哲学の科学

science of philosophy

存在は理論なのか(14)

2011-06-25 | xx5存在は理論なのか

私たちは、目で見えるこの客観的現実世界が間違いなく存在している、と信じている。そうとしか感じられません。無意識のうちに身体全体でそう感じています。そしてまた、この世界で起こることは言語で正確に語ることができる、と思っています。自分たちの言語で正確に語り合い互いの認識を正確に理解し合える、と思っています。しかも結局は、この客観的現実世界の変化は科学で正確に予測することができる。科学が発達することで、私たちの身体自身を含め、物事がこれからどう変化していくのかを正確に知ることが可能だ、と思っています。

しかしこの世界は一方では、ここで拙稿が述べているように、私たち人間の身体がこう動くからこう存在している、としかいえない現象でもあります。

人間の身体は世界の物事をこう捉えてこう動く(たとえば、そのリンゴはおいしそうだから食べる、とか)。それは、逆に言えば、こう動くためにこう捉えている(たとえば、食べるために、おいしそうなリンゴがあると思う、とか)といえる。

幼児は自分の身体を動かすことで物事を捉えていきます (一九九八年 ウィルコックスベイラジオン幼児期における物体の個別認識・隠蔽実験に関する判断における特徴情報の利用』既出、二〇〇九年 ルネ・ベイラジョン、ディ・ウー、シルヴィア・ユアン、ジエ・リー、ユアン・ルオ『若年幼児の自動駆動物体に関する予期』)。私たちの身体が動きながら、動くことで物事の存在を捉えていくその仕組みは、人類が生活環境の中で仲間と協力して生き抜いていくために必要であったから現在の私たちの身体に備わっている機能でしょう。

そして私たちの身体が捉えることで存在するこの世界は、もともと、人類が生き抜けるように存在しているはずです。なぜならば世界をこう捉えることで生き抜いてきた人類の身体は、そう捉えた世界を利用して生き抜くように進化しているはずだからです。そうであるとすれば、私たちの身体がこう感じ取っているこの現実世界は、こう感じ取られることが私たちの生存のために必要であるからこう感じ取られるように存在している、といえます。

この世界をこのように感じ取るということを私たちが何に利用しているかを考えれば、その必要性は明らかでしょう。私たちはこの世界をこのように感じ取ることで、仲間と協力して行動し、言語を使用し、文化を共有することができます。事実、私たちはこのように家族を作り友達を作り部族を作り国家を作っています。つまり(拙稿の見解では)人類が仲間と協力して生きていくために必要だからこの世界がこのように存在している、といえます。

拙稿の見解による世界の捉え方はこうです。

人間が仲間と協調して身体を動かすためには、互いの身体と互いの身体が接する周りの物事を、互いに共有する運動の環境として認知し、それぞれの運動を協調的にコントロールするシステムを、それぞれの身体の内部に持っていなければならない。

このリンゴをあなたと私が分け合うためには、まず私はあなたがこのリンゴを動かすときの身体の動きを予測しなければならない。私の身体がリンゴに対してこう動き、あなたの身体はリンゴに対してああ動くことが分かる。それで互いに協力してリンゴを分け合うことができる。そういう運動の予測をするシステムを私とあなたの双方がそれぞれの身体の内部に持っている必要があります。

同じ物事が同じ物事として存在することを互いに知っていなければならない。

私が見てリンゴであるものはあなたが見てもリンゴでなければならない。私がそれに触れてそれがリンゴであるかのように私が取り扱えなければならない。同時に、あなたがそれに触れてそれがリンゴであるかのようにあなたが取り扱えなければならない。そうでなければリンゴに関しての協力は成り立たない。逆に言えば、協力が成り立つためには、あなたにとっても私にとっても、リンゴがリンゴとして存在することが必要である。あなたにとっても私にとってもそれがリンゴであることが必要であるから、それはリンゴであるとして存在する。つまり、ここにあるこのリンゴは、これがリンゴとして存在することが人間どうしの協力に必要であるから、リンゴとして存在している。

