哲学の科学

science of philosophy

意識はなぜあるのか(3)

2007-08-25 | 9意識はなぜあるのか

この世界全体も、その中にある私たち人間の身体も、さらにその中にあるように思える意識も意志も心も、観察者の脳がそれを感じるから存在する、といえる。観察される人間の中に、心と身体、あるいは意識と脳、という心身二元論でいうような異質な二者が並存するのではありません。観察者は、相手の人間の身体を見て、その物質としての存在感を感じると同時に、その身体運動を見て、意識を持つと感じる。

石ころのような単なる物質を見る場合と、生きている人体を見て心や意識を読み取る場合とでは、観察者の脳の異なる部位の神経回路が働く。人間のように見えるものを感知したとき、意識を認知するその神経回路は働きます。だから、姿も動作も人間そっくりに作られたロボットを見ることで、その神経回路が働けば、私たちはそこに意識がある、と感じる。その神経回路が働くことが相手に意識が存在することの意味だ、といってもよいでしょう。それは錯覚の存在感です。しかし、そのとき人間は、相手の人体(あるいはロボット機構)に物質としての存在感と意識としての存在感と、両方を同時に感じるのです。これは、人間の脳がもつ正常な認識能力です。

時計を見て、物質としての存在感と、朝六時になったらブザーを鳴らしてくれるだろうという目覚まし機能の存在感とを、同時に感じることと似ています。金属でできた時計の形をした物質とブザーを鳴らす働き、という二つのものが同じ一個の時計として存在すると感じることは、おかしなことですか?

物質としての存在感と、機能を持つシステムとしての存在感と、両方を同時に感じることは、私たち人間のふつうの感受性です。生きて動いている人体に対して、物質としての存在感と意識を持つという存在感との両方を感じることも、ふつうでしょう。しかし、意識という存在感が感じられるからといって、意識というものが存在する、ということではない。意識は、存在感があっても、実在しない錯覚に分類すべきものでしょう。

物質と意識の両方の実在を認める二元論は、無理があります。物質は物質の法則だけで変化していく。意識が物質に影響を与えることはできません。人体に関して言えば、物質としての身体と物質でない意識、という相容れないものが同時に存在する、という二元論はなりたちません。身体と意識が両方「存在する」のではなくて、両方が存在感を持って観察されるというだけのことです。どちらかが本当に存在していて本物の存在感を持ち、他方は、本当には存在していないのに偽の存在感を持っている、というような単純なことではない。両方とも本物の存在感を持っていて、それにもかかわらず両方とも存在していないということがある。あるいは、片方が存在しているというなら、もう片方は存在できない。意識が存在している、といってしまうと、物質は存在できない。物質が存在している、といってしまうと意識は存在できない。

だから、人間には意識がある、といいたいなら、物質の法則だけで動いているはずのこの目に見える物質世界が実在することを大前提として語ることをあきらめるか、または、そのへんをあいまいにごまかして言いぬけるしかない。ふつう私たちは、そのへんを故意にごまかすつもりはなくても、日常の常識的な会話では、ついついあいまいに話が通じていくので、常識では、物質も意識も、両方ともあることになっているわけです。

意識はなぜあるのか、これがその答えといえるでしょう。

ただ、気をつけなければならないことがあります。こういう場合、存在という言葉を使うことが混乱の原因になる恐れがあるからです。哲学が混乱する大きな原因になっています。

自分の身体は目に見える物質ですから、拙稿でも、存在するという言葉を使ってよいことにしています。ただ、自分の身体は目に見える物質世界の存在であっても、前に述べたように、それは私たちが感じる視覚や触覚から生ずる存在感だけを頼りに存在している。このことを忘れないようにしましょう。これを忘れて、自分の身体やこの世界全体が素朴に実在するという前提から始めようとすると、二元論からは永久に脱出できませんよ。

一方、意識には存在感はありますが、目に見えない錯覚の存在感ですから物質としては存在しません。慎重に言葉をつかうべきならば、「A君は意識がある」という代わりに、「A君の身体運動については、いわゆる意識という機能を期待できる」というべきでしょう。まあ、伝統ある自然言語の使い方を、筆者などが修正できるはずはありませんね。こういう問題に関して、消去的唯物論と呼ばれる現代哲学の一派では、心や意識、信念、欲望など、目に見えない心理学的概念の存在を否定し、将来はその代わりに、人間どうしの感覚的共感、というような非概念的な情報共有を基にして、心を理解できるのではないか、という提案をしています(たとえば、一九八一年 ポール・チャーチランド『消去的唯物論と意図的態度』)。(拙稿の見解は消去的唯物論とは違いますが、)この提案には筆者も共感します。

脳の中に意識は入っていない。ちなみに、目覚まし時計の中に目覚ましは入っていない。飛行機の中に旅行は入っていない。ピストルの中に殺人は入っていません。

(9 意識はなぜあるのか end

10 欲望はなぜあるのか?

