哲学の科学

science of philosophy

世界という錯覚を共有する動物(8)

2007-05-05 | 4世界という錯覚を共有する動物

さて相互理解の話に戻って、別の例をあげます。

たとえば暴力。暴力によって人間どうしが相互理解できる、などというとひどく誤解されそうです。しかし、目の前に突きつけられた暴力の脅威はだれの脳にも同じような恐怖を引き起こす、という点で共感を相互理解できる。刃物を突きつける、あるいは銃口を向けるという行為で表現する脳内の緊張状態(裏返せば、それがないときの安心感、平和感)は、言葉を必要とせずに、かなり正確に伝わるものでしょう。この共感の効果を利用するために、昔の武士は刀剣を帯びていたし、現代の兵士はマシンガンを携行しているのではないでしょうか。

言葉と貨幣と暴力は人間社会の基盤を作っている。現代の国民国家がこれらの管理権を独占することによって安定を保っている事を見てもそれが分かる。これらは人間の脳が、もっとも深いところで、集団として共有している錯覚です。

そのほか人間が相互理解できる機会は、儀式や祭礼、戦闘、など鮮明な目的を掲げた組織行動、あるいはその現代的な変形としての演劇、合唱、舞踊、スポーツ、ゲーム、音楽、絵画、彫刻、などの中にもある。学生の部活動などもこれでしょう。大人の仕事場、ビジネスオフィスなどでも、営利活動の形を取ってはいますが、実は必要以上に、儀礼、祭礼、戦闘、と言った昔の集団行動が変形して行われている。こういうことを熱心にする人どうしは、錯覚を共有し、言葉に頼らずに互いの脳内状態が相互理解できている。ただしこれらは、そこに集まる人々の間では通じても、お金のように、見ず知らずの他人どうしがそれを介することで、一瞬にして、きちんと相互理解できる、というものではありません。

人間のある集団が共有する錯覚の体系は、集団の履歴、文化、規範を反映する。この点を強調すると、現代文明の相対化に繋がる社会観が作れる(構成主義などという)。一方、人類全体に共通な身体機構から共有される錯覚は多く決まってくる、という見方を強調すれば、いつの時代、どの社会も、基本的には、同じ世界を共有することになる(汎人間主義、人類普遍主義などという)。

どちらを強調するにしても、通常、互いに目で見える物質現象のこと以外では人間どうしは言葉、あるいはそれ以外のどんな手段を使っても、正確に錯覚を共有し相互理解することはかなりむずかしい。

動物と付き合った人は分かるでしょう。動物と、物質以外のことで相互理解できますか? 私たちは、ふつう、「動物は言葉が通じないから抽象概念のことは理解できない」という言い方をしますが、じゃあ、人間どうしは本当に通じ合っているのか、抽象概念を本当に相互理解できるのか、と改まって聞かれると、ちょっと自信がなくなりませんか?

ペンは剣より強し」という勇ましい格言がありますが、「ペンは剣より強し・・・されどパンより弱し」という駄洒落のほうが納得できたりします。実際、弱い順に並べると、ペン、剣、お金、パン、という順になる。つまり、正直いえば物質的なほうが強い、ということだと筆者は思いますが、いかがでしょうか?

さて、駄洒落などはさておき、本題に戻ります。哲学であろうと何学であろうと、言葉で語る以上、語ることができないものを語ることはできない。言葉で語ることができるものよりも語ることができないもののほうがずっと多く、ずっと人々の感情に結びついている。それらは人生において言葉よりも、たぶん、ずっと重要なものです。人々は、そういうよく分からないけれども重要そうなことをはっきり語ることを、哲学に期待する。ですが、それは無理です。哲学者はそれらの重要なことを、何とかはっきり語りたいでしょう。それでもそれを語ると、かならず間違いを語るしかない。

語ることができないものを無理やりに語っているうちに、それを語ることができるものであるかのように錯覚してしまう。するとそれは、客観的世界に存在するものであるかのように感じてしまう。命、心、自分、個人、幸福、そういうものがこの世に存在すると思い込んでしまう。

哲学は、その間違いを人々に権威を持って教えてしまいました。それで世の中の人々が皆、それら錯覚の存在を当然と思ってしまった。あいまいな錯覚に物質以上の確実な存在感を感じてしまう。それは歴史上、文明の発展にとっては悪いことではありませんでした。近代の西洋文明のように、哲学に支えられて明瞭な言葉の体系を得た人々は自信を持って自分の人生に努力を集中し、個人の人生目標を確立し、感情を整理してビジネスライクに他人と協力し、現実の世界を開拓していった。しかし、いまや、それは過去のことです。現代のように宗教が権威を失い、哲学と科学との矛盾が、ここまで明らかになると、哲学の間違いは人々を混乱させる役割を果たすようになる。

一番大事そうなことが分からない。世界は大きな謎を抱えているらしい。そのままその謎に知らん顔をして世界は毎日もっともらしく動いていく。冷徹な科学と経済はどこまでも力強そうになってくる。政治は偽善の応酬ばかりで愚劣な社会習慣を改めることができない。そういう白々しい偽善の世界に生きなければならない現代人はニヒルになっていく。それを科学のせいにしたり政治のせいにしたりしてみるけれども、どうもそうではない。

それでその謎を解こうとするまじめな哲学は、現代の科学や経済や政治がもたらす悲惨や偽善、この世の不条理について語りたくなってしまう。しかしそれを語りだすと、また新しい難解な言葉を作り出して袋小路にはまり込んでいく。そして結局は人々に見放されていく。そういうふうに、今までの哲学は間違えていった。

筆者の予想では、いずれ科学がますます発展していくと、人間の脳神経系の微細な活動をそのまま観察する(非侵襲的で)超精密な装置が作られるはずです。そういうものを使って人間どうしはお互いに感じていることを目で見ることで共感し、その感覚を共有化できるようになるのかもしれません。

そのような科学に支えられて、人間の相互理解は現在よりも格段に深くなっていく。そのときはじめて、脳の中に起こる感情や錯覚を正確に言い表す言葉が作られてくるでしょう。その言葉は自然言語に近いものなのか、画像の形を取るのか、偏微分方程式、あるいは神経ネットワーク多次元状態ベクトル遷移関数のような形を取るのか、筆者にはまったく分かりません。

ただ、たぶん間違いなく、そういう新しい言葉を使って、いつか哲学は人間が感じるもの全体について迷いなく語ることができるようになる。そのとき、それは哲学であって同時に科学になっているはずです。

哲学の科学、哲学学、あるいは新語を発明するのが好きな哲学的伝統の顰にならって、「メタメタフィジカ(メタ形而上学?メタメタ科学?)」とでも唱えましょうか? たちまちたくさんのツブテが飛んできてメタメタにハジカれそうですね。

まあ、そういう哲学の科学が本格的に発展してくるのを待つ間、これ以上、間違った哲学を増やすことははやめて、語ることができることだけを語ってみましょう。旧来の哲学のように新しくむずかしい言葉を次々に発明して世間に売り出し、錯覚の上にさらに間違った錯覚を付け加えて手品のように人々を幻惑したり(と同時に論者自身が自分の作った言葉で幻惑されてしまったり)する商売は控えたほうがよさそうです。むしろ逆に、欠陥商品の責任を取らされたメーカのように、間違った過去の哲学が世間に売りさばいてしまった欠陥品である間違った人間観、世界像、哲学思想、あるいはその欠陥の原因になっている日常語の曖昧さ、混乱、錯覚をひとつひとつ点検し、回収してまわるほうがよいのではないでしょうか。

それはふつうの言葉を使って、あたりまえのことを言ってみるだけです。私たち現代人のだれもがうすうす感づいていることを、もう少しはっきり言うだけのことです。

それは、近代哲学が抉り出してしまったパンドラの箱の底、虚無の真っ暗な裂け目、そこから抜け出すことができなくなってしまった唯物論の深淵、です。つまり、自然科学の描くような物質世界はもともと存在しない。もちろん、目に映るこの世は存在しない、命は存在しない、心は存在しない、意識、苦痛、幸福というものは、実は存在しない。自我とか自分というものも、やはり存在しない。私は存在しない。死は存在しない。存在は存在しない。そして、それら存在しないものが、なぜ存在しているようなのか? なぜ存在しているように思えるのか? 人間はなぜ、それらが存在しているかのように確信するのか? なぜ、それら目に見えない、存在しないものたちが、目に見える物質たちよりも、私たちの人生にとって大事なものたちだと感じられるのか? なぜ、いままでの哲学はこれらの問題が解けないのか? 

科学はこれらの問題の解決に役立つのか? こういうことを感じる人間の脳の機構を作り上げる物質の法則は、なぜこうなっているのか? それは現代の科学知識だけを使っても、ある程度見分けることができます。そしてそれを知ることはちっとも怖いことではありません。

足元の深淵を覗き込むと、引きずり込まれてしまいそうですか? それは、それを感じている自分自身が怖いからでしょう? 光り輝く現代文明の世界の中で、現代人が唯一真っ暗な深淵と感じるものは、自分自身の存在かもしれませんね。若い人が自分を怖がるのはしかたのないことです。しかしそんなものは、ガリレオが言いふらしている地動説を聞いたときのローマ法王の恐怖に比べればたいしたことはありません。それでもそのしばらく後、法王も科学者もふつうの人も、地面が動いていることを知ったからといって、毎日の生活は何も困ったことにはならなかった。それどころか、天体の力学を知ることは自然科学の大発展のきっかけを作った。人々の生活は豊かになった。地動説から数百年後には、その科学を基盤にして力強い現代文明が立ち上がってきたわけです。

過去のそして現代の哲学が何も答えてくれないことが分かってしまったからといって、悲観する必要はありません。それが分かったことで、むしろ私たちは、言葉に惑わされずにまっすぐに事実を見ることができるようになる。むずかしい言葉など使わなくても、何も困ることはありません。人生が楽になるだけです。たとえば筆者などは、言葉を上手に使う高級な言語技術者にはなりそこないましたが、おかげで言葉を飾る苦労も知らず、毎日を楽々と生きています。

(4 世界という錯覚を共有する動物 end

5  哲学する人間を科学する

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世界という錯覚を共有する動物(7)

2007-04-28 | 4世界という錯覚を共有する動物

自分であたりまえと思って住み着いている世界に満足して、他の見方があることに気づかないまま一生を過せれば問題はないのですが、うっかり他の世界を覗いてしまうと、場合によっては、かなりの混乱と悩みが始まる。

自分が死んだらどうなるのか、とか、自分は何のために生きているのか、とか、自分の内面の本当の自分は外面に見える自分とは違うのではないか、などという疑問を持ってしまうといけません。それは不幸の始まりです。あぶない哲学に迷い込んでしまうのです。

まじめに哲学をしたい人は、難しい哲学書の字面を読むだけでは満足できない。自分の身体が今触れている生々しい世界について、その本当の意味を知りたくなる。自分が感じる大事なものたち、心の中の不安、恐れ、苦痛、不幸、愛、そしてこのバラの美しさについて考えたい。それを正しく言葉で語れば人に通じるのではないか? 感覚経験から心に突き刺さる現実のこの神秘的な存在感(クオリアという)を語れば人は分かってくれるのではないか? 人々とそれを共感することでこの現実世界の真実をさらにしっかり捕まえてみたい。言葉を洗練させて曖昧さをそぎ落として真実だけを抽出して語ってみたい。そう思って言葉を詰めていく。

