私たちは、目で見えるこの客観的現実世界が間違いなく存在している、と信じている。そうとしか感じられません。無意識のうちに身体全体でそう感じています。そしてまた、この世界で起こることは言語で正確に語ることができる、と思っています。自分たちの言語で正確に語り合い互いの認識を正確に理解し合える、と思っています。しかも結局は、この客観的現実世界の変化は科学で正確に予測することができる。科学が発達することで、私たちの身体自身を含め、物事がこれからどう変化していくのかを正確に知ることが可能だ、と思っています。
しかしこの世界は一方では、ここで拙稿が述べているように、私たち人間の身体がこう動くからこう存在している、としかいえない現象でもあります。
人間の身体は世界の物事をこう捉えてこう動く(たとえば、そのリンゴはおいしそうだから食べる、とか)。それは、逆に言えば、こう動くためにこう捉えている(たとえば、食べるために、おいしそうなリンゴがあると思う、とか)といえる。
幼児は自分の身体を動かすことで物事を捉えていきます (一九九八年 ウィルコックス、ベイラジオン『幼児期における物体の個別認識・隠蔽実験に関する判断における特徴情報の利用』既出、二〇〇九年 ルネ・ベイラジョン、ディ・ウー、シルヴィア・ユアン、ジエ・リー、ユアン・ルオ『若年幼児の自動駆動物体に関する予期』)。私たちの身体が動きながら、動くことで物事の存在を捉えていくその仕組みは、人類が生活環境の中で仲間と協力して生き抜いていくために必要であったから現在の私たちの身体に備わっている機能でしょう。
そして私たちの身体が捉えることで存在するこの世界は、もともと、人類が生き抜けるように存在しているはずです。なぜならば世界をこう捉えることで生き抜いてきた人類の身体は、そう捉えた世界を利用して生き抜くように進化しているはずだからです。そうであるとすれば、私たちの身体がこう感じ取っているこの現実世界は、こう感じ取られることが私たちの生存のために必要であるからこう感じ取られるように存在している、といえます。
この世界をこのように感じ取るということを私たちが何に利用しているかを考えれば、その必要性は明らかでしょう。私たちはこの世界をこのように感じ取ることで、仲間と協力して行動し、言語を使用し、文化を共有することができます。事実、私たちはこのように家族を作り友達を作り部族を作り国家を作っています。つまり(拙稿の見解では)人類が仲間と協力して生きていくために必要だからこの世界がこのように存在している、といえます。
拙稿の見解による世界の捉え方はこうです。
人間が仲間と協調して身体を動かすためには、互いの身体と互いの身体が接する周りの物事を、互いに共有する運動の環境として認知し、それぞれの運動を協調的にコントロールするシステムを、それぞれの身体の内部に持っていなければならない。
このリンゴをあなたと私が分け合うためには、まず私はあなたがこのリンゴを動かすときの身体の動きを予測しなければならない。私の身体がリンゴに対してこう動き、あなたの身体はリンゴに対してああ動くことが分かる。それで互いに協力してリンゴを分け合うことができる。そういう運動の予測をするシステムを私とあなたの双方がそれぞれの身体の内部に持っている必要があります。
同じ物事が同じ物事として存在することを互いに知っていなければならない。
私が見てリンゴであるものはあなたが見てもリンゴでなければならない。私がそれに触れてそれがリンゴであるかのように私が取り扱えなければならない。同時に、あなたがそれに触れてそれがリンゴであるかのようにあなたが取り扱えなければならない。そうでなければリンゴに関しての協力は成り立たない。逆に言えば、協力が成り立つためには、あなたにとっても私にとっても、リンゴがリンゴとして存在することが必要である。あなたにとっても私にとってもそれがリンゴであることが必要であるから、それはリンゴであるとして存在する。つまり、ここにあるこのリンゴは、これがリンゴとして存在することが人間どうしの協力に必要であるから、リンゴとして存在している。
このリンゴに対して、あなたの身体がどう反応するかと、私の身体がどう反応するかは、深い関連がある。私は、リンゴに対する私の身体の反応とあなたの身体の反応と両方を予測できるシステムを私の内部機構として持たなければならない。あなたもまた、同じことが予測できる内部機構を持たなければならない。そうすれば私とあなたの互いの運動予測を共鳴させることができる。そうすれば運動を共鳴させることができる。その運動共鳴によってこのリンゴは存在する、といえる。この仕組みによって、あなたと私が共有するその運動共鳴が「ここにリンゴがある」という言葉を作り出している。