 

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意識はなぜあるのか(2)

2007-08-18 | 9意識はなぜあるのか

私たち人間が、覚醒時には、この世界の中に自分がいることが分かっている、ということは、(拙稿の見解によれば)自分の肉体を含めた目の前の物質世界を他人の視座から観察し、他人から見た世界の中での自分の行動の筋書きを、その他人が存在感をもって観察している、と感じられる、ということです。逆に、そうでなければ、自分というものの存在は感じられないでしょう?

 他人の視座から見た自分の人体というモデルを作り、その人体の内側に自分が感じ取る五感や身体内部の感覚や感情から来る感覚を主観的に感じる心というものを投射して感じることで、人間は自分の行動をモニターしている。他人を観察して感じた他人の身体の認知と(それから作られる錯覚としての)他人の意識、というモデルをお手本にして、それを自分に応用して自分らしいその人体の運動と変形を感じ取り、さらに感じ取ったその自分の運動に、別に脳内で感じる運動形成回路の出力信号を対応させることで内部からその人体を運転している自分の意識という図式を想像できます。

 インターネットの仮想世界で、自分のアバターを作って結構真剣に遊べますね。人間は、もともと、目の前に見えて運転できるもの(物質としての自分の身体)を、自分、と感じるようにできているからです。逆に言えば、自分の身体を運転できる、という感覚が自分というものをつくっている。人間の脳にはこういう巧妙な仕掛けがあり、これがうまく働くことを感じて、私たち人間は、自分は自分だ、自分には意識がある、他人にも意識がある、と感じるのです。

 私たち人間が日常何気なく使っているこの世界観には、物質と意識という互いに相容れない存在感がごっちゃになっています。物質の性質を厳密に追いつめていく科学から見ると、意識というものは取り扱いに困ります。一方、自他の意識の交流を使って他人とうまく会話して生きているふつうの人から見ると、意識の存在を認めてくれない厳密な科学は、非常識で偏屈な相手です。 ばからしくて、つきあっていられない。しかし、科学の常識とふつうの常識、この二種類の常識の関係はどうなっているのか? この二種類の世界観、というか二種類の存在論、は論理的に考えればどちらかが嘘ですね。こういう問題、というか疑問が、心身二元論とか、心脳問題といわれている哲学問題です。

しかしこれもまた、(拙稿の見解によると)大問題であるかのように見えて実は問題としてなりたっていない偽問題なのです。

他人の目にも見える物質世界の中に観察される物質としての自分の人体と、目に見えないけれども自分だけは感じられる身体内部感覚とを混合し混同するところから、哲学は間違いに陥っていく。自分が感じるすべてのものが、だれの目にも見える物質世界にきちんと対応するはずだ、と思うことがまず間違いの始まりです。身体の奥のほうで感じられるだけで、目には見えないもの、物質現象としては観察できないものはいくらでもある。

まず、自分の運動形成の感覚というものは目に見えない。つまり、自分の身体が動かされたのか、自分が動かしたのか、という区別は、私たちは目をつぶっていても分かりますが、この違いは実は目には見えません。だれの目にも見える違いではない。他人の目で見ると、違いがない。つまり物質現象としては区別できない。本人にしか分かりません。

痙攣などで顔がゆがんでいる場合、ビデオで撮った自分の顔だけを見ても、それが痙攣なのか、自発的運動なのか、見かけだけでは区別はつかない。身体の中から来る運動形成の自覚、つまり自発的に力を出すときの内部感覚というもので分かるわけです。くしゃみなんかはどうですか。気づかないうちにしている貧乏ゆすりとか、寝ているときの歯軋りとか。自分が身体を動かしたという気はしませんね。つまり意識して自分の意志で筋肉を動かしたわけではない。しかしそれは、物質現象としては、運動神経の指令信号が筋肉を駆動するという過程として同じもので、区別がつかない。意志というものが、他人の目には見えないからです。

拙稿の見解では、「自分の意志で自分の身体を動かす」という現象は物質世界にはない。客観的には存在しない現象です。ところが、私たちはまったく当然のこととして、それ(自発運動)が存在すると思っている。いつも、そう思って身体を動かして生活しているわけですからね。しかし、この(常識きわまりないはずの)意志による身体運動というものが物質世界に存在すると思い込むことは錯覚です。物質世界は物質の法則だけで動いている。自分の意志という物質ではないもので、物質である身体が動くわけはありません。

確かに主観的には、自分の意志で自分の身体を動かしたという感覚がある。しかし、それは脳内の錯覚として、そう感じられるだけで、脳の物質現象としてあるのではない。ここを間違えてはいけません(意志や欲望と身体運動との関係については次章で詳しく話す予定)。

存在しない錯覚を存在すると思い込む。こういう混同を間違えて深遠なテーマと受け取って哲学を始めると、いつまでもどこまでも混乱した議論が続きます。

 実際ふつうの人は、物質にも意識にも存在感を感じています。人間が物質と意識の両方を、存在感をもって感じることは、いけないことなのでしょうか? 人類はこういう感受性を持つ脳を使って、うまく繁栄してきたことは確かです。こういう脳の機能は、神秘的なのか? 意識の問題は、人間には永久に理解不可能なのか?