しかし残念ながら、その試みは、かならず失敗に終わります。人間の言葉は、人間どうしが同時に身体で触れて共感できる物質世界を基盤として伝わるものでしかない。他人の運動神経との共鳴で存在感が感じられる客観的物質世界を利用して、人間の言葉は作られ、使われている。哲学者だろうとだれだろうと、言葉を正確に語るということは、他人と共有できる現実の物質世界の中だけを動き回りながら、話し手と聞き手が物質を介して運動神経を共鳴させることでするしかない。

「そこにほら、あるじゃないか」とか、「見ればすぐ分かるだろ。何なら触ってみたら」とか、「これとこれは同じに見えるだろ」ということを基盤にして人間の言葉は成り立っている。物質、そして他人や自分の人体(しつこく言えば他人や自分の人体も物質ですが)の動きを指し示すところに言葉ができてくる。これがもともとの言語の作られ方です。

しかし人間が何人もいて、規則や習慣に従って同じことを言って、それに対応した行動をしていると、目に見えない、物質を指していない言葉でも錯覚を作り出していく。まあ、裸の王様の寓話に似ていますね。周りの人がだれも、王様の服は存在します、と言うから、その完全透明な服は存在するのです。それが分からずに、「王様は裸だ!」と叫ぶ子供は、空気が読めていない。まだ錯覚の存在感を人間仲間と共有する作法をきちんと身につけていない、未熟な幼児なのですね。

物質に対応しないものからこうして作られる錯覚の共有は、それはそれで便利な面がある。物質で示せないけれども共感できる感情、状況、フィーリング、感じというようなものを表現できるので人間どうしの相互理解に役立つ。存在感を伴って人間の感情に訴える錯覚は、うまく言葉で表せるようになり、それは互いに共感され定着して、頻繁に使われるようになる。逆に、うまく言葉で言い表せて人間どうしが共有できるようになった錯覚は、物質ではなくても物質であるかのごとく存在感を伴って感じられるようになる。それは、もともとは言葉から作られたものであっても、言葉から独立して脳内に、しっかりと存在するようになる。

たとえば「算数」は物質ではありませんが、存在感がある。小学生も、友達どうしで算数が嫌いだとか、好きだとか言い合っている。もともとは、小学校一年生のときに耳から入った音声でしかない「サンスー」が、教科書やその授業という物質的な存在に対応するようになり、さらに三年生くらいになると「算数」になり、五年生くらいでは、はっきりと、好きとか嫌いの対象になってくる。このような場合に、言葉が信念の形成を導くという理論を述べる言語哲学者もいます(二〇〇二年 ピーター・カルーサーズ『言語の認知機能』)。

人類社会が発展し、人間関係の複雑な農耕社会になってからは、物質を指す言葉よりも物質に対応しない錯覚を指す言葉が多くなってきた。「命、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義、罪悪、屈辱、プライド、お金、財産、成功、失敗、ブランド、ステータス・・・」、と言う言葉に人間の感情は揺すぶられる。

けれどもそれらの言葉が何を意味しているのか、まじめに考えれば考えるほど混乱してくる。物質として指し示すことができないものを、どうやって決め付ければよいのでしょうか?

物質と離れて言葉を使うことに一番成功したように見えるのは数学ですが、数学でも「点」とか「三角形」とか一個一個の言葉の意味を決め付けることはできない。理論全体の論理性で明瞭な言葉遣いにしている。論理性だけで組み上げられる数学、論理学など、特殊な人工的言語を除けば、物質を離れて、言葉の意味をはっきりさせることはむずかしいのです。

意味などということをあまりまじめに考えてはいけないのでしょう。言葉にはもともと意味などはありません。

べろべろばあ」といいながら口を大きく開けると、赤ちゃんは笑いだす。意味などありません。赤ちゃんは、生まれつき人の表情の変化を見分けられると笑う運動が起こるような神経回路になっているから笑う。そうしているうちに「べろべろばあ」という発音に特有な神経回路が、赤ちゃんの脳にできてくる。それで、それに特有な感情回路が作られて、赤ちゃんは、「べろべろばあ」と言われると、ますますはっきり笑えるようになる。言葉はそういうものです。

このような仕組みによって、幼児の遊び歌のように、いつの間にか楽しく遊べる音節列が世代を超えて伝わってきている。実生活では、その意味などはあいまいなままでよい。仲間とそれを言い合いながら談笑できれば、それでよいところがあります。科学や数学と違って、ふつうの言葉というものは、まずあいまいなところが便利なのでしょう。あいまいであるからこそ、人間どうしの共感を伝えることができる。言葉のそのあいまいさを許さないということになると、どんどんおかしなことになってきます。

命、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義、罪悪、屈辱、プライド、お金、財産、成功、失敗、ブランド、ステータス・・・

物質としての実体のない、錯覚を表わす言葉の根拠を探して世界中を歩き回っても、そこに答えはない。竜を訪ね歩く伝説の騎士のようになってしまう。物質を指さない言葉というものは、あいまいな、多義的な、影のような錯覚の頼りない共感が得られるだけのものです。それ以上にはっきりしたものは見つからない。命や心や人生の大事な物事たちに関して、人々の感情に訴える、神秘的な、深遠な、哲学的な響きを持つ言葉たちの正体は、物質世界の中をいくら探しても、人間の身体の中を探しても、自分の脳の分子構造を全部調べても、どこにも見つからない。

「ほら、二人でいると最高に幸福を感じるだろ?」とか、「このバラはすごく美しい。ぼくはそう思う。君もそう思うだろ?」とか恋人に言うとき、少し不安になりませんか?

人間の幸福は、私の寂しさは、そしてこのバラの美しさは、確かに私が感じることはできても、その感情の正体をこの物質世界の中に見つけられるものではないからです。そしてこの物質世界にないものはしっかり指差すことができず、あいまいにしか伝えられない。つきつめるほど、他人と共有しにくいところがある。したがって言葉で完全に言い表せるものではない。

逆に言葉で正確に言い表せるものは、物質現象として捉えられるものしかない。それ以外の言い表せないものを、どこまでも言い表せるはずだと決めてかかるから不可能な探求が続く。そして神秘感に陥ってしまう。

そういうものは、ある、ということではない。ない、ということでもない。ただ感じられるだけです。どんなに強く感じられても、そんなものを物質のように捕まえることはできない。目に見えない、物質現象でないものは正確に語ったりすることさえできない。気楽に語るときは良く通じるように思えるのに、本気で理論として語れば語るほど共感はむずかしくなり、相互理解は遠のいていく。言葉を尽くせば語り尽くせるはずだ、理解し合えるはずだ、という思い込みがかえって人間の相互理解を妨げる。

例外がすこしあります。脳内の錯覚であって物質を指さないにもかかわらず、人間どうしがかなり正確に相互理解できるものはごくまれにあります。数学はその一例です。また、貨幣もその例外の一例でしょう。人間の脳内の選好が定量的に現れるものが貨幣、お金です。お金の価額を通じて人間どうしは互いの脳内の状態を相互理解できる。言葉では理解できなかった相手の本心、欲しい物、避けたいことなどが購買に消費したお金の量、入場料、手数料、会費、保険料、予算、掛け金、投資額、遺産相続などで分かることがありますね。人間どうしが共感できるからその金額が決まってくる。

お金は言葉以上に人間の感情に直結し行動に影響する。貨幣という人類の発明は、もともと人類の脳に備わっている価値判断機構の重要な働きをだれの目にも見えるように表わす優れた仕組みです。これは言語の発明と同じくらいに貴重な人類の財産でしょう。数詞の発明が、もともと人類に備わっている数認知機構を顕在化したように、貨幣の発明は、脳の価値判断機構を顕在化した。

貨幣経済は流通価値の蓄積によって旧来の社会階層の秩序を崩していった。流通しかつ蓄積できる貨幣が、人間の脳の持つ選好機構にぴったり合うのでしょう。人間が貨幣を取得、支払い、交換など操作する行動はその人の脳内の状態を定量的に表わす。それを観察する人は目に見えない相手の脳内の状態を理解して協力することができる。互いの共通の利益が分かるから協力が進む。それが経済です。

かつて貨幣経済は、既存の社会階級間の流動性をもたらし、特権階級をおびやかす存在として、知識人から忌み嫌われ蔑まれたが、現代の国民国家体制の基盤、あるいはグローバリゼーションの原動力として、人間の生活全体に決定的な影響を持っている。インターネットマーケットを使えば、言葉の分からない外国人でも不自由なく経済生活ができる。もしかしたら貨幣のようなもの、あるいはマーケットのようなものが言語を超えて、まず全人類の脳に共鳴し共有されて、共通の相互理解を導くのかもしれません。

グローバリゼーションと呼ばれている現象も、そこから来ているのでしょうか?

「きれい事を言っても結局、この世は金だ」というメッセージは、なかなか説得力がある。物質、そしてお金。科学と経済、テクノロジーとビジネス。現代はこれらが、哲学や思想に勝ってしまう。

そういうお金ですが、これはこの世の中に実在している物質のようなものなのですか? それとも錯覚ですか? ちょっと、首をひねってしまうでしょう? お金とは、考えれば、不思議な存在です。「この間貸した一万円を返してくれ」と迫る友達に、「ああ、あれね。あれは、使っちゃったからもうない」と言ってみましょう。「君の財布に入っているじゃないか」としつこく迫ってくる相手には、「これは君に借りたあの一万円じゃない。別の人から受け取った違う一万円だ」と言ってみましょう。間違いなくぶん殴られるか、絶交状態になるでしょうね。

お金とは物質ではないようです。いわばバーチャルなものなのでしょう。まさにインターネットゲームの中でアイテムを売買するのに必要なバーチャルマネーというものがあります。それを実際のお金で売る商売が繁盛していて、問題になっていますね。ふつう、人間はするどい現実感覚を持っていますから、バーチャルな存在感に感情を動かされるはずがないのですが、それが壊されていくのを見るのは不気味ですね。しかし、これも現実。お金というものは、日本銀行が発行するから存在するというものではない、ということを、このサブカルチャーの社会現象はよく表わしています。

さて、科学と経済、これらは現代の魔術です。科学を使いこなすことで物質世界を間違いなく人間の好きなように操作できる。貨幣をやり取りすることによって、どの人間をも、好きなように操作できる。あるいは逆に、科学や経済によって、自分の身体も心も動かされてしまう。現代の科学、技術、経済、貨幣というものは、まさに昔の人が感じていた魔法の力、神の能力、を実現したものに見える。科学と経済さえ進歩させれば、神秘的な全知全能、あるいは病魔退散不老不死の力に近づいていける、という感じがする。昔から宗教や哲学が求めていた神秘で偉大な力というものの大部分が、現代の科学と経済によって実現されていくように見える。

こういう時代になったから、いままでの哲学が権威をもって教えてきた崇高な思想が、人々の素朴な直感によって、役に立たないものとして見捨てられ始めた、ということではないでしょうか? 十九世紀から現代に続く哲学の苦闘は、伝統的な精神文化を否定する試行錯誤(たとえば二十世紀に最も大きくふれた振り子、一八六七年 カール・マルクス『資本論』など)に揺れましたが、いまだに混迷から抜け出ることはできていない。世相の表面を見る限り、二十一世紀になって、ますます、まっしぐらに、物質とお金の時代になっていくように見えますね。 

