哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ現実に生きているのか(7)

2012-11-24 | xxx2私はなぜ現実に生きているのか

現実はあまりにも確かに、ここにはっきりとある。そしてその現実と同時に私は私の内面があるように感じられる。その他にも、人によっては神秘的な世界、霊的な世界、愛や希望があるようにも感じられるようです。

限りなく絶対的な存在である物質からなる現実世界に取り込まれることができないもの、私の内面というようなものは、いかがわしくあぶない影のようなありかたになるしかない。人間の身体はそう感じるようにできています。

人と共有できる現実世界。それに対して人と共有できない私の内面。少なくともこの二つの世界にまたがって私たちは生きている、と思われています。人と人が社会を作って言語を話す以上、どうしても私たちが互いに共有しているものだけが絶対的な存在感を持つ。話せば話すほど、書けば書くほど、現実世界だけが表に出てくる。

科学も、知識人も、教科書も、マスコミも、すべての権威は言葉でできている以上、現実世界だけを立脚点にして私たちに語りかけてきます。

言葉以外の表現方法、たとえば(音楽や美術など非言語的)芸術は創作者の内面を表すといわれています。それはその通りでしょう。しかし、そのことが芸術作品の意味を共有することをむずかしくしています。結局は、創作者だけがその作品の意味を感じ取ることができる、と言ってしまえば、共有はありえません。

人の内面を他人が感じ取ることなどできるのか? 少なくとも言葉でそれを語る以上、内面は共有できません。人と付き合い、皆で正しく語り合えば語り合うほど、私だけが知ることができる私だけの深い内面は、霧のように薄れていきます。

しかし言葉で語ることをしばしやめて、ただ一人、目をつぶり胸に手を当てて、自分の奥からの通信を聞けば、明らかの私の内面からそれらは来る。

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私はなぜ現実に生きているのか(6)

2012-11-18 | xxx2私はなぜ現実に生きているのか

つまり、ここにあるこの客観的現実しかない。そしてこの現実は私たち人類の身体が作りだしている。人類が無意識のうちに、協力して生存繁殖するために作りだした(拡張表現型である)巣穴のようなものでしょう。

それは唯一の現実である。自分たちが唯一の現実として作りだしたものは、当然、唯一です。そうであるならば、唯一であるこの現実の中で生きることだけが私たちにできることです。

さてここから、ちょっと困った問題が起きます。私たちが自分というものを考える場合、現実の客観性を絶対視すると自分の内面というものがそれに対峙するものであるかのように感じられてくることです。

たとえば、この世界と私の内面とは別のものだという考え(拙稿23章「人類最大の謎」 )などがここからでてきます。客観的に存在するこの現実世界とは別に自分の内部には自分だけが知っている内面がある、という考え方です。

実際、このような考えが当然として人々の会話、マスコミ表現、教育、宗教などが行われています。しかし(拙稿の見解によれば)この自分だけの内面という現代人に顕著な考え方からは現代のニヒリズムやエゴイズムや自己疎外など自分を絶対視する世界観ないし人生観が必然的に芽生えてきます。現実世界の冷然とした客観性が確立された現代では、これら内面にこだわる個々人の生き方が社会の基盤をむしばむ要因のひとつとなっています。

私たちはこの現実を共有する。私たちだれもが、この現実が現実だ、とはっきり分かる。それは私たちの身体が、この現実を強い現実感を持って感じ取るからです。そしてこの現実は当然、だれもが同じように感じ取っているはずだ、と確信しています。私たちの身体はそう感じ取るように作られています。現実がこのように感じ取れることは、あまりにも当然であるので、私たちは意識しませんが、あらためて考えてみれば人間の身体がそのようになっている、ということが分かります。

そういう身体を持つことが人類の生活にとって実用的だったからです。そういう理由でこの現実は現実である。私たち人間が協力するためにはこの現実を共有する必要がある。協力して言語を通じさせるためにはこの現実を共有する必要がある。そうであるならば、言葉を話す限り、言語の実用性のためには、この現実は限りなく絶対的な存在とならざるを得ない(拙稿24章「世界の構造と起源」 )。