 そんなことはないでしょう。脳は物質であり、ふつうの生物器官です。身体を運転する自動制御機構です。それが、意識を持つかのように身体を制御し運転する機能を持つことはふしぎでも何でもありません。こういう機能は、生命の神秘ということでもありません。人工の機械でも、それは実現できる。工学的には予測制御と呼ばれる制御系の機能です。たとえばロボットの搭載コンピュータの中に、こういうものを作りこむことは可能です。つまり、ふつうの物質を組み立てて、私たち人間が見ると意識があるように見える機械を作ることはできるはずです。

ロボットの搭載コンピュータの中に、センサーから観測データを読み込み、内部記憶に持っている過去の状態ベクトルの記録と照合して今後の自分の運動の予測シミュレーションを行い、最適な運動を選定して出力するようなシステムを作ることができる。その結果を観測して状態ベクトルの時間履歴として過去を記憶していく。これを「意識」システムと定義してもよいでしょう。そういうふうに、意識を工学用語として定義して使うことはできます。

しかし、こうした定義によって意識があるとされるロボットが作られたとしても、それを人間が見た場合、必ずしも意識があるとは感じないかもしれません。それは見る人によるかもしれない。科学者の感覚と、小学生の感覚は違うでしょう。このことは重要です。

あるものが意識を持つかどうかは、哲学者や科学者が定義する問題ではなく、私たち一人一人、個々の観察者の脳がそれを見て直感的にどう反応するか、という問題なのです。直感の反応ですから、科学者がどう定義するか、とは無関係です。たとえば、あるロボットのような物体の動きに人間が刺激に反応するときの表情のように感じられる動きを読み取ることができれば、小学生は、「こいつは意識がある」と言うでしょう。この場合、あたかも人間が動くかのように見えるかどうか、が重要なわけです。

見かけの動き、というものが決定的になる。この意味では、たとえば、人間そっくりの外見を持つロボットに人体の神経系に対応する膨大な数のセンサーと運動回路がついていて、それを高性能搭載コンピュータにつなぎ、瞬時に過去の記憶を参照して将来の状況を予測し、自分に最も有利な運動を出力するロボットが作られれば、それはどう見ても意識がある、ということになるかもしれません。そういうロボットが、さらに人間と同じように、他の人間(他の同型ロボットでも良い)の内部の運動計画を自分の運動回路でシミュレーションできる機構を備えれば、(私たち人間が見て)人間の自意識のようなものがあるように見えるロボットが作れる。ただしこの場合でも、顔かたち動作など、どこまでも人間そっくりに作ることが重要です。

それはどこがどの程度、人間らしければよいのか? それを科学的に算定することは困難です。芸術作品の素晴らしさを数値で計測しようとするのに似ている。芸術作品のすばらしさは、作品の物的状態にあるのではなくて、観察者の脳の働きにある。 同じように、目の前にある人間のような物体が意識を持っているかどうかを決めるものは、観察される物体の内部にある脳やコンピュータという物質の内部状態にではなくて、観察者の脳の働きの中にあるのです。

私たち人間が人間の行動を観察する場合、どうしても、人間内部の意識が行動を起こす、という見方をします。それは他人の行動を自分の感じる運動形成の自覚を利用して感じ取る神経機構を使うからです。人間の外見しか見えないにもかかわらず、私たちは、人間内部の意識(というもの)が動く、と感じる。人間行動を、そういう心的現象としてみなす捉え方(世間常識や心理学の常識)は、物理学が物質現象を観察するときのような閉じた理論がなりたって因果則による精密な予測が可能なものと同じ、と考えるべきではなく、物質現象を記述する科学とは対応しない別の場で働くものと考えるべきだ(一九八〇年 ドナルド・デイヴィッドソン『哲学としての心理学』)という現代哲学者の主張はもっともです。

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意識はなぜあるのか(1)

2007-08-11 | 9意識はなぜあるのか

9  意識はなぜあるのか?

 意識とは何か?

 この質問は、哲学の最難問ともいわれています。この問題には、昔から多くの哲学者が全力を挙げて真剣に取り組んできました。最近は哲学者の側からばかりでなく、脳科学の発展を足場にして科学者の側から、この難問に挑戦しようとして書かれた文献も急に多くなってきたようです(現代哲学では、たとえば二〇〇〇年 アンディ・クラーク『アクセスがクオリアである場合』)。

 ところが残念ながら、哲学者の著作にも科学者のものにも、どこにも明快な解答は書かれていません。自然主義の立場をとる哲学者たちが「心理学、神経学、神経生理学、言語学、および計算機科学の総合的共同研究によって究極的には統一的な心脳科学がつくられる希望がある」と述べているくらいが一番明快で楽観的な意見にみえる程度です(一九八九年 パトリシア・S・チャーチランド テレンス・J・セィノフスキー『神経表現と神経計算』)。科学者側の結語としては、たいていは、「脳科学をさらに進め、脳の実験と測定を今よりもさらに精密なものに発展させれば、この難問は解けるのではないか?」というような漠然とした期待が述べられて終わっています。