現代世相を憂える年寄りは、「昔は良かった。物質ばかりでなく精神が重んじられていた。心を大事にする世の中に、また戻れないのか?」と言って嘆くわけですが、それは無理でしょう。

科学と経済がここまで発展し、その(不気味なくらい)力強い存在感が人々の脳に直接強烈に働きかけるようになった現代生活では、精神や心や哲学といった大昔に作られた錯覚はしだいに頼りなく影が薄くなり、かえって怪しくいかがわしいもののようにさえ感じられるようになってしまった。

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世界という錯覚を共有する動物(6)

2007-04-21 | 4世界という錯覚を共有する動物

こうして(拙稿の見解では)人間は、他人(「他者」などと、哲学や心理学では観念的響きの用語を好んで使うが、むしろ「人間仲間」というほうがよい)の運動形成神経回路との共鳴で存在感が感じられる客観的物質世界の経験を仲間と共有する集団的経験として蓄積していくことで、確実な世界の存在感を獲得する。(そして、その世界の中に他人を見とめ、続いて自分を見とめる)

赤ちゃんが幼児になり四歳くらいになると、この集団的経験が蓄積してくる。自分の目で見える目の前の今の光景だけが世界のすべてではなく、今まで自分が身体を移動しながら見てきた光景と連続している。さらに、だれか他の人間の目に映っていると思われる光景も、自分が見ているものと連続した一個の大きな世界の一部分なのだ、と感じるようになる。

眠っている間に、枕もとの靴下にサンタクロースがプレゼントを入れてくれる光景を、子供は想像できるようになる。乳歯が抜けたら枕の下に入れておけば、朝になればお小遣いに交換されている(西洋の子供の場合)。それは歯の妖精が夜中に来てくれるからです。いつの間に自分がそれを信じるようになったのか、子供は思い出せない。それは両親から繰り返し寝る前に言い聞かせられていたからだということを、思い出せないのです。

こうして子供は、自分が眠っている間に、何かが起こっていることを想像できるようになる。それは、眠っているときにも、自分とは別のだれか(人間仲間)が起きていて世界の変化を眺めていると思えるからです。そのだれかの目が見ているものを想像できるからです。

このように仮想的に他の人間の視線を借りて見えない場所を見ることが想像できるようになると、次にはこの物質世界のどこにでも想像の目を飛ばすことができるような気になります。「どこでもドア」というものがあったら、世界中のどこにでもそのドアを開けて移動できるのにな、と思うようになる。そうなると、自分の目の前の光景は、四方八方に無限に広がると想像できる大きな連続した物質世界の一部分なのだ、と感じることができる。むしろ、そうとしか感じられない。

友達に、「そこのドアを開けたらもうそこに宇宙の果てがある」と言ってみましょう。それを言うときは、笑いながら言うようにしないといけません。もし笑いを浮かべずにそれを言ったら、とんでもないことになりますよ。

特に、こういう冗談は、小学生にはけっして言ってはいけません。本気で悩んでしまう子がでてきます。小学生の時期は、身の回りの物事の存在感をきちんと感じ取って、大人の常識と同じような客観的世界をしっかりと身につけていく大事な成長過程だからです。

幼稚園から小学校に通うころの子供たちは、自分が感じるものごとには内面と外面があることに気づく。身体の内側で起こることと、外側で起こること。その境界に気がつくことで、自分というものが分かってくる。視覚と聴覚、触覚で感じられる身体の外の世界は、客観的に存在していて、自分の願望や苦楽の感覚や感情と無関係に変化していく。その外の現実の世界とは別に自分が内面で想像する世界があって、それは内面にしかないものと思うようになる。また同時に、他人が内面で想像する世界をも想像して感じることができるようになる。ここまで成長した子供は、外面を通して他人の内面に入り込むことを想像して楽しむようになる。そこまで成長すると、急に劇やテレビやマンガを楽しむようになるのです。

さらに勉強に励んで科学の思想を身につけ、物質の性質を知識として積み重ねていくと、家の周り、自分の町、地球、宇宙、と身の回りから無限に広がっている物質世界の理論模型が作れます。三次元の空間と時間の次元を持ち、物質は物理学の法則にしたがって分子、原子、素粒子から構成されていて、科学法則の通りに変化していく、という物質世界の模型です。科学が示すこの模型は、目の前にあって直接目で見て手で触る物質世界そのものではありません。それでも、この世界の模型を使うと人々と同じものを共感できると感じられるので、自分の視覚や触覚で感じられる目の前の物質世界とこの理論模型の物質世界が同質のものでひとつに繋がっていると思えるようになってきます(子供の理論模型の発達過程については、たとえば一九九六年 スーザン・カリー、エリザベス・スペルク『科学と核知識)。

理科系の教育を受ける子供は、物質世界のこの理論模型を実験と観察で確認し、それが再現性のある現象であることを知識としてだけでなく、体感としても知ることができる。こうして子供は、科学が基礎としている客観的物質世界の存在感を直感で感じ取ることができるようになる。

ちなみに、直接感覚の世界とそれを材料にしてつくられる思考や想像からなる心的状態の世界と、さらにそれらを組み合わせ、推論により理論模型を発展させてなりたつ科学や文化の産物として与えられる世界(地動説の世界、物理学の世界、聖書が教える世界、など)を、それぞれ客観的な存在とみなして相互関係を分析する現代哲学(一九七二年 カール・ポパー『客観的知識』)があります。この理論は、思考までも客観的に存在するという言い方をするために観念論にからんで受け取られて評判が良くないようですが、子供が成長に従って獲得する階層的な世界の構成形態をきれいに図式化している点で分かりやすく、筆者は好きです。

さて、理科系の教育を受けない子供は、さらにもっと単純明快に客観的物質世界の存在を感じ取る。肉体で触れる物質の外形以外にものの内部構造を想像する機会がありませんから、かえって素直に操作対象としての物質世界を把握できるのです。動物もテレビゲームもパソコンも操作性以外の内部法則は存在する必要がない、という感覚で扱っていける。自然現象よりも機械や人間を相手にする現代人の生活では、現実の世界を、「ここを押せばここが開く」というような操作性の集合で成り立つゲームの世界としてプレイすることで、巧みに生きていかれるようになる。

「♪裏の畑でポチが鳴く、正直爺さん、掘ったれば、大判小判がザクザクザークザク。」と、筆者は子供の頃、童謡で歌ったものです。「♪意地悪爺さんポチ借りて、裏の畑を掘ったれば、瓦や瀬戸欠けガラガラガーラガラ(『花咲爺』 石原和三郎作詞 一九〇一年)」と続く。子供心には何の違和感もなく意味が分かる。しかし、現実にはこんなことは起こらない。起こるはずもない。不自然ですよね。そのことは子供でも考えればすぐ分かる。しかし、現実的ではないことがよく分かりながらも、この童謡の意味自体は、はっきり分かる。ポチが鳴く場合その地面を掘れば何か良いものが手に入るのだ、と言われれば、そのような気もする。現実的かどうかということとは別に、この世界が(自然な場合も不自然な場合も)なんらかのゲームになっていて、教えられたとおりの操作性の法則で行動すればよいことを、子供は生まれつき知っているのでしょう。

ところで、現代の脳科学ではまだよく分かっていませんが、人間の脳には実生活と無関係にゲームに熱中する神経回路がある、という仮説は説得力がありますね。いわゆる、ゲームが脳に有害、という説とは別の話です。人間は種々の場面で人生の事態をゲームと捉えてプレイするような脳の仕組みを生まれつき持っているようです。人間以外の動物が(実生活に役立たない)ゲームを楽しむという事例はありえない。人類は、ゲームなど発明されていなかった大昔の狩猟採集生活のころから、毎日の活動を、獲物を捕獲するゲーム、あるいは部族内での人間関係をうまくするゲーム、などと捉えてプレイしていたとも考えられる。英語でゲームの語源は「狩猟の獲物」です。逆に、将棋、麻雀、サッカー、賭博など有史以来人気がある種々のゲーム、あるいは最近、(といっても、もうずいぶん昔ともいえますが、日本で開発されたファミコン以来)世界中で爆発的に人気が高まっているテレビゲームなどは、人間の脳に生まれつきできているゲーム神経回路を強く引き付けるものだったから、これだけ普及したのでしょう。

ふつう、人間は、実生活での利害を敏感に計算して人生を送っていることになっている。しかし、それでは、実生活に役立たない娯楽としてのゲームにこれほど人気があることを説明できない。実生活だけが大事という観点から、ゲームなど無駄だ、有害無益だ、という意見が繰り返しでてくる。一方、人間は実生活をもゲームとして熱中しているのではないか、という見方もできる。どちらが正しいのでしょうか。まあ、ここでは結論を急がずに先おくりにして、後でじっくり考えることにしましょう。

さて、話題を戻します。理科系でない教育を受けると、ふつう、中身よりも外形からの操作性を身につける方向に行く。現代の都市生活では身の回りの機械装置や制度やサービスの操作性は一見明快ですから、操作対象としての物質世界の存在は確固たるものと感じられるようになってきている。さらに、現実の人間関係をも、単純な操作ルールに従うとみなすことで操作対象とすることができる。人間関係が表面的な現代の都市生活では、こうすることだけで、現実の人々の存在感を感じ取っていくことさえできます。

まあ、家電やパソコンやテレビゲームは人間が感じる操作性に合わせて作ってあるわけですから、その操作性を習得する事は簡単です。ちなみに操作性という脳機能は、ゲームなどよりずっと古い起源を持っているようです。外界からの応答のみに対応していく操作性の習得過程は、強化因子と弱化因子による学習(オペラント条件づけ)によって神経回路を形成していく多くの動物に共通な比較的古い脳機構による、という仮説は、行動主義心理学の基礎理論になっています(一九五三年 バラス・スキナー『科学と人間行動』)。

一方、生身の人間との関係は、操作性だけでは、そう簡単には行かない。テレビゲームがいくらうまくなっても人生はそうはうまくいかない。ハウツー本に書いてある通りとか、先生が言っている通りと思って人間を操作しようとすると、浅い関係の場合はうまくいっても、長い付き合いや身内の付き合いではうまくいきません。それで青年は悩むわけですが、人間という複雑至極な内部機構を持っているものの操作性についてはだれも知識として教えることはできない。それこそ、脳科学の研究が百年か二百年くらい進まないと無理でしょう。それで若い人は実体験を通して身体で覚えていくか、あるいは巷の指南書に惑わされたり、実際の人間関係に挫折したりして、コミュニケーションに劣等感を持つようになったりする。

理科系の学生も同じ状況で悩みますが、何とか成長してたまたま科学者になり一人前の研究者として成熟すると、かえって単純明快な世界観の持ち主になってしまったりします。自分にも他の人間にも無関係な客観的理論的な物質世界の模型、たとえば現代物理学の方程式、という模型を実在として描くところから科学を出発させる。科学者が仕事をする世界には物質しかない。自分という存在はありません。たとえ、科学者が医学者でも脳科学者であっても、研究対象の脳は物質でしかないと思っている。科学者は、たまに自分の脳を考えることがあっても、そのとき自分は脳のキャビンに座っている小さな小人(ホムンクルスという)になって自分の脳を考える。こういう安易な世界観は、論理を尊ぶ哲学者に叱られます(ホムンクルスの脳の中のホムンクルスの脳の中の・・・ときりがなくなるから)。まあしかし、科学を発展させるためには、それでよろしいのです。科学は模型の世界で自己完結すればよいわけです。そういう意味で個々の科学者は、決められたルールどおり、型の中で動き回るだけで問題はありません。