このリンゴに対して、あなたの身体がどう反応するかと、私の身体がどう反応するかは、深い関連がある。私は、リンゴに対する私の身体の反応とあなたの身体の反応と両方を予測できるシステムを私の内部機構として持たなければならない。あなたもまた、同じことが予測できる内部機構を持たなければならない。そうすれば私とあなたの互いの運動予測を共鳴させることができる。そうすれば運動を共鳴させることができる。その運動共鳴によってこのリンゴは存在する、といえる。この仕組みによって、あなたと私が共有するその運動共鳴が「ここにリンゴがある」という言葉を作り出している。

では抽象的な物事はどうか?それらも、まったく同じように存在しているといえます。

たとえば、私が「縦が13メートルで横が27メートルの長方形があります。その面積を教えてくれますか?」と、あなたに質問したとします。あなたは、「ちょっと待って、この電卓で掛け算するから。あ、出た。351平方メートルね」と答えます。このとき、この「縦が13メートルで横が27メートルの長方形」という抽象的なものは、どのような仕組みで存在しているのでしょうか? 私の頭の中では、それは「『物差しを当てて縦を測ってみると13メートルになっていて横を測ってみると27メートルになっている』と言えばだれもが分かってくれるはずの図形」という概念になっている。あなたの頭の中では、「縦の長さと横の長さを表す数字13と27を電卓にインプットして*ボタンを押せば表示されるその数字が面積になるような図形」と考えられています。

すこし表現方法は違いますが、同じ面積を計算できるので、話は通じるでしょう。表現は違っていても実際上、話が通じて協力できれば、運動共鳴は成り立っている、といえます。この場合、「縦が13メートルで横が27メートルの長方形」という抽象的なものは、あなたと私という二人の人間が共有する運動共鳴として存在しています。

ここで、過去をさかのぼって、存在というこの不思議な現象を人々がどのように考えてきたかを、ごく簡単に整理してみましょう。

人類発生以来、個々の人々は毎日の生活に忙しくて、存在などという抽象的な概念を深く考えている暇などありませんでした。現代人である私たちも、もちろんそうです。それでも、世界がここにこうあるということ、世界がここにこうあることが私たちに分かること、現実に物事がこういうように起こっていくこと、それはなぜか?なぜそうなのか?現実はこうであって、ああでないのはなぜか?そういう疑問が、ときどきは話題になったり、歌や詩になったりします。

職業としてこういう話を語る哲学者や詩人、小説家がいる。また宗教は昔からこの話を聖書、経典に書き込んでいます。この世は神様がこう作ったからこうなっているのだ、と言われれば、そうかなとも思える。世界はこうなっているからこうなっているように見えるのだ、と言われればそうかなと思えます。

目に見えるものは目に見えるように存在している。しかし生老病死など私たちが特に関心があるものがなぜ起こるのか? なぜこうなのか? どのようにして起こるのか、目で見てもよく分からない。科学を進めても分からない。目に見えないものがあるらしい。目に見えないものは目に見えるものより偉大で人生への影響力が強いのかもしれない。とも思えます。

そういうような話は、一般の人が考えてもしかたがない、宗教や哲学の専門家にお任せしておけばよい、ともいえます。しかし、哲学が職業としてなりたち、宗教が社会に認められているという事実は、そのような話が一部の人だけの関心事ではなく、だれにとっても、人生においてある程度重要な問題だと考えられているということでしょう。

古代ギリシアから始まった西洋古典哲学でも、存在論、認識論、形而上学、という学問が体系的に作られてきました( BC三三〇年頃 アリストテレス形而上学』既出)。古典哲学でなされた存在に関する議論は、物事とは何か、物質とは何か、概念とは何か、という素朴な考え方を発展させたものです。その後この存在論は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの神学の基礎となって現代人の世界観の下敷きを作っていると見ることもできます。したがって、これらの古い存在論は、現在私たちが日常的に使っている考え方とあまり違わないように見えます。

近代(十七~十九世紀)から現代(二十~二十一世紀)へと西洋哲学が展開するにしたがって、哲学者たちが唱えるいろいろな概念は、私たちが日常使う言葉から離れていきます。近代以降は、特に世界の存在の意味合いが、古典哲学のいう存在の概念とかなり違ってきています。概していえば、世界はだんだん影が薄くなっている。近代から現代に近づくにつれて、すべての物事の存在感は薄くなってきている、拙稿の言い方を使えば、存在が存在する必要性は薄れてきている、人と人とが物事の存在を共有する必要が少なくなってきている、といえるでしょう。

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存在は理論なのか(13)

