大名の数は約二百六十家ですが、徳川家以外での最大石高は前田家の百二万石ですから個別大名は徳川家にとても対抗できません。
大名の家族を江戸詰として人質とし、参勤交代により外様大名を廷臣化して牽制。
婚姻、養子など縁戚ネットワークの活用による親藩、譜代の系列化を配置して徳川閥を形成します。
政権転覆がされない環境で長期にわたって保守的な専制政治が行われれば、一国の枠内ではしだいに平和な安定社会が維持できます。これが徳川家の長期目標であった、と言えるでしょう。
歴史上の政体区分では江戸時代は武士政権の完成形とされています。江戸時代の終焉は、一九世紀の世界史的転換、すなわちヨーロッパからの帝国主義・産業革命のグローバル化による帰結といえます。
欧米の世界制覇が東アジアにまで到達した影響が、徳川政権の崩壊につながっています。
つまりこのレジームは外圧が強すぎた時代になったので壊れてしまった。国内的には万全ではないにしても、かなりの安定性を保持した政治システムでした。封建制度が極限まで完成していたといえます。システム内部からの揺らぎに対しては相当の復元力を維持していました。
毎年繰り返し継続運転ができる持続可能なシステムが構築できれば、安定は永久に続くはずです。しかしシステムの外側からの外乱は避けられません。天災や疫病は時々来ます。外国の干渉もあるでしょう。それらの揺らぎに耐えなければなりません。
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(95 長期目標について begin)
95 長期目標について
長期目標を立てる。人はなぜ長期目標を立てるのか?
たとえば、天下を取る。半永久的に維持する。徳川家はなぜそれを長期目標としたのでしょうか?
徳川家康は、天下を平定しようとしました。関ヶ原の戦い(一六〇〇年)に勝利した後、一六〇三年に朝廷から征夷大将軍に任命してもらいました。大阪城を陥落(一六一五年)させた次の年、七四歳で病死。家康は一六〇五年、実子徳川秀忠に将軍を継がせましたが、死ぬまで政治の実権を握っていました。
二代将軍秀忠(在職:一六〇五年―一六二三年)は家康が構築した日本支配の政治システムを強化しました。歴史上、次の三代将軍徳川家光(在職:一六二三年― 一六五一年)の時代にいたって、この徳川日本の統治システムは完成した、とされています。
家康が立てた長期目標は達成されました。
徳川家が天下を平定する、晩年の家康が立てたこの長期目標はどのような内容だったのでしょうか?
戦国武将として勝ち上がってきた徳川家康が最後に達成したかった目標は、抽象的に言えば、すべての武力を永久に抑える力を持つこと、だったといえます。
具体的には武力を持つすべての大名、個々の武士、僧侶、貴族、言論人、商人、百姓その他反抗しそうな者すべてを抑え続けるシステムを構築し、永久にそれを維持する。そのためには現状で利用できるシステムは最大限使います。
天皇の権威を利用して征夷大将軍にしてもらい、子孫代々に永久継承させる。子孫が絶えないように後宮を整備し、多くの子を設けて王族を形成する。古今東西の王者の常套手段です。
征夷大将軍になればすべての武家勢力に自由に命令できるはです。実際にはこのシステムの維持に忠誠を尽くす実行組織を作らなければなりません。
反抗するものは滅ぼす。服従するものには地位と金を与えて支配する。
関ヶ原の戦いや大阪城戦に勝利して敗者の大名から取り上げた広大な領地や財宝を、部下や味方に再分配する。もちろん同時に自分の領地と資産は大幅に増加させます。
幕府は一六六四年(寛文四年)に初めて全大名(一万石以上)に領知宛行状というそれぞれの領地と石高を確定した文書 を一斉に与えました(寛文印知)。
全国の石高の総計は約三千万石ですがそのうちの七百六万石を徳川家が所有していました。これに親藩御三家の所有地を加えたものが徳川政権の土台をなしています。食料(コメ)を毎年生産できるこの資産(耕地と百姓)を全国の部下に配分して、幕府人員、旗本、御家人を支配する。
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夢の中でも自分の身体はあるようなので身体は存在している、といえます。それはしかし、目には見えていない。幽霊のようなものです。それは、自分が思っているだけの自分である、というべきでしょう。
そうであるとすれば、夢から覚めて現実にここにあるように思えるこの自分の身体も、もしかしたら、自分がこう思っているだけで、他人には違うように見えているのかもしれない。身体の存在というものもそういう頼りないところがあります。
