哲学の科学

science of philosophy

趣味としての老人(9)

2022-06-24 | yy83趣味としての老人



●無意味なせっかち
老人はせっかちが多い。
たいした目的もないのに今すべきことを見つけて、すぐしようとします。それもかなり懸命にする。それで頼まれていたほかのことを忘れる。ほかの人の迷惑になる。ということで年寄りはいやだ、と嫌われます。
記憶能力に余裕がないからでしょう。記憶力が弱っているからすぐしないと、何をしようとしていたのか忘れてしまいます。それでほかのことやほかの人の都合を無視して自己中に、我先に急いでしまう。
しかしせっかちにあせるのも老人の趣味である、と割り切ってしまえば自己嫌悪することでもありません。せっかちは楽しい、となる。
そもそも、今すぐしないといけないことなどない。そう言ってしまうと、老人としてはどこにも重要な目的などあるはずがありません。ぼうっと座っていればよい、とか家で寝ていればよい、とかになります。しかしそうすることは、実に身体によくない。すぐ老化が進みます。
動かないでいるとすぐ血流が悪くなる。血管が細くなる。筋肉も内臓も頭脳も縮小してきます。安息状態の身体組織はその状態に適応して縮退していくように動物は進化しています。
せっかちのホルモン、コルチゾンやアドレナリンがときどきは出て身体全体があせあせしないと身体組織はなまります。細胞は縮退します。
その縮退に抗おうとする潜在意識がはたらいて老人はせっかちにならざるを得ない。
せっかちに動くことの目的は、健康のためであるとか、安全のためとか、資産保全とか、ひとのため義理のためなどと自分では思っていますが、実は老い先短い老人にとって切実な目的などありません。であれば、すなおに趣味でせっかち、細胞活性のためのせっかち、と言ってしまってもよし。せっかちが楽しい、無意味なせっかちでよし、と思うほうがよくないか?
たいした意味はないと内心思いつつ、とにかく赤い鉢巻をしてあるいは髪振り乱して、せっかちに走りまわる。無意味なせっかち。それも老人らしくて立派な趣味でしょう。■


    
(83  趣味としての老人 end)








自然科学ランキング
コメント

趣味としての老人(8)

2022-06-18 | yy83趣味としての老人




●忘れ物競争
老人は忘れ物を探している間に別の忘れ物をします。機能が低下した脳内メモリーを奪い合って忘れ物が競争する。
忘却とは忘れ去ることなり。忘却によって記憶保持のエネルギーが節約できます。不精な老人に役に立つ機能です。
それも程度問題。物を放したらどこに置いたのかいつも忘れる。眼鏡を外したら眼鏡を探せない。頭に乗っていたら気が付かない。傘を置き忘れたら雨が降ってきて傘を探しに行けなくなくなります。
スマホなどどこに行ったか分らなければ別のスマホで電話をかけてもらいます。もっとも場所が遠すぎて呼び出し音も聞こえないところに置き忘れていると困る。知らない人に見つけてもらうのも気が引ける。
最近のアップル製品では「探す」Find Myという魔法のようなアプリがあって世界中どこに置き忘れても自分だけに場所を知らせてくれます。このシステムの応用では小さなタグを財布など自分の物に張り付ければ同様のしくみで世界中どこにあっても位置を突き止められるようです(筆者は使ったことはありませんが)。
忘れ物の回収失敗で物を失う。喪失、損失は不愉快ですが、いずれにせよ、個人の所有物はあの世まで持ち込めません。エジプト王の遺跡を見れば明らかです。むきになって取り返そうとせず、物を忘れ、失うのも老人の趣味、と思えば腹も立たなくなります。








自然科学ランキング
コメント

趣味としての老人(7)