 しかし果たしてそうでしょうか? 筆者は、違うと思います。この難問は、脳をいくら研究しても解けないと思うのです。なぜなら、この難問はもともと存在していないからです。つまり筆者の考えでは、意識などいうものはこの世にありません。人間が、それがあるかのように錯覚しているだけです。

 存在しないものの正体を突き止めようとして、いくら研究を進めても無駄でしょう。十九世紀ごろ、永久機関の発明にたくさんの発明家が心血をそそいで研究しましたが無駄でした。もっともそのおかげで、物理学、工学がかなり発展したという副次効果があったようです。意識の研究のおかげで脳科学が発展すれば、けっこうなことです。

 本題に戻って、意識はなぜ存在するといえるのか? というよりも、(筆者に言わせれば)なぜ人間は意識というものが存在すると思うのか?

 イカには意識がなくて、タコには意識があるのか?

 パソコンには意識がなくて、ロボットにはあるのか?

 簡単にいうと、人間のようなものには意識があって、人間らしさがないものにはない、と思われているらしいですね。

それと、目が覚めている人間には意識があって、眠っている人間にはない。死んでしまうと、もちろんない。

 目が覚めている人に、「あなたは意識がありますか?」と聞くと、「あります」という答が返ってくる。「私は意識がありません」と答える人はいない。 (そう答えるのは筆者くらいのものでしょう。しかし、筆者も、精神病院に連れて行かれるのはいやなので、救急隊員にそう聞かれたら、ちゃんと意識はあります、という答をするつもりです)

 意識とは、そんなものです。

 しかし、まじめな話、本当にあなたには意識があるのでしょうか?

 時計などの中にはなくて、あなたの身体の中にはある、そういう不可思議なものが存在するのでしょうか? 時計もあなたも同じように物質だけからできている仕組みなのに、あなたの身体にだけ、意識という物質ではない謎めいた神秘的なものが入っているのでしょうか?

 それは錯覚ではないでしょうか?

 目覚めている人間を観察するとき、見るほうの人間の脳は相手の心を感じます。こちらの視線に反応して、相手が見返してくる。このとき、観察者の脳の中の辺縁系の)特有な神経回路が活動をします。その活動の自覚が、相手に意識があると感じさせる。猫なんかも見つめると、見返してきますね。これは哺乳類共通の原始的な神経機構にもとづいた神経反応です。

 自分の脳が、相手の動物の動きを見て特有な反応をする。相手が自分を見ている気持ちがよく分かる、と感じる。それは、自分の脳の運動形成回路が自動的に相手に成り代って、相手の相手、つまり自分、を注視するという相手の内部の運動感覚を再現することで想像できるのです。その気持ち、その運動感覚を言い表そうとして作られた言葉が、意識、なのでしょう。見たとたんにその感覚を感じるとき、相手の動物には意識がある、と思うのです。

死んだ動物は襲ってこない。眠っている動物も襲ってこない。覚醒している動物は、こちらを注視してから猛然と襲ってくるかもしれない。こちらをにらみつけながら襲ってくるような動物は意識がある、と感じられるのです。こういうものを感じられない人間は、原始生活で生きていかれそうにありません。これは生存に便利な脳の機能です。セキュリティのための一種のアラーム装置ですね。

他人が意識を持つ、と感じる。そこから類推して、自分も意識を持つはずだ、と思う。それで、私たちには、自分も含めた人間がすべて意識を持つ、ということが自明に思えるのです。

人間でない動物は、意識があるのでしょうか? 犬は意識があるか? 当然、ありそうです。猫は? これもあるに違いない、という感じですね。じゃあ、イカは?

ゾウリムシは? 大腸菌は? ・・・と疑問は続く。

これらは大変興味深く、かつ重要な疑問だ、という人は多い。実際、まじめに研究している学者もいます。しかし、本当に、これは重要な疑問なのでしょうか? そうではないという現代哲学の考え方もあります( 二〇〇四年 ピーター・カルーサーズ動物の意識はなぜたいした問題ではないのか )。

筆者も、そういう考えですね。まず、生物は物質です。物質は物質の法則(物理学の法則)だけで動く。猫が人間を見返す行動も、物質現象の連鎖だけで起きています。テレパシーでこちら(観察している私たち人間)の殺気を感じて振り向くわけではありません。人間も同じ。視覚と聴覚で環境の変化を感知して、適切に反応する。エアコンは室温変化を感知して、すぐモータを稼動する。エアコンにも意識はあるのか? エアコンには意識がなくて、人間にはあるのか? 同じ物質なのに、差別ではありませんか?