風になびく富士のけぶりの空に消えてゆくへもしらぬわが思ひかな(西行 一一八六年)
富士の噴煙が拡散して消えるように私の思っていることも消えていく。
われ思う故に我あり(ルネ・デカルト 一六三七年)、と言ってもはかないものだ、とすでに西行は言っています。いずれ身体そのものが消えていくのだから。 ■
(94 身体の存在論 end)
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外界を見ていない時、目をつぶっている時でも記憶している光景が思い浮かびます。寝ている時でも目の前に光景は浮かぶ。つまり夢を見ます。これは何だ。世界が感じられないのに世界は感じられる。夢は自分の身体が世界を作り出しているという経験です。
夏目漱石の「夢十夜」を読んでみます。
こんな夢を見た。
腕組をして枕元に坐っていると、仰向に寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色は無論赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますと判然云った。自分も確にこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにして聞いて見た。死にますとも、と云いながら、女はぱっちりと眼を開けた。大きな潤のある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真黒であった。その真黒な眸の奥に、自分の姿が鮮に浮かんでいる。
(一九〇八年 夏目漱石「夢十夜」)
こんな夢を見た。と言っているから、今はもう起きていて夢を思い出して語っている、ということでしょう。つまり、ここにこの世界があって、その中に自分の身体があって、その身体がこの夢の話を語っているのだ、と思っているのです。
夢は身体の内側だけで起きていることですから、そこで経験する物事は全部自分の身体が作り出しているのでしょう。そうであるとすれば、覚醒している時に感じ取っているこの世界も私の身体がこれを作り出している、ということもできます。
目に見えるものや五感で感じられる物事は、もちろん、身体の外側からくる光や感覚刺激からきている。外界の刺激と身体の内側からくる記憶再生や感情や気分がまじりあって、この世界が現れている、とも思えます。
夢も現実も、どちらも自分が感じているから存在するのだ、という観点でいえば、区別する必要もない、相対的なものだ、と言ってしまうこともできます。
夢で蝶々になっていれば人間として覚醒している現実も蝶の夢の中でそういうバーチャルリアリティを見ているのだ、ということもできます。
つまり:
昔者莊周夢爲胡蝶栩栩然胡蝶也自喩適志與不知周也俄然覺則蘧蘧然周也不知周之夢爲胡蝶與胡蝶之夢爲周與周與胡蝶則必有分矣此之謂物化(紀元前三世紀 荘子「胡蝶の夢」)、となります。
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ぼかしを使うテレビの顔隠し 肖像権が理由といいますが、顔を見て他人の心を識別するのも面倒だ、という視聴者の怠惰に忖度している、ともいえます。
自分の裸体を顕示して性的興奮を得るエクスヒビショニストたちが顔だけを隠す、アイデンティティーの倒錯を描いた小説(二〇〇八年 平野啓一郎「顔のない裸体たち」)。
自撮りをSNSに投稿して世界に頒布する、いまや健康的と思えるようになったスマホ趣味も、昔の人からみると病的自己顕示、非性的ではあるがエクスヒビショニストと見えるでしょう。
メタバースの中でアバターを動かす。自分の身体とどう違うか?変身願望か?しかしディスプレイのこちら側のこの身体は何なのでしょうか?
アバターがメタバース内のパソコンやデバイスでアバターを作ってメタバースをしたらどうなるでしょうか?それを繰り返したらどうか?その無限後退の神秘感が身体の存在論なのかもしれません。
私は、私の身体がここに存在している、と思っています。私が感じているこの存在感が存在の根拠である、と思っています。しかし、拙稿の見解によれば、その感覚は他人が私の身体を見て感じる存在感覚とそれほど違わない(拙稿41章「身体の内側を語る」)。もしそうであれば、私の身体の存在はあまりしっかりしたものではないかもしれません。
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