ここで注意しなければならないことは、私たちが現実をこのように感じ取る身体を持っているということから、この現実世界は実在する、という結論は導けません。この現実世界が実在するという前提からは私たちが現実をこのように感じ取るはずだ、という結論は導けますが、その逆は必ずしも成り立たない。

実際、私たちが知り得る限界は、私たちが現実をこのように感じ取る身体を持っているということだけですから、残念ながらこの世界が実在するかどうかは証明できません。

日常生活では、私たちが現実をこのように感じ取る身体を持っているということから出てくる結論を知っていれば、判断に困ることはありません。現実の物質世界はここにこうある。私の身体もまた、現実の物質であるから、同じように、ここにこうある。このような現実は、目の前の机が物質としてありのままに見えるように、だれが感じ取っても同じです。私の身体もまた、裸にしたり解剖したり顕微鏡で見たりすれば、どこまでも細かく、客観的な物質として、だれが見ても同じものです。

ところが私が感じ取るものはこれらの客観的な物質ばかりではない。身体の内部からくる感覚、感情、私自身の考えなどが感じ取れます。そういうものは私の内面であって、私以外の人には感じ取れるはずがありません。こういうものは、それでは現実ではないのか?

よく分かりませんね。そのような私の内面とは何なのでしょうか?

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私はなぜ現実に生きているのか(5)

2012-11-10 | xxx2私はなぜ現実に生きているのか

現実に関する三条件を繰り返すと、

①どの時間どの場所であっても、その時そこには唯一の現実がある。

②その時間その場所にいればだれもがそこにある現実を同じものとして感じ取る。

③だれもがそのこと(①と②)は知っている。

人間はだれもが、自分が感じている現実はこれらの条件を満たしていると思っています。そういう意味で現実は人類に共有されています。

それはこういうふうに、人間であればだれもが同じように現実を感じ取るように、私たちの身体ができているからです。私たちが生存し繁殖するために便利なように(拙稿の見解によれば)私たちの身体はできている。生活していくために実用的な身体に進化したからです。そう進化したから人類は子孫を残し、その結果このような私たちがいてこのような話をしている、といえます。

このように現実を感じ取ることで実用的な生活行動ができるような身体を私たちが持っているから、私たちはたがいに現実をこうして共有できる。そのように人類の神経系が進化したからです。

ここで重要なことは、私たちが現実の中を生きているということが自明なことと感じられることです。私たちの身体はそう感じるようにできている。ここにあるこの現実が現実である。このことは意識するまでもなく自明であるから、いつでも私たち人間の行動の背景にある。

私たちがそう思うことによって現実は現実である。そういう仕組みで現実は現実になっている。逆に(拙稿の見解によれば)、そういう仕組み以外に現実は現実とならない。私たちの感じている現実はそういうものです。

現実を感じ取る私たちの身体の仕組みがこうなっているということは、現実が存在するかどうかよりもずっと重要なことです。私たちの身体の仕組みがこうなっているからこそ、このような現実について私たちが語り合うことができるのであって、そうでなければ現実に関するこのような語りはそもそも存在もしないでしょう。

さてここで注意すべきことは、(ふつうの言い方で)ここにあるこれが現実だから私たちの身体がこれを現実と受け取っているのだ、という言い方は分かりやすくて実用的ですが、正確ではないという点です(拙稿23章「人類最大の謎」 )。

科学が物質現象を完全に解明するかのように発展した現代では、物質から成りたっているこの現実世界の客観性は過去のどの時代よりも強くなっています。そこに暮らす私たち現代人は現実を絶対視し、この(いつでもどんな場合でもこのここにあるこれが現実だから私たちの身体がこれを現実と受け取っているのだ、という)言い方が何の問題もなく通用する、と思うようになっています。

