さて相互理解の話に戻って、別の例をあげます。
たとえば暴力。暴力によって人間どうしが相互理解できる、などというとひどく誤解されそうです。しかし、目の前に突きつけられた暴力の脅威はだれの脳にも同じような恐怖を引き起こす、という点で共感を相互理解できる。刃物を突きつける、あるいは銃口を向けるという行為で表現する脳内の緊張状態(裏返せば、それがないときの安心感、平和感)は、言葉を必要とせずに、かなり正確に伝わるものでしょう。この共感の効果を利用するために、昔の武士は刀剣を帯びていたし、現代の兵士はマシンガンを携行しているのではないでしょうか。
言葉と貨幣と暴力は人間社会の基盤を作っている。現代の国民国家がこれらの管理権を独占することによって安定を保っている事を見てもそれが分かる。これらは人間の脳が、もっとも深いところで、集団として共有している錯覚です。
そのほか人間が相互理解できる機会は、儀式や祭礼、戦闘、など鮮明な目的を掲げた組織行動、あるいはその現代的な変形としての演劇、合唱、舞踊、スポーツ、ゲーム、音楽、絵画、彫刻、などの中にもある。学生の部活動などもこれでしょう。大人の仕事場、ビジネスオフィスなどでも、営利活動の形を取ってはいますが、実は必要以上に、儀礼、祭礼、戦闘、と言った昔の集団行動が変形して行われている。こういうことを熱心にする人どうしは、錯覚を共有し、言葉に頼らずに互いの脳内状態が相互理解できている。ただしこれらは、そこに集まる人々の間では通じても、お金のように、見ず知らずの他人どうしがそれを介することで、一瞬にして、きちんと相互理解できる、というものではありません。
人間のある集団が共有する錯覚の体系は、集団の履歴、文化、規範を反映する。この点を強調すると、現代文明の相対化に繋がる社会観が作れる(構成主義などという)。一方、人類全体に共通な身体機構から共有される錯覚は多く決まってくる、という見方を強調すれば、いつの時代、どの社会も、基本的には、同じ世界を共有することになる(汎人間主義、人類普遍主義などという)。
どちらを強調するにしても、通常、互いに目で見える物質現象のこと以外では人間どうしは言葉、あるいはそれ以外のどんな手段を使っても、正確に錯覚を共有し相互理解することはかなりむずかしい。
動物と付き合った人は分かるでしょう。動物と、物質以外のことで相互理解できますか? 私たちは、ふつう、「動物は言葉が通じないから抽象概念のことは理解できない」という言い方をしますが、じゃあ、人間どうしは本当に通じ合っているのか、抽象概念を本当に相互理解できるのか、と改まって聞かれると、ちょっと自信がなくなりませんか?
「ペンは剣より強し」という勇ましい格言がありますが、「ペンは剣より強し・・・されどパンより弱し」という駄洒落のほうが納得できたりします。実際、弱い順に並べると、ペン、剣、お金、パン、という順になる。つまり、正直いえば物質的なほうが強い、ということだと筆者は思いますが、いかがでしょうか?
さて、駄洒落などはさておき、本題に戻ります。哲学であろうと何学であろうと、言葉で語る以上、語ることができないものを語ることはできない。言葉で語ることができるものよりも語ることができないもののほうがずっと多く、ずっと人々の感情に結びついている。それらは人生において言葉よりも、たぶん、ずっと重要なものです。人々は、そういうよく分からないけれども重要そうなことをはっきり語ることを、哲学に期待する。ですが、それは無理です。哲学者はそれらの重要なことを、何とかはっきり語りたいでしょう。それでもそれを語ると、かならず間違いを語るしかない。
語ることができないものを無理やりに語っているうちに、それを語ることができるものであるかのように錯覚してしまう。するとそれは、客観的世界に存在するものであるかのように感じてしまう。命、心、自分、個人、幸福、そういうものがこの世に存在すると思い込んでしまう。
哲学は、その間違いを人々に権威を持って教えてしまいました。それで世の中の人々が皆、それら錯覚の存在を当然と思ってしまった。あいまいな錯覚に物質以上の確実な存在感を感じてしまう。それは歴史上、文明の発展にとっては悪いことではありませんでした。近代の西洋文明のように、哲学に支えられて明瞭な言葉の体系を得た人々は自信を持って自分の人生に努力を集中し、個人の人生目標を確立し、感情を整理してビジネスライクに他人と協力し、現実の世界を開拓していった。しかし、いまや、それは過去のことです。現代のように宗教が権威を失い、哲学と科学との矛盾が、ここまで明らかになると、哲学の間違いは人々を混乱させる役割を果たすようになる。
一番大事そうなことが分からない。世界は大きな謎を抱えているらしい。そのままその謎に知らん顔をして世界は毎日もっともらしく動いていく。冷徹な科学と経済はどこまでも力強そうになってくる。政治は偽善の応酬ばかりで愚劣な社会習慣を改めることができない。そういう白々しい偽善の世界に生きなければならない現代人はニヒルになっていく。それを科学のせいにしたり政治のせいにしたりしてみるけれども、どうもそうではない。