こうして世の中には、言語以前の運動の共鳴による仲間どうしの素朴な相互理解の中で生きている人々、手で触れる客観的物質世界を生きている人々、人間中心の操作性の世界を生きている人々、言葉で言い表されるモラルや宗教の世界を生きている人々、物理学の描く精神不在の力学方程式の世界を生きている人々、それらを適当に使い分けながら、矛盾にこだわらず、違和感なく生きているいい加減な人々(筆者などはこれです)、など、いろいろな世界観を持った人々が互いの感覚の違いに気がつかずに、相互理解ができているものと思い込んで生活している。人間は、無意識のうちに身の回りの世界を仲間と共感し(少なくとも本人は仲間と共感していると思い込んで)、その理論的なモデルを脳内に作って、そのモデルの中に自分自身がもぐりこんで住み着いている動物だからです。

子供の発達過程の観察から、人間は生まれながらにして、脳の中に、いくつかの課題ごとに経験する現象を直感で掴み取る(暗黙の、互いに無干渉な)複数の認知モジュール(空間認知、数量認知、動物認知、心理認知など)を持っていて、それらを組み合わせながら世界を理解する理論を作っていくという理論が最近提起されています(たとえば一九九六年 スーザン・カリー、エリザベス・スペルク『科学と核知識』{既出}、二〇〇六年 ピーター・カルーサーズ心の大規模モジュール構造モデル擁護論』など)。人間はすべて、零歳児から大人の一般人から科学者まで同じように、脳の中で経験と認知モジュールを組み合わせて新しい(自家用の)個人的な理論を作って世界を理解している、という大胆な仮説ですが、筆者は共感できます。この仮説が正しいとすれば、同じ場面に居合わせても、脳内の異なった認知モジュールを使ってそれぞれ自己流の理論を作り出して物事を見ている人どうしは、なかなか相互理解できないのがあたりまえ、ということになる。ありそうな話です。

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世界という錯覚を共有する動物(5)

2007-04-14 | 4世界という錯覚を共有する動物

私たちが感じているこの世界の客観性はあたりまえのように感じますが、これは、毎日の身体運動の経験、身の回りの物質と身体とのやりとり、特に人間集団の中での仲間との間の毎日の相互作用を通じた運動共鳴、つまり無意識の自動的な相互憑依による相互理解によって構成され、維持されているようです。

仲間の人間たちが感じるであろうと(運動の共鳴で自動的に自分の大脳皮質で)感じ取った世界を、脳の基底部辺縁系が行っている無意識的動物的な周囲環境の認知反応に結び付けて、存在感という感情を伴って感じることを通じてしか、人間にとっての客観的世界は現われてこないということです。拙稿の見解では、これが、人間にとって実在と感じられるこの現実世界のあり方です。そうだとすれば、人間が感じる客観性のこういう作られ方それ自体は意識には上らないので、目の前の客観的世界がはじめから実在するとしか思えない、と素朴に信じている常識人にはなかなか把握できないでしょう。

この現実世界が実際に存在しているかどうかは、人間には結局分からない。実際は存在しているのに分からないだけなのではなくて、むしろ存在などしていないのに存在しているように感じるのかもしれない、とも言える。

つまり私たちに分かることのすべては、この世界が存在しているかのように感じられてその中に私たちが存在しているかのように感じられる、というだけです。

この世界が実際に存在している証拠はどこにもない。それでも私たちには、この世界は間違いなく存在しているとしか思えない。このことこそ不思議ですね。なぜ人間は、この世界があるとはっきり感じるのでしょうか?

人間どうしがお互いの身体とその運動を眺め合い、互いの運動神経の活動状態を共鳴させ合うことで、人間は世界の存在感を共有する。仲間の人間の視線を追従し、感知した仲間の運動に自分の運動形成回路を共鳴させることで、感覚で感じる世界像も同時に共鳴させることができる。こうして互いに憑依し合うことで、人間は自分を含む客観的世界の存在感を共感し共有している。(ちょっとどぎつい語感がある)憑依という語は筆者の造語ですが、このように、自分の視線と他人の視線を同質のものと感じとって相互に交換し、互いの身体運動を自身の運動形成回路を使って共鳴し共感する、という人間の脳の働きを指します。脳神経系のこの仕組みによって(筆者の考えでは)人間には、世界が客観的に存在する、と感じられるわけです。

科学者は、科学が研究対象としている物質世界、つまり客観的な時間、空間、物質、というものは人間の脳神経活動と無関係に存在すると思っています。しかし、拙稿の見解では、その考えは錯覚です。たしかに、この世は客観的に存在する時間、空間、物質から成り立っている、という感覚を持って科学者が仕事をすると、とてもうまくいく。ふつうの人も、そうして生活し仕事をしているし、そうすべきです。そうすれば、生活はうまくいくし、科学も文明も発展して人類の役に立つ。それは事実です。しかし、ふつうの人が疑問を持たずに動きまわっているこの世界、科学者が客観的に観測できると思い込んでいるこの物質世界は、(筆者の考えでは)人類つまりホモサピエンスの脳の仕組みがなければ存在できない。

この世界はこのように存在している、と人間が思っているから、このように存在しているだけと言える。この宇宙空間は、デカルト三次元座標系あるいはアインシュタイン相対論座標系で表わされるものだ、と人間は思っていますが、人間でないもの、たとえば昆虫はそう思っていないでしょう。アリなどは地図も携帯電話も持っていませんが、遠くから巣穴へ一直線に帰っていく。アリは、身体回転と並進移動変位を小さな脳内で積分して巣穴の位置をいつも認知しているようです(一九八八年 ミューラー、ウェーナー『砂漠アリの経路積分』)。その空間感覚は人間には想像もできません。世界は、私たちにこう見えるばかりではないのです。

いま簡単に言ってしまいましたが、科学者たち(というか、常識的な人たち)全員を相手にして、君たちはみんな間違っている、と言ってのけるのは不遜の極みですね。ふつう、こういうような仰天発言は、言っている人が誇大妄想狂か、大向こう向けを狙うハッタリと受け取るべきでしょう。しかし、それは分かっていますが、ここで筆者はまじめな話をしているつもりなので、ハッタリと思われては困ります。また誇大妄想狂というレッテルを貼られても、もっと困ります。そこで、この話を読者の皆さんに(賛同してもらえるかどうか以前に、まず)まじめな話と受け取ってもらうために、以下、少々くどいと思われるかもしれませんが、もうすこし丁寧に説明してみましょう。

まず架空の思考実験として、未来の高性能ロボットを想像してみてください。そのロボットに、私たちの身の回りの世界のデータを全部与えてみましょう。時間と空間の座標とそれに対応する物質とエネルギーの分布関数です。コンピュータのメモリに書き込んだ0と1の記号列と思ってよいでしょう。これをインプットされたロボットは、この世界の存在を認識しますか? 皆さん、首をひねってしまうでしょう? ロボットがこの世界の存在を認識する、という言葉はどういう意味になるのか、よく分かりません。意味不明ですね。実際、意味はないのです。

そのロボットは、与えられたデータだけから、それを計算して法則性を抽出し、ニュートンの力学のようなものを導き出すかもしれません。アインシュタインの法則も発見するかもしれません。そこから論理計算によって、物理、化学、生物学、進化論のようなものを打ち立てるかもしれない。それでも、それはデータの間の相関関係を表す数学モデルを作ったというだけで、世界の存在を認識したということにはならない。いわば、膨大なデータ処理をしたというだけでしょう。

しかし、ロボットの数学モデルが描き出す世界が、私たちが感じているこのような世界に似ているとすれば、ニュートン力学のような、あるいは動物の身体の美しさのような、整然とした法則を示しているかもしれない。人間はその美しさは分からないが、ロボットはその美しさを感じているかもしれない、と想像したくなります。しかし、そういう想像は実は、意味不明でしょう。人間は、人間が感じる美しさしか感じられないわけですから。それ以外の美しさがあると言っても、ないと言っても、どちらも意味が分かりませんね。

たしかに、私たち人間はこの世に美しいものがあることを知っている。それは人間どうし共感できる。この世界がそういう美しさ、あるいは整然さを持っていることが不思議だ、その美しさの根拠をどう説明するかが問題だ、という哲学の考えもあります。たとえば、昔の哲学者は、人間の経験に関する認識論と存在論として、この問題を議論しています。人間の経験に整然とした秩序があるのは、神様がそれを創ったから(一七一〇年ジョージ・バークリー人知原理論』)とか、実際に物質世界が実在するからだ(一七三九年 デイヴィッド・ヒューム人性論』)とかいう理論が作られています。現代哲学でも、バッハの音楽を聞くという経験(筆者はテレビでよく流れる「トッカータとフーガ」など好きですが)からして天才的な音楽作品の客観的な存在を(天才でもない自分の内部が作り出した独我論的な)錯覚だといって否定することはむずかしいだろうという、なかなか説得力のある議論(一九八三年 カール・ポパー『現実と科学の狙い』)が述べられている。

しかし、筆者に言わせれば、それらも言葉で書いた理論に過ぎない。そうとも言えるし、そうでないとも言える。結局は、私たち人間が経験できることだけを題材にして論じているに過ぎない。経験についてどう言えるかよりも、人間がそれをどう感じるかが重要だと思います。世界の美しさも秩序も、人間がそれをそうと感じるから意味があるのであって、人間が感じなければ、無意味なものでしょう。

世界といい、認識といい、存在といい、科学的真理といい、それらは私とあなた、つまり私たち人間どうし(この文章を理解している読者は人間に違いない、と筆者は推測しております)が、これをこのようにある、と互いに感じていることが分かるから、これらがあるのですからね。

大事なところなので繰り返しましょうか。世界が存在する、ということは、筆者の私と読者のあなた、二人の人間がこの世界の存在感をこのように共感し、それを確かめる動作を見せ合って(裸を見せ合うのではなくて文章を見せあうくらいでよい)互いの脳の運動形成回路を共鳴させられるとき、そのときだけ意味がある言い方なのです。

あなたと私の二人が、あるロボットの動きを見ているとする。二人の目の前にいるそのロボットが世界の存在を感じているように見える、と私もあなたも感じるというなら、そのロボットにとっても世界はあるのでしょう。しかしロボットは人間のようには物を感じないものだ、と私たちのどちらかが感じてしまえば、それはあるとは言えないのです。あるロボットが世界を感じている、と私とあなたの二人ともが感じられる場合だけ、そのロボットは世界の存在を認識している、と言えるわけです。