2011-06-11 | xx5存在は理論なのか

実際、物事が存在しているという感じは、個々の感覚器官の働きというよりも、その状況で身体全体がどう反応していくかを感じ取ることで、私たちはそれを認知しているようです。その物事に対して私たちの身体がどう反応しているのか、その物事に対して仲間の身体がどう動くか、さらにそれらに対応して私たちの身体がどう共鳴していくかを感じ取れば、その物事がどのように、どの程度はっきりと現実に存在しているかが明らかになります。

私たちの身体はこのような仕掛けによって、現実に存在する物事と非現実的な夢や幻想あるいはバーチャルな作り物との区別を無意識のうちにしっかりと見分けていきます。私たちは、自分たちの身体がそのようにして現実の物事に囲まれて客観的世界の中央に置かれている、と感じることができます。そのような自我と客観的現実世界の存在をだれもが感じていて、その構造はだれが感じ取ろうとも同じものである、と感じられます。そういう前提の上に、人間の文化と言語は作られています拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」

また、逆に文化と言語が確立することで客観的現実世界の存在が確固としたものとなっていきます。この意味で、私たち現代人にとっての現実世界と私たちの文化、言語、文明は互いに支えあって人類共通の世界認識を作っている、といえます。

この現実世界が自分の目で見たままであることを周りの仲間の動きから共感でき、親しい人々も見知らぬ人々も、人間であればだれもが同じことを感じていることを共感でき、さらにそれを言葉で語り合い、仲間とともにそれについて語り合い、共感を深めていく。このような仕掛けによって、私たちは確固とした客観的現実世界の存在を確信できます。その現実世界は人類文明が発達するにしたがって確固とした物質的空間として存在できるようになりました。言語が発達し、哲学が発達し、科学が発達したおかげで、人々は共通の現実世界を感じ取ることができるようになり、そこに見える物事はどういう物事であるのか、はっきりと知り、それを言葉で語ることができるようになりました。

現代では、物事は言葉で語れるばかりではなく、写真映像で記録し、ビデオ動画を撮影し録画録音し、画像をスペクトル分析して物質構造の変化過程を数値データとして微細に記述できるようになりました。

物事の客観的な存在によって映し出されているこの現実世界、という現代人には自明の世界観も(拙稿の見解によれば)、人類文化の進化の過程で作られてきたものでしょう。人類の文化は(拙稿の見解では)、言語や画像やシンボルや共同作業や儀式を使いこなして、現実世界をそのメンバーがそれを同一の存在として認知し共有できるように作り上げる仕掛けです。人類の進化過程は、言語と文化を発展させることで、客観的現実世界をだれが感じても同じように安定的に認知できるような存在として作り上げてきた、といえます。

現代は都市文明が発展し、私たちの日常生活はすみずみまで人工的な物質構造によって支えられていると感じることができます。現代の都市生活に映し出されている客観的な物質構造による現実のこの存在感の強さは、数十万年前から数千年前までほとんど変化のなかった過去の狩猟採集生活から比べれば、格段に堅固なものとなってきています。

現在私たちが感じ取っている現実の存在感は、これ以上堅固になることは想像しがたいという意味で、すでにピークに達しているともいえるでしょう。現代人にとって科学と経済の客観的な存在感は確固たるものとなっていて、過去に支配的であった宗教や哲学、あるいは(科学と経済に無縁な)伝統的精神文化などの存在感は消え去ろうとしているかのように見えます。このことは、伝統的慣習などで表されてきた過去の表現様式を駆逐して、科学と経済によって明晰に表現できるものだけが強烈に存在している世界が現れた、と見ることができます。

人類の認知機構は(拙稿の見解では)、動物共通の前段プロセスと、人類固有の後段プロセスの二段構えで構成されています。はじめは、もちろん、前段だけしかなかった。人類の進化に伴って後段プロセスが現れ大きくなっていきます。それでも都市文明が発展する以前は、たぶん、後段プロセスは前段プロセスの補足的役割だった、と思われます。しかし現代においては、認知機構のその重心が急速に後段に偏ってきているのかもしれません。

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存在は理論なのか(12)