2022-06-11 | yy83趣味としての老人



●昭和を回収してまわる
結婚後この五十余年、何度引っ越したか数えきれない。そのたびに家財道具、本、書類、もろもろを捨てました。家の中に昭和の物はほとんど残っていません。
最近、古い昭和ものを見つけると買ったりします。オークションを覗くと、古いもの好きの人はたくさんいます。安いのでMade in Occupied Japanと銘打った皿を買いました。飾り棚の下段に明治期に輸出されたオールドノリタケの双対壺を置いていますが、昔の職人の美的感覚と技術はすごい。これが貧乏期の日本を支えていたのでしょう。
昔の映画のソフトも最近は安い。令和になってから昭和の物を少し買いました。「東京物語(1953小津安二郎)」、「七人の侍(1954黒澤明)」、「ティファニーで朝食を(1961ブレイク・エドワーズ)」、「春のめざめ(1963ニコス・コンドゥロス)」、「男はつらいよ(1969山田洋次)」。懐かしい。若いころ行った新宿渋谷の映画館の独特の雰囲気を思い出します。とうに消えてしまいましたが。
古本は少し残っているが不断捨離。文庫本、新書版などは捨てましたが、捨てずに残っているわずかの本はどこか捨てるに忍びない。中身が偉そう、あるいは装丁が偉そう、とか、気に入っていた本です。「『いき』の構造(1930九鬼周造)」、「死の舞踏(1916ストリンドベルク山本有三訳)」、「エロス的文明(1958 Herbert Marcuse)」、「共同幻想論(1968吉本隆明)」、「箱男(1973阿部公房)」。箱入り装丁が古びて茶色くなっているところがよし。
そもそも本は古くなってどこまでもつのか?
楔形文字で粘土板に記された『ギルガメシュ叙事詩』(紀元前二千年紀初頭)などが発掘されているので数千年前から(書写による)出版文化は継承されていたのでしょう。
粘土板は鉱物ですから石碑と同じでどこまでももちます。しかし重い。軽い情報媒体が必要です。パピルス、羊皮紙、紙、デジタルとなって現在のスマホが本の代わりになりつつあります。しかし昭和世代は紙の印刷本、オフセットよりも活版印刷のほうが高級と思い込んでいて、しかもハードカバーの本にありがたみがあるような気がします。
自宅本棚に並べると背表紙が偉そうで落ち着く。古くてちょっとほころびているようなものが好ましい。立派な老人趣味といえます。
ロンドンのロイヤルアカデミーで天井までの本棚の中にある革表紙のアンティーク本の羅列を見ましたが、大英帝国の奥の間を見た気がしましたね。








自然科学ランキング
コメント

趣味としての老人(6)

2022-06-04 | yy83趣味としての老人


●無意味なケチ
老人は無意味なケチが好きです。廊下のLED照明を消して回る、とか、擦り切れた靴下の穴を繕う、とか。もったいない、とか理由をつけていますが無意味なことは本人もよく知っている。
実は、ケチをすることが快感である、という実態が大きい。若いころ貧乏に耐えていたころの習慣がノスタルジーになっていて、今はそれをするとひそかに楽しい、となっています。
老人でなくともケチが好きな人は多い(拙稿49章「ケチの美しさについて」)。むしろ人類共通の遺伝的習性でしょう。サバイバルを生き抜いた先祖の遺産です。
老人は、特に、ケチのために頑張っている時が生き生きとしています。老人福祉のためにはケチのチャンスを与える必要があります。
シルバーシートを外した車両を作ってドアの脇に老人割引QRリーダーを置くとか。
消費税は毎日千円まで上限付き累進課税にするとか。スマホ・パソコン経費は格安契約をする老人のみ消費税なしにするとか。
老人の間でケチ自慢同好会を作る。すでに種々の、特にデジタル上の、コミュニティがあるようです。おおかたの人は、しかし、人に語らずひそかに毎日のケチに励んでいます。
それはまさに人間的なライフスタイルであって、老人になってそれを追求することは立派な趣味といえます。