しかしこの言い方は、人間どうしが語り合っているときにしか通用しません。

この現実世界は人類の身体が実用的な共通認識を作ることができるように進化した結果できあがってきたものです。私たちが言葉を使って語り合う。会話する。討論する。論文を書いたり読んだりする。数十人が協力してマンモスを狩る。数万人が協力して宇宙ロケットを打ち上げる。そういう場合に身体が感じ取る実用的な共通認識としてできあがっています。人類の身体から派生する拡張表現型です。

ではこれ以外に現実はあるのか?これ以外の世界はあるのか? という質問が出るかもしれません。これらの質問にも答えはない。私たちにとって現実は一つだけです。一つだけと感じられるから現実といえます。現実の世界はこれ一つ、しかもこれでさえ人類に固有のものでしかない。そしてしかも他の世界などはない、というべきでしょう。

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私はなぜ現実に生きているのか(4)

2012-11-03 | xxx2私はなぜ現実に生きているのか

この三条件、 

①どの時間どの場所であっても、その時そこには唯一の現実がある。 

②その時間その場所にいればだれもがそこにある現実を同じものとして感じ取る。 

③だれもがそのこと(①と②)は知っている。

私たちはなぜ、これを知っているのか?

幼稚園の頃はもう知っていたようです。言葉を覚えはじめた幼児のころ、もう知っていたのでしょうか? 赤ちゃんを観察すると、一歳児くらいでも知っているように見えます。体験だけで学習していくのでしょうか? 発達心理学の重要な課題です(一九九八年 ウィルコックスイラジオン幼児期における物体の個別認識・隠蔽実験に関する判断における特徴情報の利用 』既出など)。

さて、そういうことであるので、私たちは現実の中を生きている。 

ところで、私たちは現実の中を生きている、ということは事実なのか? 

そういう設問があります。私たちは現実の中を生きている、と思っていますが、現実の中を生きているというのは事実なのですか?

現実の中を生きていると思っているのは事実であるけれども、思っているだけで実際には現実の中を生きているのではない、という可能性もありそうです。私たちの感覚は100パーセント現実の中にいるという感覚です。けれども、それが事実だという証明はできるのか? その証拠は何なのか? いったい証拠などあるのか? 

この設問には答えがない。どう答えようとしてもそれは証明できないからです。あえて(拙稿の論法で)答えれば、私たちは私たちが現実の中を生きていると思っているから現実の中を生きているのである、となります。 

あるいはもっと正確に言えば、私たちは私たちが現実の中を生きていると思っていてそれで互いに話が通じ合うから私たちは現実の中を生きているのである。つまり現実の中を生きていると思っていて問題がないならば現実の中を生きているといってよい、という論法です。現実というものをこのようなものとして定義する、ということですね。 

こうでも言わないと、私たちが現実の中を生きているということが自明なこととならない。一方、これが自明でないと大変困ります。まず私たちはたがいに相手が現実を感じ取っているかどうか分からない。現実というようなものを感じ取っているとしても、それが人によって違うかもしれない。というようなことになったら、互に心が通じ合わない。会話もできない。協力もできないことになります。問題がないどころか問題だらけです。社会は崩壊する。そのまえに、人に何か言うということがむなしい。まあ言語も崩壊する。というか、始めから成り立たないので発生しない。そういう状況になりますね。 

しかし心配することはありません。実際、私たちの住んでいる現実の世界では、そういうことはない。私たち人間は通じ合う。協力し合えます。言葉が通じて会話できます。それは現実を共有しているからです。

 

言い換えれば、私たち人間は現実を通じて協力し合える。現実を通じて言葉が伝わり(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」 )、互に同じ現実を踏まえているから互いに会話できています。 

逆に言えば (拙稿の見解では)、人間どうしが通じ合い、協力し合い、言語を共有きるように現実を共有する能力が身体に備わったから人類はこのように繁殖し、その結果、現在私たちがこういう話を語り合っている、といえます。

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