意識というものは錯覚だ、存在しない、と言ったほうが、議論はすっきりするはずです。

イカにもタコにもゾウリムシにも、ロボットにも異星人にもエアコンにも、意識などというものはない。どの人間にもない。もちろん私にも、そんなものはない。―と言い切ってみましょう。

でも、私は、この目の前の机とか、いろいろな物が存在することを感じている、つまり、この世界を感じている自分がいる、ということを感じている。目の前の物たちがはっきり見えているということは私が目覚めている、ということだ。それに、私は今、テレビのニュースを見ようとして、新聞を開いてテレビ欄を読んでいる。ということは私に意識がある、ということではないのか? ―という考えが出てきますね。

こういう考えは、もっともです。ふつう私たち人間は、素朴に、目の前の世界が実在していると思っています。その実在するこの現実世界の、ここにある自分の肉体の頭蓋骨の中に自分の心が入っている、と思っています。そしてその自分の心が周りの世界を見つめているのだ、と思っている。自分の心が周りの世界を感じて考え、意図を持って運動をすることで周りのものに影響を与えている。そして周りの他の人間も、私と同じように、頭蓋骨の中にひとつずつ、それぞれの心が入っているのだろう、と思っています。

私たち人間はだれも、自分の頭蓋骨の中にある自分の心は、物心ついた頃からあって、自分の身体と自分の周りの世界を感じ続けてきたし、今もこういうふうに感じているのだから、当然自分には今意識があるのだ、と思っている。世界がこうあるように感じられることは、自分に意識があるからだ。つまり、世界がある、と思うときは意識があるときだ。そう考えると、世界があると感じることと自分に意識があることは同じことだ、ということになります。自分が見ても、自分以外のどの人間が見ても、世界はこのように厳然として客観的にここに存在する、と感じられる。このように(第4章で詳述したように)、人間のだれとも共有することのできる客観的世界がここにある、と感じられることが、自分に意識があると感じられることだ、と言ってもよさそうですね。さらに、私たちの身の周りの物質世界というものが、私たちが他人の視座に乗り移って眺めることで客観的なものになることを考えると、物心ついて他人の心が分かるようになったと同時に、自分を客観的に見ることができるようになるし、自分の人生のエピソードも記憶できるようになる。つまり、私たちが成長して幼稚園児から小学生くらいになると、意識はかなりはっきりしてくる、といえるのでしょう。

眠っているときはテレビが消えるように世界が感じられなくなり、目が覚めるとテレビがつくように世界が感じられるような状態に戻る。物心ついてから今までずっと、目が覚めているときは、世界を連続して感じられたし、死ぬまでそうだろうと思える。自分が死ぬときは、たぶんテレビが壊れるときのように画面が真っ暗になるのだろう。ふつう私たちは何の疑いもなく、こう思っています。いつ、こういうことを習ったのでしょうか? 小学校でしょうか? 幼稚園でしょうか? それとも生まれつき、私たち人間は、そう感じるようになっているのでしょうか?

赤ちゃんの頃は、自分も他人も区別がつかないわけですから、ただ自分中心的な主観的感覚だけで動いている。そういう意味では、赤ちゃんは人間以外の動物と同じなのでしょう。幼稚園の頃になると、他人の視座に乗り移って他人の視線で世界を眺めることができるようになる。他人の視座から、その他人が眺める一個の人体としての自分を、自分だと思うようになる。その自分であるはずの人体の中に他人が想像するはずの心を、自分の心だと思うようになる。そういう、他人が持っているらしい心と同じようなものが自分の頭蓋骨の中にもあるのだろう、と思うわけです。物心ついたその頃からは、自分がその一部であるこの現実世界が時間とともに過去から現在まで変化してきたことを、私たちは全部分かっているわけです。

今、この机が見えると言うことは、私のこの心が今、目の前の机を見ている、ということになっているはずだ。私の目の前にこの机があるということは、他人の視座から見ると、私という人体がこの机を注視していることが分かるはずだ。今、私が新聞を持ち上げたということは、私には心があって、その心が新聞を持ち上げようとして腕を動かして新聞を持ち上げたはずだ、と見える。他人からはそう見えるはずだ。私が覚醒している以上そうでなくてはならないはずだ。つまり、私には意識があるということだ、と思えるわけです。

日常的には、こういう感覚を持って人々と会話すればうまくいく。犯罪の容疑者が「私には意識というものはありません」などと言ったら、検事をかんかんに怒らせてしまうでしょう。しかし、拙稿の見解では、このような世界のモデルは、主観的感覚からくる自分の覚醒の感覚を、無理やり客観的物質世界にある自分の身体の動きに切り貼りしたものです。私たち人間は、いつもそうしている。しかし、動物は、ふつう、脳を使っていても、こういうことはしない。人間は、大脳を使って物質世界とその中の自分自身の(錯覚による)イメージを作り出し、無理をしてそれに内部感覚を貼り付けているところがあります。だから、主観と客観を峻別しようとすると、どうしても矛盾から逃れられない。主観と客観のつなぎ目の自分イメージのところに矛盾が皺寄せられてしまうわけです。

科学者は、自分の主観は別に置いておいて、世界を客観的なものとみなして観察する。この場合、自分の主観、つまり科学者自身の心とか意識とか意図は、どこにあるのでしょうか? 実は科学者は、(うまく説明する自信がないので人には言いませんけれども)それは自分の脳の奥のほうにあるはずだ、と、実は素朴に思っているのです。しかし、心とか意識とか意図とか、物質ではないものが物質である脳のどこかに潜んでいる、と考えるのは、結局、無理があります。科学者は、無意識のうちに心身二元論の間違いを犯しているのです。しかしそうすることで、悩みなく科学研究を続けることができるわけですね。