●癒しビデオを見る。
夜、まさにどうしようもなく暇になるのでテレビを見ます。だが夜のテレビは特におもしろくない。そこでYouTubeで癒しビデオを見ます。
有名デザイナーのファッションショー。着飾った美女モデルが職業用無表情を作ってランウェイを歩いて行きます。終わると次のブランドをクリックすれば長々とみていられます。
ファッションに飽きたら観光地ビデオ。ローマの街角風景とか、世界の山岳絶景。島嶼めぐり航空ビデオ。波の音だけの海岸風景。
あるいは魚群が乱舞する沖縄の海中。こういう物見遊山ビデオがタダでみられる現代ですが、だれもが豊かになったものだと実感します。
YouTubeを創設した人(Chad Meredith Hurley他二人)は天才です。まだ若いアメリカ人。筆者の子どもの世代です。システム作りに集中できる凝り性というか、完璧主義というか。一種、芸術家なのでしょう。
似たようなものは作れても世界中だれもがはまるほどの魅力を持つシステムは天才の仕事でしょう。
日本の会社では生きにくいといわれるこういうクリエーターを認め生かして利用するカルチャーがアメリカにはあるようです。あの国の活力ですね。若い人はうらやましいと思うでしょう。いつか日本もそうなれる時が来るのでしょうか?







自然科学ランキング
コメント

趣味としての老人(5)

2022-05-23 | yy83趣味としての老人


経済は需要者と供給者でなりたっているから、要らないといっても買ってくれといわれます。要らないけれども付き合いで買う、とか、もしかしたら便利かもしれないから買う、とか、みんな買っているから買う、とかで買います。
供給者としては、今度いいものが作れたから買い換えてくださいよ、とか、今はこれが流行だから買って、とかいつも言い続ける必要がある。
若い人はいいが、老人はこの売り込みに困ることが実は多い。新しいものは使いこなすのが面倒なので嫌だ、特にデジタルは分からない、分かりたくない。今使っているものに愛着がある、とか、変に新しもの好きに見えるのも恥ずかしい、とか。ようするに保守的、固陋、であるから新規提案にはかえって反感を持つ面があります。
老人は生活に苦労してきたから習性として吝嗇です。しかしケチだから買わないというよりも新しいことを考えるのも面倒だから買わない、という実態がありそうです。
したがって新規提案はまず却下。これは資本主義経済の新陳代謝に害となっています。しかしこれ、趣味として頑迷固陋をしている、としてみてはいかがか?資本主義の進歩がフルスロットルになるのもリスクがあるでしょう。それを少し抑える要素が老人の趣味としてあってよいかもしれません。
不易流行。変えないも大事、変えるも大事。若い人も老人も、新規提案は却下すべきものかどうか、いつもそれを考える必要がある、ということでしょう。それにしてもインターネット以来、売り込みが多い。






自然科学ランキング
コメント

趣味としての老人(4)

2022-05-15 | yy83趣味としての老人


●新規提案は却下
インターネットで検索していると必ずお誘いが飛びこんできます。こういうアプリはどうですか?クリックしてください。というサプライヤー側の提案が出てきます。スマホでは軽いタップです。インターネットが営利活動である限り当然の営業が行われているということでしょう。
これを全部、ハイお願いします、とクリックしていたらいくらただでもアカウントだらけでパスワードだらけになる。少額ですが月会費をとるものも多くあります。
こんなに便利になりますよ、とか、かなりお得になりますよ、とか、皆さんお使いですよ、などと言われる、つい登録したくなります。しかし待てよ。取捨選択して入会したりしなかったり、会費が高いからやめたり、とかばかり毎日しているのはいかがなものか?
提供されるシステムに参加したりしなかったり思い悩む毎日でよいのか?投資したり消費したり参加したり変更したりやめたりが個人として重要な活動であると思っていてよいのでしょうか?
昔の人もガマの油を買うか買わないかで悩んだりしたでしょう。それは楽しいことでもあるが買った後それほど役に立たない。いずれ捨ててしまうものです。買うか買わないか、その判断に使う思考エネルギーの無駄、ともいえる。
クリエイティブでない。自分の頭で考えだすものがない。身体を動かして作るものがない。タップする指だけは動かしますが。指だけの生活、これはデジタル(原義は指 拙稿80章「デジタルその魅力と退屈」)の罠ではないのか?
同年配で、インターネットは一切していません、という人がいます。それも立派。だがさぞ不便でしょう。ランプに頼る生活ですかね。しかし老い先短いのにいまさら変な新しい文化を学ばされるのはうんざり、ということでしょう。
この気分は納得できます。
今の生活でまったく不便はしていない。昔から比べればずいぶん便利になっているし、毎日同じような繰り返しで楽々と楽しく暮らしているから、これ以上便利になったり面白くなったりする必要がない。それより新しいことを覚えるのは面倒だ、となるでしょう。