それでその謎を解こうとするまじめな哲学は、現代の科学や経済や政治がもたらす悲惨や偽善、この世の不条理について語りたくなってしまう。しかしそれを語りだすと、また新しい難解な言葉を作り出して袋小路にはまり込んでいく。そして結局は人々に見放されていく。そういうふうに、今までの哲学は間違えていった。
筆者の予想では、いずれ科学がますます発展していくと、人間の脳神経系の微細な活動をそのまま観察する(非侵襲的で)超精密な装置が作られるはずです。そういうものを使って人間どうしはお互いに感じていることを目で見ることで共感し、その感覚を共有化できるようになるのかもしれません。
そのような科学に支えられて、人間の相互理解は現在よりも格段に深くなっていく。そのときはじめて、脳の中に起こる感情や錯覚を正確に言い表す言葉が作られてくるでしょう。その言葉は自然言語に近いものなのか、画像の形を取るのか、偏微分方程式、あるいは神経ネットワーク多次元状態ベクトルの遷移関数のような形を取るのか、筆者にはまったく分かりません。
ただ、たぶん間違いなく、そういう新しい言葉を使って、いつか哲学は人間が感じるもの全体について迷いなく語ることができるようになる。そのとき、それは哲学であって同時に科学になっているはずです。
哲学の科学、哲学学、あるいは新語を発明するのが好きな哲学的伝統の顰にならって、「メタメタフィジカ(メタ形而上学?メタメタ科学?)」とでも唱えましょうか? たちまちたくさんのツブテが飛んできてメタメタにハジカれそうですね。
まあ、そういう哲学の科学が本格的に発展してくるのを待つ間、これ以上、間違った哲学を増やすことははやめて、語ることができることだけを語ってみましょう。旧来の哲学のように新しくむずかしい言葉を次々に発明して世間に売り出し、錯覚の上にさらに間違った錯覚を付け加えて手品のように人々を幻惑したり(と同時に論者自身が自分の作った言葉で幻惑されてしまったり)する商売は控えたほうがよさそうです。むしろ逆に、欠陥商品の責任を取らされたメーカのように、間違った過去の哲学が世間に売りさばいてしまった欠陥品である間違った人間観、世界像、哲学思想、あるいはその欠陥の原因になっている日常語の曖昧さ、混乱、錯覚をひとつひとつ点検し、回収してまわるほうがよいのではないでしょうか。
それはふつうの言葉を使って、あたりまえのことを言ってみるだけです。私たち現代人のだれもがうすうす感づいていることを、もう少しはっきり言うだけのことです。
それは、近代哲学が抉り出してしまったパンドラの箱の底、虚無の真っ暗な裂け目、そこから抜け出すことができなくなってしまった唯物論の深淵、です。つまり、自然科学の描くような物質世界はもともと存在しない。もちろん、目に映るこの世は存在しない、命は存在しない、心は存在しない、意識、苦痛、幸福というものは、実は存在しない。自我とか自分というものも、やはり存在しない。私は存在しない。死は存在しない。存在は存在しない。そして、それら存在しないものが、なぜ存在しているようなのか? なぜ存在しているように思えるのか? 人間はなぜ、それらが存在しているかのように確信するのか? なぜ、それら目に見えない、存在しないものたちが、目に見える物質たちよりも、私たちの人生にとって大事なものたちだと感じられるのか? なぜ、いままでの哲学はこれらの問題が解けないのか?
科学はこれらの問題の解決に役立つのか? こういうことを感じる人間の脳の機構を作り上げる物質の法則は、なぜこうなっているのか? それは現代の科学知識だけを使っても、ある程度見分けることができます。そしてそれを知ることはちっとも怖いことではありません。
足元の深淵を覗き込むと、引きずり込まれてしまいそうですか? それは、それを感じている自分自身が怖いからでしょう? 光り輝く現代文明の世界の中で、現代人が唯一真っ暗な深淵と感じるものは、自分自身の存在かもしれませんね。若い人が自分を怖がるのはしかたのないことです。しかしそんなものは、ガリレオが言いふらしている地動説を聞いたときのローマ法王の恐怖に比べればたいしたことはありません。それでもそのしばらく後、法王も科学者もふつうの人も、地面が動いていることを知ったからといって、毎日の生活は何も困ったことにはならなかった。それどころか、天体の力学を知ることは自然科学の大発展のきっかけを作った。人々の生活は豊かになった。地動説から数百年後には、その科学を基盤にして力強い現代文明が立ち上がってきたわけです。
過去のそして現代の哲学が何も答えてくれないことが分かってしまったからといって、悲観する必要はありません。それが分かったことで、むしろ私たちは、言葉に惑わされずにまっすぐに事実を見ることができるようになる。むずかしい言葉など使わなくても、何も困ることはありません。人生が楽になるだけです。たとえば筆者などは、言葉を上手に使う高級な言語技術者にはなりそこないましたが、おかげで言葉を飾る苦労も知らず、毎日を楽々と生きています。
(4 世界という錯覚を共有する動物 end)