ところが、実在する物質世界を所与のものとして研究を進める科学が、(ついうっかりと、安易に)意識を脳の機能として説明しようすると、心脳問題のパラドックスにどこまでも深く落ち込んでいくしかない。私の主観的な経験が脳の客観的な物理現象だといわれても、脳の客観的現象は誰もが見れば分かるのに対し、私の主観的な経験は私にしか分らないから、両者は同じことではない(一九七四年 トマス・ネーゲルコウモリであるとはどういうことか』)という議論はもっともです。たとえば、脳科学者が自分の視覚神経系の色感覚機構を研究し尽くしても、それは自分が直接感じる色の経験とは、はっきりと違うものである(一九八六年 フランク・ジャクソン『メリーは何を知らなかったのか』)というわけです。

これらの論考は、科学者が信じているような物質世界のみが実在であると思い込む物質主義一元論(唯物論)の誤謬を指摘した現代哲学の傑作です。まあ、昔から言われている「百聞は一見にしかず」という諺を分析哲学してみた、というような論文ですね。ちなみに諺といえば、「わが身をつねって人の痛さを知れ」というのもある。こちらは、脳神経系のCファイバー神経細胞が活性化されると痛みという知覚が起きるがその物質変化をいくら詳細に調べても、痛みという経験は得られない(一九八〇年 ソール・クリプキ『命名と必要』)という古典的な分析哲学の理論を表している、わけです(痛みについては、11章で詳しく論じる予定)。

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心はなぜあるのか(3)

2007-08-04 | 8心はなぜあるのか

 本題に戻ります。さて、心とは、人体のどこにあるのか?

人間の脳を最新の科学でいくら詳しく観察しても、たとえ電子顕微鏡を使って脳細胞をひとつひとつ解剖しても、「心」にあたる器官は見つからない。それは観察される人間の中にはなくて、観察者の中にあるからです。人の心は、その人の脳の中にではなく、その人の動きを外から見ている観察者の脳内の運動形成神経回路の共鳴現象としてある。つまりその人を見て、そこに心があるように感じられるとき、そのときだけ、そこに心はある。

 人間は他人を観察するとき、自分の脳の中で運動共鳴によって生じる運動形成回路の活性化を感じ、それをその人間の心と捕える錯覚を作る。次に、その他人の心に映っているはずだと感じられる自分の肉体と心という錯覚との共鳴を感じる。私たちは、そういう脳内の錯覚の相互交差に、常時注意を集中して生きている。

 しかしながら、一個の人体の中に一個の心が入っている個人というような人間像は、現代人にとっての常識ですが、それは錯覚です。実際は、そういうものはこの世に存在しない。それは原始人の素朴な錯覚に始まり、それを古来の宗教や哲学、さらには近代現代の社会科学が権威付けて、現代人にまで定着させた幻影です。

あたりまえのことですが、この世には、私自身の身体も脳も含めて、単なる物質としての人体がある。間違いなく、あるように見えます。これらは、だれの目にも見えて、手で触れますから、明らかに物質なのでしょう。しかし、そのようにだれの目にも見えて手で触れるものは、物質として感じられる人体の表面だけです。身体の内部は、どうなっているのか、服を着た身体の表面しか、私たちの目には見えない。服を脱がして裸にすることはできますが、皮膚を破って体内を覗くことはできない。まあ、外科医が手術するときは、それもできるでしょうが、生きている脳を解剖して個々の神経細胞の働きを全部調べることは不可能ですね。もし、仮にそれができたとしても、何が分かるのか? 目で見える物質としての神経細胞の物質変化しか分からない。つまり、どこまでがんばっても、人間について私たちは、物質としての構造しか知ることはできない。いわゆる、その人の内面、つまり心、といわれているものは、目で見ることはできないのです。

さて、ふつうのエッセイならば、こう書いてきた場合、ここで簡単に、目に見えない人間存在の神秘、というような言葉を使ってきれいにまとめて終わればよいわけです。ところが拙稿では、徹底懐疑の姿勢を貫くことにしていますから、ここでも「この世に神秘などはない」などと不遜なせりふを吐きつつ、さらに先へ進みましょう。

まあ、世間常識では、一個の心を内蔵する個人という存在は、尊厳に満ちた特別に神秘的なものだと思われている。このことについても、拙稿のとる見解を述べるとすれば、ちょっと違うことになる。人体という物質を見るとき、私たちの感受性がそれをそういうふうに感じるというだけの錯覚だ、ということになる。人体も脳も、当然のことながら、ただの物質です。この物質世界の中で特に変わった物質ではない。まあ、こういう見解は、拙稿が改めて主張するまでもなく、いつでもどこでも、しばしば表明される見解でしょう。研究対象である人体に対する医学者の態度は、まさに、これです。医学者に限らず科学者は、自分の研究対象に関する限り、このような物質主義を当然と考えている。一方、まわりの人々の心を感じ取ることで毎日を生き抜いていくふつうの人々は、人間を単なる物質などとは、片時も思うわけはない。ときたま、科学者の物質主義的な発言を聞くと、「科学者というのは冷たい人間たちだなあ。しかし科学を進歩させてもらうためには仕方ないかな」と思う。つまり、科学者や哲学者ではない一般の人も、物質主義的な考えについて、頭ではよく分かっているのです。

