現実はあまりにも確かに、ここにはっきりとある。そしてその現実と同時に私は私の内面があるように感じられる。その他にも、人によっては神秘的な世界、霊的な世界、愛や希望があるようにも感じられるようです。
限りなく絶対的な存在である物質からなる現実世界に取り込まれることができないもの、私の内面というようなものは、いかがわしくあぶない影のようなありかたになるしかない。人間の身体はそう感じるようにできています。
人と共有できる現実世界。それに対して人と共有できない私の内面。少なくともこの二つの世界にまたがって私たちは生きている、と思われています。人と人が社会を作って言語を話す以上、どうしても私たちが互いに共有しているものだけが絶対的な存在感を持つ。話せば話すほど、書けば書くほど、現実世界だけが表に出てくる。
科学も、知識人も、教科書も、マスコミも、すべての権威は言葉でできている以上、現実世界だけを立脚点にして私たちに語りかけてきます。
言葉以外の表現方法、たとえば(音楽や美術など非言語的)芸術は創作者の内面を表すといわれています。それはその通りでしょう。しかし、そのことが芸術作品の意味を共有することをむずかしくしています。結局は、創作者だけがその作品の意味を感じ取ることができる、と言ってしまえば、共有はありえません。
人の内面を他人が感じ取ることなどできるのか? 少なくとも言葉でそれを語る以上、内面は共有できません。人と付き合い、皆で正しく語り合えば語り合うほど、私だけが知ることができる私だけの深い内面は、霧のように薄れていきます。
しかし言葉で語ることをしばしやめて、ただ一人、目をつぶり胸に手を当てて、自分の奥からの通信を聞けば、明らかの私の内面からそれらは来る。