たぶん、そのロボットは人間と見分けが付かないほど、人間的に見える機械なのでしょう。ロボットの搭載コンピュータはニューラルネットワークのようになっている。さらに半導体素子の代わりに神経細胞が使われていることにしましょうか。いや、私の人体をそのまま使って、神経細胞の半分を半導体で置き換えた「半人半ロボット」とするほうが思考実験としてはよいかもしれない。そういう場合でもそれ(彼というか)が内面で感じている感覚の質(クオリアという)は変わらない、という理論があります(一九九五年 デイヴィッド・チャーマーズ『不在クオリア、薄れ行くクオリア、踊るクオリア』)。(拙稿は、意識あるいは内観から始める認知理論には懐疑的ですが、ここではとにかく)クオリア付きロボットというふうに見える半人半ロボットを考えて見ましょう。つまり、人間が見て、人間としか思えない半人半ロボットは外面も内面も人間にそっくりだ、と私たちに感じられるとします。その場合、人間全体の集団にその半人半ロボットという完璧に人間的なロボットを加えた少し大きな集団にとって、この世界は存在するわけです。

しかし現在、そんな高性能の人間的ロボットは開発されていませんね。だから現在あるようなロボットについては、それら機械が世界を認識しているとは言えないのです。

結局、人間のような感受性を持っているらしいと私たち人間が感じられるような(未来の半人半ロボットなど)人間そっくり型ロボットならよし。そうでないとだめ。ということです。要するに、人間、ないし、人間が自分たちに限りなくそっくりだと思える未来の人間的ロボットの集団にとってだけ、この世界は存在するのです。だから人類ホモサピエンスと、未来の完璧に人間的なロボットの合計全体で作られる集合を改めて「人類」と呼びなおしてしまえば、話は前と同じ。ふつうの話に戻ります。

このように(拙稿の見解では)、人間のだれもがそれが存在すると思っているから、この世界は存在する。それが、世界が存在する、ということの意味なのです。科学が描く世界、つまり物理方程式の解である時間と空間の座標とそれに対応する物質とエネルギーの分布データがあっても、それは数値の羅列、あるいは0と1からなる膨大な記号列、というだけで、私たち人間が今感じているこの世界そのものではありません。(物理知識以外に世界認知に必要な何かがある、という哲学論はクオリアなど諸説{たとえば一九八二年フランク・ジャクソン『随伴現象クオリア』}があるが、拙稿の見解のように世界の存在自体についての懐疑論は見当たらない)

ところが、その(時間と空間の座標とそれに対応する物質とエネルギーの分布)データが人間たちの身体に作用し、感覚器官の神経信号に変換されて脳に伝わり、脳の神経活動によって身体運動を引き起こして、それにより変化した物理方程式のデータが感覚器官に戻っていくと、私たちが感じているこの世界に似たものになる。さらに、その世界の人間だれもが、同じことを感じているらしいことが分かると、それは本物の世界になる。つまり、(仲間である)人間集団のだれもがこれが本物の世界だと感じてお互いに共感しあえるものが、本物の世界なのです。

人間は、さらに、目の前にあるように感じられるこの物質世界の中に自分という特異な存在があるように感じる。これは、憑依によって自分の視線を他人の視線と交換し、他人が見る自分の身体を自分の目で見ている仮想感覚を脳内に作り出す、という人類に特有の脳の働きから来ている錯覚です。他人の運動形成神経回路の活動との共鳴で、自分の運動形成神経回路の上に作られる錯覚ですね。この錯覚の仕組みで、人間の目の前には客観的な物質世界が現れて、その世界の中に、ふたたび他人の身体と他人の視線が現れ、それに続いて、自分の身体と自分の視線が現れてくる。このサイクルは瞬時に繰り返す。こうして、自分の外側と内側が同時的に作られ、その境界面によって自分と思われるものが現れてくる。

大事なところなのでしつこく繰り返しますが、仲間の人間との運動感覚の共鳴と交換によるこのような世界と自分の現われ方以外には、(拙稿の考えでは)この世界があることはできないし、また自分があることもできない。

これは、子供のころから素朴に感じとってきた直感的な世界の実在感覚とはかなり違うものの見方ですから、慣れないと頭がくらくらしますが、慣れてしまえばあたりまえに思えますから心配ありません。地動説や相対性原理も、はじめて聞いたとき、なまじ理解してしまうと頭がくらくらするものです。足元の実在感が相対化されて宙に浮かされる、という感じですかね。宙に浮くのがいやな感じなのは、人間の身体が、両足でしっかり大地を踏みしめるようにできているからでしょう。

足が大地から浮いているとすると、私たちは水中に浮かんでいるのでしょうか。まあ、たとえて言うならば、私たち人間は海の中に住む珊瑚虫のようなものです。水に浮かんではいますが仲間とくっついて巨大な群体を作っているので、漂ってしまうことはない。私たちは、ひとりひとりが独立した人格だ、などと思ってはいますが、実は骨格がくっつき合って珊瑚という一個の共通骨格をつくっている。その共通骨格が、私たちが自分の身体を含んで周りに広がっていると思っているこの現実世界です。共通骨格に支えられて珊瑚虫は生きている。私たち人間も、互いに憑依によって運動感覚回路を共鳴させて世界の現実感と存在感を共有させて作ったこの世界の中に足をつけて生きている。その意味で、人間はクマトラのように孤立して生きていく動物だとはいえませんね。やはり珊瑚虫によく似ている。ぴったりくっつき合って脳神経系を共鳴させ連動させ、自分たち人間だけが共有するこの現世という小さな不思議な世界を作って、同族全員がその中に住んでいるのです。

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世界という錯覚を共有する動物(4)

2007-04-07 | 4世界という錯覚を共有する動物

「自分」つまり「私」、もまた同じ。

人間は目で見たり耳で聞いたりして他人の人体の動きを感じると、自動的に次に続くその人の動きを予測することができます。敏感に他人の内部で動く運動形成を自動的に予測することで、それに反応して自分の運動を形成していきます。もともと人間の脳は、無意識のうちに、他人が感じることは自分が感じることと感じ、自分が感じることは他人も感じることと感じるようにできています。赤ちゃんは、成長する過程で、目に映るひとつひとつの人体を識別していきますが、目に見えて動いている人体の中で、一番、中心に近い所に、ひとつだけ、自分の身体感覚と運動感覚にぴったり対応する人体があることに気づいてきます。

赤ちゃんが成長するにつれて、自然にこの中心にある人体の感覚の経験を記憶として蓄積していけるようになる。まずこの目に見える手足とそれにつながる肉体に触感、運動感覚、内部感覚をうまくつなげて感じることができるようになる。その経験を学習して、物質世界に感じられるその(中心的な)人体に自分がこれからする運動とこれから受けるはずの感覚を予測して投射するようになる。それでその人体の運転方法を習得する。

逆に運転可能なことが分かったその人体の経験を自分という概念として捉えていくわけですね。そして幼児になると、その自分の人体を他人の目で見ることを想像してその他人が感じるだろうその人体のイメージに(外から中へ)乗り移って、それを内側から運転している気持ちになってくる。ドラマやゲームのキャラクターに乗り移るのと同じ脳の機能です。

人間はこのようにして、物質で構成されるこの世界の中にあるひとつの人体、自分と呼ぶその人体、に(外から中へ)乗り移ってそれを運転して(自動車よりはむずかしいらしい。免許を取るくらいまでに二年はかかる)毎日を暮らしている。

当然、乗り移ったその人体も他の人体と同じように持っているはずと感じられる「心」を他人の視点に立って観察して、それを自分の心、と思うようになる。筆者の見解では、このような脳の機構は生まれつき人間に備わっているものです。自我に対するこのような見方は、最近の心理学ではかなり多く提案されています(たとえば二〇〇二年 ティモシー・ウィルソン我々自身、他人』)。

「自分のことは自分が一番よく分かっている」と私たちはよく言う。慣用句になっています。しかし、これは本当でしょうか? 錯覚ではないでしょうか。人間は、本当に、他人の気持ちよりも自分の気持ちのほうが、よく分かるのか? 胸に手を当てて考えてみましょう。その胸から下しか見えないこの身体。鏡を見れば、いつもこちらを見ている見慣れた顔。写真だとだれだか分からないこともある。人が見たらそういうふうに見えるらしい自分。それのことをどのくらい分かっていますか? 

過去のエピソードから自分、つまりその人間の性質が推測できます。でも、それは他人の話でも同じようなものでしょう。同じ程度に詳しく知っていれば、自分も他人も同じくらい分かる。そのくらいしか自分のことも分からないのではないですか?

え? やはり他人のことは分かる気がしない? それは、他人に関心がないからですよ。自分に関してと同じくらい、その人に関心を集中して、過去のエピソードをすべて知り、いまの眉の動きも、お腹の力の入れ具合も全部観察してみましょう。どうですか? 自分と同じ程度に気持ちが分かるでしょう? 逆に言えば、自分のことだってその程度にしか分からないはずです。

つまり、私たちはだれもが、実は自分も自分以外のどの人間も、その中身が同じように分かる。同じくらい分かる。そして、自分とその他の人間が、この世界をどう感じているかも分かります。それは、みんながこのように感じていると感じられるからですね。それは、自分もその他の人間も、だれもまったく同じようにこの世界を感じていることを、私たちは物心がつく前から、無意識のうちに知っているからです。

そして、そのだれもが感じているお互いの、一人一人の人間の心がよく分かる。それで世界の存在感、つまり、だれもみんなが共通に感じているらしいこの物質世界とすべての人間の心が、現実に、しっかりと存在していると感じられる。

さらに自分の五感が投射されているこのひとつの人体、それを通じてしか世界を感じることができないらしいこの自分という存在を、その存在するらしい世界の中に再発見して、そのことを神秘だ、大事だ、とも思うわけです。

自分とは何か? これは、哲学の大難問である、ということになっている。しかし、話し手が「私」という言葉を使うとき、それは聞き手の前でしゃべっているその人物を話題にして語っている、ということを表わす記号に過ぎない。なにも神秘的なものはありません。それなのに、人間は、自分というものが大問題であるかのように感じる。自分というものが存在することを神秘だと感じる。そのことこそ不思議ではありませんか? 

自分が存在することが不思議。言い換えれば、世界が存在することが不思議。自分がいなくなっても世界が存在するらしいことが不思議。世界があってもなくても自分が存在するらしいことが不思議。これらは危険な疑問です。うっかりその沼に足を踏み入れると、抜けられない神秘の淵に陥る。古来、哲学は次々とここに落ち込んでいきました。それなのに、人間はなぜ哲学をするのか?

なぜでしょうか?  