では抽象的な物事はどうか?それらも、まったく同じように存在しているといえます。
たとえば、私が「縦が13メートルで横が27メートルの長方形があります。その面積を教えてくれますか?」と、あなたに質問したとします。あなたは、「ちょっと待って、この電卓で掛け算するから。あ、出た。351平方メートルね」と答えます。このとき、この「縦が13メートルで横が27メートルの長方形」という抽象的なものは、どのような仕組みで存在しているのでしょうか? 私の頭の中では、それは「『物差しを当てて縦を測ってみると13メートルになっていて横を測ってみると27メートルになっている』と言えばだれもが分かってくれるはずの図形」という概念になっている。あなたの頭の中では、「縦の長さと横の長さを表す数字13と27を電卓にインプットして*ボタンを押せば表示されるその数字が面積になるような図形」と考えられています。
すこし表現方法は違いますが、同じ面積を計算できるので、話は通じるでしょう。表現は違っていても実際上、話が通じて協力できれば、運動共鳴は成り立っている、といえます。この場合、「縦が13メートルで横が27メートルの長方形」という抽象的なものは、あなたと私という二人の人間が共有する運動共鳴として存在しています。
ここで、過去をさかのぼって、存在というこの不思議な現象を人々がどのように考えてきたかを、ごく簡単に整理してみましょう。
人類発生以来、個々の人々は毎日の生活に忙しくて、存在などという抽象的な概念を深く考えている暇などありませんでした。現代人である私たちも、もちろんそうです。それでも、世界がここにこうあるということ、世界がここにこうあることが私たちに分かること、現実に物事がこういうように起こっていくこと、それはなぜか?なぜそうなのか?現実はこうであって、ああでないのはなぜか?そういう疑問が、ときどきは話題になったり、歌や詩になったりします。
職業としてこういう話を語る哲学者や詩人、小説家がいる。また宗教は昔からこの話を聖書、経典に書き込んでいます。この世は神様がこう作ったからこうなっているのだ、と言われれば、そうかなとも思える。世界はこうなっているからこうなっているように見えるのだ、と言われればそうかなと思えます。
目に見えるものは目に見えるように存在している。しかし生老病死など私たちが特に関心があるものがなぜ起こるのか? なぜこうなのか? どのようにして起こるのか、目で見てもよく分からない。科学を進めても分からない。目に見えないものがあるらしい。目に見えないものは目に見えるものより偉大で人生への影響力が強いのかもしれない。とも思えます。
そういうような話は、一般の人が考えてもしかたがない、宗教や哲学の専門家にお任せしておけばよい、ともいえます。しかし、哲学が職業としてなりたち、宗教が社会に認められているという事実は、そのような話が一部の人だけの関心事ではなく、だれにとっても、人生においてある程度重要な問題だと考えられているということでしょう。
古代ギリシアから始まった西洋古典哲学でも、存在論、認識論、形而上学、という学問が体系的に作られてきました( BC三三〇年頃 アリストテレス『形而上学』既出)。古典哲学でなされた存在に関する議論は、物事とは何か、物質とは何か、概念とは何か、という素朴な考え方を発展させたものです。その後この存在論は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの神学の基礎となって現代人の世界観の下敷きを作っていると見ることもできます。したがって、これらの古い存在論は、現在私たちが日常的に使っている考え方とあまり違わないように見えます。
近代(十七~十九世紀)から現代(二十~二十一世紀)へと西洋哲学が展開するにしたがって、哲学者たちが唱えるいろいろな概念は、私たちが日常使う言葉から離れていきます。近代以降は、特に世界の存在の意味合いが、古典哲学のいう存在の概念とかなり違ってきています。概していえば、世界はだんだん影が薄くなっている。近代から現代に近づくにつれて、すべての物事の存在感は薄くなってきている、拙稿の言い方を使えば、存在が存在する必要性は薄れてきている、人と人とが物事の存在を共有する必要が少なくなってきている、といえるでしょう。