科学の時代になった現代では、人間についてのこういう物質主義的な見方はごくあたりまえに感じられますが、百年ちょっと前には、こういうような考えを持ったのはもっとも先鋭的な哲学者だけでした。「人間とは身体だけの存在なのだ、私とはこの身体であり、それ以外のなにものでもない」という主張が近代哲学の古典として書き残されている(一八八三年 フリードリヒ・ニーチェツァラトゥストラはかく語りき』)

心が錯覚であるとすれば、私の心、つまり、私が私だと思っている存在感、も私(の脳)が感じる錯覚に過ぎないということになる。拙稿の見解では、私という存在も現代人(西洋の近代人も含む)特有の感受性がつくる脳内の錯覚であり、この世に現実にあるものではない(この問題は拙稿第12章で詳述予定)。

 A君の身体の内部にきちんと入っている、というようなA君の心は(拙稿の見解では)存在しない。A君の心は、A君を見ているB君の脳の運動形成回路の共鳴活動として存在する。同時にC君もA君を見ている場合、C君の脳の運動形成回路の共鳴活動としてもA君の心は存在する。だれに見られているかで、A君の心は違ってくるでしょう。大体似ているでしょうが、ちょっと違う。それはしかたのないことです。人間の心というものは、その人間を見ている他人が感じる錯覚の中にしか存在しないのですから。

 相手の人間の声の出し方、目の動き、表情、手つき、動作から私たちの目や耳に入る信号。それらが脳の中で記憶と混ぜ合わされ、変換されて、私たちの脳の中に相手の「心」が作られる。その過程で、自分の経験が自動的に重なる。だから、男は子宮の感覚を語る女の心は分からない。子供は親の心が分からない。子を持って知る親の情けかな、となるわけです。

 (拙稿の見解によれば)他人の心は自分の心よりもさきに分かる。幼児が幼稚園児になるころ、他人の心のイメージを自分の脳の中に作って、それからその他人の心に映っている自分の心を作ることができたのです。それで自分は何をすれば良いか、自分が自分に何を期待しているのか、自分は何を考えているのか、分かってくる。だから、私たちは、人と交わって他人の心を感じなければ、自分の心というものもなくなってしまう。

 初めて会った人でも、その人の顔を見たり、動作を見たり、しゃべり方を聞けば、どんな人かという印象が作れる。人はそれぞれ違うと思える。その違いを個性というのか、人格というか、キャラクターというか。その人の内面がすぐ分かるような気がする。目と耳でその人の外見を見たり聞いたりしただけで、内面が分かるような気がする。心がどういうように動く人か分かると感じる。しかし、実際、脳の中身が見えるはずはない。他人について分かる情報は外見だけです。それでも私たちは他人を理解してしまう。コンピュータとカメラとマイクを搭載したロボットにこれをやらせようとしても、現在の工学技術ではとても無理です。

私たち人間の脳には生まれつき、ドラマを感じ取る神経機構が備わっているようです。これを、拙稿では仮に、ドラマ神経回路ということにしましょう。この回路は、自分の目の前で展開する人間ドラマを、観客のようになって見るという働きをする。自分は観客だから、ドラマの外の観客席にいてドラマの筋には関係していない。そこで次に、自分の人体というものをそのドラマの中においてみる。登場人物に扮するわけですね。それに適当な役柄を持たせて、ドラマに参加させる。しかし本当の自分は、ドラマの中の人物たちのだれにも知られずに、外側の暗い観客席に座って、静かにドラマを見ている。こういう形で、私たちは、いわば、人生の観客と俳優という一人二役をしている。ちょっと複雑ですね。しかし、私たちの頭の中は、こんな具合になっているのではないでしょうか? 世界をこういうふうにとらえるドラマ神経回路は、人間のだれにでも備わっているようです。

逆に言えば、私たちが楽しむ映画、演劇、マンガなどドラマの類は、人間のこのドラマ神経回路に強く働きかけるから、古代から現代まで何度も繰り返し発明され、人間社会の中で、これほど普及している。テレビ、映画、演劇、マンガ、小説、歌舞伎など、どれほどのドラマを人間は作り出し享受しているでしょうか? こういうものは、生活の役には立たない、と言ってしまえば、その通りです。しかし、これほど、人々に求められているものが、本当に役に立たないものなのでしょうか? 人間の脳にドラマ神経回路は間違いなくある。貴重な身体資源を裂いて役に立たない神経回路を作る遺伝子が現代人の身体の中に伝わってきているはずがない。かつて、人類は、このドラマ神経回路を持ったために、おおいに生存繁殖がしやすくなったはずです。