2011-06-05 | xx5存在は理論なのか

このような運動共鳴により仲間の視線が自分の視線と重なり合ってその物事を見ている。その仲間の表情や身体の反応を見れば、仲間が感じている感情がよく分かる。仲間と一緒に自分はその感情にぴったりと共鳴できている、と感じられる。むしろ、自分と仲間の区別はなく、一体化した感情、あるいは空気のようなもの、を感じる。こういう場合に、仲間とともに感じ取っているその物事は確かに、客観的な現実として存在している、と感じられます。そのとき自分がその存在を感じ取っている、あるいは仲間とともに感じ取っている、という意識はあまりなく、ただ単にそこにその物事が客観的に存在している、と感じられます。これが、客観的現実を感じとる人類特有の現実感覚の起源でしょう。

仲間と共有する認知経験が、このように私たちの現実感や物事の存在感の基礎になっていますが、この仕組みは自覚できません。私たちは、単に、物事が客観的にそこに存在している、としか感じません。人類の文化が発展し、文明が発達するほど、現実の客観性は強くなっていきます。高度な文明社会の中で育つ現代人は、仲間の存在とは関係なく、むしろ自分一人で物事を客観的に見て取っていると思い込んでいます。客観的現実というものは当然、そういうものであるはずです。私たちは、客観的現実の中に自分が置かれているから、当然に、自分が周りの現実を感じ取っているのだ、と思い込んでいます。人類の文化も言語も文明も、すべて、人間どうしがこのような現実認識を共有していることを繰り返し互いに確認しあうシステムとしてできあがっているからです。

現代は、これら現実共有システムが高度に発展しているため、私たちの感じる現実の客観性はまったく疑いようがないように感じられます。私たちは、自分の目で見える身の回りの物事が実際に客観的に存在している、と確信していますね。それはまったく当然としか思えません。しかしそれは(拙稿の見解では)文明がもたらした現代人特有の自我意識の産物です。

幼児の動作を観察すると、母親の表情や声色や視線を確認して物事の存在を理解しようとしていることが見てとれます。幼児のこのような動作には、原始人類の認知プロセスの痕跡が残っている、とみることができます。大人でも初めてのことに遭遇した場合、あるいは慣れないことをする場合は、思わず仲間の目を見る。つまり仲間がどう反応するかを見て事態を確認したりしますね。これからしなければならない行動に自信がない人は目が泳ぐ。それは仲間の視線を確認しようとして身体がそう動くからです。

街角で超ミニスカートとか、目を見張るような突飛なコスプレ衣装とかを身にまとった人が歩いているのを目撃する。私たちは思わず、周りの通行人の反応を見まわしてしまいます。会社の会議で注目を集めそうなことを自分が発言しなければならない立場になってしまった場合など、思わず上司の顔を見たりする。自分が感じ取っている状況認識が現実的なものかどうかを確かめるために、私たちは仲間の視線がどこを見ているか知る必要があるのです。自分が感じ取っているからこれが現実だ、というよりも、(通行人、母親、上司、友達など)仲間がそれを現実と感じ取っているに違いないからそれは現実だ、と思う感覚です。

物事が現実に客観的に存在するためには(拙稿の見解では)、私たちが仲間の人間とともにそれを認めることが必要です。仲間は今実際にそばにいてもよいし、今いなくてもよい。一緒に物事の存在を認知するその仲間は人間であればだれでもよいが、そのとき、だれでもが同じようにその存在を認知できるはずでなければなりません。

典型的な例が実験あるいは観察による科学的事実の発見です。発見された小惑星は論文で発表され、世界中の天文学者仲間によって観測され、軌道が再計算されスペクトルが分析されて何度も検証されなければ、はっきりと存在することになりません。

科学は組織的に検証が行われる好例ですが、ふつうの街角に発見される小さな現実であってもその存在は同じように成り立つ必要があります。あそこの交番に美人警官がいる、といううわさは誰もがそれを見たと言い合えば現実の存在になるし、それを主張する人が一人しかいなくて他のだれもが懐疑的な意見を言うようならば、美人警官は実は存在しない、というべきでしょう。一方、だれがその交番をのぞきに行ったとしてもそれらしい警官を見ることができるだろうとだれもが確信する場合、その美人警官は確固として存在することになります。

このような日常的な経験を繰り返している私たちは、物事が現実に客観的に存在しているということは視覚触覚運動感覚など総合的にどういう感覚を受ける場面であるのかを身体感覚として無意識のうちに知っています。

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