それは、世界をこう感じるような、脳がそのように働くような人類が生き残ってきたからです。

世界をこう感じてこう動くことで行動を計画し準備するような脳を持った人類は、仲間とお互いに有益な錯覚を共有し、その錯覚に伴う感情を共有して、それを言葉で表わし、うまく協力できるようになった。その結果、猛獣から身を守り、肉や果実などカロリーの高い栄養を採集できて、子供を産み、効率よく育てられた。それで今、そういう脳を作り出すDNA配列(ゲノム)を持った人類が生き残って、どんどん増えている。

群行動が発達した霊長類から進化した人間は、他の人間の身体の動きを見聞きするとその運動に対応する自分の脳の運動形成神経回路が、自動的に共鳴して活動する(筆者は、これを運動形成神経回路の共鳴と呼ぶことにしています)。つまり人間は自動的に(無意識に)、脳の中で、いま見えている他人、あるいは想像している他人の運動(視線、表情、発声なども運動)をなぞってしまう。

たとえば他人の運動を観察する人間は、その人の視線が何を見ているか、その顔と目を一瞬見るだけで、無意識のうちに直感で分かる。 その瞬間、観察者はその人に乗り移って世界を見ている。逆に言えば、観察者がその人に乗り移られている。その乗り移り(筆者は、これを憑依と呼ぶことにしています)を感じるとき、観察者はそれを人間の心の動きと感じる。脳の中では、自動的に他人の視線が自分の視線になる。人間の心という錯覚を作り出すこれらの神経機構は、群生活をする霊長類が集団で動作を共鳴させる神経機構から進化したものでしょう。他人といい、自分といい、結局は、運動計画を群集団に同調させる脳神経回路の共鳴反応です。その無意識の神経活動の結果を受け取って、私たちは他人と自分の心の存在感を感じ取っているわけです。

人間の脳には、どの人間の視線運動も自分の視線運動と同じように感じとる無意識の自動機構がある。現代の脳科学ではこの機構は特定されていませんが、心理学、哲学(一九八九年 アルヴィン・ゴールドマン『心理解釈』既出)などではその機能的存在の記述があります。この神経機構(筆者の用語法では憑依機構という)は、いわゆる自分が他人の立場になりかわって想像する、という昔からよく知られている意識的な働き以前に、無意識に人間の動きや、表情、声色を見聞きすると瞬時に自動的に脳が働く仕組みです。

この機構を使って人間は、自分自身の気持ちも、また自分以外のどんな人間の感覚や気持ちでも、ちらっと顔色を見るだけで(自分の場合は顔の血管、筋肉の緊張感覚などで)一瞬にして簡単に分かるわけです。こうして分かる以外に、人間が(自分はともかく)他人を分かるということはありえない。私は中年の男だから若い女性の心は分からない、とか言わないとおかしいだろうとか、そういう高度なレベルの話ではありません。目で見ると同時にその人の目が何を見ているか耳が何を聞いているか、よい気持ちか、いやな気持ちか、よく分かる、という身体感覚レベルの話です。拙稿の見解では、どんな場合でも人間が人間(他人も自分も)を感知するときは、この憑依機構を使ってその人が今どう感じているかを感知している、と考える(自覚、自意識、内観などといわれるものとの関係は後で論ずる)。中年男もこの機構を使って、相手が若い女性特有の気分だろうとか自分は中年の男らしい気持ちでいるとか、瞬時に感じるわけですからね。その瞬間に、中年男は、「『中年男が若い女性の心の中を分かるはずがない』と、その若い女性が思っているな」ということが分かるわけです。

脳のこの憑依機構が作り出すものは、自分とか他人とかの区別を超えた、世界全体の存在感の根底をつくる知覚です(むしろ、この機構がつくる人間に関する存在感が自分とか他人とかいう存在感を派生させる、といえる)。古くは、近代哲学の開祖といわれる大哲学者も憑依のような機構を認めていたらしく、ある対象(他人や自分自身など人間的存在)が物を考えると思えるのはその対象に自分が主体として入れ替わることによってのみだ(一七八一年 イマニュエル・カント純粋理性批判』)と言っています。ただし、近代あるいは現代の西洋哲学で憑依に対応する現象について論じる場合は、想像と推論によって他人の心的状態を推理する、という意識的な思考活動をイメージして論じているようです(たとえば一九八九年 アルヴィン・ゴールドマン『心理解釈』既出)。拙稿が述べるように、人間的に動くものを感じたときの無意識的自動的な脳の反応として憑依現象を捉えている議論もでてきましたが(一九九五年 ロバート・ゴードン『私からあなたへの内省を伴わないシミュレーション』〔拙稿の見解と同じではない〕など)、これはまだ少数派です。

拙稿の見解では、この無意識的自動的な憑依機構によって、人間は他人が感じる周りの世界を自分の運動形成回路の連動活動として感じることができる。他人の動きを見て、その人がそこにいる第三者をどう見ているか(無意識的、自動的に)分かる。どう対応しようとしているか、分かる。対象は人間ばかりでなく、動物や道具、家具、動かない木石、つまり物質一般に関しても、同じです。他人の動きを見て、その人がそこにある物質をどうにかしようとして運動していることが分かる。それはその人の運動を自動的に、自分の脳の運動形成回路でなぞる(拙稿の用語では、憑依による仮想運動、という)ことで感じるのです。

人間集団の中での毎日のこういう運動共鳴の経験が、それぞれの人間(発育中の幼児)の脳の中に、人間というもののイメージ、存在感、概念そしてさらにそこから派生して物質世界全般の客観的な存在感を作り出していく。

このように、人間どうしは、互いの動作や表情や視線を観察しあうことで、まわりの物質世界の客観的存在感を共有している。それで人間は、ますます強く物質世界が自分の外側に客観的に存在するように感じているわけです。そして一方、目の前の物質世界以外のもの、自分の内側で起こるらしい夢や空想や過去の回想、などは現実ではない、自分の外側に客観的にあるものではない、と感じます。現実と非現実をはっきり区別できるわけです。これは脳の扁桃体前部帯状回などで構成される感情回路が、覚醒時にはいつも目の前の物質世界に存在感を投射するからです。(脳の障害などでこの機能が破壊されると、幻覚や妄想と現実の区別がつかない錯乱状態になる)

互いの動作を感知し合うこの仕組みで、人間は自分の身体が今現在、現実の物質世界に置かれていると感じ、たとえば過去の記憶や願望や不安あるいは未来の空想などは、現実とは違う夢や幻なのだと感じる。

そしてまた、脳のその機構の働きで人間は他人に乗り移れるような気がします。私が乗り移った他人が、その人から見た他人(私もそのひとり)の身体を見てその中に心を感じる、ということを感じます。幼児のころ、それはその他人の運動、表情、発声を自分の運動形成回路でなぞることで感じられるわけですが、幼稚園児にもなると、もう具体的な目の前の他人ばかりではなく、目の前には見えない想像上の一般の他人(仮想の他人)の視線というもので(自分も含む)人間すべてが見られているという感覚をつくりだせます。その抽象的な視線が見ている人間の内面の存在感、それが心の存在感です。それで、目に見えるすべての人間はその身体の中にそれぞれの心を持って行動している、それぞれの心が、私が感じているものと同一の物質世界と人間の心とを客観的に感じ取っている、という構造の世界が客観的に存在している、と私たちは感じるのです。そして同時に、その感覚を人間どうしはお互いに共有しています。だから、話が通じるわけですね。このように常識人は、物質と心(精神)の両方が客観的に存在している、と信じています(一九一二年 バートランド・ラッセル哲学の諸問題』)。

このようにして、私たちが感じるこの現実のように見える世界が現われている。筆者の感覚では、これ以外に私たちが感じる現実の存在の仕方があるとは思えませんが、どうでしょうか。

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世界という錯覚を共有する動物(3)

2007-03-31 | 4世界という錯覚を共有する動物

要するに、人間は集団として身体運動を連動・共鳴し、存在感覚を共感することで、整然とした法則に従って変化するように感じられる物質世界のモデル(共有する錯覚によるモデル)を各人の脳内に作り出している。それは、人類という動物に特有の脳の機構です。他の動物と人類との違いが際立つ特徴といえる。アリストテレスは、「人間とは、言葉を有する動物だ」と言いましたが、それをまねて、拙稿としては、「人間とは、世界という錯覚を共有する動物だ」と言いたいと思います。

たとえば、私の頭の後ろには、さっき見たがある。そのは、今は後ろ側にあるので、私の視界からは見えませんが、確かに実在すると思ってよい。それは、いつでも振り返れば、思ったとおりそのが見えるからです。こういうことは、私も含めて人間のだれもがそう思っている、ということを私は知っている。そばに来た人が、「雨が降りそうですね」といって、私の後ろのほうを見る。その人がを見ている、ということが私には分かる。それが確かだから、この世界は、見えないものも、人間が存在すると思っているように存在する、と思ってよいわけです。首相官邸の中に安部晋三氏がいる、とテレビが言っていれば、会ったことがない人だとしても、その人は存在する。神社の奥に向かって、みんなが手を合わせていれば、そこに神様がいるのです。人々が存在すると思っているものは、存在する、といえます。

こういうふうに見えないものが実は存在する、と思うことは錯覚といえば錯覚です。しかし、錯覚といっても、仲間のだれもがその錯覚を共有していれば、人間どうしはそれがあると感じて語り合い生活していくのに何の問題もない。

人間が感じるこのような世界の存在感は、人類が生存し繁殖するために役立ったから、私たちがそれをこう感じるような神経系を持つことになった。この存在感は、人間が集団として、物質世界の過去の変化を記憶し、それを使って繰り返し現れる法則を拾い出し、さらにそれを使って、これからの自分たちの運動の計画を上手に立てるための機構として自然にできてきたものです。それは、うまくできた錯覚の組み合わせです。最小限の神経系の大きさで効率よく物質環境の変化を予測し、上手な運動計画を作ることで生存上の利益を最大限に上げることが、脳の最適な設計です。世界全体の真理を正しく理解して、全部記憶する必要などはまったくない。生存に役に立つ最小限の要点だけを記憶すればよろしい。後は、必要なときに要点をつなげて全体像を描き出せればよい。それには、うまく錯覚を作ることが効率的なのでしょう。

たぶん、私たちの脳は、そういうふうにできている。世界の像を描き出す最小限の情報が記憶される。その情報から仲間と共有できる錯覚が再生される。それで集団として感じる時間と空間としての(錯覚の)世界の中で、人間は仲間と言葉で語り、生きていく。

人間が感じる世界の存在感は、まずいつも無意識に感じられていて、そのまましばらくたつと、忘れていくようです。特に印象に残った場面、あるいは感情を伴った情景を、記憶したり思い出したり言葉で語るときだけ、はっきりと意識に上ってくる。ちなみに、世界の認知に関して最近の現代哲学では、言語の働きを強調する傾向にあります。言語の学習によって脳神経細胞ネットワークの上に言語処理シミュレータが形成されることで世界の意識的認知と自我意識が生ずるという仮説(一九九五年 ダニエル・デネットダーウィンの危険な思想:進化と生命の意味』)や、世界をデータ化して計算するために言語が脳の補助計算装置として使われているという理論(一九九八年 アンディ・クラーク魔法の言葉:言語は人間の計算能力をいかに補強しているか』)、人間は言語によって思考を思考の対象にできるようになった(二〇〇三年 ホセ・ベルミュデス『言語と思考に関する思考』)など、諸説が入り乱れていますが、いずれも、世界認知のためには、言語が必要条件と考えられているようです。また最近の実験心理学の結果からは、人間は無意識に行っている数個の個別の(モジュール的な)世界の認知を言語によって統合して知的な活動を可能にしているらしい、というおもしろい仮説(二〇〇三年 エリザベス・スペルク何が人間を賢くしたか?)が唱えられています。

これら最近発表されている諸説に比較して拙稿の考え方の特徴を挙げれば、人間は系統発生的にも個体発生的にも、言語以前に仲間と共鳴共感することで世界の存在感を獲得していてそれが言語の発生を導いた、と考える点です(このテーマにはまた後で戻る)。