このドラマ神経回路が、どれだけ大きなメモリ容量を利用できるとしても、私の狭い脳の中に、何百人もの心が全部入っているという考えはちょっと無理そうです。パターン認識工学の常識からすると、いくつかの特徴要素を組み合わせて数多いパターンを識別しているはずです。たとえば、顔の表情の特徴を四種類に分けて覚える。同じようにしゃべり方を四種類に分け、手の動かし方を四種類に分け、視線の動き方を四種類に分ける。これだけで二百五十六人のキャラクターが識別できる。

たぶん脳は何十種類かの感情回路が相手の見かけのある特徴に反応して、それぞれの信号を出すのでしょう。そうすれば脳内にひとつだけ人間のモデルを作っておいてそれを特徴にしたがって変形すれば、何百人ものキャラクターを識別できる。人間は、そのうちの一人のキャラクターを自分の性格だと思って特に注目している。しかしもともと、人間はだれもがだれでもあり得る。あらゆる役柄を創造し、それを見分ける能力を持ったドラマの作者でもあり、観客でもある。つまり人間は互いに、周囲に見かけるすべての人間を自分の中で作り出している。

それでも他人の内面は本当のところ分からない。他人も、その内面の人格は、自分と同じように舞台からは見えない外側の暗い観客席に座っているのだろうと想像できる。観客どうしは同じドラマを見ているのかどうかも分らない。とても完全な相互理解はできない。私たちは目と耳で他人の言動や表情を見聞きして 漠然とその内面を想像できるだけです。もともと見聞きできるわずかの情報をヒントにして自分の脳内でイージーオーダーのように型を当てはめて作りだした人物イメージが、私たちがそれだと思っている他人の心です。それはその人の真実の姿なのか? そもそも人間の真実の姿などというものはあるのか? あやしい話です。

初めて会う他人に対すると、その人は目に見える顔やその身体そのものというよりも、実は、こちらからは目で見えないその脳の奥の、深い真っ暗なところに静かに座っていて、黙ってこちらをじっと見ているのかもしれない、という気がしませんか? 見ず知らずの他人というのは、そんな感じがして、顔はにこやかに笑っていたとしても、すぐには親しみが持てないものでしょう。会話を始めて、さらに冗談を言い合って、あはは、と笑いあうと、やっと心が通じるような気がする。だがそれも、笑い顔は、まだちょっと緊張しているように見える。向こうも、こちらが感じていると同じようにぎこちなさを感じているらしい、と想像できる。だから、にこやかに笑っているのも、演技ではないかと疑ってしまえば疑えないこともない。そういうことですから、人間どうしは、なかなか相互理解はむずかしい。親しい人と見ず知らずの人とは、きちんと区別してその心を感じるように、私たちの脳神経系はできているようです。そういう脳神経系の仕組みが、原始時代の人々の間では、生存繁殖の成功率をあげたのでしょう。

人間どうしが相互理解するには、言葉が不可欠と思われる。また逆に、相互理解がなければ、言葉は使えないでしょう。しかし、私たちが実際に使っている言語は、不完全な錯覚を組み合わせたあやしげな影のようなものです。その言語を使って行われる人間の会話は、すれ違う錯覚のずれをさらに新しい錯覚で補いながら進められている。人間には、直接他人の心は分からない。その分、自分の心も分かりません。それでも、なんとなくは分かるような気がする。しかしそれは錯覚です。そう錯覚する働きが人間の脳には備わっている。それで人間は互いに相互理解できると思い、結果的に仲良くなれるし、互いに仲良くならなくては生きていけない社会をつくった。そういう人間たちが集まって集団として協力できるようになり、現在あるように上手に生きている。それが、人類という動物が脳の新しい仕組みとして進化させた、心(という錯覚にもとづく理論)の、生物学的な役割だといえる。

この物質世界に、物質ではないものは存在できない。つまり、心は存在しない。人間の脳の奥にあるように思える、私たちにはどうしても分かりきれない気がする神秘的な、心、というものは、存在感だけがあって、実は存在しない錯覚というべきものでしょう。

脳の中心にあって、物事を感じ、脳の中から指令を出して身体を動かしている心、という考えは、だれもが常識と思い込んでいるものですが、それは人間だれもが共有している錯覚だというしかない。人体という物質は、ただの物質であって、ただ物質の法則にしたがって変化していく。それを心という神秘的な存在の働きだと見ることは錯覚です。そういうものが確かにあるかように錯覚する能力が、人類には備わっている。それは進化の結果、獲得したすばらしい能力です。その錯覚を作る能力が、言語を作り出し、社会を成り立たせ、人類の大繁栄を実現した。だから今生きている私たちは、はっきりとお互いの心を感じることができる。

心はなぜあるのか、これがその答えです。

人の心というものは、その人を観察する観察者の脳の中に発生する錯覚を組み合わせて作られた、人間が社会を形成するための便利な道具です。そしてそれは、私たち人類がこの世を生き抜いていくために、もっとも大事な道具なのです。

8 心はなぜあるのか end

9  意識はなぜあるのか? 

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