがなされて評価されてから実行されたとは思えません。呼気の前の吸気は、まったく躊躇なく実行される。こういう場合は、無意識の運動というべきでしょう。
つまり、このような場合、キャンドルを吹き消すという複雑な呼気運動全体は予測されたけれども、その前段階の準備運動である吸気運動については、予測されずに無意識でなされている。この無意識の吸気は、通常の呼吸における無意識の吸気とちがって、キャンドルを吹き消すという意識的な呼気運動を実行する場合に、運動開始の身体状況をつくるためになされる無意識の準備運動だといえる。実際、ふつうのときよりずっと大きく息を吸い込んでいるはずです。
このような無意識の準備運動は、無意識運動ではあるけれども、意識的運動に連携している。無意識と意識との境界にある、と(拙稿の見解では)いえそうです。はじめは意識的運動であったものが、学習によって慣れてくると無意識運動となる場合もある。歯磨き洗面など日常的な運動やスポーツなど、どれもそうです。私たちの身体は、こういうような無意識運動を、意識的運動以上に、すばやく正確に実行できるようになっている。
息に関して最後の実験は、レストランに行って紅茶を飲む実験です。なるべく、高級そうなレストランに行きましょう。なるべく気取って、マナーよくお食事を済ます。最後に、紅茶が出たら、ズズーと、なるべく大きな音を立ててすすってください。
横隔膜がすごく緊張しませんか?
これは、意識して息を吸う場合の典型例といえる。この例でも、自分の運動の予測がしっかりなされています。この場合、周りの人が自分をどう見ているか、自分自身が自分自身の身体運動を懸命に観察している。自意識といわれるこの感覚は、ときに過剰に働いて困ったことになったりもしますが、社会生活を営む上で、ふつうはとても役に立っている。これが鈍すぎると、社会生活はうまくいきません。
さて、ここできわめて大胆に議論を一般化すれば、次のようなことが言えそうです。
哺乳動物は、身体運動をする場合、しばしば運動の準備として、運動の結果起こる事態を身体運動シミュレーションによって予測し、その結果を仮想的に体感することによって評価する。その予測結果に導かれて実際の運動を実行する。実行後、予測と実際の誤差を記憶して、運動予測の改良に使う。こうして、身体周辺状況と身体運動の(確率的な)関係法則を学習する。
人間の場合、それに加えて、社会での人間関係において自分という人物のモデルが運動の結果起こす社会的な事態をシミュレーションによって予測し、結果を評価して、他の人々(社会)と自分との(確率的な)関係性を学習する。たとえば、うそをついてばれるとたぶん仲間はずれにされるだろう、とかです。
こういう場合、予測してから動いている(動物あるいは)人の動きを観察すると、意識を持って行動しているように見える。特に、自分自身を観察する場合、私たちは、自分の運動の予測と実際の結果とそのとき感知する体性感覚や感情とを総合して学習し記憶して、自分は意識をもってそれをしたのだと思う。
さて、ここでまた息の議論に戻る。意識して息を吸ったことを覚えている、とはどういうことか? 先に書いた四つの要素をもう一度、書き下してみましょう。
意識して息を吸ったことを覚えている、という神経活動は、次のように四つの要素に分解できる。
(1)無意識と有意識とで共通な、息を吸う筋肉運動を引き起こす神経活動A
(2)Aを実行しようと意識して思う神経活動B
(3)Bを記憶する神経活動C
(4)記憶したBを想起する神経活動D
この(2)、つまり「Aを実行しようと意識して思う神経活動B」とは何なのか?