自然科学ランキング
コメント

趣味としての老人(3)

2022-05-07 | yy83趣味としての老人


緩い斜面の下り坂はよいです。適当な負荷があるので筋力が強くなったような錯覚になり気分が良くなる。速度が上がる。しかし速く歩くと前へ進むことばかり考えてしまいます。その必要は、老人にはないわけですから、重力に逆らわない程度に前に進むのがよろしい。下り坂の場合、進むことは落ちることです。落ちることは楽しい。スキーと同じです。宇宙ステーションは常時落下しているから無重力を楽しめる。

●インチキ料理
料理は全くできません。したことがないどころか、しようとしたことがない。現代社会人としては失格ですが、後期高齢者としては辛うじて許されるでしょう。
問題はもちろんあります。家内を怒らせたとき外食もかえって事を荒立てるので自炊する。ということにしたいが、まったく能力がない。コンビニへ行ってチーズとパンを買ってきます。それだけあれば引きこもりも可能、と何かの本にありましたが、自明解にすぎるので卵とブロッコリーも買う。
自炊といえる条件は何か?湯を沸かして卵を三個入れるとゆで卵が三個できるので一個食べて残りは次の食事に使う。火を止めても余熱があるのでブロッコリーを三分の一に切って入れると柔らかくなるので食べます。これは料理といえるか?
おかげで料理ができるようになりました、と言ってみたい。小さな自立は老人の楽しみ、といえるのではないか?
インチキ料理というのは、鍋に放り込むだけであるとか、言葉で言うと簡単すぎて、料理を作ったとはいえない類でしょう。案外、主婦も実はよくしているのではないかと思えます。
それでも少なくとも私だけはそれを毎日おいしく食べることができる、したがってこれは私にとっては料理である、といえるならば、自分で作って自分で食べる、という自炊原則を満たしたことになる。
食欲もあまりないし自己顕示欲もない老人ならこれでよし、といえるところが重要なわけです。









自然科学ランキング
コメント

趣味としての老人(2)

2022-04-29 | yy83趣味としての老人


●遅歩き
散歩はできるだけ遅歩き。通行人の少なくなる時間帯に歩道の端を歩かせてもらう。腰を伸ばしてなるべく暇そうに歩く。
物は持たないが手はポケットに入れず後ろで組むと老人らしく見えるでしょう。ぼんやり目線で前を見て歩くが花などあれば見上げます。
階段はゆっくり上る。若い人に追い越してもらいます。かつて私も老人を追い越していたのでしょうが全然覚えていません。
筋肉は全力の三割くらいの負荷をかける時が最高効率です。つまりゆっくり歩く場合、一番エネルギー消費が少ない。早くても遅くても仕事効率は落ちて無駄に熱が発生する。だから無理をする余裕のない老人はゆっくり動いて食が細く寒がりとなります。それが自然でしょう。
階段の下りは苦手、段差をしっかり体重移動できないでよろける不安があるうえ、膝が痛くなるので左足に体重をかけるのが嫌になっています。さらに筋力が弱っているので前へ蹴り出すときの足が十分上がらない。
歩行運動プロセスは小脳に刷り込まれているので無意識に足が動くようになっていますが、この回路は老化現象に追随して自動的には調整されてきません。運動神経の信号送信強度が同じだと筋肉が細くなっている分だけ足の動きは小さくなる。結果、歩幅が足りなくなって下の段の蹴込みに靴のかかとがこすれることがあります。靴も傷みますが、よろけると転倒の危険がある。








自然科学ランキング
コメント

趣味としての老人(1)

2022-04-23 | yy83趣味としての老人


(83  趣味としての老人  begin)