さて、問題は哲学に関係する存在感ですが、人間が感じる目の前の世界の存在感は錯覚からできていると思うにはあまりにも鮮烈で、紛れもなく現実と感じられる。物質世界の明快なこの存在感につい乗せられて、人間は物質に表れない存在についてまで言葉で語れると思ってしまいます。あるように感じられるものは、ある。だから、目に見えないけれどもあるように感じられる(他人の)心のようなものも、ある、と思える。

目に見えなくて、耳にも聞こえないけれども私たちに強く訴えてくるもの、たとえば感情、願望、信念、抽象概念、そういうものはたくさんある。たとえば概念といわれるものは、(拙稿の見解では)もともと動物が目の前の物質に対応して運動するときにあらわれる神経活動のパターンを記憶して想起し、それを自覚するところから来るようですが、人間の場合、多くは目の前の物質には対応しない抽象的なものになる(二〇〇四年 アンディ・クラーク 『概念を働かせる』)。

人間は、そういう目に見えないものについても、その存在感が強ければ、それが自分の外側にあるように感じてしまう。それをだれかに言葉で言いたくなって、だれにでも通じそうな言葉を作ってしまう。実際、人間どうし、相手の目を真剣に見つめて感情を込めて語れば、どんなことでも通じてしまうようなところがありますね。曖昧ではあっても何かを懸命に言おうとすれば、それなりの言葉は通じてしまいます。

言葉が通じることは、擬似的に存在感を感じられるということです。言わんとすること、言わんとしているなと感じられること、それが言葉で表わされて擬似的な存在感を仲間と共有した瞬間に、それはモノとなって人間の身体の外側にあることになる。そのモノは、物質世界にある物と同じようにある、と感じられてしまう。そうすると次には、それらの言葉を使って、そのモノについてそれがはっきりとした輪郭を持つ物質であるかのように、自信を持って語りたくなる。

とくに、職業として言葉を使いこなして文章を書いたり講義したりする人たち(拙稿では言語技術者という)は、言葉の存在感を最大化する必要を持っている。新聞やテレビのようにそれがビジネスになれば、なおさらです。人々は権威ある言葉を聞きたがっている。語る側としては当然、印象の強い新奇な、あるいは深遠な何かむずかしいことも語りたくなるものです。そうして、印象的なキーワードがつくられ、広まっていく。しかし、それが間違いのはじまりです。それをするから、間違った哲学ができてしまうのです。

「命」もまた同じようなものです。

生物学では、動物のほか、動かない植物、カビ、目に見えない微小な細菌、なども生物としている。それら自然現象に共通する生命の定義も作っている。しかし、その定義は、科学的分類のために作られた人工的な「生命」概念です。それと、私たちが日常語として使う「命」という言葉が示しているものとは別のものです。

刺激に反応し餌食を襲い、あるいは身を守るかのごとく運動する物体を見ると、人間の脳は自動的に「命」を感じる。生物学の教科書を読んで「命」を理解するわけではない。言葉を知らない幼児も「命」とは何か、はっきり分かっている(たとえば、二〇〇四年 ミッシェル・モリーナ他『幼児期における生物―非生物の区別:人間の動作に関する制約への感受性の発達)。そこにある物体の動き方を見て、無生物とは違う、神経で筋肉を動かして動いているような、あるいは、何かしようとして動いているような、動きを読み取れる場合、観察者の脳の中には、ある特有のパターン認識の感覚信号が発生する。

現代人のように都市環境で育った人間は、自然の動物を見る機会が少なく、動物といえば、人間とペットくらいしか知らない。しかし、つい最近まで、すべての人間は大自然に囲まれて育ち、その環境で作られた言葉を現代に伝えている。命も、大自然の中で作られた言葉であって、人間を含めた動物、生物に共通な特徴を感じ取る人類共通の感覚に根付いている(二〇〇一年 スコット・アトラン他『素朴生物学は素朴心理学からくるのではない:ユカタン・マヤ族の比較文化研究における形跡』)。

その物体は、何か外のものに反応して動いているらしい。何かから逃げようとしている。隠れようとしている。何かを襲おうとしている。食べようとしている。近づいて相手を調べようとしている。そう感じられるとき、観察者の脳では、特有の神経回路が活動している。脳(の扁桃体など辺縁系)は、受けた感覚信号を情報処理して、そのような特徴を抽出すると、特有な電位変化を発生する。それで言葉などを思いつく以前に身体がそれを知ってしまう。そういうものを、昔から人間は「命」と呼んできたのです。

その「命」を宿す物質が、自分よりかなり小さければ、餌食だから食いつく。大きくてこちらに向かってくれば、捕食者だから逃げる。同じくらいの大きさでエロティックな匂いがすれば、配偶者だから交尾する。動物の脳は、そういう動きが出てくる仕掛けになっている。人間の脳神経系も脳幹、大脳辺縁系基底核など無意識の深いところでそういう動きが出てくるようになっているはずです。その脳神経系の動きが引き起こす存在感、それが「命」の正体です。

人間の脳には、目や耳の情報だけから、目の前の動物らしい物体の中に「命」を感知する特有の神経回路が生まれつきできている。動物などの神経筋肉運動を、風に吹かれる無生物の動きなどと区別して感じ取り、その働きを自覚して、人間は生きているものと生きていないものを直感で区別できる。そして四歳児くらいになると、仲間の人間も、目の前のその「命」を宿す物質に遭遇したときの身振りや表情で、明らかにそれを感じているらしいことが分かります。

さらに、五歳児になると、成長するもの、植物、をも命を持つものに含めるようになる(一九九六年 稲垣佳世子、波多野誼余夫

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世界という錯覚を共有する動物(2)

2007-03-24 | 4世界という錯覚を共有する動物

存在感は、「そこに存在するかのように感じられる物質を存在するものと仮定して運動を計画し、それを実行しても危険はありませんよ。逆に無視すると危険ですよ」と身体に教える脳の仕組みです。たとえば「目の前の敷石を踏んでも、踏み抜いて地下に転落することはありませんよ。脇にある水溜りを踏むと靴が台無しになりますよ」ということが、その敷石や水溜りの存在感です。身体がうまく運動できるための実用的な脳の仕組みです。身の回りの物質の間をうまく動き回り、物質を掴んだり、ちぎったりして利用するために身体の筋肉をうまく収縮伸展させるための運動の計画を作る準備活動です。これからする運動を適切に計画するという形で、身の回りの物質の存在感が脳に取り込まれる。こういう脳の生理的反応が起こるとき、物事の存在感が感じられる。

「そこにその物質が存在する」という意味はそれだけのことです。つまり、自分の次の運動に関連して、そこのその物質がどう関わるかを計算する神経機構のシミュレーション活動の結果、脳の前部帯状回、扁桃体、海馬、側坐核などの神経細胞膜電位が変化する、ということを意味している。

ここまでは、獲物を狩ったりする動物ならば、それなりに脳内に物質の存在感を作り出す機構を持っている、といえるでしょう。哺乳類は、この物質の存在感という神経活動を、さらに脳内に記録し、必要なときにそれを再生することができる。物事を記憶するわけです。類人猿の場合、特に人間は、さらに仲間の人間が感じる存在感を共感することができる。つまり、仲間の人間が、そこにある物質に対して身体運動を加える場面を見て、その物質の存在感を感じることができる。これは、動物に群行動を起こす古い機構から進化したと思われますが、仲間の存在と同時に仲間が運動を加える対象の存在感を捉える類人猿特有、あるいは人類特有、の脳の機構でしょう。

たとえば視線、指などで指し示す場面です。あるいは言葉でその名を言うことで指し示します。あるいはその物質を押したり引いたり、持ち上げたりして、位置や角度をずらす。あるいは変形する。何をどうしてどうするか。お菓子の箱の蓋を開けて中のお菓子をつかみ出して、包装を剥いて食べる。そういう他人の一連の運動の流れとしてお菓子と菓子箱の存在感を自分の記憶として取り込んでいく。

こうして、人間は、他人(哲学では他者ともいうが、むしろ仲間の人間、というほうがよい)が物質に加える運動を見て、自動的にそれを自分の運動形成神経回路で再現することによって、物質に加える自分の身体運動を脳内の仮想運動として行い、その神経活動が残す記憶を物質の存在感として感知し、それを記憶し経験として蓄積する。周りに人が見えない場合であっても、自分ひとりの感覚ではなく、そばに仲間がいる場合と同じように、仲間と一体となった人間集団として周りの人々の運動・感覚に共鳴する神経機構を働かすことで、そこにある物質の存在感を感知し、記憶していく仕組みが、人間には備わっている。

特に大事なことは、人間は一人でいるときでも、人間集団の中にいるときとまったく同じように、目の前に見える物質の存在感を集団で共感する神経機構を使って、その物質の存在感を感知しているようです。私たちは、そこにある物質をだれかが取り上げて一連の動作を加える場面を、無意識のうちに想像して、その物質の存在感を作り上げる。

物質の存在感は、すぐに仲間と共有できる言葉を生み出す。物にはすぐに名がつけられていく。物質は、人間に感知される(私がラーメンを見る)と同時に、脳の中でカテゴリに分けられ(ラーメンを食べ物と思う)、概念として認知されて(ラーメンをラーメンだと思う)、名がつけられて(ラーメンをラーメンと呼ぶ)いく。その結果、脳内に存在感がはっきりできあがり、その物質(ラーメン)がそこにあると思える。ちなみに、人間でない動物でも、猿などは最後の「名をつける」はできませんが、だいたい人間と同じ神経機構で概念と存在感を作れるようです。

ところで、このラーメンを、だれも食べ物と思わず、だれもラーメンと思わず、だれもラーメンと呼ばなかったら、果たして、このラーメンは存在するでしょうか? たとえば、泥だらけの地面に落ちて、踏みにじられて、泥と見分けがつかなくなってしまったラーメンは、それがちゃんと存在するというべきかどうか、自信がなくなりませんか? (猿などはラーメンと認識して食べるかもしれませんが)

このことは、私たちが感じる物質の存在感が、仲間と共鳴して集団として共感する神経機構を使って感じ取っていることの現れです。物質を指し示す言語ができてしまうと、幼児は言語を学習することで、物質の経験を固定していきます(たとえば、二〇〇四年 ヘスポス、スペルク『言語の概念的前兆』)。仲間と共鳴できる身体運動は、それを表す言葉で固定され、物質ごとのカテゴリも、またそれぞれの言葉で固定されていく。物質の存在感が仲間と共有できている場合、それは「ある」という言葉によって固定され、私たちは、「その物がそこにある」という言葉の形で存在感を共有し、それぞれの記憶に取り込む。この仕組みにより、仮想の集団運動が個々の人間の脳内で動き出して、仮想の他人の視線人指し指が目の前の物質を指し示すことで、人間にとってその物が存在することになる。私たちは毎日、目を開けている間中ずっと、視覚聴覚から送られてくる信号を脳で情報処理して、身の周りの物質を存在させるために、高速で計算をし続けている。まるで、一秒も休まないスーパーコンピュータみたいですね。

それらは、すべて脳の中の神経回路が、無意識に自動的に行う生理現象です。哲学では古来さまざまな存在論が唱えられていますが(哲学の考え方については後で少し詳しく述べます)、それとは別に、ふつうに日常会話で、「ある」、「存在する」と言うときは、右に述べたような神経活動が対応している。私たちが日常に使う存在という言葉には、それ以上の神秘的な意味などはありません。

このように(拙稿の見解では)人間の脳は、仲間の人間集団の運動に共鳴する神経回路を働かすことで、世界があるように共感する仕組みを持っている。つまり、すべての人間が目で見て手で触って、このように感じられる、物質で構成された意識できる物質世界全体が、こうして存在することになる。それがあまりにも広大で、複雑で、同時に整然とした法則にしたがっているように感じられるために、この世界は本当に実在しているように思える。だがそれも、人間の脳のこのような機構が、仲間と錯覚を共有して、世界を上手に感知できるように進化した結果です。

目の前に見えるこの世界の空間は、三次元で広大な宇宙にまで連続して広がっているように感じられる。今感じている時間は、無限の過去から無限の未来へ、一本線で続いているように感じられる。しかし、それも実は、今注目している一点のほかは、はっきり意識できるものではありませんね。私たちが感じる無限の空間と時間は、ここにいま感じられる目の前の小さな空間と時間を、想像でバーチャルに拡大したものでしょう?

私たちが、実在の時空と思っているこれ(読者諸姉諸兄がいま感じていらっしゃる身の周りの空間と時間)は、実はバーチャルなもので、あたかもインターネットで世界中の物事が見えると思い込んでいるようなものなのではないでしょうか? 

インターネットで感じられる物事の物理的実体は、非常に多数の、通信回線で連結されたコンピュータ群から送られてくるビット信号です。端末のパソコンに呼び出された瞬間に、どこかのサーバーが必要な情報を私たちの目の前のパソコンへ送ってくるわけです。この経験から私たちは、パソコンを通して世界中の文献や写真やビデオを見ているように感じるわけです。しかしその実体は電子部品の荷電・磁化状態でしかありませんね。

同様に、私たちは、脳神経系と物質世界とのすばやい情報のやり取りのおかげで、空間、時間のどこでも、いつでも、注目する一点の情報を呼び出せる。この経験から、私たちは、自分の身体の周りに無限の時間と空間と物質が広がっていると感じる。言い換えれば、世界は目を開けたときに見える部分だけ、あるいは脳の認知神経回路が活動した瞬間、認知した情報の分だけ存在する、ともいえる。そういうことだとしても、私たちが感じる世界は何の変わりもないわけです。

薄くなった私たちの後頭部は存在しない。ズボンの中の脚も存在しない。スカートから見える部分だけ脚は存在する、といってもよいのです。

私たちの身体が置かれているこの物質世界は、無限の連続空間として四方八方へ広がっていて、時間は無限の過去から未来へ連続している、かのように感じられます。この目の前に生き生きと見える世界は、このまま私たちの身体の外に無限に広がって連続して実在している、と直感では感じる。いつも私たちの脳は、この空間と時間の存在を取り込んで直感で感じているのだろう、と思えるわけです。

しかし、それは錯覚です。人間の脳が一瞬一瞬に取り込んでいる情報は、視野の真ん中にある小さな空間の映像など、少量の情報だけです。車のヘッドライトが照らすのは、前方のごく狭い空間だけですが、ドライバーはいつも明るい道路を見て運転しています。現在の一瞬に、視線の先にある、つまり動作の対象にするその一点の情報が十分あれば、空間全体が見えているように感じられるわけです。

時間についても同じ。私たちは、自分が過去の出来事すべてを把握しているつもりでいますが、その瞬間に思い出しているのは過去の一時点だけです。思い出せることはいつでも思い出せますから、私たちは自分がすべてを見通していると感じられる。逆に言えば、視線の運動や、注意の動きに対応して適切な情報が得られるとき、私たちは、大きな連続した全体を見ていると感じるわけです。

なぜ、自動車の外部照明灯は前方にしかついていないのか、横も斜めも後ろも強力に照らせばよいじゃないか。そうしないのは、無駄な装置をつけるコストを省くためであり、バッテリの容量とエネルギー消費率を必要最小限にするためです。人間の脳という情報処理系でも、脳の容量とエネルギー消費率は、生きていくのに必要な情報処理にとって最小限になっているでしょう。そのように脳を進化させた人類の種族が生き残ってきたはずです。その理由で、人間の脳は注目している一点以外の世界の情報はほとんど保持しない。

つまり、目の前のこの物質世界は、今の瞬間に感覚器官で感じられる小部分から取り込める感覚情報を私たちの脳に送り込んでくれますが、世界のそれ以外の部分については、存在していないのと同じように、何の情報も私たちの脳には送ってくれない。そして、過去の記憶は急速に減っていく。今しばらくの間で見えている部分以外の世界の部分があるといっても、ないといっても、脳内にある情報としてはどちらもまったく同じことになる。それでも、身の回りのことは全部見えているという感じがします。私たちは、見えるものは全部見える。いま見えないものは見えないのがあたりまえ、と思っていますから、何の不思議も感じずに、この世界全体はこのように実在している、と思い込んでいる。

人間の脳は、全体を見渡して行動を計画しているのではない。私たちがそう思いこんでいるのは錯覚です。一瞬一瞬に感知した小さな情報だけに対応して、動物は運動している。人間も基本は同じ。そうであれば、世界のデータが全部脳内に入ってきて、情報でパンクしてしまう心配(フレーム問題という)はありません。

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世界という錯覚を共有する動物(1)

2007-03-17 | 4世界という錯覚を共有する動物

     4 世界という錯覚を共有する動物

人間は、なぜ、ここに世界があるように思うのでしょうか?

不思議です。筆者は、これが不思議だと思っています。でも、家族には言いません。みなさんも、こんな疑問を、家族に言いますか?

しかし、だれにも言わなくても、ここに世界があるようにしか思えない。

考えてみれば、世界があるのはあたりまえのことです。世界があるから私たちがいて、「世界がある」と思っているわけですから。でもなぜ、人間は、自分がその中にいるこの世界があると思うのでしょうか? 他の動物は、ふつうそんなことは思わないでしょう?

人間という動物は、世界がこういうふうにあると思っている。しかも仲間の人間のだれもが同じように、世界がこういうふうにあることを知っている、とお互いに知っている。人類はこういうように世界の認識を共有する動物なのです。他にこんな動物はいませんね。

どこの店のラーメンが美味しい、と聞けば、唾が出てくる。ラーメン屋の位置だけでなく、美味しさまでを共感してしまう。ラーメン好きの友達どうしの共感だから、ということばかりではありません。歩道に水溜りがあれば、通行人は避けて通る。前を歩いている人が避けて通るのを不思議という感じはまったくしない。ロボットがそれをしたら不思議だと思うでしょう?

人間は、どの人間でも、世界を自分と同じように知っている。それが人間だ、と私たちは深いところで思いこんでいるのです。なぜでしょうか?

目の前にある物体(たとえば、このパソコン)は目で見えるし、身体を動かしていろいろな角度から見ると立体的な形が分かる。手でなでたり触ったりすると、その物質がそこに存在するに違いないと感じるからですね。視線を向けるとその物は視野の中心に来る。顔を近づけると、その分だけクローズアップできる。顔を左右に振ると、立体感が分かる。触ると硬い。つまり私たち人間は、自分の身体の位置や運動と、その物質から目や耳や触覚などの感覚器官が受け取る感覚信号との相互関係で、それ(たとえば、このパソコン)がたしかに存在していることを感じる。物質表面が反射する光が網膜に映ることで生じる視覚、顔を動かすと網膜上の映像がずれることで分かる立体感、触ると身体を押し返す物質表面の触覚、などから、その物質がそこに確かに存在するということが分かるからです。こういうことは考えて分かるのではなくて、自動的に無意識のうちに分かってしまう。直感で、確かな存在感が感じられるわけです。

物が存在するという感覚、すなわち、存在感という感覚が、脳神経系のどこでどのように生じているのか? 現代の神経科学者たちは脳画像装置を使って実験観察を繰り返していますが、まだ、はっきりした結果は得られていない。大脳の辺縁系基底核、特に扁桃体前部帯状回などに病変があると、物事の現実感や自己感覚が損なわれると報告されている。(現状の脳科学で、存在感の観察がうまく行かない理由は脳測定装置の精度の不足ともいえますが、それとともに、筆者の見解では、意識が神秘だという先入観にこだわって科学者たちがかまえすぎているという問題があります。詳細は後述予定)

私たちの身体の外にある物質から感覚器官を通して入ってくる感覚入力信号は、抹消神経系から求心神経経路を伝わって中枢神経系へとさかのぼり、視床と大脳皮質を経由して扁桃体、前部帯状回の神経細胞群の膜電位を変化させる。この神経細胞群の電位変化は側坐核と大脳側頭葉の神経回路を活性化して運動神経に指令を出して筋肉を動かし、その結果、身体の形と位置を変化させる。身体運動の結果、身体によって動かされた物質の位置や状態の変化を反映して、物質から感覚器官に入ってくる信号は変化する。その入力信号がまた脳に入って来る。たぶん、その繰り返しが、身体外の物質の存在感を、はっきり意識するまでに強化する仕組みなのでしょう。これは全部、脳内で無意識に進む信号処理らしく、その過程は意識できません。

脳と身体と、身体が作用する目の前の物質との間の相互作用と、それによる頻繁な運動信号と感覚信号の出入りで、その物質の存在感はどんどん強くなっていく。その間、脳は、物質に関してどのような身体運動ができるか(シミュレーション)を無意識に計算し続けている。時間にして一秒の数分の一くらいの短い一瞬です。このくらい脳の計算が速くなくては、キャッチボールはできません。

目の前のその注目する物質の存在感ができ上がると同時に、脳は物質に関しての自分の身体が次の瞬間に動くための運動計画を作り上げる。つまり側坐核とそれに連動する大脳、小脳の運動形成回路は、目の前に存在するらしいその物質を取り込んだ運動シミュレーションを、瞬時に、自動的に展開する。それがさらに再帰的にその物質の存在感を強化し、運動を実行すると同時に、その経験を脳に記憶していく。これで、そこに何が存在しているか、という認識を私たちは持つ。これが存在と言う現象のメカニズムです。逆に言えば、私たちがうまく運動を計画して実行し、それを記憶するために、身体の周りに物質世界というものがはっきりと存在する。

赤ちゃんが、生まれつき、身の回りの物体の運動を予測する能力を持っていることを調べる実験の結果などが、それを示しています(たとえば一九九八年 ウィルコックスベイラジオン 幼児期における物体の個別認識・隠蔽実験に関する判断における特徴情報の利用。生後三ヶ月の赤ちゃんは、もうきちんと存在感の発生機構を持っているらしく、物陰に隠れたおもちゃの位置を正しく予測できる。赤ちゃんは、イナイイナイバアが大好きですが、こうして遊びながら、世界の法則を学び、同時に、存在感のつかみ方を身につけていく。たとえば、存在感のあるひとかたまりの感覚信号源(たとえば、猫)は、速度をゆっくり変えながら空間を移動していくこと。その形状はふつう、ゆっくりとしか変化しないこと(猫は爆発したり蒸発したりしないこと)。世界には、似たように見えるものがいくつかずつあること(動物の動きはみんな似ている)。似たように見えるものは似たような動き方をすること。似たように見えるものは私たちが同じ操作を加えるべきものであること(カテゴリと運動様式の対応)、などなど、です。逆に言えば、私たちが身につけている存在感覚は、世界にありふれたこういう物たちに対して、強く感じるようにできている。

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