83  趣味としての老人

還暦を過ぎてから引退老人の趣味としてゴルフを始めてみました。しかし当然上達はしないうえに後期高齢者になると少しずつ後退するようになってきました。ご同輩は立派に現状維持をしていてうらやましい。が、さすが上達してくる老人はいない。悲しいかな、老人が今できることは、最高で現状維持。いずれにせよ近い将来の後退か脱落は避けられません。
であればむしろ後退そのものを趣味にする、という開き直りもよくないか?老人らしい脱力スィングを心がけるが結局ミスショットが多い。その間抜けさを楽しむ。失敗が老人の良さである、とうそぶきます。
こうなると老人の趣味ゴルフというよりも趣味で老人ゴルフをしている、となります。
今年七十六歳になり余生を送る老人として趣味に生きている、といえないことはない。ほかにどう生きるという目的もないからそれをしている、というべきでしょう。そうであれば、むしろ、趣味として老人生活をしている、というべきですね。

趣味は趣味それ自体を目的としている。健康とか社交とか虚栄とか収益とか、他の目的を兼ねる場合も多々あるでしょう。しかしその核心は何らかの目的を志向するものであってはおかしい。
趣味は、それ自体が楽しい、というだけで完結している。他の目的とは断絶している。即自的、純粋な行為であるものが趣味、といえます。

人間究極の趣味は何もしないことかもしれない。寝ることが趣味、クウネルが趣味。と言ったらどうか?まあ、実はそうであってもそこまで開き直っては身もふたもない。死んでいるのと似ている、というか、ほとんど同じです。であるからそれはやめて、それ以外を探してみましょう。

●趣味としての早寝と寝床で読書
夜が来たらすぐ寝る、という趣味。趣味というよりも、老人は自然とこうなってしまう。一日の午後が終りに近づいてくるとすぐ倦怠を感じる。「これでもう今日は終わり(英語でLet’s call it a day)」と思えてきます。そうなるとぐったり眠くなる。
若いころは勤務を終えて一杯飲むと、そこからはりきりだす人が多い。若い人は夜が好き。老人は早めに寝床に入らなくてはいけません。夜のテレビは面白くない。趣味としては寝床で読書が良い。すぐ眠くなります。しかしスマホやタブレットの発光画面は自律神経によくない。読書用には適度な間接照明と本の軽さが必要です。
アラビアのシェヘラザードはおもしろい物語を語っているうちにいつも夜が明けてきた、とありますがこれではいけない。昔大人気だったが現代人が読もうとするとおもしろくなくてすぐ眠くなる物語が良い。ただし硬い語彙を使う内容はだめです。交感神経が刺激されないような眠そうな柔らかい言葉遣いで書かれた文章が最適です。それで長々と続く話が良い。
たとえば徒然草(一四三一年)。カンタベリー物語(一三八七年 ジェフリー・チョーサー 西脇順三郎訳、金子 健二訳)など中世の傑作古典。夏目漱石、谷崎潤一郎全集など大正期の権威ある書き物は今の時代に読むと適当に眠くなります。昭和の傑作、夕べの雲(庄野潤三)、富士日記(武田百合子)も眠りにはよい。読み止しのページをめくって十分くらい読むと寝てしまう。
早寝すると朝暗いうちに目が覚めてしまって困る。明るくなるまで寝たふりをしていないと、うるさがれるおそれがあります。老人になってからひどい不眠症に悩む話(一八八九年 アントン・チェーホフ「退屈な話」)など、それもまた困る。年を取るほど、朝の光が明るいことがうれしくなります。

●英文遅読み
朝のコーヒーを飲みながら読み止しの英文を読むことを日課にしています。ぼうっとしながら一字一句のペースで読むと自分でしゃべっている感覚になります。日本語ではすぐ目が走ってしまうので、英語などが良い。厚さ数センチ千ページくらいの長編小説、大学院教科書など適当です。最近は米国の科学教科書、物理、生物、医学などの最新版に研究の進展がていねいに書かれていて面白い。
一日数ページ。 筆者と同年の作家Jim Craceの「Being Dead」1999など筋が面白すぎて走り読みしてしまいましたが、それはよくない。今はGuyton,HallのMedical Physiology 2021版。まだ八十ページなのであと九百二十ページ、半年以上楽しめそうです。外国本は高価なので早く消費するともったいない。時間のある老人にしかできない贅沢です。







自然科学ランキング
コメント

文献